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【完結】脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章4】冬を待つ王国

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【閑章4】第10話 冬支度


 朝の訓練場には、まだ薄い霜が残っていた。


 メルキアはヴェルミニア海に面した街だが、秋が深まるにつれて北から吹き込む風が冷たくなり、朝晩には冬の気配を感じるようになっていた。海に近いせいか、空気にはいつも湿り気があり、日中に多少気温が上がっても、日陰の地面はなかなか乾かない。夜になれば再び冷え込み、今朝も訓練場の隅には薄く氷の張った水たまりができていた。


 私は外套の襟を合わせ、白い息を吐きながら訓練中の魔法騎士たちを見守っていた。


 王軍がメルキアへ撤退してから、魔法騎士団は通常の訓練に加え、一般の歩兵部隊と連携する訓練を続けている。即応予備隊にも団員を派遣しており、敵の襲撃があれば短時間で出動できる態勢を整えていた。ザクセンブルクから新たな増援が到着したこともあり、司令部からは警戒を緩めないよう指示が出ている。


 ただ、これから冬を迎えるとなれば、これまでと同じ訓練を続けられるとは限らない。寒さは兵士の動きを鈍らせるだけでなく、装備の状態や体調にも影響する。特にメルキアのような湿った土地では、濡れた衣服や靴を十分に乾かせないことが、思いがけない問題につながるのだった。


「そこ、足元に気をつけなさい。地面が滑りやすくなっているわ」


 私は模擬戦を行っていた二人の騎士へ声をかけた。


 片方の騎士が踏み込んだ際、靴底が湿った地面でわずかに滑ったのが見えた。本人はすぐに姿勢を立て直したが、実戦で同じことが起これば、相手に隙を与えることになる。相手が魔法を使う敵であれば、ほんの一瞬の遅れが致命的な結果につながるかもしれない。


 訓練を再開させようとしたところで、別の若い騎士が手袋を外していることに気づいた。彼は何度か剣の柄を握り直した後、素手で持った方が扱いやすいと判断したらしく、外した手袋を腰帯へ挟んでいる。


「あなた、どうして手袋を外しているの?」


「申し訳ありません、団長。手袋が湿ってしまいまして、このままだと剣の柄が滑るんです」


 騎士は外した手袋を見せた。革の表面は黒ずみ、指先には水が染み込んでいる。昨夜の警備で濡れたものを十分に乾かせないまま、今朝の訓練に使っていたらしい。


「替えはないの?」


「以前のものは縫い目が破れてしまって、修繕に出しています」


「それなら、補給担当に交換できるものがないか確認してきなさい。素手で訓練を続ける必要はないわ」


「はい!」


 騎士を送り出した後、私は近くにいた副官を呼んだ。


「手袋の不足について、ほかの部隊からも報告は来ている?」


「はい。特に夜間警備を担当している部隊から、替えの手袋が足りないという声が上がっています。外套や靴についても、修繕が追いついていないようです」


「そう。乾かす場所はどうなっているの?」


「兵舎の暖炉を使っていますが、全員分を一度に乾かすことはできません。薪の使用量も増えていますので、補給担当から節約するよう言われています」


 私は訓練場を見渡した。


 兵士たちはそれぞれ外套や手袋を身につけているものの、装備の状態にはかなり差があった。王都から撤退する際に持ち出せたものを使い続けている者も多く、破れた箇所を自分で縫い合わせている姿も珍しくない。新しい装備が十分に支給されない以上、今あるものをできるだけ長く使うしかなかった。


 寒さに耐えるだけなら、多少傷んだ外套でも役には立つ。しかし、濡れた手袋で武器を握れば滑りやすくなり、靴が傷んでいれば長時間の行軍に支障が出る。さらに、濡れた装備を使い続ければ体温を奪われ、警備を終えた兵士が体調を崩すことも考えられた。冬の装備は、単に兵士を暖かくするためだけのものではない。


