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帝都令嬢怪異譚   作者: 宇賀神怪人
第二部 彷徨える飛鳥号
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15/26

第一章 空の旅人たち

搭乗橋を渡った瞬間、エレノア・スターリングは思わず足を止めた。


「……まあ」


 そこが飛行船の中だということを一瞬忘れた。


 外から見上げた〈飛鳥(あすか)〉は、銀灰色(ぎんかいしょく)の巨大な鯨だった。


 だが、その腹の中に待っていたものは、エレノアが想像していた機械だらけの無骨な空間とはまるで違っていた。


 床には深い赤を基調とした絨毯(じゅうたん)。


 壁面には艶を抑えた胡桃材が張られ、その間を真鍮(しんちゅう)の装飾が細く走っている。


 天井には乳白色の硝子を用いた照明が等間隔に並び、船内を柔らかな光で満たしていた。


 壁には日本の山水画らしき絵と、西洋風の風景画が交互に飾られている。


 まるで一流ホテル。


 いや、倫敦(ろんどん)でもこれほど豪華なホテルはそう多くない。


 そして、奇妙なことに。


 静かだった。


 もちろん無音ではない。


 船体の奥から、低い振動が僅かに伝わってくる。


 六基の巨大なディーゼル機関が始動の時を待っているのだろう。


 しかし、外で見た整備員や貨物車の喧騒は、分厚い船体に遮られ、すでに遠い世界の出来事のようになっていた。


「ミス・スターリングでいらっしゃいますね?」


 英語で声を掛けられた。


 エレノアは振り返る。


 そこには、一人の日本人女性が立っていた。


 二十代半ばほどだろうか。


 濃紺の上着と膝下まで届くスカート。胸元には白い襟。髪は後頭部で端正にまとめられている。


 航空会社の制服なのだろう。


 胸には金色の翼を模した小さな徽章が輝いていた。


「はい」


「ようこそ、〈飛鳥〉へ。特等客室までご案内いたします」


 流暢な英国英語だった。


 発音にわずかな癖はあるが、聞き取るのにはまったく問題なかった。


 エレノアは少し驚いた。


「英語がお上手なのですね」


 女性は微笑んだ。


「ありがとうございます。まだ倫敦の方には笑われることもございますけれど」


「いいえ。貴女より綺麗に話せる英国人は、そう多くありませんわ」


「それは買いかぶりでございます」


 控えめに笑いながら、彼女は軽く頭を下げた。


「客室係のチヨ・タカセと申します。航海中、何かございましたら遠慮なくお申し付けください」


「エレノア・スターリングです。よろしくお願いします」


 エレノアも頭を下げた。


 その動作を見て、タカセが少し目を丸くした。


「日本式のご挨拶をご存じなのですね」


「まだ、それくらいしか」


 エレノアは抱えていた日本語会話文法教本を少し持ち上げた。


「勉強中なんです」


「それは素晴らしいことです」


 タカセは心から嬉しそうに笑った。


「日本のことを知ろうとしていただいて、とても嬉しく思います」


 その言葉が、不思議と胸に残った。


 とても嬉しく思います。


 ただそれだけの言葉なのに。


 エレノアは少しだけ強めに教本を抱いた。



     ◇


 特等区画は、さらに驚くべき場所だった。


「……これは、本当に私一人の部屋ですか?」


「はい」


 タカセは当然のように答えた。


「こちらがミス・スターリングのお部屋でございます」


 エレノアは室内を見回した。


挿絵(By みてみん)


