間章 血染めのエレノア
二年前。
十四歳になったエレノア・スターリングが中級生へと進級した頃。
当時の彼女は、よく笑う、どこにでもいる朗らかな少女だった。
もちろん、今のエレノアが微笑みを失ったわけではない。
しかし当時の彼女は、質素で規律正しい寄宿学校の生活に心から馴染み、成績も優秀で、教師たちからも妹のように愛されていた。
何より彼女は歌が好きで聖歌隊で響かせる鈴を転がすような美声は校内でも評判だった。
休日には友人たちと手入れされた庭園を散策し、小遣いで買った焼菓子を分け合い、消灯後には寮母に見つからないように友人たちと毛布の中で秘密のささやきを交わす。
幼い頃から、時折「他の人には見えないもの」が見えてしまうことがあったが、それは彼女の日常を脅かすほどのものではなかった。
◇
最初の異変は、ごくありふれた不運な事故として始まった。
古い石造りの階段を降りていた生徒が、突然足を滑らせて転倒した。幸いにも膝を少し擦りむいた程度で済んだ。
数日後、今度は食堂で棚の奥に置かれていた陶器の水差しが突如として落下し、給仕をしていた少女の肩をかすめた。
その翌週には運動場で、誰も触れていないはずのホッケーの用具入れが倒れ、近くにいた生徒を驚かせた。
どれも大きな怪我には至らなかった。大勢の多動な少女たちが暮らす古い寄宿学校だ。この程度の小事故など日常茶飯事である。教師たちも単なる不注意として片付けた。
エレノアも、最初はそう思っていた。
――最初は。
◇
「それ」を初めて目撃したのは、肌寒くなり始めた十月の終わりだった。
夕食を終え、友人たちと談笑しながら教室へ戻る道すがら。薄暗い廊下の突き当たりに、一人の少女が立っていた。
汚れた中級生の制服。ボサボサに伸びた黒ずんだ髪。俯いた顔。
背格好からして、自分たちと同世代の生徒に見えた。エレノアはふと足を止めた。
「エレノア? どうしたの?」
隣を歩いていた友人が振り返る。
「……ううん、なんでもないの」
もう一度目を凝らす。少女は確かにそこにいた。廊下の中央にポツンと佇んでいる。
だが、向こうから歩いてきた他の生徒たちは、まるでそこに誰も存在しないかのように、少女の身体を通り抜けていく。
(ああ、またこれだ……)
エレノアは視線を外し、再び歩き出した。
その瞬間、少女がゆっくりと顔を上げた。
ほんの一瞬。確かに目が合った――ような気がした。
エレノアは息を呑んだ。だが次に振り返った時には、廊下には誰もいなかった。
◇
幼い頃から、エレノアには「そういうもの」が見える力があった。
古い屋敷の隅、歴史ある教会、古い病院の病室、日陰の街角。欧州全土を巻き込んだ大戦が始まってからは、そうした存在と遭遇する機会はむしろ増えたように思う。
けれど、それらのほとんどは「生きている人間」ではない。
かつて人間だった残滓。それを「幽霊」と呼ぶのが正しいのかどうか、エレノアには判らなかった。
彼らはいつも同じ場所に立ち、同じ無意味な動作を繰り返し、永遠に同じ方向を見つめている。
エレノアたち生きている人間に干渉してくることもない。
死を迎えた瞬間、あるいはその直前の、あまりに強烈な感情の澱。悲しみ、後悔、恐怖、執着。
人間がこの世を去る時に残していった「心の染み」のようなもの――幼いエレノアはそう解釈していた。
だからこそ、鉄則があった。
見えても、見なかった振りをすること。
触れないこと。呼びかけないこと。決して干渉しないこと。
両親からも固く言い含められていた。口に出してはいけない。誰にも話してはいけない。
だからエレノアは、その廊下に立つ少女についても、ただの景色の一部として無視することに決めたのだ。
◇
しかし、学校内の「事故」は加速していった。
一週間後、階段の上から二年生の少女が転落した。腕の骨折という重傷だった。
少女は恐怖に震えながら「誰かに背中を突き落とされた」と証言したが、階段の上に誰かがいた目撃証言は得られなかった。
二週間後の理科の授業中。実験室の棚からガラス器具が一斉に滑り落ち、破片で額を切る生徒が出た。教師は棚の金具が緩んでいたせいだと結論づけた。
その翌日、エレノアは階段の踊り場で再び「彼女」を見た。
今度の姿は、以前よりも明確で、濃密だった。
汚れた制服、青白い肌、垂れ下がった髪。そして――その顔は、激しい憎悪ではなく、見るに耐えないほど深い悲しみに歪んでいた。
(怒っているんじゃない……泣いているの?)
