第四章 境界の彼方へ
ヘンリー・アッシュワースの失踪は、もはや船内だけで処理できる奇妙な事故の範疇を超えていた。
翌朝、食堂に朝食が運ばれる頃には、〈飛鳥〉に乗船するほぼすべての客が事態を把握していた
「部屋から消えたらしい」
「内側から鍵が掛かっていたんだぞ」
「窓も固く閉ざされていたそうだ」
「では、一体どこへ消えたというのだ?」
「……まさか、昨日の空に見えた『もう一隻の飛鳥』と関係があるのではないか?」
不穏な噂は人々の口から口へと伝わり、尾ひれを広げながら船内を駆け巡った。
昨日までであれば、ただの怪談話として笑い飛ばすこともできただろう。
グラスに注がれたワインの底に星空が覗いたとか、鏡の中に黒い影が立っていたとか、空に幻影の飛行船が現れたとか――どれも不気味で奇妙ではあっても、実害のない錯覚として片付けられた。
だが、今回は違う。一人の人間が、完全なる密室から文字通り姿を消したのだ。
「私はカラチで降りる!」
食堂の一角で、中年の英国人男性が卓を叩いて声を荒らげた。
「こんな気味の悪い船に、これ以上乗っていられるか!」
「お客様、どうかお気持ちをお鎮めください――」
「人間が一人消えたんだぞ!」
顔を蒼白にしたチヨ・タカセが懸命になだめるが、男の怒りと動揺は収まらない。
「カラチ到着後、現地当局の協力を得て船内を改めて捜索いたします。本船そのものの安全性につきましては――」
「安全だと!?」
男は再び激しく机を叩いた。
「ならば説明してみろ! アッシュワース氏はどこへ行った!」
チヨをはじめ、給仕たちも固く口を閉ざすしかなかった。
明確な答えを持ち合わせている者など、この船のどこにも存在しない。
「私も降ります」
「我々も下船させてもらう」
「次の定期便を待つよ」
「船でも鉄道でも構わん。とにかく、この飛行船以外で東へ向かう手段を探す」
波紋は一気に広がり、他の卓からも次々と下船を申し出る声が上がった。
乗員たちには、それを強く引き留めるだけの正当な口実がなかった。
少し離れた席から、エレノアはそのやり取りを静かに見つめていた。
(……当然だわ)
彼女は心の中で呟く。怖ければ降りればいい。危険を感じたのなら逃げるのが正しい選択だ。誰もそれを責めることはできない。
しかし、彼女の胸の奥には昨夜から固い澱のように重苦しい嫌な予感が居座り続けていた。
◇
昼過ぎ、〈飛鳥〉は目的地のカラチへ到達した。
巨大な銀色の船体が、乾いたアラビア半島の風を拾いながら、ゆっくりと高度を落としていく。窓下には港湾施設の赤い屋根、整然と並ぶ倉庫、延びる線路、そして砂色の街並みが広がり、その向こうでは日光を反射して灼熱のアラビア海が輝いていた。
本来であれば、乗客たちが争うように窓辺に寄り集まり、新しい異国の景色に歓声をあげる時間のはずだった。
だが、今日は違った。
係留作業が完了するより早く、重い荷物を手にした乗客たちが続々と通路やタラップの周囲に集まり始めていた。革のトランク、手提げ鞄、大きな帽子箱。幼い子供の手を引く家族連れや、身を寄せ合う老夫婦、苛立った様子で煙草をふかす実業家。
三割以上の乗客が、この港で空の旅を断念することを選んだのだ。
エレノアが窓越しに、一人また一人と地上へ降りていく人々の背中を見つめていると、背後から足音が近づいてきた。
「エレノアさん」
声をかけてきたのはナルカミだった。だが、その顔にはいつもの温和で思慮深い笑みはない。何事かを固く決意した、厳格な表情がそこにはあった。
「少し、お話しできますか」
人気がなくなった展望ラウンジには、ユーランも呼ばれていた。
ガラス窓の向こうでは、現地の整備員たちが手際よく補給作業を進めている。
燃料の注入、新鮮な水や食料の搬入、郵便物の受渡。
いつもと変わらぬ日常の情景を見ていると、この船内で人が消えたなどという出来事が嘘のように思えてくる。