 広い。


 壁際には立派な寝台。


 その向かいには小さな書き物机。


 二脚の肘掛け椅子と、小ぶりながらティーテーブルまで置かれている。


 壁には小型の洋服箪笥(たんす)。


 その奥には鏡付きの専用の洗面台。


 そして何より、外壁側には大きな横長の窓があった。


 硝子越しにカーディントンの飛行場と、遥か遠くの英国の田園が見える。


 これはもう客室というより、小さなホテルの一室だった。


「……シャーロット様」


 思わず呟いた。


 百三十ポンド。


 改めて、その金額の意味が分かった気がした。


「お荷物はこちらへ運ばせます」


「ありがとうございます」


「離船まで、まだ少々お時間がございます。展望ラウンジもご利用いただけますので、よろしければ」


「展望ラウンジ?」


「はい。船首側にございます。離船時には、とても美しい景色をご覧いただけます」


 エレノアの表情を見て、タカセはくすりと笑った。


「皆様、最初は同じお顔をなさいます」


「そんなに分かりやすい顔をしていました?」


「少しだけ」


 エレノアは恥ずかしくなった。



     ◇



 展望ラウンジへ足を踏み入れて、エレノアはもう驚くのを諦めることにした。


 大きな窓。


 籐張り(とうばり)の椅子とソファ。


 読書用の書棚。


 英国、フランス、日本の新聞。


 チェス盤、カード卓。


 そして奥には小さなバーカウンターまで設けられている。


 すでに何人もの乗客が座り、紅茶や珈琲を手に談笑していた。


 英国人、日本人、フランス人らしい紳士、インド系の一家。


 そしてエレノアには出身地の分からない人々。


 世界中の人間が、一つの空飛ぶ船に乗っている。


 エレノアは窓際の席を腰を下ろした。


 テーブルに教本を広げる。


 まずは、日本語だ。


「オハヨウ……ゴザイ、マス」


 小声で読んでみる。


 難しい、英語とは口の使い方そのものが違う気がする。


 教本の余白を見る。


 シャーロットの文字。


『母音は曖昧にしないこと。英国人はすぐ呑み込みます』


「……ひどい」


 苦笑しながら、もう一度。


「オハヨウ、ゴザイマス」


 その時だった、低い唸りが船体を伝った。


 窓の外で、巨大なプロペラが一基、また一基と回転を始める。


「わ……」


 思わず立ち上がった、同時に船体がわずかに揺れた。

 

「あっ」


 肘が教本に当たり、ぱたんと床へ落ちた。


 拾おうと身を屈めるより早く、別の手がそれを取った。


挿絵(By みてみん)


「どうぞ」


 英語だった。


「ありがとうございます」


 顔を上げると東洋人の青年が立っていた。


 二十代半ば――いや、もう少し年長なのかもしれない。

 

 周囲の英国人男性と比べればいくらか小柄だが、すらりとして姿勢がいい。


 黒い髪、整った穏やかな顔立ち。


 服装は仕立ての良い英国風のスリーピース・スーツだが、特等、一等区画の乗客に見られるような華美さはない。


 彼は教本をエレノアへ返そうとして、教本の表紙の書き込みに目を止めた。


 ――Charlotte Hoshimori。


 小さな署名。


「失礼、星守伯爵夫人をご存じなのですか?」


 青年の言葉に、エレノアは今日何度も繰り返した驚きの表情を浮かべた。


「シャーロット様をご存じなのですか?」


「ええ」


 青年は微笑んだ。


「夫人や星守家の方々には色々とお世話になっています」


「まあ……」


 世界の反対側へ向かう飛行船の中でシャーロットを知っている日本人と偶然出会った。


 それだけで、急に青年が近しい存在に思えた。

 