「各部隊に、防寒具と寝具の状態を確認するよう伝えて。足りない数だけじゃなく、修繕すれば使えるものも分けて報告してほしいの」


「承知しました」


「それから、濡れた装備を乾かす場所についても調べておいて。薪を増やせば済む話ではなさそうだから」


 副官は頷き、担当者へ指示を伝えるために歩いていった。


 私は再び訓練場へ目を向けた。騎士たちは模擬戦を再開していたが、先ほど滑った場所を避けるように動いている。今のうちに訓練方法を見直しておかなければ、本格的な冬を迎えた頃には、訓練そのものが兵士たちの負担になってしまうだろう。


     *


 午前中、私は補給担当者から各部隊の装備状況について報告を受けた。


 予想していたとおり、防寒具の不足は魔法騎士団だけの問題ではなかった。一般の歩兵部隊でも手袋や外套の傷みが目立ち、靴の修繕に必要な革や糸も不足し始めている。さらに、毛布や寝具については、王都からの撤退時に失われた分を十分に補充できていなかった。


 特に問題になっているのは、最近になって配置を変更した即応予備隊だった。


「新しい待機地点については、どうなっているの?」


 私が尋ねると、補給担当者は別の書類を広げた。


「既存の兵舎を利用できる場所については、大きな問題はありません。ただ、一部の待機地点では宿営施設の整備が必要になります。寝具と暖房用の燃料について、追加の手配をお願いしたいところです」


 ザクセンブルクからの増援が確認されたことで、王軍は即応予備隊の配置を見直していた。敵軍が複数の場所で攻撃を仕掛けてきた場合に備え、部隊を移動しやすい場所へ置くためである。


 しかし、兵士を移動させれば、それに合わせて食料や寝具も運ばなければならない。新しい待機地点に十分な設備がなければ、兵士たちは寒さの中で休息を取ることになる。即応予備隊は、敵の動きに応じてすぐに出動できなければ意味がないが、そのためには待機中の体調管理も重要だった。


「夜間の警戒に出る部隊を優先しましょう。手袋や靴が傷んでいると、任務そのものに支障が出るわ」


「承知しました。毛布についてはいかがいたしましょうか」


「まずは宿営施設が整っていない部隊へ回して。既存の兵舎を使える部隊については、現在の寝具の状態を確認してから判断しましょう」


 私は書類に目を通しながら、修繕可能な装備についても確認した。


 新しい外套を一着用意するより、破れた部分を繕う方が少ない材料で済む場合もある。靴についても、底を交換すれば使い続けられるものがあった。もちろん、修繕するためには職人と材料が必要になるが、すべてを新しく調達するよりは現実的だった。


「修繕担当の人数は足りている?」


「現在の人数では、依頼されたものをすべて処理するまでにかなり時間がかかります」


「なら、急ぐものを先に分けて。夜間警備に必要な装備と、通常の訓練で使うものでは優先順位が違うでしょう」


 補給担当者は頷き、書類に印を付けていった。


 魔法を使えば、濡れた衣服を乾かしたり、狭い場所を一時的に暖めたりすることはできる。しかし、それを日常的に行うには魔導士を配置しなければならず、魔力の消耗も無視できない。魔法兵団には警戒や治療、戦闘に備える役割があり、すべての兵舎の暖房を任せるわけにはいかなかった。


 仮に魔法で暖房を補ったとしても、兵士が身につける手袋や靴が必要なくなるわけではない。冬の間、何日も何週間も警備を続けるには、普通の装備を整え、濡れたものを乾かし、傷んだものを修繕する仕組みが必要だった。


 私は不足品の一覧をまとめ、司令部へ提出するよう担当者へ指示した。フェルディナント殿下が進めている物資の調達にも関わるため、必要な数量だけでなく、いつまでに用意しなければならないのかも記載するよう求めた。


     *


 昼過ぎ、私は市街地に設けられた避難民の収容施設を訪れた。


 軍の冬支度を進めるにあたり、民間の状況も確認しておきたかったからだ。メルキアには王都や南方の村々から多くの人々が逃れてきており、宿屋や倉庫、使われていなかった建物などが臨時の収容施設として利用されている。


