第五章 まどろむ星
最初に狂気に囚われたのは誰だったのか、エレノアには分からない。
あの不気味な現象の後、急ぎ貨物室から客室区画へと戻った時には、すでに〈飛鳥〉のあちこちで、乗員、乗客がおかしくなっていた。
薄暗い廊下の途中。
一等客室の老婦人が、壁に掛けられた姿見の前に佇んでいる。
鏡に映っているのは彼女自身だけだ。それなのに、老婦人は少女のように幼く愛らしい笑みを浮かべていた。
「まあ……そんなところにいたのね」
老婦人は愛おしそうに鏡へ手を伸ばす。
「ずっと……ずっと探していたのよ」
誰に話しかけているのか。答える声などどこにもない。
それでも彼女は嬉しそうに頷き、虚無を映す鏡の中へ何度も微笑みかけていた。
少し先では、若い男が深紅の絨毯の上に蹲っていた。
膝を胸へ引き寄せ、両腕で固く頭を抱え込んでいる。まるで母胎の中の胎児のような姿勢だった。
「帰らなくちゃ……」
ぶつぶつと絶え間なく呟く。
「暗くなる前に……母さんが……待ってる……」
その声は幼子のように震えていた。男の外見は、どう見ても三十歳を越えている。
さらに向こうでは、壁の木目へ額を激しく押し当てた紳士が、誰もいない空気に向かって延々と謝罪を繰り返していた。
「すまなかった。私にはどうすることもできなかったんだ……っ。撃てと言われたんだ、命令だったんだ……!」
どこかで女が狂おしく笑い、どこかで男が啜り泣く。
絶望の祈り。途切れ途切れの子守歌。聞き取れない異国の罵声。そして時折あがる、刺すような絶叫。
絢爛豪華を極めたはずの巨大飛行船〈飛鳥〉は、いつの間にか百人近い人間の『解き放たれた悪夢』を詰め込んだ閉鎖病棟と化していた。
「……どうなっているんですか」
チヨの声が小刻みに震えている。
エレノアは答えることができなかった。ナルカミも、ユーランも。三人とも、ただ眼前で繰り広げられる地獄絵図を凝視するしかなかった。
貨物区画で、あの禍々しい黒蓮華鏡を見た直後のことだ。
もう一隻の〈飛鳥〉がこちらへ向かって突っ込んできた。衝突する――そう誰もが死を覚悟した瞬間、何も起こらなかった。
衝撃も、轟音も、船体の破壊も。
ただ、窓の外から地球が消えた。
広大な雲海も、蒼い海も、眩むような太陽も。そこに広がっていたのは、見たこともない歪な星空だった。
そして今、人々の心が内側から崩壊を始めている。
「どうして……」
チヨが掠れた声で呟いた。
「どうして、私たちは平気なんでしょうか」
その言葉に、エレノアはハッと顔を上げた。
平気。
そうだ。少なくとも、自分は正気を保っている。
恐ろしい。
今すぐ英国へ帰りたかった。
寄宿学校の静寂な自室でもいい。
シャーロット夫人の邸宅の温かな暖炉の前でもいい。
どこでもいいから、こんな正気を削り取る場所から逃げ出したかった。
それでも――自分の思考が、間違いなく自分自身のものであるという感覚がある。
ユーランも同じだった。顔色こそ蒼白だが、その瞳には理性の光が宿っている。
チヨも恐怖に怯えてはいるが、正気を失ってはいない。
ナルカミも――。
「……先生?」
エレノアの足が止まった。
違う。
ナルカミだけが、おかしい。
いつも穏やかな彼の顔色が見る影もなく失われ、額には激しい脂汗が浮かんでいる。
呼吸も荒く、浅い。
それでも彼は、何事もないような平静を装って歩こうとしていた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ええ……」
即座に返事は戻ってきた。けれど、その声にはいつもの芯のような強さが全くない。
その瞬間、エレノアの脳裏に激しい既視感が走った。
世界が切り替わったあの瞬間。
一瞬だけ、凄まじい濁流のようなものが頭の中へ雪崩れ込んできたのだ。
恐怖。悲しみ。激越する憎悪。爛れた後悔。