「シュウイチロウ・ナルカミです」


 青年が名乗った。


「東京の帝国大学で民俗学を教えています」


「エレノア・スターリングです」


 エレノアは教本を受け取るとナルカミと握手を交わした。


「日本語を勉強されているのですか?」


「はい、留学するので、でも、とても難しくて」


「少し読んでみてもらえますか?」


「い、今ですか?」


「今です」


 思い切って教本を見る。


「ワタシ、ハ……エレノア……デス」


「十分通じます」


「本当に?」


「ただ――」


 秋一郎は少し考え、


「『わたし』の『し』を、もう少し軽くすると自然です」


 実際に発音してみせる。


 エレノアも真似る。


「わたし」


「そうです」


「わたし」


「かなり良くなりました」


 エレノアの顔が明るくなった。


「辞書より人間に聞いた方が早いでしょう?」


「ミスター・ナルカミ!ご迷惑でなければ、旅の間だけでも先生になっていただけませんか?」


 ナルカミはエレノアの言葉に少し気圧されながらも。


「…東京までは長い旅ですから。私でよければ、暇潰し程度に」


「ぜひ!」


 思わず身を乗り出した。


 秋一郎が少し目を丸くする。


 エレノアは我に返り、少し赤面すると。


「……お願いします」


 と座り直した。


「ええ。こちらこそ」


 ちょうどその時、窓の外で係留索が外された。


 船体が、ふわりと動く。


「……!」


 エレノアは窓へ駆け寄った。


 地面が、ゆっくりと遠ざかっていく。


 走り回る作業員、係留塔、巨大な格納庫。


 そのすべてが、少しずつ小さくなっていった。


 飛んでいる、いや、浮かんでいる。


 銀灰色の巨大な鯨が、本当に空へ昇っていく。


「すごい……」


 その隣に秋一郎も立った。


「私も最初はそう思いました」


「以前にも?」


「往路も〈飛鳥〉でした」


 エレノアは彼を見る。


「では、ロンドンへ?」


「ええ、学会です。ようやく帰れるところですよ」


「日本へ」


「ええ」


 秋一郎が眼下を見た。


「あなたにとっては、これから行く場所ですね」


 英国の大地が遠ざかっていく、生まれ育った国、そして息苦しかったあの寄宿学校も。


「ナルカミ先生」


「はい」


「日本は、どんなところですか?」


「一言で表現するのは難しいですね」


「綺麗ですか?」


「綺麗なところもあります」


「面白い?」


「退屈する暇はないと思いますよ」


「では、楽しみにしておきます」


 エレノアは微笑んだ。



     ◇ 



 その日の夕刻。


〈飛鳥〉が南仏マルセイユの上空を通過する頃、船内では晩餐(ディナー)の時間を迎えていた。


 食堂の大きな窓の向こうには、夕陽に染まる地中海と、複雑に入り組んだ海岸線が広がっている。


 エレノアは、日本語の先生役を引き受けてくれた礼として、二等客のナルカミを特等・一等客用の席へ招いていた。


「そこまでしていただかなくても」


 絶景を堪能できる窓際の席へ案内されたナルカミは、少し恐縮していた。


「先生への授業料です」


 とエレノアは微笑む。


 本心を言うと礼だけではない、見知らぬ人ばかりの食堂で一人で食事をするよりは、話し相手がいた方がずっと嬉しかった。


 席に座る二人。


 テーブルには白いテーブルクロス。


 その上には銀食器に磨き上げられたグラス、生花が飾られた漆器の筒が置かれている。


 そして静かに流れる弦楽器の演奏。


 まるで一流ホテルのレストランだった。


 給仕長から渡された献立表には、日本語と英語、それにフランス語が併記されている。


 今夜の献立には、


 ――東西の美味を結ぶ、飛鳥号初夜の晩餐。


 と記されていた。


 「ずいぶん豪華なんですね」


 同じ卓についたナルカミが献立を見る。


「飛鳥号は寄港地が多いですから」


「それが料理と?」


「新鮮な食材を補給しやすいんです。大型客船のように何週間分も積んでおく必要がない」


 給仕が前菜を置いた。


 「〈合鴨(あいがも)のロース煮 芹(せり)と黒トリュフの香り〉でございます。」


 薄く切られた合鴨。


 その上に芹。


 濃い褐色のソースから、エレノアにも馴染みのある香りがした。

 

「トリュフ……日本料理なのに?」


「日本人は昔から外国のものを取り入れるのが好きなんですよ」


 エレノアは用意されたナイフやフォークを使わず、黒塗りの箸(はし)を手にとった。

 

「……美味しい」


 知っている鴨。


 知っているトリュフ。


 でも味は知らない。


 甘さと塩気のある醤油という日本の調味料の風味が、思いのほか鴨によく合った。


挿絵(By みてみん)


 次に出てきたのは、箸と同じ黒塗りの蓋付き椀だった。


 「〈オマール海老の潮仕立て 柚子の香り〉でございます。」


 蓋を開けた瞬間。


 柑橘(かんきつ)の爽やかな香り。


「いい香り……」


「柚子ですね」


 中にはオマール海老。


 昆布という海藻と海老から取ったという澄んだスープ。


 エレノアは匙(スプーン)を探した。


 ナルカミが何も言わず、横の小さな黒塗りの匙をそっと指差す。

 