 私が訪れた建物も、以前は商人の荷物を保管する倉庫だったという。


 内部には木製の仕切りが設けられ、家族ごとに寝床が割り当てられていた。床には藁を敷き、その上に毛布や布を重ねている。建物の中央には暖炉があったが、広い室内全体を暖めるには十分ではなく、窓や扉の隙間から冷たい風が入り込んでいた。


 人が多いため、昼間の室内にはそれなりの暖かさがあった。しかし、夜になれば気温が下がり、暖炉から離れた場所では寒さが厳しくなるという。湿った衣服を乾かす場所も足りず、洗濯した布を室内へ吊るしているため、空気には独特の湿り気がこもっていた。


「団長様、わざわざお越しいただきありがとうございます」


 施設の管理者が頭を下げた。


「こちらこそ、忙しいところ申し訳ないわ。冬支度の状況を確認させてもらいたいの」


「はい。できる限りの準備は進めておりますが、なかなか思うようにはいきません」


 管理者に案内され、私は建物の中を歩いた。


 子供を抱いた母親や、毛布にくるまって休んでいる老人の姿がある。避難してきた人々の中には、十分な衣服を持たずにメルキアへ到着した者も多く、現在は寄付された衣服や古い毛布を分け合って使っているという。


 子供たちは建物の片隅で遊んでいたが、床が冷たいせいか、靴を履いたままの者もいた。寝床の周囲には荷物が積まれ、家族が持ち込めたわずかな生活用品が並んでいる。長く暮らすことを前提とした場所ではないのに、ここで冬を越さなければならない人々がいるのだった。


「一番困っているのは、やはり薪でしょうか」


「そうですね。今はまだ暖炉の火を小さくしても何とかなりますが、もっと寒くなればそうもいきません。病人や小さな子供もおりますので、夜間に火を絶やすわけにもいかず……」


 管理者は申し訳なさそうに答えた。


 食料についても、穀物や豆類を中心とした配給は続いているものの、野菜や肉などは十分に行き渡っていないらしい。保存の利く食料を優先しているため、食事の内容も単調になりがちだという。今のところ配給が途絶えているわけではないが、冬が深まれば食料の調達も難しくなるのではないかと、管理者は心配していた。


「建物の補修はできないの?」


「窓の隙間を塞ぐ作業は始めています。ただ、木材や布が足りませんし、作業できる者も限られております」


 私は窓の周囲を確認した。


 古い木枠には隙間があり、外からの風が入り込んでいる。これでは、いくら薪を燃やしても暖かい空気が逃げてしまうだろう。窓だけでなく、扉の下にも隙間があり、そこから冷たい風が床を這うように流れ込んでいた。


「必要な材料と作業人数をまとめてもらえる? 民政担当の方へ相談してみるわ」


「ありがとうございます。ただ、軍の方でも物資が不足していると聞いております。私どものために無理をなさる必要は……」


「軍も市民も、同じ街で冬を迎えるのよ。どちらかだけが暖かく過ごせればいいという話ではないでしょう」


 そう答えながらも、私は軍の物資を勝手に回すわけにはいかないことを理解していた。


 南方の防衛線では、兵士たちが昼夜を問わず警戒を続けている。彼らが寒さで体調を崩せば、街を守る力そのものが弱くなってしまう。避難民のために薪を確保することも、兵士の宿営地を暖めることも、どちらも必要な仕事だった。


 私は施設の管理者から不足している物資を聞き取り、民政担当者へ報告することを約束した。帰り際には、暖炉から離れた寝床の様子も確認し、特に寒さの影響を受けやすい人々がどこで休んでいるのかを記録しておいた。


     *


 その日の午後、王宮では冬季物資の調整会議が開かれた。


 出席したのはアルフォンスをはじめ、軍の補給担当者、民政担当者、そして私を含む関係者たちだった。


 会議室の机には、各部署から提出された物資の一覧が並べられている。食料、薪、木炭、防寒具、寝具、修繕用の材料など、必要なものは多岐にわたっていた。軍と民間では用途が異なるものもあるが、薪や木材、布などは同じ調達先から確保しなければならず、互いの需要が重なっている。