エレノアが心の中で小さく呟いた瞬間、少女の輪郭が揺らぎ、消えた。
◇
それからエレノアは、密かに学校の過去を調べ始めた。
図書室の奥に保管された過去の学校要覧、卒業生名簿、礼拝堂の追悼記録。
最初は手がかりすらなかったが、三年前に撮られた中級生の集合写真のなかに、ついに見覚えのある顔を見つけた。
写真の隅に写る、寂しげな少女。
エレノアの指が止まる。写真の下に刻まれた名前を頼りに卒業生名簿を繰ったが――その名前は、どこにも記載されていなかった。
古い記録を繋ぎ合わせ、退職間近の用務員から噂話を聞き出すうちに、惨憺たる真実が浮き彫りになっていった。
少女は、かつてこの学校の生徒だった。
幼少期に母親を病で亡くし、唯一の身寄りだった父親は英国陸軍の士官として欧州戦線へ出征。そのまま帰らぬ人となった。
父の死後、家の財産を巡って何らかの揉め事があったらしい。
家財は差し押さえられ、学費の支払いは滞った。
それまで裕福だった少女の立場は一夜にして一変し、周囲の生徒たちからの冷遇と孤立が始まったという。
そして数年前のある夜。記録にはただ一言「事故死」とだけ記されていた。
だが、それは名門校の体面を守るための嘘だった。
少女は失意の底で、自ら礼拝堂の鐘楼へ続く階段から身を投げたのだ。
自死はキリスト教において極めて重い禁忌。学校側は事実を隠蔽し、彼女の存在そのものを歴史から抹消した。
墓標すらまともに与えられずに。
◇
「……だから、怒っているの?」
放課後。誰もいなくなった静かな教室で、エレノアは夕闇に向かってぽつりと問いかけた。
窓際に佇む少女の影は、俯いたまま答えない。
「私には、あなたが何を言いたいのか分からないわ。言葉を交わすこともできない……」
エレノアは一歩、踏み出した。
「でもね……関係のない他の生徒を傷つけるのは、絶対に間違っているわ」
その瞬間、ガタタッ!と窓枠が激しく鳴動し、冷たい突風が室内を吹き荒れた。机の上の書類が一斉に舞い上がる。
エレノアは咄嗟に腕で顔を覆った。
風が止んだ時、少女の姿は消えていた。
だがエレノアは確信した。
(今の風は……私の言葉に反応したんだわ)
◇
それからというもの、エレノアは「彼女」の気配を感じるたびに話しかけるようになった。
「こんにちは」
「今日はね、数学のテストでひどい点数を取っちゃったの」
「私は悪くないと思うけれど、先生の出題がいじわるだったのよ」
廊下で。階段で。空き教室で。
少女が現れるたび、エレノアは他愛のない日常を語りかけた。
「あなたのお名前、分かったわ」
少女の輪郭が揺らぐ。
「勝手に調べてごめんなさい。……お父様のことも知ってる」
一瞬で空間の温度が氷点下まで下がった。
エレノアは息を呑み、胸の前で手を組んだ。
「……ごめんなさい」
その日はそれ以上、何も言えなかった。
◇
だが、事態は収まるどころか、より激しさを増していった。
壊れたドアノブ、突然割れる窓ガラス、倒れる重い本棚。何でもない日用品が人を傷つけるものに変わった。
そして、ついにある日の放課後…古い階段の踊り場から、生徒の一人が転落。頭部を強く打ち、大量の血を流して意識不明の重体となったのだ。
悲鳴、駆けつける教師たち、血の匂い。
混乱する廊下の群衆の向こうに、エレノアは「彼女」を見た。
そこにいたのは、もはや泣きじゃくる少女ではなかった。黒い怨念を纏い、顔を歪ませた怪物のような影。
だが、その憎悪の奥底に透けて見えるのは、狂わしいほどの孤独と悲しみだった。
エレノアの胸の内に、ふつふつと激しい感情が湧き上がった。
「……もう、許せないわ」
エレノアは群れから離れ、影に向かって一歩踏み出した。