「ありがとう」


 エレノアは小声で礼をいった。


 続いて。


〈丸大根の含め煮 フォアグラ添え 白味噌ソース〉


 その上には黄金色に焼かれたフォアグラ。


 白味噌を使った滑らかなソース。


「これも日本料理?」


「大根も白味噌も使っていますから……少なくとも、日本料理の親戚ではあるのでしょうね。詳しくは料理長に訊かないと分かりませんが」


「逃げましたね?」


「民俗学の専門外です」


 ナルカミの返しにエレノアはくすっと笑う。


 口替わりには、生姜と檸檬(れもん)の氷菓(シャーベット)。


 そして、いよいよメインの魚料理。


 皿の中央に、美しく焼かれた白身魚が置かれた。


「北海産の鮃(ひらめ)だそうです」


「英国の?」


「そうです」


 エレノアが少し驚く。


 魚は日本式の若狭焼きにされ、その横には雲丹(うに)を使った黄金色のソース。


「英国の魚を、日本の料理人が日本料理にして、英国人の私が空の上で食べる」


「考えると妙ですね」


「とても」


 しかし問題はまだ使いこなせない箸だった。


 エレノアは箸を構えて鮃へ伸ばす。


 挟む。


 持ち上げる。


 落ちる。


 もう一度。


 落ちる。


 三度目。


 皿の上を滑った。


 「……」


 秋一郎は心配そうに小声で


 「フォークとナイフを使ってもいいんですよ」


 と囁くが。


 「いいえ」


 エレノアは真剣な表情で鮃を睨みつけていた。


 「もう少し挑戦させてください」


 その時だった。


「初心者が焼き魚を相手にするのは、無謀ではなくて?」

 

、横から女性の声がした。


 エレノアとナルカミは同時に振り向く。


 そこに立っていたのは、二十代後半ほどの東洋人女性だった。


 黒髪を端正に整え、ベージュの小ぶりな鐘形帽子(クロッシェ)を被っている。


 首元に覗くパールとスカーフはエレガントだが、彼女が身に纏っているのは欧州流のドレスではなく、上質なツイードのジャケットと、ゆったりとした仕立ての長ズボン(トラウザーズ)だった。