自分のものではない、無数の感情。何十人、何百人――いや、それ以上の人間が一度に脳髄の中で泣き叫んでいるかのような絶望的な負荷。
頭蓋骨の内側から内圧で押し広げられるような痛みに、息さえ出来なかった。
なのに、突然それが軽くなったのだ。
消えたのではない。苦痛の源流が「遠ざかった」のだ。
まるで、誰かが自分と悪夢の間に割り込み、身代わりとなって壁になってくれたかのように。
エレノアは目を見開き、ナルカミを凝視した。
「先生……」
一歩、近づこうとして――背筋に氷を打ち込まれたように凍りついた。
ナルカミのすぐ隣に、男が立っていた。
いつからそこにいたのか。五十代半ばほどの老紳士だった。
痩け刻まれた頬、耐え難い寒気に晒されたような灰色がかった髪。
古びた厚手の外套を着込んでいる。
現在の季節にも、飛行船の船内にも、およそ不釣り合いな装い。
男はナルカミの肩へ粘つくように寄り添っていた。そして、その耳元へ唇を寄せ――呟く。
『何故、お前だけ生きている』
ナルカミの足がぴたりと止まった。
男は冷たく歪んだ笑みを浮かべた。
『南極で我々を見捨てたくせに』
「……」
『今度は英雄気取りか』
ナルカミの右手が、微かに、しかし激しく震えた。
『偽善者め』
南極――。
先生が、あの極寒の地へ行ったことがあるというのだろうか。そこで、一体何があったというのか。
初めて耳にする彼の過去。だが、この男はその「何か」を熟知している。
いや――違う。
かつて寄宿学校で目撃したあの少女の亡霊とは異なっていた。
あの少女には、感情の重みがあった。
悲しみ、怒り、孤独――それらが凝集し、確かな質量を持って存在していた。
だが、この老紳士にはそれがない。
見える。
声も聞こえる。
それなのに、あまりにも『薄い』。
絵の具で塗った紙人形のように歪で、立体感がない。
ただ人間の姿と声を模倣しているだけの――。
「……先生の、記憶……?」
思わず漏れ出た呟きに、老紳士の首が機械仕掛けの人形のような動作で、不自然にこちらを向いた。
顔は笑っている。だが、その目には生命の光も情感もなく、ただ黒い穴が開いているようだった。
『お前には関係ない』
寒気が全身を駆け抜けた。それでもエレノアは足を引かなかった。一歩、前へ踏み出す。
「エレノア」
ナルカミが掠れた声で制する。
彼女を見つめるその目には、隠しきれない焦燥が色濃く滲んでいた。
「触れては駄目だ」
止められた。だからこそ、エレノアは逆に確信した。
――先生にも、これが見えている。
「大丈夫です」
「何が大丈夫なのです!」
激しい声だった。
いつものナルカミなら絶対に口にしないような、余裕を完全に失った拒絶。
エレノアは迷わず手を伸ばし、老紳士の外套の腕に触れた。
感触はなかった。冷たさも、温もりも、固さも、柔らかさもない。本当の意味で「無」だった。
直後、老紳士の輪郭がぐにゃりと歪んだ。
顔も、肩も、腕も、外套も――すべての色彩が黒い煙となって解けていく。
『――』
声にならない呪詛の残響を残し、影は跡形もなく霧散した。
エレノアは自分の指先を見つめた。
自分でも分かる、「力」が強くなっている。
「今のは……」
チヨが声を漏らす。ユーランは影が消えた空間と、荒い息をつくナルカミを交互に見比べた。
「説明してもらえるかしら?」
「僕にも……完全には」
ナルカミは耐えかねたように壁に手を突いた。明らかに限界を超えている。
「先生!」
エレノアが咄嗟にその腕を支えた。
「大丈夫です……」
「全然大丈夫に見えません!」
「……それは困りましたね」
力なく力む冗談。やっぱりそうだ、とエレノアは思った。
「先生」
「はい」
「あの時……鏡の中の<飛鳥>が迫って来て、音が消えた瞬間」
ナルカミの眉が微かに動く。
「頭の中へ、恐ろしいほどの量の恐怖や悲しみが流れ込んできました」
