第三章 もう一隻の〈飛鳥〉
寄宿学校の、薄暗い礼拝堂の中。
「……気をつけて」
少女が囁いた。
あの日――激しい憎悪と悲しみに身を狂わせていたあの頃とは違う。
そこには怒りも苦しみも残されておらず、ただエレノアの身を案じるような、どこか儚く穏やかな微笑だけがあった。
淡い光を纏った少女の細い手指が、ゆっくりと礼拝堂の天井を示した。
「……?」
エレノアは少女の指先を追うように見上げる。
本来であれば、重厚な扇型ヴォールトが広がっているはずの天井。
しかしそこに流れていたのは、あろうことか漆黒と群青が入り混じる凄絶な空だった。
星。
星。
星。
地上から見えるどの星座にも当てはまらない、見たこともない無数の光点。
それらが果てしない暗闇の深淵で、まるで意思を持つ不吉な瞳のように瞬いている。
「……なに、これ……」
エレノアを見つめる少女。
いや違う、彼女の視線はエレノアの背後――その青黒い空の、さらに果てのない「向こう側」にある何かに向けられている。
(何が……いるの……?)
エレノアが振り返ろうとした、まさにその瞬間。
空の遥か彼方、絶望的な暗黒の奥底で――巨大な「何か」が、確かにこちらへ向きを変えた。
「――っ!」
エレノアは寝台から跳ね起きた。
暗い客室。床から足裏へと伝わる六基の発動機の規則正しい低振動。
固く閉ざされたカーテン。ライティングデスク、小さな洗面台。
「……ゆ、め……」
小さく胸に手を当てる。
心臓が早鐘のように肋骨を打っていた。額には冷たい汗が浮いている。
夢だ。二年前のあの凄惨な記憶を、脳が都合よく捻じ曲げて見せただけだ――そう自分に言い聞かせようとして、エレノアは洗面台の鏡に目をやった。
昨夜、その鏡面の中に確かに垣間見た、あの不気味な青黒い空。
見知らぬ星々。
(昨夜の残像が……偶然、夢に取り込まれただけ。そうよ、それ以外に説明がつかないわ)
頭の中で理屈を組み立てる。できる。説明することはできる。
けれど。
「……同じだった……」
掠れた声で呟いた。
夢の中で少女が指し示した空と、昨夜鏡の底に見えた空は――寸分違わず、同一の「深淵」だった。
◇
朝。
〈飛鳥〉は紅海沿岸の上空を、南東へ向けて悠然と進んでいた。
窓の外は目も眩むような快晴。差し込む地中海・中東特有の鋭い朝光が、サロンの豪華な調度品を鮮やかに彩っている。
船内には昨日までと変わらない、平和で洗練された空気が流れていた。
朝食を終えた乗客たちは、優雅に英字新聞を広げ、談笑し、湯気を立てる紅茶を味わい、ラウンジの隅では老紳士たちがチェスに興じている。
何も起きていない。
まるで、昨夜エレノアを襲った不穏な気配など、最初からこの世に存在しなかったかのように。
「エレノア?」
「……え?」
名前を呼ばれ、エレノアは弾かれたように顔を上げた。
向かいの席に腰掛けたユーランが、探るような視線をこちらへ向けていた。
「なに?」
「それはこちらの台詞よ」
ユーランは珈琲カップをソーサーに戻すと、呆れたように肩をすくめた。
「さっきからそのパンを、まるまる三分間も見つめているわ。ストロベリージャムが乾いてしまいそうよ」
エレノアは手元を見下ろした。確かに、銀のナイフでジャムを塗ったきりのトーストが手つかずのままになっていた。
「……ごめんなさい。少し、寝不足のようで」
「まさか船酔い?」
「飛行船でも、船酔いというものがあるのですか?」
「さあね、私はしたことがないから知らないわ」
「お答えになっていませんわ」
エレノアはくすりと笑った。
その横で、広げていた新聞を静かに畳んだナルカミが、穏やかな表情で尋ねてくる。
「昨日はスエズの街を歩き回りましたからね。長旅の疲れが出たのでしょう」
「ええ……きっと、そうです」
すぐに答えた。
だが、その反応はあまりにも早すぎた。
ナルカミの視線は、彼女の表情の微細な強張りを見逃さなかった。
「……エレノアさん。何かありましたか?」
教本の角を撫でていたエレノアの指先が止まる。
「え……?」
「今朝からどうも落ち着かないようだね。……何か、気になることでも?」
ユーランも同意するように頷く。
「私もそう思ったわ。昨日までのハキハキしたエレノアらしくないわ」
「…………」
エレノアは目の前の二人を見つめた。
ナルカミとユーラン。
昨日、異国の空の下で共に笑い合い、食卓を囲んだ人々。
〈飛鳥〉に乗るまでは名前すら知らなかった、世界の反対側へ向かう旅路の途中で偶然出会った見知らぬ大人たち。
ただ、それだけの間柄のはずだった。
それなのに――自分の胸の深奥で、すでに彼らを「失いたくない」と切望していることに気づく。
もし、打ち明けたならどうなるだろう?
