第二章 スエズの夜
翌朝。
エレノアが目を覚ました時、〈飛鳥〉はすでに地中海の上を飛んでいた。
カーテンを開ける。
窓の向こういっぱいに広がっていたのは、昨日まで見ていた英国の空とはまるで違う色だった。
青い。
ただ青いのではない。
空も、海も、互いの境界が曖昧になるほど、どこまでも澄んだ青だった。
「……綺麗」
思わず声が漏れる。
眼下には、朝日を受けて細かく光る海面。
ところどころに白い雲。
遥か遠くに、小さな船影が幾つも浮かんでいる。
それらすべてを〈飛鳥〉は静かに追い越していく。
六基の発動機が作り出す小さな、まるで巨大な生き物の鼓動ような振動音も、昨日よりずっと耳に馴染んでいた。
エレノアは着替えを済ませると、日本語の教本を抱えて朝食へ向かった。
◇
朝食は昨日の晩餐ほど格式張ったものではなかった。
ふんわりとしたオムレツに、美しく折りたたまれたベーコンとソーセージ。
手のひらサイズのレーズンブレッドが二枚。
スライスしたトマトが添えられた新鮮なグリーンサラダ。
それにミルクの入ったイングリッシュ・ブレックファスト・ティー。
他にも日本風の朝食も選べるらしく、箱型に焼かれた卵料理に焼き魚や米を注文している乗客もいる。
エレノアは無難に英国式を選んだ。
ただし、箸だけは、昨日と同じようにテーブルに置かれていた。
少しだけ迷う。
そして。
「……今日はパンだから関係ありませんね」
と誰にともなく呟いた。
「何がです?」
「わっ」
後ろから声を掛けられ、エレノアは肩を跳ねさせた。
振り返る。
ナルカミだった。
「先生。驚かせないでください」
「申し訳ありません」
そう言いながら、微笑むナルカミは、あまり申し訳なさそうではない。
エレノアは頬を少し膨らませた。
「おはようございます」
今度は日本語で言ってみる。
ナルカミの表情が少し明るくなった。
「おはようございます、今のは、かなり自然でした」
「本当に?」
「ええ」
エレノアは満足そうに席へ座る。
ナルカミも向かいへ腰掛けた。
「では、今日の授業は簡単なところから始めましょうか」
「朝食を食べながら?」
「嫌ですか?」
「いいえ」
即答だった。
ナルカミが笑う。
「熱心ですね」
「日本へ着いてから困りたくありませんもの」
「ではまず――」
そうして。
二人の二日目が始まった。
◇
昼前。
〈飛鳥〉は地中海東部へ入っていた。
船内放送が、英語、日本語、フランス語の順に流れる。
『本船は本日午後、埃及上空へ到達いたします。気象状況が良好なため、予定通りギザ上空を通過する見込みです』
その瞬間。
ラウンジにいた何人もの乗客が顔を上げた。
「ギザ?」
エレノアも聞き返す。
「ピラミッドですよ」
ナルカミが言った。
「見られるんですか?」
「それを売りにしている航路ですから」
「本当に?」
エレノアは子供のように窓へ身を乗り出しかけた。
まだ見えるはずもない。
「そんなに楽しみですか?」
「だって」
エレノアは振り返る。
「本でしか見たことがありませんもの、先生は、以前にも見たことが?」
「いえ。往路でも同じ航路を通ったんですが……」
ナルカミは少し苦笑した。
「途中で天候に捕まりましてね。遅れを取り戻すために増速、ギザを通ったのは夜中でした」
「まあ。それは残念」
「ええ。寝台の中で、『今ごろ窓の下にピラミッドがあるらしい』と思っていましたよ」
エレノアが思わず笑う。
「では一緒に見ましょう」
あまりに自然に言われて、ナルカミが一瞬だけ黙ったが、直ぐに微笑みを浮かべた。
「……そうしましょう」
◇
昼を過ぎた頃。
地中海の青が徐々に後方へ退き。
代わりに、地平線の彼方から淡い黄土色が現れた。
最初は霞にしか見えなかった。
だが。
近づくにつれ、それは大地となった。
「埃及……」
エレノアは小さく呟いた。
砂漠。
どこまでも続く。
しかし、その中を一本の緑が貫いている。
ナイル。
川の周囲だけが、まるで別世界のように濃い緑色をしていた。
「すごい……」
展望ラウンジには多くの乗客が集まっていた。
昨日の晩餐で出会ったユーランもいる。
「エレノア」
彼女が手を振る。
「こちらの方がよく見えるわ」
窓際へ招かれる。
三人で並び――ただし、昨日とは違って、それぞれが窓の外に夢中だった。
やがて。
誰かが声を上げた。
「見えた!」
空気が変わる。
エレノアは目を凝らす。
最初はただの三角形に見えた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
砂漠の中から。
巨大な人工物が立ち上がっている。
「……」
言葉が出なかった。
本で見たことはある。
写真も見た。
だが、上空から見るそれは、想像とはまるで違った。
広い砂漠に細い道路。
点在する小さな建物。
それらすべてを押し退けるように、大きな黄褐色の三角形が大地に鎮座している。
「何千年前のものなんでしょう」
エレノアが言った。
「四千年以上です」
ナルカミが答える。
「四千……」
「人間は昔から、こういうものを作るのが好きなんですよ」
ユーランが笑う。
「残したがるのね」
「自分が死んだあとも?」
「ええ、人はその生きた証を、何か残したいと思うの」
ユーランはピラミッドを見つめたまま言った。
「だから美術商という仕事はなくならないのよ」
エレノアは少し考える。
「残したいものを、残す仕事?」
「そう考えると聞こえは良いわね」
「違うんですか?」