ユーランの表情がサッと険しくなる。
「私もよ」
チヨも強く頷いた。
「私も……です」
「死ぬほど怖かった。でも、途中で急にその重みが軽くなったんです」
エレノアはナルカミの横顔をまっすぐに見つめた。
「その頃から、先生が苦しそうにいていた」
重い沈黙が流れた。
「ナルカミ」
ユーランの声から、いつもの軽妙さが完全に消えていた。
「あなた、何をしたの?」
「何も」
「嘘ね」
「商人はいつも疑い深い」
「あなたが嘘をつくのが壊滅的に下手なだけよ」
ナルカミは唇を噛み、答えなかった。だが、エレノアにはそれで十分だった。
「……先生が、引き受けているんですね」
「何をです?」
「分かりません」
エレノアは毅然と言い放った。
「でも、この異常な空間にある、人間の正気を破壊する何かを……先生が私たちの代わりに受け止めている」
「……」
「違いますか?」
返答はなかった。それが、何よりの肯定だった。
◇
操舵室も凄惨を極めていた。
操縦士は車輪型の操舵輪へ打ち付けるように規則的に頭をぶつけ、呪文のような言葉を呟き続けている。
航海士は額から血を流しながら、虚ろな目で室内を円を描くようにふらふらと歩き回っていた。
そして船長は自身の着座に深く身を埋めたまま、見開いた瞳孔で窓の外を穴があくほど睨みつけていた。
「……港が見える」
うわ言のように呟く。
「横浜だ……家内が、迎えに来ている……」
窓の外には、毒々しい黒紫色の虚無しか存在しないというのに。
「船長!」
チヨが思わずその肩へ手を伸ばそうとする。
「待ちなさい」
ナルカミがそれを制し、自ら船長へと歩み寄った。一歩、二歩。
船長の間近へナルカミが立った瞬間、船長が途切れ途切れに大きく息を吸い込んだ。
「……ここは?」
焦点の合わなかった瞳が僅かに動き、何度か強く瞬きを繰り返す。
「ここは……」
「船長」
「貴方は……鳴神……?」
ほんの一瞬、その瞳に正気の光が戻った。
チヨが駆け寄る。
「船長、私の声が聞こえますか!?」
「ああ……高瀬君か」
船長は痛むように額を押さえた。
「ひどい悪夢を見ていたような……」
「船の状況はどうなっていますか?」
ナルカミが詰める。
船長は慌てて目の前の計器群に視線を走らせた。そして、激しい困惑に表情を歪めた。
「分からん……」
「分からない?」
「機関は正常に作動している」
機関回転計、主力電源、油圧操舵装置――そのすべてが緑色の正常値を示している。
六基のディーゼルエンジンが発する重低音の振動は、確かに床板を通じて足裏へ伝わっていた。
「六基とも、出力は出ている。だが――」
船長は速度計を指差した。針は『零』を指したままピクリとも動かない。
「動いていないんだ」
チヨが操舵室の大型窓へ駆け寄り、眼下を見下ろして息を呑んだ。
エレノアもそれに続く。
地面があった。ほんの数メートル下。
光沢のない、平坦で滑らかな黒い大地。岩なのか、砂なのか、あるいは未知の物質なのかすら判別がつかない。
「……着陸、したのですか?」
チヨの問いに、船長は固く首を振った。
「そんな記憶はない。そもそも、この全長二百五十メートルを超える巨体を、地上要員も係留塔もない荒野へ着陸させるなど物理的に不可能なのだ」
ナルカミが窓ガラスに顔を寄せる。
「浮いています」
「え?」
言われてよく観察すると、船体の最下部と黒い大地の間に、僅かな「隙間」が存在していた。
〈飛鳥〉は着陸していなかった。
黒い大地の上、わずか数メートルの宙に浮いたまま、完全なる静止状態を保っていたのだ。
六基のプロペラが猛烈な風を切っているにもかかわらず、空気抵抗も風による横揺れすらもなく。
「……まるで、標本箱にピンで留められた昆虫ね」
ユーランが吐き捨てるように呟いた。誰も冗談として笑えなかった。