「現状、最も調整が難しいのは燃料です」


 民政担当者が説明を始めた。


「避難民の収容施設では暖房用の薪が不足しています。一方、軍の宿営地からも追加の要請が来ており、現在の備蓄だけでは双方の希望を満たすことができません」


 軍の補給担当者も頷いた。


「夜間警備を担当する部隊では、濡れた装備を乾かすためにも燃料が必要です。暖房を減らしすぎれば、兵士の体調にも影響が出ます」


「市街地でも同じです。特に病人や高齢者のいる施設では、夜間の暖房を止めるわけにはいきません」


 双方の説明を聞いていたアルフォンスが、机の上の書類を整理した。


「必要な量をすべて確保できればよいのですが、現在の財政と輸送状況では難しいでしょう。まずは、どこへ優先的に配分するかを決めなければなりません」


 私は午前中に確認した兵舎の状況と、昼過ぎに訪れた収容施設の様子を説明した。


「軍の方では、夜間警備や斥候任務に必要な防寒具を優先することにしました。燃料についても、すべての宿営地で同じ量を使うのではなく、乾燥設備を共同で利用できないか検討しています」


「なるほど。使用する場所をまとめれば、燃料の消費を抑えられる可能性がありますね」


 アルフォンスが頷いた。


「それと、市街地の収容施設についてですが、建物の隙間風がかなりひどい状態でした。薪を増やすだけでなく、窓や扉を補修して、必要な燃料そのものを減らす方法も考えるべきだと思います」


 民政担当者が顔を上げた。


「確かに、補修用の材料を確保できれば、暖房の効率は改善するはずです。ただ、作業を行う職人が不足しております」


「軍の修繕担当者も余裕があるわけではありませんが、作業内容によっては協力できるかもしれません。すべてを専門の職人に任せなくても、簡単な隙間塞ぎなら手伝える兵士もいるでしょう」


 私はそう提案した。


 もちろん、兵士たちには本来の任務があるため、無制限に作業へ動員するわけにはいかない。しかし、警備や訓練に支障が出ない範囲であれば、協力できる余地はあるはずだった。避難民の中にも大工や職人だった者がいると聞いているので、そうした人々と連携できれば、作業を進めやすくなるだろう。


「では、まずは補修が必要な施設を調べ、必要な材料と作業人数を確認しましょう」


 アルフォンスは民政担当者へ指示を出した。


「燃料については、病人や負傷者を収容する施設、夜間の警備拠点など、暖房を欠かせない場所を優先します。それ以外については使用量を見直し、共同利用できる設備がないか検討してください」


 続いて、薪や木炭の調達についても話し合われた。


 メルキア周辺の森林から切り出せる木材には限りがあり、冬が深まれば伐採や輸送も難しくなる。大公国との交易によって追加調達する案も出されたが、食料と同様に購入費用と輸送手段を確保しなければならなかった。


「大公国との交易は、現在の王国にとって重要な補給手段です。しかし、向こうにも必要な物資がありますから、こちらの希望どおりに購入できるとは限りません」


 アルフォンスはそう説明した。


「冬を越すためには、調達を増やす努力と同時に、今ある物資を無駄にしないことも必要です。各部署で使用量を確認し、次回の会議までに改善できる点をまとめてください」


 会議はその方針でまとまり、担当者たちはそれぞれの部署へ戻っていった。


 私は提出された一覧を見直し、軍の修繕担当者に確認する項目を整理した。兵士の装備を直す仕事を止めるわけにはいかないが、民間の職人と作業を分担できれば、双方の負担を減らせる可能性がある。必要なのは、限られた人員を奪い合うことではなく、どの仕事を誰が担当するのが最も効率的なのかを考えることだった。


     *


 夕方、私は追加の報告書を届けるため、アルフォンスの執務室を訪れた。


 扉を叩いて中へ入ると、彼はいつものように机へ向かい、書類を読んでいた。窓の外はすでに薄暗くなっていたが、室内の暖炉には小さな火が残っているだけで、思ったよりも寒い。