「あなたが悲しかったのは痛いほど分かる! 苦しかったのも! でも――だからって、関係のない人を巻き込んで同じ目に遭わせていい理由にはならないわ!」
少女の影がゆっくりと口を開く。声にはならない。
しかし、エレノアの脳裏に直接、痛切な悲鳴が叩きつけられた。
『――どうして?』
『――どうして、私だけがこんな目に遭わなきゃいけないの……!?』
その叫びを聞いた瞬間、エレノアの怒りのは感情は、たちまちに失われていった。
◇
その夜。エレノアは消灯破りをし、一人で夜の校舎を抜け出した。
向かったのは、かつて少女が命を絶った古い礼拝堂。
重い木製の扉を押し開ける。
月光だけが差し込む静寂の聖堂。長椅子、祭壇、ステンドグラス。
「……私はエレノア、エレノア・スターリング、聞こえるでしょ?」
返事はない。だが、いる。間違いなくここにいる。
……こつ。
暗闇の奥で、足音が響いた。
……こつ。
一歩、また一歩。闇の中から黒い怨念を纏った少女が姿を現す
。
エレノアは逃げなかった。脚が震えていたが、しっかりと大地を踏みしめた。
「あなたは……ずっと、たった一人で暗闇の中にいたのね」
空間が激しく歪み、長椅子が悲鳴を上げて軋む。
「私には、あなたの苦しみのすべてを理解することはできないわ!」
床の石畳に亀裂が入るような怪異の音が響く。
「お父様を奪われた絶望も! ここで受けた仕打ちも!」
突風が吹き荒れ、祭壇の重い真鍮製の燭台が吹き飛ぶ。
何かがエレノアの頬をかすめた。熱い激痛。頬から一筋の血が伝い落ちる。
それでも、エレノアは一歩前へ踏み出した。
「でも……! 誰にも存在を気づかれず、忘れ去られる寂しさだけは……私にも、少しだけ分かるから!」
ドシン!と視えない衝撃波がエレノアの身体を叩きつけた。
全身が弾き飛され、石造りの床へ強く打ち付けられる。
「くっ……!」
膝と腕を激しく擦りむき、額からも血が滲む。激痛に涙が溢れそうになる。
それでも、彼女は這うようにして立ち上がった。
目の前に、狂乱する少女の影が迫る。
エレノアは震える両腕をまっすぐに伸ばした。
「もう……いいのよ」
指先が、少女の影に触れた。
本来、彼女は想いの残滓「過去の幻影」に触れられるはずがない。
だがその瞬間、エレノアの指先は、確かに少女の冷たすぎる肩を捉えた。
「触れられた……?」
次の瞬間、エレノアは全身の恐怖を投げ打ち、その怨念の渦を強く抱きしめた。
◇
冷たい。氷よりも、極夜の海よりも冷酷な冷気がエレノアの体温を奪っていく。
暴れる少女の影。不可視の爪がエレノアの背中や腕を切り裂く。制服が破れ、赤い血が溢れ出す。
それでも、エレノアは腕の力を緩めなかった。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
少女の声なき叫びがエレノアの精神に直接流れ込んでくる。絶望、怨嗟、孤独、愛されたかったという叫び。
その濁流を受け止めながら、エレノアはボロボロの身体で必死に耐えた。
「痛かったね……寂しかったね……!」
その言葉が正しいかなんて分からなかった。ただ、溢れ出る涙とともに、少女の背中を撫で続けた。
そして、エレノアは歌い始めた。
幼い頃、母に教わった古い讃美歌。赦しと安らぎの歌。
「傷つき疲れた者よ、重荷を下ろすがいい」
「夜は明け、光があなたを包むから」
掠れた声で、血と涙に濡れながら、エレノアは歌い続けた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。数分か、数時間か。
やがて――少女の暴れる手が、ゆっくりと力を失って垂れ下がった。