ナルカミが操舵輪へ手を伸ばす。
「動かしてみても?」
船長が頷き、チヨが手慣れた動作で方向舵と昇降舵の油圧弁を操作した。舵面は確実に動作している。
しかし、外の景色は一寸たりとも動かない。
「……止めろ」
船長が呻くように言った。
「機械の故障ではない。こんなものは……」
言いかけた言葉が途切れた。船長の顔が醜く歪む。
「……母さん?」
視線が再び宙を彷徨い始める。
「母さん、待ってくれ……置いていかないでくれ……!」
「船長!」
チヨが叫ぶ。だが、もうその声は届かない
。
「僕も……すぐ行くから……っ」
白髪交じりの壮年の紳士が、まるで幼子のような泣き声を上げて床に崩れ落ちた。
ナルカミが数歩、船長から距離を取る。すると途端に船長の狂乱が激しさを増した。
逆にナルカミが近づくと、一瞬だけ呼吸が整う。
ユーランがその法則性に鋭く思い至った。
「やっぱり、あなたなのね」
「……そのようです」
「そのようです、じゃないわよ!」
ナルカミは力なく苦笑した。
「僕自身、どうやって他者の認知の異常を引き受けているのか、原理すら分かっていないんです」
そして、窓の外の果てしない黒い虚無を見つめた。
「ただ……この突貫工事のような気休めも、そう長くは持たないでしょうね」
エレノアはその静かな言葉に、底知れぬ恐怖を覚えた。
◇
船外へ出るべきか否か。それが次の深刻な問題となった。
常識的に考えれば答えは一択だ。出るべきではない。
大気の有無も、毒性の有無も、温度も、生態系も何もかもが不明な未知の空間。
しかし、船内に留まり続ければ乗客たちの狂気は加速度的に悪化し、ナルカミの精神が先に崩壊する。
四人は再び、最下層の貨物区画へと戻っていた。
あの黒蓮華鏡は、何事もなかったかのように木箱の中に鎮座していた。
もう鏡面に星空は映っておらず、黒銀色の表面に四人の姿――エレノア、ナルカミ、ユーラン、チヨ――を静かに映し出している。
だが、四人の背景にあるはずの貨物室の木箱や壁は、一切映っていなかった。
「……心底、不愉快な鏡ね」
ユーランが不快感を露わにする。ナルカミは鏡の青銅の縁に刻まれた緻密なレリーフへ視線を凝らしていた。
「この刻印……」
「読めるのですか?」
「完全には読めません」
ナルカミは目を細めた。
「サンスクリットの系統ですが、文法も書体もかなり古いものです。後世の人間が書き加えた注釈も入ってはいますが…」
ナルカミは決して表面に触れぬよう注意しながら、指先で空間をなぞった。
「これは……警告文のようですね」
「なんて書いてあるの?」
「『彼方を見るな』」
「……」
「『彼方より、見られることなかれ』」
チヨがひっと息を呑んだ。ナルカミの指先がさらに別の古い文字へと滑る。
「そして、ここには……『記憶』」
「記憶?」
「『記憶は――道となる』」
記憶は、道となる。
エレノアの胸の奥が、嫌な予感でザワザワと波立った。何かが繋がりかけている。けれど、最後のパーツが噛み合わない。
その時、エレノアは突然はっと振り返った。
「エレノアさん?」
チヨが不審そうに顔を覗き込む。
「……分かりません」
遠くから感じる。音でも、匂いでもない。かつて寄宿学校で、あの姿なき少女の気配を探していた時と同じ――純粋な「存在」の波動。誰かが、そこにいる。
「エレノア」
ナルカミが静かに呼びかける。
エレノアは鏡から目を逸らし、船外の黒い地平線を見つめた。
「います」
「何が……誰がいるの?」
ユーランが詰める。
「アッシュワースさんです」
三人の顔色が変わった。
「わかるの!?」
「場所までは分かりません。でも……」
エレノアは己の胸に強く手を当てた。
「生きています。はっきりと感じます。それに――私たちがこの世界へ引きずり込まれたことと、彼が存在していることは、根底で繋がっています」