「あなた、ここ寒くないの?」


 私が尋ねると、アルフォンスは書類から顔を上げた。


「少し寒いが、外ほどではないな」


「そういう問題じゃないでしょう。暖炉の薪、ずいぶん少ないじゃない」


「節約しているんだ。今日の会議でも燃料の不足が問題になっていただろう」


「だからって、あなたの部屋まで寒くする必要があるの?」


「執務室にいるのは私だけだからな。多少寒くても仕事はできる」


 私は呆れてため息をついた。


「それで風邪をひいたら、仕事が増えるのは誰だと思ってるの?」


「君だろうな」


「分かってるなら、もう少し自分を大事にしなさいよ」


 アルフォンスは苦笑し、手元の書類を閉じた。


「君も相変わらず厳しいな」


「昔からでしょう。それより、昼食はちゃんと食べたの?」


「食べたとも」


「何を?」


「パンだ」


「何個?」


「一つだが」


「それを食事って言い張るの、そろそろやめない?」


 私がそう言うと、彼は困ったように笑った。


 以前も同じようなやり取りをした覚えがある。王都にいた頃から、アルフォンスは仕事に集中すると食事を後回しにする癖があった。私が何度注意しても、本人は大して気にしていない。


「まったく、昔から変わらないんだから」


「君だって、訓練に夢中になると食事を忘れていただろう」


「それは若い頃の話よ」


「そうだったかな」


「そうよ。少なくとも今は、あなたよりまともに食べてるわ」


 アルフォンスは笑いながら立ち上がり、暖炉へ薪を一本追加した。


 火が少し大きくなると、室内に柔らかな暖かさが広がり始めた。私は外套を脱ぎ、暖炉の近くに置かれた椅子へ腰を下ろした。


「今日の会議、どう思った?」


 私が尋ねると、アルフォンスは向かいの椅子に座った。


「難しい問題だな。王都にいた頃なら、冬支度のためにここまで頭を悩ませることはなかった」


「王都には各地から物資が集まっていたものね」


「ああ。各領地から納められる税や備蓄を利用できたし、不足するものがあれば別の地域から運ぶこともできた。だが今は、メルキアとその周辺だけで王国を支えなければならない」


 アルフォンスは暖炉の火へ目を向けた。


「大公国との交易があるとはいえ、購入には金が必要だ。海からの物資も入ってくるが、以前のように王国全土の資源を使えるわけではない。何かを優先すれば、別の何かを後回しにしなければならなくなる」


 私は頷いた。


 軍でも同じことが起きている。新しい装備を必要とする兵士がいても、すべてに行き渡るだけの物資はない。修繕して使い続けられるものは修繕し、どうしても必要な場所から順番に配るしかなかった。


「今日、避難民の収容施設を見てきたの」


「どうだった?」


「思っていた以上に寒かったわ。窓から風が入ってくるし、寝具も十分じゃない。小さな子供やお年寄りもいるのに、薪まで不足しているのよ」


 私は昼間に見た光景を思い出した。


 毛布にくるまって休んでいた老人や、冷たい床の上で遊んでいた子供たち。彼らは戦争から逃れてきた人々であり、今も帰る場所を失ったまま暮らしている。軍の任務を優先しなければならないことは理解しているが、あの光景を見てしまうと、簡単に割り切ることはできなかった。


「でも、軍の方だって余裕がないでしょう。夜間警備の兵士たちに寒さを我慢させるわけにもいかないし、どちらを優先すればいいのか、考えてしまったわ」


 アルフォンスはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「すべてを十分に満たせるなら、それが一番いい。だが、今の我々にはそれだけの余裕がない。だからこそ、何を優先するかを決めなければならないんだろう」


