第六章 記憶の博物館
歩き始めてから、どれくらい経ったのだろう。
十分、二十分――あるいは、一時間。エレノアには時間の感覚が判らなくなっていた。
手首の腕時計は動いている。秒針も規則正しく文字盤の上を刻んでいた。それなのに、時間という概念そのものが微塵も信用できなかった。
ふと立ち止まり、振り返る。
〈飛鳥〉は、まだそこにいた。
黒い大地から数メートル浮かび、六基のプロペラを回したまま、少しも動いていない。
全長二百五十五メートルに及ぶ銀色の巨体。カーディントンの飛行船格納庫で初めて見上げた時には、あれほど圧倒的に巨大に思えた船が、この場所では哀しいほど小さく見えた。
「エレノアさん」
チヨの声に、エレノアははっとして前を向いた。
「大丈夫ですか?」
「はい……少し、見ていただけです」
チヨもまた〈飛鳥〉を振り返り、その瞳に深い不安を浮かべた。
船内には、正気を失った乗客と乗員たちが残されている。
彼らを置いてきたという事実は胸を締め付けたが、連れてくることなど到底不可能だった。
それに、あの船内に留まり続けていても何も解決しない。
「戻れますよ」
自分自身に言い聞かせるように、エレノアは呟いた。
「ええ。戻りましょう」
チヨが健気に微笑む。その先を歩いていたユーランが、肩越しに振り返った。
「二人とも、今から帰りの相談?」
「悪いですか?」
「いいえ。帰り道を考えずに外国へ行くような人間とは、取引したくないものね」
いつもの軽妙な口調だった。それだけで、エレノアの心は少しだけ救われた。
だが、ナルカミだけはさっきから極端に口数が少なかった。
「先生」
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「その質問、今日は何度目です?」
「先生が大丈夫そうに見えるまで、何度でも聞きます」
ナルカミは困ったように微笑んだ。
「それでは、しばらく続きそうですね」
冗談めかしてはいるが、やはり顔色が悪い。
この星に満ちている目に見えない“何か”――人間の心の中へ不躾に入り込んでくるものが、今もナルカミの精神を苛んでいるのだ。
彼はそれを、他の三人の代わりに受け続けている。その原理は未だ判らない。エレノアはそれ以上追求せず、ただ前を向いて歩みを進めた。
◇
巨大な建造物は、近づくほどにその異様さを顕わにしていった。
遠目には、カーディントンにあるような飛行船用の巨大な鉄骨格納庫に見えていた。しかし、入口へと近づくに連れて違和感が溢れ出す。
「……入口は、あれでしょうか」
チヨが指差した先には、格納庫の大扉を模したような開口部があった。
しかし、扉を支えているはずの柱の質感が不気味だった。
遠目には石柱に見えた表面に、近づくと木目が浮かび上がり、さらに数歩進むと金属のような鈍い光沢を放ち始めるのだ。
「何で出来ているの、これ……」
ユーランが興味深げに手を伸ばしかける。
「触らない方がいいでしょう」
「言うと思ったわ」
ナルカミ制止を受け、ユーランはすぐに手を引いた。
開口部の左右には、無数の「航空機」が整然と並べられていた。
最前列にあるのは、巨大な布製の球体とその下に吊り下げられた小さな籠――。
「モンゴルフィエの気球……?」
エレノアが呟くと、ナルカミが深く見上げた。
「よく知っていますね」
「寄宿学校の歴史の授業で習いました。でも……」
ユーランが不審そうに眉をひそめる。
「何かおかしくない?」
「ええ。僕の知っている図面や資料と微妙に違う」
よく見れば、気球の模様も、籠の構造も、どこか歪んでいた。
完全に間違っているわけではない。
だが、まるで実物を一度も見たことがない者が、伝聞やあやふやな記憶だけを頼りに再現したかのような不正確さがあった。