ナルカミは黙して語らなかった。その深い眼差しは、彼自身もまったく同じ仮説に辿り着いていることを物語っていた。
「アッシュワース氏が最初に消失し、直後に『もう一隻の飛鳥』が現れ、重なった瞬間に我々はこの空間へ転移した」
ナルカミが呟く。
「彼の記憶か、あるいは存在そのものが、この世界と現実世界を繋ぐ『錨』の役割を果たしているのかもしれません」
「なら」
チヨが意を決したように言った。
「探やしに行くしかありませんね」
誰も反対しなかった。
エレノアは再び窓の外へ目を向け――そして、息を詰まらせた。
「……あれは」
指差した先。はるか遠くの黒い地平線の境界。
そこには、つい先刻まで存在しなかったはずの「影」が聳え立っていた。
巨大な建築物。
いや、格納庫だ。
信じられないほど規格外の巨体。
そしてその建造物の前に、何かが規則正しく整列していた。
エレノアの目には、それが過酷な人類の『空の歴史』そのものに見えた。
一番手前に、巨大な球形の熱気球。
その隣に、美しい鳥の翼を模した無骨なグライダー。
さらに奥には、木と複葉のプロペラ機。
そして――その最奥に鎮座する、圧倒的な銀色の巨体。
「……飛鳥」
エレノアの声が震えた。
本物の〈飛鳥〉は、今自分たちが乗っているこの船だ。それなのに、あの果てしない建造物の前にも、寸分違わぬ〈飛鳥〉が静置されていた。
「本当に……悪趣味な航空博物館のようね」
ユーランが干からびた声で呟く。
ナルカミは答えず、ただその建造物を凝視していた。
エレノアには確信があった。あそこから、かすかな、しかし明瞭な人間の鼓動が伝わってくる。
「……あそこです」
「確信がありますか?」
ナルカミが問う、それにエレノアは力強く頷いた。
「アッシュワースさんは、あの中にいます」
◇
船外ハッチを開く直前まで、チヨは片手に収まる革ケース入りのアネロイド気圧計と、小ぶりの真鍮製安全灯を何度も確認していた。
「気圧……地上とほぼ変わりません」
信じられないといったように首を振る。
「ランプの炎も静かに燃えています。有害なガスもなく、十分に呼吸が可能です」
「地球の空調の効いた部屋と同じってわけ?」
ユーランが呆れたように眉をひそめる。
「完全に同一とは言えません。ですが、酸素マスクも防寒服もなしで活動できます」
「……随分と人間に都合のいい、おあつらえ向きの星ね」
ユーランの皮肉に、ナルカミが淡々と返した。
「本当に『親切心』によるものなら良いのですが」
その言葉の意味を考え、全員が口をつぐんだ。
地球と同じ空気をわざわざ用意したのではない。
この世界が、自分たち人間を『生かして観察するために』大気を模倣しているとしたら――。
重々しい音を立てて外扉が開いた。
ヒヤリとした冷気が流れ込んでくる。
異臭はないが、無臭ゆえの不気味さがあった。
ナルカミが最初にステップへ足をかけた。
「待ってください先生!」
エレノアが叫ぶ。
ナルカミは振り返り、静かに言った。
「僕が先に降ります」
「でも、先生の体は――」
「だからこそです。僕が真っ先に毒性に触れるべきだ」
「……っ」
反論の言葉を失った。
ナルカミがタラップを降り、黒い大地へ靴底を降ろす。何事も起こらない。
「……大丈夫です。降りてきなさい」
チヨ、ユーラン、そして最後にエレノアが異星の土を踏んだ。
足元の感触は、砂でも岩でもなかった。固いが、踏み込むと粘土のように微かに沈む弾力がある。漆黒の磁器のような質感。
見上げた空は、青ではなかった。底なしの深い群青、あるいは黒に近い藍色。
昼なのか夜なのかの境界すらない空に、信じられないほど巨大な環を持つ土星のような天体や、燃えるような赤色巨星が、狂気的な鮮明さで浮かんでいた。
振り返ると、自分たちの乗ってきた〈飛鳥〉が、地上数メートルの空間にぽつんと浮かんでいる。