ナルカミは二人の顔を交互に見つめると、静かに、しかしはっきりとした口調で切り出した。
「ここで〈飛鳥〉を降りてください」
エレノアは思わず大きな目を瞬かせた。
「……え?」
ユーランは動じることなく、煙草の煙を吐き出すように小さく息をついた。
「やっぱり、そういう話になるわけね」
「ええ」
「待ってください!」
エレノアは乗り出すようにしてナルカミに詰め寄った。
「先生も一緒に降りるんですよね?」
ナルカミは答えず、ただ静かに口を結んでいる。その沈黙こそが回答だった。
「……残るんですか?」
「ええ」
「どうしてですか!」
思わず声が裏返る。
「あなた方は降りるべきです」
「先生だって降りるべきです! どうして一人だけ――」
「私は事情が違います」
「何が違うというんですか!」
ナルカミはすぐには答えなかった。
代わりにエレノアの瞳をじっと見つめ返す。その静けさを湛えた視線に、エレノアは背筋が寒くなるような恐れを抱いた。
「……あなたは」
ナルカミの低い声がラウンジに響く。
「この船に残るべきではないのです」
「だから、なぜ私だけなんですか?」
「エレノア」
静観していたユーランが、宥めるようにその名を呼んだ。
だがエレノアは立ち止まれない。
「私が子供だからですか?」
「違います」
「じゃあ、何なんですか!」
ナルカミはほんの一瞬、慎重に言葉を選ぶように深く目を伏せた。
「――あなたが、最も危険だからです」
エレノアの顔から一瞬で血の気が引いた。
「……私が?」
「ええ」
「……意味が分かりません」
「今は、理解できなくて構いません」
「構わないなんてこと、あるはずないでしょう!」
エレノアは滅多に見せないほどの感情を露わにし、激しく言い放った。
「先生、何か知っているんですね? 隠さずに教えてください!」
「まだ確証がないのです」
「なら――」
「だからこそです!」
ナルカミの声が一際強く張られた。
「確証のない段階で、あなたをこれ以上、この異常現象の中心へ近づけたくないのです」
エレノアは言葉を詰まらせた。
『異常の中心』――その言葉が頭の中で不気味に響く。
まるで自分自身が、この恐ろしい事態を引き寄せている原因だとでも言われているようだった。
「先生……」
ナルカミはそれ以上、何も語ろうとはしなかった。語るべき言葉を持たないのか、あるいはあえて伏せているのか。
◇
「二人とも」
険悪な空気を打ち破るように、ユーランが二人の間に割って入った。
「不毛な水掛け論はやめなさい」
「ですが、ユーランさん――」
「ナルカミ先生」
ユーランはエレノアを制し、ナルカミを強い眼差しで見つめた。
「あなたの言いたいことは、大体分かったわ。要するに、この子を危険から遠ざけたいんでしょう?」
ナルカミは黙って肯いた。
「私は十六です!もう子供ではありません!」
「そう、まだ十六ね」
即座に反論するエレノアをユーランは軽く受け流し、ナルカミへと視線を戻す。
「それで、私にこの子のお守りを押し付けようというわけね」
「押し付けるだなんて――」
「同じことよ」
だが、ユーランの表情に怒りの色はなかった。口元に薄い笑みを浮かべると、短く息を吐く。
「……いいわ。引き受けた」
「ユーランさん!?」
「東京まで送り届ければいいのね?」
「ええ。それからシャーロット・星守様、ならびに護法院家へ至急連絡を取っていただきたい」
「護法院?」
「星守家に次ぐ帝国航空の大株主です。両家を合わせたら六割以上の株を保有しています」
ユーランの瞳が、目ざとく光った。
「なるほどね。大物のお出ましというわけ」
「まずこの船での事情を知らせます。エレノアさんに関しては、カラチから別の安全な経路で東京へ向かうよう手配を依頼してください」
「それから?」
「もう一点」
ナルカミは声を潜めた。