 美しい。


 だが、それ以上に印象に残るのは、その堂々とした立ち姿だった。


 周囲の視線を意識しているというより、どこにいても自然と自分の場所を作ってしまう――そんな雰囲気がある。


「失礼」


 女性は楽しそうに微笑んだ。


「先ほどから拝見していたのですけれど、あまりに真剣でしたので」


「そんなに酷いですか?」


「鮃を三度逃がしています」


「数えていらしたんですか?」


「商人ですもの。数字には細かいのです」


 あまりにもさらりと言われて、エレノアは思わず口を尖らせた。


 隣ではナルカミが、笑いを堪えるように口元へ手を当てている。


「先生」


「……申し訳ありません」


 女性もくすりと笑い、それから軽く頭を下げた。


「リン・ユーラン(林玉蘭)と申します」


 流暢(りゅうちょう)な英語だった。


 ただし発音には、英国ともフランスとも違う独特の響きがある。


「エレノア・スターリングです」


「シュウイチロウ・ナルカミです」


 ユーランはナルカミへ視線を移した。


「日本の方ですね」


「ええ」


「私は台湾です」


 その答えを聞いたナルカミは、改めて彼女を観察するように目を細めた。


「美術商か、服飾関係のお仕事ですか?」


 ユーランの眉が、わずかに上がった。


「あら。どうしてそう思ったの?」


「先ほど、ご自分で商人だと仰ったでしょう」


「ええ」


「それに、その装いや佇まいからして、美しいものを扱う仕事に見えました。ただ――」


 ナルカミは彼女の手元を見る。


「作る側の手には見えなかったので」


 ユーランも自分の指先へ視線を落とした。


「なるほど」


 そして、面白そうに笑う。


「民俗学者というのは、探偵まで兼ねるのですか?」


「ただの職業病です」


「嫌な病気ですね」


 少し間を置き、


「でも、頭の回転の速い殿方は嫌いでなくてよ」


 と付け加えた。


 エレノアが思わず笑う。


 ナルカミは苦笑した。


「ところで、どうして僕が民俗学者だと?」


 今度はユーランが、いかにも簡単なことだと言わんばかりに答えた。


「午前中、ラウンジでお二人が話しているのを聞いていたもの」


「……なるほど」


 ナルカミは素直に頷いた。


「こちらの推理より、よほど確実ですね」


「商売では、推理より情報の方が役に立ちますから」


 その返しに、ナルカミは今度こそ笑った。


 ユーランは空いている椅子へ目を向ける。


「食事はもう済ませたのですけれど、ご一緒しても?」


「もちろん」


 エレノアは笑顔で答えた。


 ユーランは席に着くと、通りかかった給仕に珈琲(コーヒー)を注文した。


「ナルカミ先生の推理は当たっています。古美術を扱っています。この数年は巴里(パリ)と上海、それから倫敦を行ったり来たり」


「随分と広い商圏ですね」


「良い物は、世界中どこにでもありますから」


 そんな会話をしているうちに、次の料理が運ばれてきた。


 今度は、小ぶりの漆器だった。


 蓋を開けると、湯気とともに香ばしい香りが立ち上る。


「これは……」


 エレノアが身を乗り出す。


 そこへ、ちょうど通りかかったタカセが足を止めた。


「スコットランド産の鮭とイクラを使った炊き込み御飯でございます」


「スコットランドの鮭?」


「はい。今朝、カーディントンへ届けられたものです」


 白い米の上には、ほぐした鮭と艶やかな橙色のイクラ。


 そこへ鮮やかな緑の葉が添えられている。


「この葉は?」


「三つ葉です」


 ナルカミが答えた。


「香草?」


「まあ、そんなところです」


「パセリみたいな?」


「日本人に聞かれると怒られるかもしれませんね」


 エレノアは楽しそうに笑った。


 隣には、もう一つ小さな蓋付き椀。


 中には、濁りのない澄んだ汁と白身魚の真薯(しんじょ)、椎茸。


 先ほどまでの濃厚な料理とは違い、見た目にも軽やかだった。


 そしてエレノアは、再び箸を手に取った。


 鮭。


 これは取れた。


「……!」


 小さく顔が明るくなる。


 次は米。


 箸を差し入れる。


 持ち上げる。


 ぱらり、と落ちる。


「……これは難しい」


「無理に一粒ずつ取ろうとしなくていいんですよ」


 ナルカミが助言する。


「こう、少しまとめるように」


 教えられた通りに試してみる。


 今度は、なんとか口まで運べた。


「出来ました」


「上達が早いですね」


 そして。


 エレノアの視線が、米の上で艶々と光る小さな橙色の粒へ向いた。


 ユーランがその視線に気づく。


「まさか」


 ナルカミも気づいた。


「それを箸で?」


「駄目ですか?」


「止めはしませんけれど」


 ナルカミは少し困った顔をした。


「今夜の中では、かなり難しい相手ですよ」


「なら、挑戦します」


 完全に真剣な顔だった。


 エレノアは箸を伸ばす。


 一粒のイクラを挟もうとする。


 ころり。


 逃げた。


「……」


 もう一度。


 ころり。


 また逃げる。


 ユーランは口元に手を当てながら、黙って見守っている。


 三度目。


 慎重に。


 箸先が小さな粒を捉える。


「……!」


 今度は落ちない。


 エレノアの顔がぱっと輝いた。


「取れました!」


 思わず声が大きくなった。


 ユーランが小さく拍手する。


「素晴らしいわ」


「馬鹿にしています?」


「まさか」


 ユーランは真面目な顔を作った。


「今夜、一番難しいものを攻略したのですもの」


 ナルカミも頷く。


「魚より難しかったでしょう?」


「ずっと」


 三人で笑った。


 気がつけば、エレノアはもう周囲の視線をほとんど気にしていなかった。


 見知らぬ人ばかりの食堂。


 遠く離れていく英国。


 それでも今、自分の前には話す相手が二人もいる。


 こんな楽しい晩餐は久し振りだった。


 食後には、宇治抹茶のムースが供された。


 深い緑色。


 その上には艶のある黒蜜。


 エレノアは匙で少し掬い、口へ運ぶ。


「……苦い」


「苦手ですか?」


 ナルカミが訊く。


「いいえ」


 もう一口。


 今度は黒蜜と一緒に。


 甘さと苦味が重なる。


「不思議です。でも……好きかもしれません」


 ナルカミが微笑む。


「日本へ行けば、もっと苦いものを飲まされますよ」


 エレノアは眉をひそめた。


「脅さないでください」


「事実を申し上げただけです」


「それを脅しと言うんです」


 ユーランが声を立てて笑う。


 窓の外では、夕陽に染まった地中海がゆっくりと後方へ流れていた。


 英国を離れてまだ一日も経っていない。


 けれどエレノアは、その時初めて。


 この旅は、案外楽しいものになるのかもしれない。


 そう思い始めていた。


      ◇


 食事が一段落した頃。


 隣の卓から、低い声が聞こえた。


「例の台湾人だ」


「巴里でずいぶん派手に買い漁っているという」


「東洋人の商人らしい話だ」


 声を潜めているつもりなのだろう。


 しかし、聞こえた。


 エレノアはそちらを見た。


 ユーランは平然としている。


 慣れているのだ。


 それが、かえってエレノアを不快にした。


「……気になさらないのですか?」


 思わず訊いた。


「何を?」


「今の」


「ああ」


 ユーランは珈琲の残った椀を見ながら答えた。


「売買の相手に嫌われるのは困りますが、見ず知らずの人間の陰口なんて問題になりません」


挿絵(By みてみん)


