プロローグ エレノア・スターリング
一九二〇年、初夏。
倫敦の喧騒を離れて一時間半。
汽車がベッドフォードシャーの平原へ入ると、車窓の向こうに、まるで巨人の棲家のような二つの影が姿を現した。
カーディントン飛行船発着場の巨大格納庫である。
そして、その傍ら。
朝靄の中に、途方もない巨体が浮かんでいた。
汽車から降りたエレノア・スターリングは、それを見上げて思わず息を呑んだ。
腰近くまで流れる淡い金色の髪を濃紺のリボンで飾り、透き通るような青い瞳をしている。
色白の可憐な顔立ちはまだ少女らしい柔らかさを残していたが、
ふとした瞬間に見せる物静かな眼差しには、歳には似つかわしくない陰が差していた。
「……大きい」
口から漏れた言葉は、あまりにも月並みだった。
だが、それ以外の感想を思いつけなかった。
銀灰色の巨体が、朝の空を半ば覆い隠している。
全長二百五十五メートル。
日本帝国航空が誇る超大型旅客飛行船――〈飛鳥〉。
その流線型の船体は、地上に係留されているにもかかわらず、今にも大空へ泳ぎ出しそうな巨大な鯨を思わせた。
恐ろしいほど大きい。
けれど、不思議と胸が躍った。
係留塔の周囲では、日英双方の整備員が忙しく行き交っている。
燃料車。
郵便袋。
木箱に収められた貨物。
華やかな衣装に身を包んだ乗客。
彼らを見送る家族や使用人たち。
英語と日本語、それに聞き慣れない言葉までが飛び交い、巨大な飛行船の足元は、一つの港町のような賑わいを見せていた。
エレノアは、手にした小さな鞄の取っ手を握り直した。
「お嬢様」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、幼い頃から彼女の身の回りを世話してきた侍女が立っていた。
いつもなら何事にも動じない彼女が、今日は落ち着かない様子で、乱れてもいない金髪を整え紺色のリボンの位置をもう一度直した。
「本当に……お一人で行かれるのですね」
「一人ではありませんわ。百人も乗るそうですもの」
「そういう意味ではございません」
すぐに返され、エレノアは困ったように笑った。
「分かっています」
日本。
地図を広げなければ、その場所すら正確には指し示せないほど遠い国。
そこへ、自分はこれから向かう。
船なら何週間もかかる距離を、この飛行船なら一週間あまりで越えてしまうという。
それでも。
遠い。
あまりにも遠かった。
「トウキョウへ着けば、シャーロット様のお家の方々が迎えてくださると伺っております」
「ええ」
「それから、ゴホウインというお家の方も」
「はい」
「困ったことがあれば、必ず周囲の方に相談してくださいませ。ご自分だけで何とかしようなどとは――」
そこまで言って、侍女は言葉を止めた。
エレノアも黙った。
二人の間に、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
侍女の視線が、エレノアの左手へ向かった。
今は白い手袋に覆われているその手。
一年前。
まだ消えきらない傷を包帯で隠していた手。
誰も口にはしなかった。
けれど二人とも、同じことを思い出していた。
誰もいない礼拝堂。
割れた窓。
床に散った硝子。
頬と制服に血を滲ませながら、誰もいない場所へ向かって、泣きながら語りかけていた少女。
そして、その後に女学校内でつけられた綽名。
――血塗れのエレノア。
エレノアは目を伏せた。
「……もう、無茶はしません」
侍女は何も言わなかった。
ただ、その表情だけで、まるで信用していないことが分かった。
エレノアは少しだけ頬を膨らませる。
「本当です」
「でしたら、結構でございます」
侍女はようやく微笑んだ。
けれど、その目元は少し赤かった。
「ただ……」
「はい?」
「お嬢様がお見えになるものを、私には見ることができません」
「……」
「寮で生活されていたお嬢様に、何もして差し上げられませんでした」
「そんなこと――」
「ですが」
侍女は、エレノアの両手を包むように握った。
「日本には、見える方々がいらっしゃるのでしょう?」
エレノアは静かに頷いた。
シャーロットは、そう言っていた。
――日本にね。
初めてその話を聞いた日のことを、今でもよく覚えている。
遠縁の親類として屋敷を訪れた、美しい婦人。
英国人でありながら、今は遠い日本で伯爵夫人として暮らしている人。
そして何より。
エレノアが語ったことを、信じてくれた人。
『その子は、最後、笑っていましたか?』
そう尋ねられた時、エレノアは何も答えられなかった。
否定されると思ったからだ。
けれどシャーロットは、ただ微笑んだ。
『私にも、貴女と同じものが見えるのよ』
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
自分だけではなかった。
この世界には、自分と同じものを見ている人がいる。
そしてシャーロットは教えてくれた。
日本には、エレノアのような少女たちが学ぶ女学校があるのだと。
力を隠すためでも。
忘れるためでもなく。
正しく知り、正しく使うために学ぶ場所が。
「これを」
侍女の声で、エレノアの回想が中断される。
差し出されたのは、一冊の分厚い本だった。
「あ……」
日本語会話文法教本。
革張りの表紙はまだ新しいが、中を開けば、余白という余白が細かな文字で埋め尽くされている。
シャーロットの書き込みだった。
発音。
日本で使う挨拶。
英国人には分かりにくい言葉。
時には、
『これは主人がよく使いますが、少々古風です』
とか、
『ルナは幼い頃、この言葉をずっと間違えていました』
などという、辞書とは思えない書き込みまである。
療養中のエレノアが旅立つ前に少しでも日本語に親しめるよう、シャーロットが送ってくれたものだった。
「そうね。飛行船の中でも勉強しないと」
エレノアは教科書を胸に抱き、微笑んだ。
「特等客室も、シャーロット様がお手配になったとか」
「それは……少し申し訳ない気もします」
特等客室の運賃は百三十ポンド。
裕福なスターリング家とて、気軽に払える金額ではない。
それを当然のように用意してしまったシャーロットには、さすがのエレノアも驚かされた。
「手配なさった時には、『十五歳の娘を地球の反対側まで送り出すのですから、これくらいは当然です』と仰っておられました」
「……先月、十六になりました」
「私にとっては同じことでございます」
「ひどい」
二人は笑った。
その時、搭乗を知らせる鐘が鳴った。
周囲が、少しずつ慌ただしくなっていく。
エレノアは巨大な〈飛鳥〉を見上げた。
これに乗れば、もう戻れない。
少なくとも、すぐには。
胸の奥に、小さな恐怖があった。
けれど同時に。
ほんの少しだけ、楽しみでもあった。
自分を知らない人々。
自分がまだ知らない国。
そして。
自分と同じものを見る少女たち。
「行ってまいります」
エレノアは言った。
侍女は深々と頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
エレノアは歩き出した。
数歩進んで、振り返る。
侍女はまだそこにいた。
だから、もう一度だけ手を振った。
それから今度こそ、前を向く。
搭乗橋の先。
銀灰色の巨体に開いた入口が、彼女を待っていた。
後に〈飛鳥号事件〉と呼ばれる出来事まで、あと幾日か。
この時のエレノアは、まだ知らなかった。
日本へ向かうその旅の途中で。
再び――
自分の秘められた異能と向き合うことになることを。