昨夜、誰もいない静まり返った廊下で、自分を追う足音が聞こえたこと。
部屋の鏡の中に、この地球のどこにもない異次元の空が映っていたこと。
夢の中でも、あの二年前に救った少女と共に同じ空を見たこと。
そして何より――自分には幼い頃から、普通の人間には見えない「不気味なもの」が見えてしまうこと。
そんな事実を口にしたら。
二年前、寄宿学校で浴びたあの視線が、再び自分に注がれるのではないか。
怯え。驚愕。哀れみ。そして、決定的な嫌悪と隔離。
――『血染めのエレノア』
「……いいえ」
エレノアは必死に唇を吊り上げ、可憐な微笑みを作る。
「本当に、少し慣れないベッドで寝不足なだけです。ご心配をおかけしました」
ナルカミは数秒間、彼女の瞳の奥をじっと見つめていたが、やがてそれ以上追及することなく「それならいいのですが」と呟き、再び新聞へと目を戻した。
エレノアの胸の奥が、小さな針で刺されたように痛んだ。
◇
異変の第一波が表面化したのは、それから一時間後のことだった。
「な、なんだこれは……!?」
サロンの一角で、絞り出すような低い怒声が響いた。
談笑していた何人もの乗客が、反射的に振り返る。
バーカウンターの丸椅子に座っていた英国人紳士が、自分が手にしていたグラスを穴があくほど覗き込んでいた。
五十代半ば、赤ら顔の裕福そうな男で、朝からアルコール入りのドリンクを注文していた人物だ。
「どうされました、お客様?」
通りかかった給仕が声をかける。
「これを見ろ! この中だ!」
「は……?」
「星だ……! 星がある!」
紳士が震える手で差し出したのは、濃密な血のような赤色を湛えたポートワインのグラスだった。
「……星、ですか?」
「中に星が見えるんだよ! 酒の表面じゃない、この赤い液体の深遠に……!」
クスクスという忍び笑いがラウンジに広がった。誰かが小声で「朝からポートワインを煽るからだ」「大英帝国の紳士も形無しだな」と囁き合う。
「酔ってなどいない!」
紳士は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「本当に見えたんだ! 空だ……夜空、いや、見たこともない宇宙だ! こんな小さなグラスの底に、吸い込まれそうな暗黒と星々が――!」
給仕は困惑した表情を浮かべ、別の乗客がどれどれとグラスを覗き込んだ。
「何も見えませんよ、お気に召したポートワインの赤色以外はね」
「今は……今は消えたんだ!」
再び上がる嘲笑。紳士は憤慨し、粗暴な動作でグラスをテーブルに叩きつけた。
「私は正気だ! 正気なんだぞ!」
サロンを包む失笑の渦の中で、エレノアだけは笑えなかった。
指先から血の気が引いていく。血の色の液体の中に浮かぶ、異形の星空。
ナルカミが、硬直するエレノアの横顔に気づく。
「……エレノアさん?」
「……」
「今の紳士の話……何か思い当たる節でも?」
エレノアは首を横に振った。弱々しく、けれど拒絶するように。
「……いいえ。何でもありません」
またしても、自分に嘘をついてしまった。
◇
正午前。今度は一等客室区画の洗面室から怪異が漏れ出した。
一人のフランス人貴婦人が、髪を乱し、今にも倒れそうな青ざめた顔で廊下へ飛び出してきたのだ。
「誰か! 誰か来てちょうだい!」
悲鳴を聞きつけ、近くにいた客室係が駆け寄る。
「いかがされました、マダム!?」
「鏡よ! 鏡の中に……!」
「鏡に何か?」
「人が……人がいたのよ! 私のすぐ後ろに!」
廊下にざわめきが波及する。
「他のお客様が誤って入られたのでは……」
「違うわ! ドアは施錠していたし、部屋には私しかいなかった! それに……あれは、人間のような形をした『黒い影』だったわ!」
客室係のチヨ・タカセと警備担当の乗務員がすぐに室内を検分した。