その奥には、鳥の翼を模した細長い滑空機があった。
「リリエンタールのグライダーですね」とナルカミが呟く。
さらにその奥には、二枚の翼と細い木製フレーム、そして二基のプロペラを備えた飛行機。
「ライト兄弟の……ライト・フライヤー」
チヨの声が少しだけ弾む。
「お好きなんですか、飛行機」
エレノアが尋ねると、チヨが一瞬気まずそうに目を泳がせた。
「……好きです。そんなに分かりやすいですか?」
「ええ。今、初めて少し嬉しそうな顔をなさいました」
「いつか……」
チヨは少し照れたように視線を落とし、小さく続けた。
「操縦してみたいんです。飛行船も、いつかは飛行機も」
「客室乗務員のお仕事ではなくて?」
「それも大好きです。でも、大空を行く飛行機を地上から見上げるだけなのも、少し悔しいでしょう?」
「あなた、案外欲張りなのね」
ユーランが可笑しそうに挟むと、チヨは控えめに笑った。
だが、ナルカミだけは笑っていなかった。
彼はライト・フライヤーの骨組みを見つめたまま、微動だにしない。
「先生……?」
ナルカミは機体に近づき、慎重に目を細めた。
「この並び……気球、グライダー、ライト・フライヤー……そしてその先には複葉機や単葉機、飛行船。これは――人間の航空史そのものだ」
「この星の『誰か』が、地球の航空史を展示していると?」
ユーランが尋ねる。
「そう考えるより……誰かの頭の中にあった『航空史の記憶』が、そのままここに具現化したと考えた方がいい」
ナルカミの言葉に、エレノアは息を呑んだ。
遠くに見える偽物の〈飛鳥〉――そして、飛鳥が異星に迷い込む前に姿を消した見知らぬ男の噂が思い出される。
「アッシュワースさん……」
優秀な航空エンジニア。顔も知らないその人物の名が、エレノアの胸の奥で嫌な予感とともに確かな形を結び始めていた。
◇
格納庫の内部へと足を踏み入れた瞬間、世界の音が変質した。
さっきまで外で微かに聞こえていた本物の〈飛鳥〉のエンジン音が、唐突に消え去ったのだ。
振り返ると、入口からは相変わらず外の風景が見え、プロペラを回す〈飛鳥〉の姿もある。だが、音だけが完璧に遮断されていた。
「……先生」
「聞こえています。何も聞こえないという音が」
四人の足音だけが響く静寂。だが次の瞬間、頭上から『ぱたぱた』と風を孕む布の音が降り注いだ。
見上げると、そこにあるはずの天井が消え、どこまでも続く青空が広がっていた。
そこには、先ほど入口にあったモンゴルフィエの気球が浮かび、籠の中から誰かが手を振っていた。
直後、景色が揺らぎ、鮮やかな緑の草原へと切り替わる。鳥の翼を背負った男が地面を蹴り、滑空する――リリエンタールだ。
さらに景色は目まぐるしく変貌する。強い風が吹く砂浜、木と布で作られた機体、回転するプロペラ。
「これ……本物なの?」
チヨが息を呑む。
「いいえ、記憶です」
エレノアは直感的に理解していた。
「誰かが見た映像や知識の記憶……本や写真、新聞で知った光景だから、細部の辻褄が合わないんです」
突然、空の色が濁り、耳を聾する爆音が響き渡った。
複葉機、激しい機関銃の掃射音、焦げつく硝煙と血の匂い。
「フォッカー D.VIIです、伏せて!」
チヨの叫びと同時に四人が身を屈める。頭上を急降下する戦闘機、吐き出される閃光、黒煙を上げて叩きつけられる機体。
景色は泥と鉄条網が交錯する惨憺たる戦場へと変わっていた。
頭上を交錯する砲撃、泥に塗れて泣き叫ぶ兵士たち。母親の名を叫ぶ者、神に祈る者、狂乱して銃を乱射する者――。
「これは……アッシュワースさんの戦争の記憶?」
ユーランが叫ぶ。
「それだけじゃない」