「分かってはいるのよ。でも、実際に寒そうにしている人たちを見るとね」


「君がそう感じるのは当然だ。だからといって、軍の物資をすべて渡してしまえば、今度は街を守る兵士たちが困ることになる」


「ええ。だから、まずは建物の補修から始めようと思ってる。薪を増やせなくても、隙間風を防げれば少しは違うはずだから」


「それがいいと思う。明日、民政担当から必要な材料の報告が来る予定だ。調達できるものから手配しよう」


 私は頷き、暖炉の火へ目を向けた。


 アルフォンスはいつも、こうして私の話を最後まで聞いてくれる。無理に励ますことも、簡単に解決できると言うこともない。ただ、できることとできないことを整理し、一緒に考えてくれる。


 長い付き合いの中で、私たちは何度も似たような話をしてきた。王都にいた頃も、戦場に出ていた頃も、立場が変われば悩みの内容も変わったが、こうして顔を合わせて話す時間は変わらなかった。


「そういえば、君も今日は忙しかったんじゃないか?」


 アルフォンスが尋ねた。


「ええ。朝から訓練場を見て、補給担当と話して、避難民の施設を回って、それから会議だったもの」


「それなら、君も早く休んだ方がいい」


「あなたに言われたくないわね」


「それはそうだな」


 二人で笑った後、私は机の上に置かれていた水差しへ手を伸ばした。飲み物を用意しようとすると、アルフォンスが立ち上がり、暖炉の近くに置かれた小さな鍋を取ってくれた。


「君は座っていてくれ。私が用意しよう」


「珍しいわね。明日は雪でも降るのかしら」


「冬が近いんだから、降ってもおかしくないだろう」


「そういう意味じゃないわよ」


 彼は笑いながら温かい飲み物を用意し、私にも一杯渡してくれた。


 私たちはしばらく暖炉の前で飲み物を口にしながら、仕事とは関係のない話をした。王都にいた頃の知人のことや、昔の訓練で起きた失敗のことなど、今となっては笑って話せる思い出ばかりだった。


 こうして二人で過ごす時間は、最近では以前より少なくなっている。王都を失い、メルキアへ撤退してからは、互いに仕事が増え、顔を合わせても軍議や報告の話ばかりだった。それでも、少しの時間があれば昔と同じように話せることが、私にはありがたかった。


 やがて飲み物がなくなる頃、私は椅子から立ち上がった。


「さて、そろそろ戻るわ。明日も朝から訓練があるから」


「ああ。気をつけて帰ってくれ」


「あなたも、今日はちゃんと食事を取ってから休むのよ」


「分かったよ」


「本当に?」


「約束する」


 私は彼の返事を聞いてから外套を羽織り、執務室を後にした。


     *


 翌日、私は市街地の共同作業場を訪れた。


 そこでは、避難民や市民たちが冬支度のための作業を進めていた。広い室内にはいくつもの作業台が並べられ、古い衣服を仕立て直す者や、破れた靴を修繕する職人たちが忙しく手を動かしている。


 女性たちの一団は、傷んだ外套をほどいて子供用の防寒着を作っていた。別の場所では、古い毛布の破れた部分を縫い合わせ、まだ使えるように修繕している。作業台の周囲には布の切れ端や糸巻きが置かれ、使える材料を少しでも無駄にしないよう工夫している様子がうかがえた。


「ずいぶん賑やかね」


 私が声をかけると、作業場を管理している女性が笑顔で振り返った。


「団長様。皆、冬が来る前に少しでも準備を進めようと頑張っているんですよ」


「軍の装備も修繕してもらっていると聞いたけれど」


「はい。手袋や外套など、簡単なものはこちらでも引き受けています。ただ、革を扱うものは専門の職人でないと難しいので、そちらは別にお願いしています」


 私は作業台の上に並べられた手袋を見た。


 どれも使い込まれたものばかりだったが、破れた縫い目を直し、傷んだ部分に革を当てることで、再び使える状態に戻されていた。新しい手袋ほど丈夫ではないかもしれないが、少なくとも濡れたままのものを使い続けるよりはずっといい。


「こうして直してもらえると助かるわ。新しいものを用意するより、ずっと早いもの」


「私たちも、できることがあるなら手伝いたいですから。兵士さんたちには街を守ってもらっていますしね」


 女性はそう言って、再び作業へ戻った。


 私は作業場の奥へ進み、窓の隙間を塞ぐための布や木片を準備している人々にも声をかけた。避難民の中には、大工や家具職人だった者もおり、建物の補修に協力しているという。元々の仕事を続けられなくなった人々も、ここでは自分の技術を役立てることができていた。