「私の方から、貨物室への立ち入り許可を要請します」
ユーランが片眉を跳ね上げた。
「貨物室? なぜそんな場所に?」
「確証はありません。ですが、今回の一連の異変には、船内に持ち込まれた特定の物品が関与している可能性が高い」
ユーランの表情が、僅かに硬直した。
電報は速やかに二本送られた。
一つは星守伯爵家へ、もう一つは護法院伯爵家へ。内容は簡潔を極めていた。
『飛鳥船内ニテ乗客一名原因不明ノ失踪。複数ノ異常現象アリ。積載貨物ガ原因ノ可能性。安全上必要ト判断シ、貨物区画調査ノ許可ヲ求ム。鳴神秋一郎』
併せて、エレノアを下船させて別ルートで東京へ向かわせること、ユーランがその付き添いとして同行する旨の手配も要請された。
返電は、驚くべき速さで届いた。
『星守伯爵、護法院伯爵連名。帝国航空本社ヲ通ジ、現地支社オヨビ飛鳥船長へ指示。貨物区画ノ調査ヲ許可ス。タダシ船長ノ監督下ニ置クコト。乗務員一名以上ノ立会イヲ必須トス。貨物所有者ノ同意ヲ得タ上デ、必要ト認メタ場合ハ当該貨物ヲ開封調査シテヨイ、タダシ無茶ハセヌヨウ』
「ずいぶんと話が早いのね」
手渡された電報の文面を覗き込み、ユーランが感心したように息を吐いた。
「両伯爵家の威光は、伊達ではありませんから」
「貴族様の威光ってのは便利ねぇ」
「時には、ですが」
ナルカミはどこか自嘲気味に笑った。
◇
夕刻。
ユーランとエレノアは、カラチ発着場にある広々とした待合室の中にいた。
大きなガラス窓の向こうには、夕闇に染まりゆく空を背景に、異様なほど美しく、そして巨大な〈飛鳥〉が係留されている。何も知らぬ者が眺めれば、あれほど堅牢で、旅人を安全に目的地へ運ぶ頼もしい乗り物は他にないように思えるだろう。
エレノアは言葉もなく、じっとその船体を見つめ続けていた。
ユーランは手元の新聞に目を落としているが、その指先は一度もページをめくっていない。あきらかに読んでいる振りをしているだけだった。
「……気になる?」
「……はい」
「でしょうね」
「先生は、残るんですよね」
「そうね」
「たった一人で」
「乗務員が五十人も乗っているわよ」
「そういう意味じゃないことくらい、ユーランさんだって分かっているでしょう?」
ユーランはパタンと音を立てて新聞を閉じた。
「……でもね」
「?」
「私は約束したのよ」
ユーランは旅の中で見せたことのない、普段とは異なる憂いを帯びた表情を浮かべ、エレノアの目を見つめた。
「ナルカミ先生にね、あなたを無事に東京まで送り届けるって」
「……」
「私は商人よ。一度交わした契約は、意地でも守るの、それが口約束でもね」
エレノアは再び窓の外へと視線を向けた。
〈飛鳥〉の周りでは、間もなく完了する出発準備の合図が動き始めている。あと少しで、あの船は空へと飛び立ってしまう。
その時――彼女の脳裏に、昨夜見た恐怖の光景が鮮烈に蘇った。
(……気をつけて)
耳元で囁くような少女の声。禍々しい青黒い空。見たこともない未知の星座。そして、闇の底からこちらをじっと見つめる『何か』の気配。
エレノアは吸い寄せられるように、ゆっくりと立ち上がった。
「……行ってきます」
「どこへ行くの?」
「少しだけ……風に当たってきます」
「エレノア!」
「すぐ戻りますから!」
ユーランの制止を振り切り、エレノアは待合室を飛び出した。
乗船開始を告げる重厚な鐘の音が、発着場全体に響き渡る。
係留塔の周辺では、整備員や乗務員たちが慌ただしく行き交っていた。エレノアはその人混みを縫うように、懸命に足を動かした。
「そこのお嬢さん、止まりなさい!」
係員が慌てて立ちふさがる。
「搭乗手続きはすでに終了して――」
「忘れ物なんです!」
嘘だった。いや、あるいは真実なのかもしれない。
あの船の中に置いてきてしまった大切なもの。
ナルカミ、迫りくる真実、そして自分自身の存在理由。