洗面台、姿見、ベッドルーム、クローゼット。侵入者の痕跡はなく、窓のラッチも固く閉ざされている。鍵の機構にも異常はない。
船側が出した結論は速やかだった。
長時間の飛行による疲労。気圧の変化に伴う一時的な錯覚。過度の緊張が見せた幻視。
あまりにも合理的で、あまりにも簡単な片付け方。
エレノアは回廊の陰から、そのやり取りをじっと見つめていた。胸の奥が、締め付けられるように苦しかった。
◇
「偶然と片付けるには、少々出来過ぎていますね」
午後。展望ラウンジの窓際で、ナルカミが雲海を見下ろしながら静かに言った。
「何がよ?」
ユーランが煙草ケースを弄りながら尋ねる。
「ポートワインに映る星を見た紳士の件ですよ」
「あれはただの飲み過ぎでしょう? 英国紳士の朝酒なんて珍しくもないわ」
「ですが、まだ午前中でした」
「酒飲みには時間なんて関係ないの」
「偏見ですね」
「いいえ、観察眼よ」
ユーランは平然と言い放つが、ナルカミは苦笑いを浮かべた後、声を一段落とした。
「それと、昼前の洗面室の騒ぎです」
「あれも神経質な貴婦人の見間違いでしょう」
「そうかもしれません。……ですが、同じ日に『光を反射する鏡面』に関する異常な証言が二件も重なるものでしょうか」
エレノアの背筋が、ぴんと強張った。ナルカミは思考を巡らせるように続ける。
「探求心が商売道具の学者としては、少々見過ごせませんね」
「まあ、それは職業病ね」
「否定はしません」
ユーランは珈琲を口に含み、悪戯っぽく微笑んだ。
「だったら、三件目の怪異が起きてから心配したら? 私たちはただの乗客なんだから」
「商人は慎重を期すものでは?」
「利益にならない災難からは、大胆に目を背けるのが一流の商売よ」
二人の軽妙なやり取りを聞きながら、エレノアの心の中で葛藤が渦巻いていた。
言わなければ。
今なら言える。
私だって見た。昨日の夜、洗面台の鏡の中に、この世のものじゃない空を。
今なら、あの紳士も貴婦人もいる。私ひとりが狂っているわけじゃないと証明できるかもしれない。
「……あの」
声が出た。二人の視線が同時にエレノアへと向く。
「私……実は……」
喉が固く塞がった。
脳裏をよぎるのは、二年前のあの不快な記憶。
血に染まった礼拝堂、蔑みと恐怖に満ちた友人たちの目。
食堂で、私を避けて離れていった背中。
ぽつんと一人きりの食卓。
(もし……もし信じてもらえなかったら? もし二人にまで『気味が悪い』と思われたら――)
「……どうしたの、エレノア?」
ユーランが優しく首を傾げる。
エレノアは――引きつった微笑みを浮かべた。
「いえ……なんでもありません」
ナルカミの表情が、ほんのわずかに、悲しげに曇った。
◇
その決定的な事態は、夕刻に訪れた。
空は重厚な茜色から薄金色へと移ろい、〈飛鳥〉は紅海を抜け、アラビア半島南部の砂漠地帯の上空へと差し掛かっていた。
夕食前のこの時間帯、展望ラウンジの人影は疎らだった。
「……? お父さん」
窓際に座っていた少年が、ふと外を指差した。
「なんだい?」
「あれ……なに?」
少年が指差す先――右舷の遥か彼方。
「……おい、嘘だろう」
立ち上がった父親の顔から、一瞬で血の気が引いた。
「なんだ? 何があるんだ?」
周囲の乗客たちが不審に思って窓辺へ集まり出す。
「船……?」
「いや、飛行船だ! 並んで飛んでいるぞ!」
エレノアも胸の騒ぎに突き動かされ、窓際へ駆け寄った。そして、呼吸を忘れた。
いた。
一隻の巨大な飛行船。
夕光を受けて鈍く輝く銀灰色の船体。左右に三基ずつ配置された発動機ナセル。流線型の優美な船首と、細く絞られた船尾。側面に並ぶ無数の客室窓。大型の尾翼。
「……〈飛鳥〉……?」
誰かが呆然と呟いた。
そう――それは、どこからどう見ても〈飛鳥〉だった。
まったく同じ形状、同じスケール。