 その中に、古い外套を丁寧に縫い直している年配の女性がいた。


「こんにちは。作業の邪魔をしてしまってごめんなさいね」


「いいえ、団長様。こんなところまで来てくださるなんて、ありがたいことです」


 女性は針を置き、穏やかに笑った。


「冬支度は順調?」


「順調と言えるほどではありませんけど、皆で少しずつ進めていますよ。昔は村でも、この時期になると毎日忙しかったものです」


「村では、どんな準備をしていたの?」


「薪を積んで、食料を保存して、屋根や窓を直してね。雪が降り始める前に済ませなきゃいけないことが山ほどありました」


 女性は懐かしそうに話した。


「でも、今年は勝手が違いますね。家も畑も置いてきてしまいましたから、何をするにも人様のお世話にならなきゃいけない」


「そんなことはないわ。こうして皆のために働いてくれているじゃない」


「そう言っていただけると嬉しいです。でもね、冬は毎年来るものですけど、今年は迎える場所が違うんですよ。いつもなら家族で準備していたことも、今は皆で相談しながらやらなきゃいけません」


 私は女性の言葉を聞き、周囲を見渡した。


 作業場には、さまざまな場所から逃れてきた人々が集まっている。以前は別々の村や街で暮らしていた者たちが、今は同じ建物で冬支度を進めていた。自分の家であれば、どこから風が入り、どれだけ薪を用意すれば冬を越せるのか、長年の経験で分かっていただろう。しかし、見知らぬ街の慣れない建物では、そうした知識を一から集め直さなければならない。


 避難民だからといって、ただ助けを待っているわけではない。彼らも自分たちにできることを探し、新しい暮らしを整えようとしているのだ。


「もし、作業に必要な材料が足りなくなったら、管理者の方へ伝えてちょうだい。全部用意できるとは約束できないけれど、できる限り調整してみるわ」


「ありがとうございます。私たちも、できることは頑張りますよ」


 女性は笑顔で答え、再び針を動かし始めた。


 私は作業場を後にする前に、管理者から必要な材料と職人の人数を聞き取った。軍の修繕担当者と協力できる部分がないか、後日相談するつもりだった。軍の装備を直す仕事と市民の冬支度は、必ずしも別々に進めなければならないものではない。使える技術や材料をうまく分け合えれば、双方にとって助けになるはずだった。


     *


 数日後、南方の街道から新たな報告が届いた。


 夜間の冷え込みによって路面が凍結し、日中には解けて泥濘になる場所が増えているという。特に日陰の多い区間では、朝のうちに荷車が通りにくくなることもあり、物資の輸送に遅れが出始めていた。


 私は司令部で報告書を確認し、補給担当者と即応予備隊の指揮官を呼んだ。


「街道の状態について、詳しく教えてもらえる?」


「はい。南方の街道では、夜間に凍結した地面が日中に緩み、車輪が取られる場所が増えています。馬が足を滑らせることもあり、荷車の速度を落とさなければならない区間があるようです」


 補給担当者は地図を広げ、問題のある場所を示した。


 グラーフェン集積所を閉鎖したことで、前方の部隊へ物資を届ける際には、後方の拠点から直接運ぶ必要がある。以前より輸送距離が延びているため、街道の状態が悪くなれば、その影響も大きくなる。特に食料や飼葉のように継続して運ばなければならない物資は、一度の遅れが次の輸送計画にも影響してしまう。


「即応予備隊の移動にも影響が出そうね」


「はい。特に荷車を伴う場合、予定より時間がかかる可能性があります」


「別の道は使えないの?」


「いくつか候補はあります。ただ、そちらも天候によって状態が変わりますので、実際に確認する必要があります」


 私は地図を見ながら考えた。


 冬になれば、常に道が使えなくなるわけではない。地面が十分に凍っていれば、泥濘の多い場所でも通りやすくなることがある。しかし、日中に気温が上がれば再びぬかるみ、同じ道でも朝と午後で通行条件が変わってしまう。