エレノアは制止を振り切り、タラップの階段を無我夢中で駆け上がった。
◇
「エレノアさん!?」
乗降口の近くにいたナルカミが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「一体何をしているんですか!」
「戻ってきました!」
「見れば分かります! 今すぐ降りてください!」
滅多に感情を表に出さない彼が、本気で怒りを露わにしていた。
「嫌です!」
「嫌ではありません! 早く下りるんだ!」
「嫌です、絶対に降りません!」
「エレノアさん!」
「先生一人だけ残るなんて、ずるいです! 卑怯です!」
「卑怯……!?」
あまりの言い草に、ナルカミは完全に絶句した。
エレノアは肩を上下させ、乱れた息を必死に整えた。そして、これまで誰にも明かしたことのない秘密を、溢れ出すように吐き出した。
「私には……!」
声が震え、涙が視界を滲ませる。
「普通の人には見えないものが……見えてしまうんです!」
ナルカミの表情が、凍りついたように止まった。
「ずっと……幼い頃からずっとです。死んだ人が残していった未練とか……人間ではない恐ろしいものとか……そういうものが、見えてしまうんです」
言っちゃった、と胸の奥で後悔が走る。
気味が悪いと蔑まれるかもしれない。
けれど、もう止まらなかった。
「昨夜も見たんです。鏡の中に……」
「……何を見たのですか?」
「違う空が見えました」
乾いた喉を締め付けながら、必死に言葉を紡ぐ。
「地球の空じゃないんです。青黒くて……見たこともない星がたくさん浮かんでいて……!」
ナルカミは静かに、深く息を吐き出した。
「……やはり」
エレノアは濡れた瞳を上げた。
「え……?」
「やはり、そうだったのですね」
「知って……いたんですか?」
「いいえ、知っていたわけではありません」
ナルカミは首を振った。
「ですが、あなたが何か、常人には感知し得ない異変を感じ取っていることには気づいていました」
「どうして……気味悪いと思わないんですか?」
「なぜ気味が悪いと思う必要があるのです?」
ナルカミの返答は、驚くほど平然としたものだった。
「『見える』という現象は、あなたという人間そのものの価値とは何の関係もない、ただの資質に過ぎません」
エレノアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
同じ『異能』を持つシャーロットの言葉にも慰められた。
だが、何ひとつ『見えない』はずの彼から当然のように注がれたその肯定が、とても嬉しかった。
長年、一人で抱え込んできた孤独と恐怖が、彼の温かい一言によって溶かされていくようだった。
「そういうことだったのね」
不意に背後から呆れたような声が響いた。振り返ると、息を切らせたユーランが腕を組んで立っていた。
「ユーランさん!?」
「……ちょっとあなた、足が速すぎるんじゃないの?」
「どうして追いかけてきたんですか……先生との約束はどうするんですか!」
「守っているわよ」
ユーランは肩をすくめた。
「『あなたを無事に東京へ連れて行く』――それが私の受けた契約よ。だったら、あなたがこの船に乗っている以上、私も一緒に乗るしかないじゃない」
ユーランは大袈裟に額を押さえて溜息をついてみせた。
「まったく、とんでもない厄介な依頼を引き受けてしまったわ」
エレノアは泣きそうな顔のまま、小さく吹き出した。
やがて重厚なエンジン音が響き渡り、〈飛鳥〉はカラチの地を静かに離れていった。
◇
離陸から一時間ほどが経過した頃。
展望ラウンジの一角で、ナルカミは深く思索に沈んでいた。
「鏡、か」
不意に漏らされた呟きに、エレノアが顔を上げる。
「先生?」
「最初に起きた異変だ。エレノアさん、君の場合はスエズを出航した夜だったね?」