ナルカミが痛みに耐えるように顔を歪めた。
「彼が知っている大戦の記憶に……この『鏡』が欧州に置かれていた時代に吸い上げた、無数の人々の死と恐怖の記憶が混ざり合っている!」
激しい狂騒を抜け出た先は、歪んだロンドンの街だった。
ビッグ・ベンの真横にセント・ポール大聖堂が聳え立ち、テムズ川の水流は途中から垂直に空へと昇っている。街を行き交う群衆――母親、子供、兵士、紳士たちには、誰一人として「顔」がなかった。
「見ないようにしましょう」ナルカミの声に促され、四人は急ぎ足を速めた。
やがて歪んだ街並みが途切れ、その先に現れたのは、見覚えのある銀色の巨体だった。
帝国航空の標章、六基のエンジンナセル、尾翼の小さな擦り傷まで完璧に再現された――アッシュワースが創り出した偽りの〈飛鳥〉。
「中へ入りましょう」
ナルカミを先頭に、四人は偽りの船内へと侵入した。
◇
内部構造も本物と寸分違わなかった。
深紅の絨毯、真鍮の金具、木製の壁。
しかし、人っ子ひとり存在しない。食堂も、ラウンジも、客室も無人。ただ、壁の掛け時計だけが、すべての部屋で同じ時刻を指して止まっていた。
――午前一時二十分。アッシュワースが船内から姿を消した時刻だ。
「ここです」
エレノアは引き寄せられるように、ある扉の前で立ち止まった。
そこは本来なら存在しないはずの区画――貨物室の奥へと続く謎の通路の先にあった。
扉を開くと、そこは巨大な「航空機工場」だった。
組み上げ途中の巨大な翼、旋盤の金属音、整然と並ぶ設計図。だが工員はおらず、機械だけが自律的に動き、何かを製造していた。
工場の中央で製造されていたのは――青く輝く地球の巨大模型だった。ロンドン、パリ、カラチ、東京。航空路を示す無数の光の線が、緻密に紡がれていく。
その地球の中心に、一人の男が座っていた。
ナイトガウンを羽織り、裸足のまま椅子に深く腰掛けた男――アッシュワースだった。
「アッシュワースさん!」
エレノアが駆け寄る。
アッシュワースはゆっくりと顔を上げた。その瞳には焦点がなく、虚ろな唇から呪文のような言葉が漏れ出していた。
「……翼面積……重量……速度……航続距離……ロンドン……カラチ……シンガポール……東京……」
彼の頭、胸、両腕からは、無数の『黒い触手』が伸び、それらが工場へ、地球の模型へ、そして天空へと繋がっていた。
「……そうか」
ナルカミが慄然とした声を漏らした。
「そういうことだったのか」
「先生? 何が分かったの?」
ユーランが問う。
「僕たちは彼を探すためにここへ来たと思っていた。だが違う……向こう(神性)が、彼を利用して探していたんだ」
「何を……?」
「僕たちの世界――『地球』の存在を」
その言葉が響いた瞬間、工場のすべての機械がピタリと停止した。
アッシュワースの目から涙が零れ落ちる。
「地球……あの……青い空の下へ……帰りたい……」
触手が一斉に激しく振動し、地球の模型がより一層鮮明な光を放ち始めた。
アッシュワースの『帰りたい』という切実な望郷の念こそが、神性に地球の位置と詳細な記憶を伝達する『アンテナ』となっていたのだ。
◇
「触ってはいけません!」
ナルカミが制止するが、エレノアは首を振った。
「私には見えます。この触手は、彼の心そのものじゃない……外から取り憑いたものです!」
エレノアは迷わず、アッシュワースに伸びる黒い触手へと両手を伸ばした。
指先が触手に触れた瞬間、彼女の脳内にアッシュワースの全人生が怒涛のように流れ込んできた。
少年の頃に飛ばした模型飛行機、父親の温かい手、初めて見上げた飛行船、そして戦争の惨禍――。
その記憶の背後に存在する、善意も悪意もなくただ情報を貪り食う「巨大な意思」の視線。