右舷斜め前方、わずか数百メートルほどの距離を、もう一隻の〈飛鳥〉が寸分違わぬ速度で平行飛行している。
「そんな馬鹿な……!」
ナルカミが窓に身を乗り出す。ユーランも目を見開いていた。
「同型船じゃないの!?」
「この航路に同型機が配置されているという話は聞いていません! それに――」
ナルカミの顔から余裕が消える。
「接近しすぎている……! 衝突コースに等しい危険距離だ!」
それだけではなかった。
エレノアは、その銀灰色の船体に刻まれた「決定的な異常」に気づいてしまった。
側面に誇らしく描かれた日本帝国航空の会社章。外装塗装の微細な剥げ。そして――船尾近くに存在する、わずかな凹み傷。
カーディントン飛行場でエレノア自身が目撃した、いま自分が乗っているこの〈飛鳥〉の傷と、全く同じ位置、同じ形状だった。
(あれは……私たちの船……?)
エレノアの背筋を、氷のような戦慄が駆け抜ける。
向こうの窓に人影が見えた。一人、二人、三人。
向こうの乗客たちもまた、こちらを指差し、驚愕の表情で窓の外を覗き込んでいる。
「乗客がいるぞ! 手を振っている!」
本当に、向こうのサロンの窓辺に人々が群がっていた。こちらと全く同じように、窓ガラスに張り付いて外を凝視している。
そして――。
「……あっ」
エレノアの喉から、小さな悲鳴が漏れた。
「どうしました、エレノアさん!?」
ナルカミの問いにも答えず、エレノアは窓ガラスに指を押し当てた。
向こうの窓辺で、身を乗り出している三人の人影。
一人は、鐘型のモダンな帽子を被り、スマートなパンツスーツにスカーフをあしらった女性。
一人は、上品な三つ揃いのスーツを着た東洋人の青年。
そして――その隣に立つ、黄金色の髪に美しい青のドレスを纏った少女。
同じ服。同じ仕草。同じ恐怖に歪んだ顔。
(私……? あれは……私なの……!?)
その瞬間、巨鯨のような白い雲塊が両者の間を横切った。
濃密な白が窓一面を覆い尽くす。
五秒、十秒。
〈飛鳥〉が雲を突き抜けた時――そこに広がるのは、橙色に染まる無人の大空だけだった。
もう一隻の〈飛鳥〉は、跡形もなく消失していた。
◇
船内は大混乱に陥った。
操舵室、上級見張り員、無線室、航法担当者――全員が総動員され、事実確認に追われた。
だが、得られた回答は不可解極まるものだった。
電波を利用した新式の接近警戒装置にも、反応はなかった。
本来なら、数百メートル先に二百五十メートルを超える硬式飛行船が存在すれば、見落とすはずのない距離だった。
予定航路上に同型船の運航スケジュールは一切存在しない。
地上局からの接近通知も皆無。
船首の見張り員の一部は「ただの雲の影しか見えなかった」と証言した。
しかし、展望ラウンジにいた十人以上の乗客が、明確に「もう一隻の飛鳥」を目撃していたのだ。
「蜃気楼だ!」
乗客の一人の男が、自分を納得させるように大声で叫んだ。
「上空の気流と光の屈折が生んだ蜃気楼に決まっている!」
「飛行船の蜃気楼だと? そんなものが実在するのか!」
「海上でも船が宙に浮いて見えることがある! それと同じ原理だ!」
「だが、自分たちの船の姿が寸分狂わず映るなんて事があるのか!?」
紛糾する議論。膨れ上がる困惑、失笑、そして得体の知れない苛立ち。乗務員たちは青ざめた顔で対応に追われた。
その喧騒の中心で、エレノアだけが、ただ黙り込んでいた。
◇
夕食後。
エレノアは静まり返った展望ラウンジの片隅にぽつんと座っていた。
膝の上には日本語の教本が開かれている。
けれど、彼女の瞳は一文字の文脈も追っていなかった。
「……これでは、今日の授業どころではありませんね」
頭上から聞こえる穏やかな声。ナルカミだった。
エレノアは緩慢な動作で顔を上げた。
「……ごめんなさい、先生」
「謝る必要などどこにもありませんよ」