「はい……ポートワインの表面に星空が映って……」
「フランス人女性のケースも鏡だった。そして、失踪したアッシュワース氏の部屋にも姿見があったはずだ」
ユーランが腕を組み、鋭い視線を向けた。
「それがどうかしたの?」
「リンさん」
ナルカミは彼女を凝視した。
「あなたの荷物の中に、『鏡』はありませんか?」
ユーランの表情が一瞬固まった。
「……あるわ」
彼女はポケットから銀のケースを取り出し、煙草に火を点けると、細い煙をラウンジの天井へとなびかせた。
「どのような品です?」
ナルカミは真剣な表情で問いかける。
「印度の密教寺院から流出し、巡り巡って欧州のある博物館に収蔵されていた――黒蓮華鏡。名前と美術的な価値があるということ以外は何も分からないわ」
「何処で買ったんです?」
「巴里で仲介人から手に入れたものよ」
ラウンジに重苦しい沈黙が落ちる。
「まさか……」
エレノアが息を呑んだ。ナルカミは力強く立ち上がった。
「調査許可はすでに下りています。今すぐ確かめましょう」
◇
調査の立ち会いとして船長が指名したのは、客室乗務員のチヨ・タカセだった。
「林様のお荷物が積み込まれた際、私が貨物目録の確認を担当いたしましたので」
「危険が伴うかもしれません」
というナルカミの制止にも、彼女は柔らかな、しかし強い意志を秘めた笑みを返した。
「乗客の皆様の安全をお守りするのも、私たち乗務員の勤めでございますから。それに――ミス・スターリングを一人で行かせるわけにはまいりません」
チヨの言葉に、エレノアの緊張が少しだけ和らいだ。
重い密閉扉の向こうに広がる貨物区画は、華やかな客室とはまるで別世界だった。
美しい装飾も絨毯もなく、むき出しになったジェラルミンの骨格と補強用ワイヤーが縦横に走っている。
六基の発動機が及ぼす凄まじい振動と重低音が、ここではじかに足裏を揺らしていた。
「こちらです」
ユーランが一つの頑丈な木箱の前で足を止めた。『林玉蘭』の名が書かれた所有者札と、巴里から東京への輸送を示すタグが取り付けられている。
「開けます」
チヨが工具を取り出し、固定金具と封印をテキパキと外していく。重い蓋が持ち上げられ、緩衝材の布が取り払われると――その奥から『それ』が現れた。
エレノアは息を詰まらせた。
黒蓮華鏡
それは、青銅製の黒ずんだ円形鏡だった。周縁には蓮の花を模した複雑な文様と、見たこともない奇妙な文字、そして神とも獣ともつかない不気味な彫刻が緻密に刻まれている。
一見すれば洗練された古美術品だ。しかし、見つめているだけで底冷えするような冷気が全身を駆け抜けていく。
「これ……昨夜感じたものと、まったく同じです」
エレノアの囁きに、ユーランの顔色が険しくなった。
「林さん、これはどこで発掘されたものなのですか?」
「記録が途切れているのよ。ただ、英国統治の初期にインドの古い寺院跡から掘り出されたものだと……」
ナルカミが鏡を見つめる目には、深い思索の色が浮かんでいた。
エレノアが無意識のうちに、引き寄せられるように手を伸ばしかける。
「触れては駄目だ!」
ナルカミの鋭い声にハッとして手を引っ込めた瞬間――黒い鏡面が、まるで水面のように揺らめいた。
「……!?」
鏡の中に映っていたのは、暗い貨物室の風景ではなかった。
青黒く濁った異様な空。地球のそれとは明らかに異なる、不気味に蠢く星座たち。
「先生、これ……!」
「見えています!」
いまやエレノアだけではない。ナルカミも、ユーランも、チヨも、全員がその異常な光景を目撃していた。
鏡の奥深く、無限の闇の中から、銀灰色の巨大な影が急速に近づいてくる。
「……飛行船!?」
チヨが思わず叫んだ。
鏡の中に現れたのは、自分たちが乗っているものと全く同じ構造を持つ、もう一隻の〈飛鳥〉だった。
◇
――同時刻、〈飛鳥〉操舵室。
「右舷前方! 飛行船発見!」