「返して……!」
エレノアは悲鳴のような声を上げた。
「この人は、あなたのものじゃない!」
彼女の指先から、淡く澄んだ光が弾けた。ずっと恐れていた自分の中の秘められた力。それを手繰り寄せ、黒い糸を強く引きちぎる。
ブツ、ブツンと糸が切れる音が響き、アッシュワースの身体が崩れ落ちた。ナルカミがすかさず抱き留める。
「アッシュワースさん!」
「……う……ここは……〈飛鳥〉……?」
男の瞳に少しずつ正気が戻っていく。
「いいえ」
エレノアは涙を拭った。
「でも、これから帰ります」
だが、安堵の時間は一瞬で砕け散った。
アッシュワースとの接続が切れたことで、記憶の工場が音を立てて崩壊を始めたのだ。
ロンドンの街並みが砂となって崩れ、空の青が黒紫色へと侵食されていく。
「脱出しましょう!」
ナルカミとチヨがアッシュワースを肩で抱え、崩れ去る記憶の博物館を疾走する。
しかし、走りながらエレノアは見てしまった。
アッシュワースから切り離されたはずの無数の黒い触手が、今や遥か彼方にある「本物の〈飛鳥〉」に向かって、何百本も雪崩のように伸びていく光景を。
「先生……あそこを見て!」
「……何が見えるんです、エレノア!」
「触手が……黒い触手が、本物の〈飛鳥〉全体へ巻きついています!」
ナルカミの顔が蒼白に変色した。
「アッシュワース氏は……ただの呼び水(最初の一人)に過ぎなかったんだ。船ごとこちらへ引き込んだことで、向こうは今や、乗客乗員『百人分の記憶』という決定的な道を手に入れた……!」
◇
命からがら本物の〈飛鳥〉へ駆け戻った四人を待っていたのは、さらに深刻化した狂気だった。
船内には狂乱した歌声、悲鳴、笑い声が渦巻いている。
正気を失った医師のいる医務室へアッシュワースを横たえ、四人は一刻の猶予もないまま、元凶である貨物室の『黒蓮華鏡』<クリシュナ・ダーパナ>の前へと戻った。
鏡の前で、エレノアの目にはくっきりと見えていた。鏡から無数の黒い触手が船内へ、そして鏡の奥深い暗黒へと伸びている。
ナルカミは鏡の縁に刻まれた古代文字を食入るように見つめ、呻くように解読した。
「『記憶は道となる』……その下の掠れた刻印……『祈りをもって繋がりを断て』……」
「祈り……?」
チヨが息を呑む。
エレノアは鏡の表面に蠢く無数の残留思念――欧州大戦や古の犠牲者たちの影を見つめ、静かに一歩踏み出した。
「私……歌います。この歌で、鏡に囚われた人々の記憶を静め、繋がりを切ってみせます。寄宿学校のあの夜のように、きっと祈りの代わりになる筈です!」
だが、ナルカミが強い力でエレノアの腕を掴んだ。
「……駄目です、エレノア。歌ってはいけない!」
「どうしてですか!? 今歌えば、乗客の皆さんも、アッシュワースさんも救えるかもしれないのに!」
「理解してください!」
ナルカミの声が凄まじい緊迫感をもって響いた。
「その繋がりは、神性が僕たちを見るための道であると同時に――僕たちが地球へ帰るために残された『唯一の道』でもあるんだ!」
エレノアは息を詰まらせた。
「……完全に道を切ったら、どうなるのですか?」チヨが震える声で尋ねる。
ナルカミは静かに目をつぶり、絞り出すように答えた。
「僕たちは二度と、地球へ帰れなくなります」
貨物室に、恐ろしいほどの静寂が訪れた。
船内の遠くから、正気を失った乗客の虚ろな笑い声が届く。
歌えば、みんなの心を救える。しかしそれは、永遠にこの異星に閉じ込められることを意味していた。
エレノアは自分の手を見つめた。人々を救うはずの自分の『歌』が、いまや帰郷の道を永遠に閉ざす猛毒のような刃として、彼女の胸に突きつけられていた。