ナルカミは静かに向かいの席へ腰掛けた。少し遅れて、珈琲カップを手にしたユーランも歩み寄ってくる。
「ここにいたのね」
「……はい」
ユーランはエレノアの隣に滑り込むと、湯気の立つカップをテーブルに置き、脚を組んだ。
「それで?」
ストレートな問いかけ。
「何が……でしょう?」
「あなた、今日一日ずっと何かを隠しているでしょう?」
エレノアの指先が、教本の端をぎゅっと握りしめた。
「ユーランさん……」
「私、こう見えても美術商――つまり人間を見るプロなのよ」
ユーランは優しく、けれど拒絶を許さない眼差しでエレノアを見つめた。
「人の顔の陰りを見るのは仕事のうち。あなたの瞳には、朝からずっと『恐怖』が張り付いているわ」
ナルカミもまた、何も言わずに静かにエレノアの言葉を待っている。
「…………」
エレノアは口を開かけ、また閉じた。
胸の中で、葛藤の激流が渦巻く。やがて――小さな、震える声が漏れた。
「……もし」
「ええ」
「もし私が……とても変で、恐ろしいことを言ったら……お二人は、私の言ったことを信じてくださいますか?」
ナルカミは即答しなかった。その一瞬の間が、エレノアにはたまらなく怖かった。
やがて、彼は落ち着いた口調で言った。
「内容によります」
「……そう、ですよね」
「ですが」
ナルカミは言葉を継いだ。
「今日一日で、十分に『変なこと』は山ほど見ましたからね」
ユーランがくすりと笑う。
「私だってポートワインの中に宇宙を見たとは言わないけれど、自分たちの乗る船のドッペルゲンガーならこの目で確かめたわ」
「……」
「だから」
ユーランはエレノアの手に、自分のあたたかい手を重ねた。
「今さら少しくらい怪談が増えたところで、私たちは驚きもしないと思うわよ」
エレノアの胸の奥で、重く冷たい塊が、ほんの少しだけ解けた気がした。
でも――まだ、言えない。あの過去の拒絶の記憶が、土壇場で彼女の唇を縛り付ける。
「……ごめんなさい」
エレノアは俯いた。
「まだ……お話しする勇気がでません」
ナルカミはそれ以上、決して追及しようとはしなかった。
「分かりました。無理に話す必要はありませんよ」
「……怒らないのですか? 隠し事をしているのに……」
「なぜ怒るのです? 誰にだって、話したくない秘密や心構えの届かない瞬間はあるものです」
エレノアは顔を上げた。
ナルカミの顔には、いつもの温和で思慮深い笑みが浮かんでいた。ユーランもまた、穏やかに微笑んでいる。
「……ありがとうございます」
絞り出すような感謝の言葉が、エレノアの口から零れ落ちた。
そして――その夜。
〈飛鳥〉の船内で『失踪者』が出た。
◇
二等客室区画、三一四号室。
失踪したのは、三十一歳の英国人、ヘンリー・アッシュワース。航空機メーカーに勤務するエンジニアで、同室者のいない一人旅。
夕食後、サロンでウイスキーのグラスを傾けていた姿が目撃されたのが、彼の生存が確認された最後となった。
翌朝。
朝食の時間を過ぎても姿を現さないことを不審に思った客室係が、部屋を訪ねた。
応答なし。
重厚な木製の扉は、内側から完璧に施錠されていた。
非常用の合鍵で解錠し、室内に踏み込んだ乗務員たちが目にしたのは――あまりにも不自然な「空室」だった。
男性の姿だけが消えていた。
クローゼットには着替えが、机の上には財布とパスポートが、床には脱ぎ捨てられた靴が、そのまま残されていた。
窓のラッチは内側から完全に閉ざされており、破損の形跡すらない。
天井の換気口は、幼子すら通れぬほど狭小だった。
完全なる密室からの消失。
そして――駆けつけた乗務員たちの誰も気づかなかったが。
洗面台の上に置かれた小さな手鏡の鏡面にだけ。
ほんの一瞬。
息を呑むほど深い、青黒い星空が――不気味に揺らめいていた。