見張り員の悲鳴のような絶叫が響き渡った。
「何だと!?」
「急接近してきます!」
「反射波探知器の反応は!?」
「無反応です! 探知器には何も映りません!」
「馬鹿な、肉眼でハッキリ見えているぞ! 真正面から突っ込んでくる!」
船長は窓外を凝視し、絶句した。自分たちの目前に、寸分違わぬ姿をした〈飛鳥〉が迫っているのだ。
「回避だ! 右舵一杯!」
巨大な船体が、きしみ声を上げて旋回を始める。だが、副長の顔が途端に蒼白へ変わった。
「な……なぜだ!? 向こうもまったく同じ角度、同じ速度で旋回してくるぞ!」
「回避行動を真似しているというのか!?」
「違います!」
船長が叫んだ。
「あれは――こちらの動きをそのまま『反転』させているんだ!」
◇
貨物室内に、甲高い警報鐘が狂ったように鳴り響いた。激しい急旋回により、船体が大きく傾く。
「きゃあっ!」
よろめいたエレノアの身体を、ナルカミが咄嗟に抱きとめた。
鏡の中で、もう一隻の〈飛鳥〉が恐ろしい速度で巨大化していく。
「近づいてくる……!」
「違う」
ナルカミが低い声で否定した。
「我々の方からも、向こうへ近づいているんだ!」
『左舵! 高度を上げろ!』
操舵室の叫びがスピーカーから漏れ聞こえる。
しかし、主機のディーゼルエンジンがどれほど咆哮を上げようとも、互いの距離は確実に縮まっていく。
見えているのに存在しない物体。物理法則をあざ笑うかのような現象が、現実を侵触していた。
そしてエレノアは、鏡の中の飛行船の窓に『それ』を見た。
「あ……」
あちら側の窓辺にも、四人の人影が立っていた。自分、ナルカミ、ユーラン、チヨ――まったく同じ姿をした者たちが、鏡の向こうからこちらを凝視している。
「鏡像……なのか……!?」
ナルカミが呻くのと同時に、鏡面が水面のごとく激しく波打ち、周囲の空間そのものがグニャリと歪んだ。
『全乗客に告ぐ! 衝撃に備えてください!』
スピーカーから悲痛な船内放送が流れる。チヨの顔から血の気が引いた。
――次の瞬間、二隻の〈飛鳥〉が正面から激突した。
誰もが凄まじい衝撃を覚悟した。骨格が粉砕される轟音、装甲の破裂、燃料への誘爆――死の瞬間を誰もが予感した。
だが、訪れたのは衝撃ではなかった。
一切の『音』が、消滅したのだ。
六基のエンジンが発していた重低音も、プロペラの風切り音も、警報鐘の金属性の打撃音も、すべてが途絶えた。
音が消えたわけではない。エレノアの息遣いや、ナルカミの荒い呼吸音は聞こえる。ただ、船全体を包んでいた機械の動調が、完全に途絶していたのだ。
それにもかかわらず、船体が落下する感覚はない。〈飛鳥〉は、依然として空中に浮遊し続けていた。
「窓へ……!」
チヨの震える声に弾かれるように、全員が貨物室の小さな覗き窓へと駆け寄った。
ラウンジで、客室で、操舵室で――乗員乗客の誰もが外の景色を目にし、絶句した。
そこには、地球の姿など影も形もなかった。
青い空も、白い雲も、太陽も、大地も、アラビアの海も。
あるのは、吸い込まれそうなほどに深い漆黒と、群青の闇。そして、そこに散りばめられた無数の星座だった。
地球上のいかなる天文学者も見たことがない、狂ったような星々の輝きが、全方位を埋め尽くしていた。
エレノアはゆっくりと振り向き、黒い鏡を見つめた。
鏡面には、もはや何も映っていない。ただの古びた青銅の板に戻っていた。
なぜなら――鏡の向こう側にあった世界へ、船ごと彼女たち自身が足を踏み入れてしまったのだから。
◇
西暦一九二〇年六月十日。
カラチを発ち、約一時間後。
乗員五十名、乗客六十余名を乗せた長距離国際旅客飛行船〈飛鳥〉は、地上局との無線連絡を突如遮断。
予定された航路から完全に姿を消した。
この瞬間をもって、地球上のいかなる場所からも――〈飛鳥〉の存在は失われたのである。