六基のプロペラはけたたましく回っているのに、一ミリも動かない。まるで無機質な標本のように。
「先生……ここは、一体何なのですか?」
ナルカミは暫くの間、異質な大地を見つめて沈黙していた。
「分かりません」
そして、音を殺すように呟いた。
「ただ……僕たちがここへ到達するより前に、何者かが僕たち人類という存在を『理解しようとしている』……そんな気がしてならないのです」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
――ズズズ……ッ。
遥か彼方、あの巨大な格納庫のさらに奥で、空間そのものが震えた。
建物ではない。航空機でもない。もっと遥かに巨大な「何か」。
黒い地平線と歪んだ星空の境目で、山脈と見紛うほどの巨大な影が、ゆっくりと――あたかも睡魔の中で寝返りを打つように蠢いたのだ。
エレノアの全細胞が叫んだ。
――見てはいけない。直視すれば正気が溶ける。
本能の命令に従い、彼女は咄嗟に目を逸らした。けれど遅かった。
一瞬だけ、脳髄の奥深くに『人間のものではない意識』が触れた。
――蒼い、美しき球体。
――大気を覆う白き雲海。
――満々と水をたたえた海。
――ひしめき合う都市の灯火。
――そして、その空を切り裂いて飛ぶ、銀色の翼。
「あぐ……っ!」
エレノアは頭を抱えて崩れ落ちそうになった。
「エレノア!」ナルカミが咄嗟に彼女の肩を抱きとめる。
「大丈夫ですか、何を見たのです!?」
「……地球、です」
「え?」
エレノアは震える指先で自分の額を押さえた。絶対にあの地平線の影を見てはいけないと自分に言い聞かせながら。
「誰かが……」唇がガチガチと震える。「誰かが、私たちの地球を『見て』います」
ナルカミの表情が凍りついた。
「誰か……とは?」
「違う……」
エレノアは首を振った。己の口から出た言葉に自分で激しい寒気を覚える。
「人間じゃない……人なんて生易しいものじゃない……!」
黒い大地の彼方に佇む古代の建造物。そのさらに奥深くで、この星そのものと言ってもいい古き存在が『まどろんで』いる。
眠りの中で夢を見るように、囚われた人間の記憶を舐めずり回し、地球という存在を模倣し、再構築しようとしているのだ。
「……行きましょう」
エレノアは立ち上がり、まっすぐに言った。
ナルカミが痛々しい目で彼女を見つめる。
「あの格納庫へ……ですか? 危険すぎます」
「分かっています。でも――アッシュワースさんを置き去りにして帰ることなんてできません」
ユーランが呆れたように肩をすくめた。
「まあ、そもそも地球への帰り道すら分かっていないんだけどね」
「だからこそです」
チヨが不安そうに〈飛鳥〉を見上げた。狂気に呑まれた乗客たちと、動かない巨大飛行船。
「私たちが戻るまで……船のみなさんは無事でしょうか」
ナルカミもまた静かに船を見つめた。
「分かりません」
「また『分からません』?」
ユーランが溜息をつく。
「本当に、民俗学者というのは頼りにならないわね」
「未知を前にして賢者ぶるよりは誠実だと自負していますよ」
いつもの皮肉の応酬。ほんの少しだけ、張り詰めた空気が緩んだ。エレノアの唇にもかすかな笑みが戻る。
四人は足を踏み出した。
硬く冷たい黒い大地を蹴り、人間の記憶から立ち立ち現れた不条理な「航空博物館」を目指して。
その遥か彼方で、星々よりも古くから睡魔に揺られる何かが、今も静かに微睡んでいる。
だが、その不気味な夢の領域には、これまで存在しなかった「新しい色彩」が、確かな形を取って浮上し始めていた。
蒼い空。豊かな海。生々しい都市。
そして――母なる星、地球。
記憶によって紡がれた道は、まだ糸のように細い。
けれどそれは、確かに彼らの足元から伸び始めていた。