 随分強い人だ。


 エレノアは思った。


「それに」


 ユーランが顔を上げた。


「私は、安く買って高く売ることを恥だとは思っていません」


 ナルカミが彼女を見る。


「戦争でね、随分多くのものが失われました」


 玉蘭の声から笑みが少し消える。


「人も。建物も。そして美術品も」


 欧州大戦。


 その言葉を口にしなくても分かった。


「持ち主が死ぬ。家が焼ける。博物館が閉まる。収蔵品の記録さえなくなる」


 ユーランは静かに続けた。


「昨日まで国宝のように扱われていた品が、翌日には誰のものかすら分からなくなる」


「だから買うんですか?」


 エレノアが訊いた。


「ええ」


「守るために?」


「売るためです」


 あまりにも即答だったので、エレノアは瞬く。


 ユーランが笑う。


「私は慈善家ではありません。商人ですもの」


 そして、少しだけ表情を改めた。


「ただし、売る相手は選びます」


「……」


「美術館でも、蒐集家でも、富豪でも構わない。百年後まで残せる人間に売る」


 秋一郎が言った。


「それがリンさんの矜持(プライド)ですか?」


「そんなに立派なものではありません」


「でも」


 エレノアが口を開いた。


 二人が彼女を見る。


「百年後にも残りますね」


「何が?」


「リンさんが売ったものが」


 エレノアは微笑んだ。


「大切にしてくれる人のところへ行けば」


 ユーランはしばらく何も言わなかった。


 やがて。


「……あなた、商売人には向いていませんね」


「え?」


「褒めているのです」


「そうは聞こえませんけれど」


 三人はまた笑った。


 その時のエレノアには知る由もなかった。


 リン・ユーランが今回巴里で買い付けた品々の中に。


 彼女自身さえ、その本当の価値を知らないものが一つだけ混じっていたことを。



      ◇


 夜。


 エレノアは特等客室へ戻っていた。


 柔らかな寝間着に着替え、寝台の端に腰掛ける。


 今日は、あまりにも多くのことがあった。


 英国を離れた。


 空を飛んだ。


 シャーロットの知己である日本人民俗学者と出会い、日本語の先生になってくれた。


 台湾の美術商とも知り合った。


 そして。


 箸で小さなモノを挟めるようになった。


「……ふふ」


 一人で微笑む。


 思っていたよりずっと楽しい旅になるのかもしれない。


 窓の外。


 眼下には雲海。


 その上に星が瞬いている。


 寄宿学校から見上げていたものと同じ星のはずなのに。


 今夜は少し違って見えた。


 エレノアは窓辺に近づく。


 その時。


 ――――。


「……?」


 何かが聞こえた。


 振り返る。


 誰もいない。


 微かに低く響く六基の発動機。


 船体を伝わる微かな震動。


 換気口を流れる空気の音。


「……歌?」


 違う。


 歌というより。


 誰かが、とても遠くで声を重ねている。


 そんな感じだった。


 エレノアは耳を澄ませる。


 もう何も聞こえない。


「……疲れているのかしら」


 カーテンへ手を伸ばす。


 けれど。


 どうしてだろう。


 胸の奥が、ほんの少しだけざわついていた。


 嫌な感じではない。


 少なくとも、まだ。


 ただ。


 自分の知らない何かが。


 遥か遠くから。


 こちらを見ている――。


 そんな気がした。


     ◇


 同じ頃。


 乗客たち過ごす客室区画から遠く離れた貨物区画。


 幾つもの木箱が、固定索によって床へ厳重に括りつけられていた。


 巴里。


 倫敦。


 東京。


 上海。


 世界各地へ運ばれる商品。


 その中に、一つ。


 リン・ユーランの所有物を示す札が付けられた古い木箱があった。


 内部には幾重もの布と木枠。


 その奥。


 黒ずんだ青銅で作られた、一面の鏡。


 古びている。


 だが、不思議なほど傷がない。


 鏡面は黒く沈み、周囲のわずかな光さえ吸い込んでいるように見えた。


 誰もいない貨物室。


 低く響く発動機の振動。


 固定索が、かすかに軋む。


 その時。


 鏡面の奥で。


 何かが揺れた。


 光ではない。


 影でもない。


 ただ一瞬。


 そこにあるはずのない、遠い星空のようなものが浮かび――


 すぐに消えた。


 あとには。


 黒い鏡面だけが残った。


 〈飛鳥〉は東へ飛び続ける。


 何も知らぬまま。


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