「売って儲けるのが仕事よ」
ユーランは真顔で即答した。
ナルカミが苦笑する。
エレノアも笑った。
その時、ほんの一瞬、胸の奥がざわついた。
「……?」
エレノアは笑みを消す。
「どうしました?」
ナルカミが気づく。
「いえ」
窓の外。
ピラミッド。
砂漠。
青い空。
何もおかしくない。
「……何でもありません」
エレノアはそう答えた。
ただ、今のは何だったのだろう。
誰かに見られたような、そんな気がした。
◇
その日の夕方。
〈飛鳥〉はスエズへ降下した。
巨大な船体がゆっくり高度を落としていく。
窓の外に広がるのは、これまでとはまるで違う景色だった。
砂。
港。
運河。
倉庫。
蒸気船。
白い建物。
そして、細長く海と海を結ぶ人工の水路。
「スエズ運河……」
エレノアは窓越しに見下ろした。
世界の船がここを通る。
英国からインドへ。
欧州から東洋へ。
人も。
物も。
文化も。
今では空を飛ぶ〈飛鳥〉には運河そのものは必要ない。
それでも、何百隻もの船が行き交う姿には、圧倒されるものがあった。
係留作業が始まる。
地上では整備員が走り回り。
燃料車や食料を積んだ貨物車がやってくる。
郵便物。
荷物。
さまざまなものが〈飛鳥〉へ運び込まれていく。
乗客の一部は短時間の上陸を許された。
「行きますか?」
ユーランが訊く。
エレノアは少し迷った。
「行ってみたいです」
「先生は?」
「もちろん」
三人は一緒に地上へ降りた。
◇
スエズは夕暮れでもまだ暑かった。
「……暑い」
地面へ降りた瞬間、エレノアが思わず言った。
英国とは違う。
乾いた熱、日が沈みかけているというのに、空気そのものが暖かい。
「まだこれでも涼しい方でしょうね」
ナルカミが帽子を少し直す。
「日本もこんなに暑いんですか?」
「夏は暑いですが、これはまた種類が違います」
「種類?」
「日本はもっと湿度が高くて蒸すんですよ」
「それは嫌かもしれません」
「今のうちに覚悟してください」
ユーランが笑う。
「東京へ着く頃には、英国が恋しくなるかもしれないわよ」
「そんな」
エレノアも笑う。
三人は短い時間、港周辺を歩いた。
露店。
香辛料。
果物。
布。
陶器。
さまざまな言葉。
アラビア語。
英語。
フランス語。
聞いたことのない言葉。
そして、人の多さ。
エレノアは目を輝かせながら、何度も立ち止まった。
「エレノア」
ユーランが呼ぶ。
「迷子になりますよ」
「子供じゃありません」
「十六歳でしょう?」
「もう十六です」
「立派な子供ね」
「ユーランさん」
「はいはい」
ナルカミは二人のやり取りを見て笑った。
しばらくして。
三人は〈飛鳥〉へ戻った。
まだ夜ではない。
だが、空は急速に色を失い始めていた。
◇
日没後。
補給と点検を終えた〈飛鳥〉は、再び空へ浮かび上がった。
スエズの灯りが。
ゆっくり、ゆっくりと小さくなっていく
やがて船は、紅海へ向けて進路を取った。
夜。
エレノアは一人で廊下を歩いていた。
先ほどまでユーランとラウンジで話していたが、少し疲れたので部屋へ戻るところだった。
船内は静かだった。
壁の照明。
赤い絨毯。
胡桃材。
昼間と何も変わらない。
ただ、夜になると少し違って見える。
エレノアは歩く。
自分のブーツが絨毯を踏む足音がトス、トス、トスと小さく聞こえる。
その時。
もうひとつ。
とすっ。
……。
エレノアは足を止めた。
静かになる。
「……?」
振り返るが誰もいない。
長い廊下。
照明。
扉。
その向こうには客室。
当然だ、他の乗客なのだろう。
そう思い歩き出す。
とす、とす、とす
そして。
少し遅れて。
とすっ。
エレノアはまた止まった。
音も止まった。
「……」
胸が少し速くなる。
胸騒ぎがした。
寄宿学校で、あの少女を見つけた時も最初は、こんな風な音だけだった。
「……誰か、いますか?」
英語で呼びかける。
返事はない。
エレノアはしばらく待った。
やはり何もない。
「……気のせい?」
自分に言い聞かせる。
今日は歩き回った。
慣れない気候。
慣れない船。
疲れているのだ。
そう思って、もう一度歩き始める。
今度は足音はしなかった。
自室の前へ着く。
鍵を開ける。
扉を押す。
そして。
エレノアは止まった。
窓。
カーテン。
机。
寝台。
何も変わらない。
ただ、洗面台の上に置かれた小さな鏡。
そこに何かが映っていた。
「……?」
エレノアは振り返る。
背後には何もない。
鏡を見る。
自分の姿。
部屋。
それだけ。
「……」
近づき鏡面へ顔を寄せる。
何もない、疲れているのだろうか?
エレノアは息を吐いた。
その瞬間。
鏡の奥、自分の肩越しに、ほんの一瞬。
青黒い夜空のようなものが見えた。
「……!」
エレノアが勢いよく振り返る。
誰もいない。
もう一度鏡を見る。
普通の鏡。
自分の顔。
少し青ざめている。
「……何だったの?」
彼女の問いに答える者は誰もいない。
◇
同じ頃、貨物区画。
低い振動。
誰もいない。
索にしっかりと固定された荷物が並ぶ。
その中のひとつ。
林玉蘭の名札が付けられた木箱の中。
布に包まれた黒い鏡面が微かに揺れた。
幾つもの星のような光を映す。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
しかし、それらは、この世界の星座を形づくっていない。
そして、鏡の奥で何かが、こちらへ向きを変えた。