◇
ふと、抱きしめていた氷のような冷たさが霧散した。
エレノアが目を開けると、目の前に、淡い光に包まれた一人の少女が立っていた。
汚れた制服も、ボサボサの髪も、憎悪に歪んだ顔もない。
そこにいたのは、どこにでもいるような、可憐な一人の女学生だった。
少女はエレノアの目を真っ直ぐに見つめた。初めて、一人の「人間」としてエレノアを認識するように。
音にはならなかった。
だが、その唇の動きで、エレノアにははっきりと読み取れた。
『――ありがとう』
少女は、少し泣きそうな、けれどこの上なく穏やかな笑みを浮かべた。
「……うん。おやすみなさい」
エレノアが涙を拭った瞬間、少女の姿は無数の淡い光の粒となって、聖堂の天井へとしずかに溶けて消えていった。
あとには、静寂に満ちた礼拝堂だけが残された。
◇
「スターリング!?」
激しい音を立てて礼拝堂の扉が開いた。
騒ぎを聞きつけた寮母、教師たち、そして野次馬の生徒たちが雪崩れ込んでくる。
「……?」
エレノアは、自分が今どんな姿をしているのか、その時初めて自覚した。
額と頬から流れる血。切り裂かれた制服。白い襟を真っ赤に染める血の痕。床に滴る赤。
そして彼女は――誰もいない空間に向かって両腕を伸ばしたまま、涙を流して立ち尽くしていたのだ。
「……エレノア……?」
親しかった友人の一人が、引きつった声でその名を呼んだ。
「違うの……! ここに、女の子がいて……ずっと一人で泣いていたの!」
「スターリング!」
教師が威圧的な声で叫んだ。
「もういい! 黙りなさい!」
「本当にいたんです! あの子が……わかってくれて!」
必死の訴えに対し、返ってきたのは完全な拒絶と沈黙だった。
哀れみ、恐怖、蔑み、忌避。差し向けられる無数の視線の中に、自分を信じてくれる者が一人もいないことを、十四歳のエレノアは痛烈に理解した。
◇
翌日から、学校内の「怪奇現象」はピタリと収まった。
誰も階段から落ちず、物が勝手に飛ぶこともなくなった。
誰もその理由を知らなかった。
ただ、ひとつだけ――学校中に新しい、おぞましい噂が広まった。
『夜の礼拝堂で、スターリングが血まみれになって、誰もいない壁に向かって一人で歌い、笑っていた』
話尾に尾ひれがつき、いつしか彼女こそが事件の犯人であり、悪魔憑きであり、死者と交信する魔女なのだと囁かれるようになった。
誰かが嫌悪を込めて、そう呼び始めた。
――ブラッディ・エレノア(血塗れのエレノア)と。
◇
それまで、寮でも教室でも、エレノアの周りにはいつも笑顔の友人がいた。
事件から数日後、昼食時の食堂。
トレイを持ったエレノアは、離れたテーブルに昨日の友人たちを見つけた。
一瞬、目が合った。
友人たちは怯えたように即座に視線を逸らし、身を寄せ合った。
「…………」
エレノアは足を止めた。
誰も彼女を見ようとしない。空いている席はある。けれど、そこへ座れば彼女たちを怯えさえ、困らせることになる。
「……大丈夫」
誰にともなく小さく呟き、エレノアは一番端の、日陰になった窓際の席へと歩いた。
ぽつんと一人分のトレイを置き、腰掛ける。
向かいには、誰もいない。
そこには数日前まで、毎日のように誰かが座っていた。
エレノアは静かに包帯が巻かれた手元を見つめた。
あの日、私はあの少女の心を癒すことができた。
最後のあの子の笑顔は、本物だった。それだけは、絶対に間違いじゃない。
だから、後悔なんてしていない。
後悔なんて――するはずがない。
「……主よ、私たちとこの授かり物を祝福してください。」
小さく呟き、エレノアは一人、静かにパンを口へと運んだ。