 それでは、部隊の移動時間を一定に見積もることが難しくなる。敵軍の襲撃に対応する場合、予定していた時間に到着できなければ、守るべき場所へ必要な兵力を送り込めなくなるかもしれない。


「まず、主要な移動経路の状態を確認しましょう。朝と日中で通行条件が変わる場所については、報告を分けてほしいの」


「承知しました」


「それから、予備隊が移動する際に使える別の経路も確認しておいて。普段使っている道が通れなくなったとき、どこを通ればいいのか分からないようでは困るわ」


 指揮官は頷き、地図へ印を付けた。


「伝令についても、街道の状態を報告するよう指示しておきます。敵軍の動きだけでなく、道路の状況も分かれば、輸送計画を立てやすくなるでしょう」


「お願いするわ。冬の間は、そういう情報も必要になるものね」


 私は補給担当者へ、輸送に必要な時間を見直すよう指示した。


 敵軍の動きに大きな変化がなくても、冬が近づくだけで軍の活動には制約が増えていく。兵士の装備や宿営地だけでなく、物資を運ぶための道路や馬の状態まで考えなければ、防衛線を維持することはできなかった。


 ただし、街道の状態が悪くなったからといって、すぐに輸送が途絶えるわけではない。通行しやすい時間帯や経路を選び、必要に応じて荷車の数や積載量を調整すれば、ある程度は対応できるはずだった。


 私は担当者たちと相談し、今後は街道の状態を定期的に確認するとともに、悪天候が続いた場合の輸送計画も用意することにした。


     *


 冬支度のための作業は、その後も各所で続けられた。


 軍では、夜間警備を担当する部隊から順に防寒具の修繕と配布が進み、宿営地では濡れた装備を乾かす場所の整備が始まっていた。すべての部隊へ十分な装備が行き渡ったわけではないが、少なくとも不足しているものと、その優先順位は整理されつつあった。


 市街地でも、避難民の収容施設で窓や扉の補修が進められている。共同作業場では衣服や毛布の修繕が続き、軍と民間の担当者が材料の配分について相談するようになっていた。補修用の木材や布が足りない場所も残っていたが、作業の順番を決めることで、少しずつ改善が進んでいる。


 それでも、薪の備蓄は十分とは言えず、食料の調達も交易に頼る部分が大きい。南方の街道では凍結と泥濘による輸送の遅れが報告されており、冬が深まれば、さらに難しい状況になることも考えられた。


 私は魔法騎士団の執務室で、冬季訓練計画の見直しを進めていた。


 夜間警備の交代時間を調整し、寒さの中で長時間同じ場所に立ち続けることがないよう勤務表を変更する。また、訓練後に濡れた装備を乾燥させる時間を確保し、体調を崩した兵士が無理をして任務に就くことのないよう、各部隊へ注意を促すことにした。


 訓練の内容についても、地面が凍結している朝の時間帯には激しい模擬戦を避け、装備の点検や連携手順の確認を中心にすることを検討していた。もちろん、実戦では天候を選べないため、寒さや滑りやすい地面に慣れる訓練も必要になる。ただし、それによって怪我人を増やしてしまっては意味がないので、訓練場所の状態を確認しながら段階的に行うつもりだった。


 そこへ、副官が新しい書類を持って入ってきた。


「団長、民政担当から連絡がありました。避難民収容施設の補修に必要な材料について、一部の調達が認められたそうです」


「本当? それはよかったわ」


「明日から作業を始められるよう、準備を進めたいとのことです」


「分かったわ。軍の修繕担当者にも確認して、協力できる人員がいないか調べてもらえる?」


「承知しました」


 私は書類を受け取り、必要な材料と作業人数を確認した。


 補修できる施設はまだ一部に限られていたが、作業を進めれば、それだけ暖房に必要な薪を減らせる可能性がある。軍の宿営地でも同じような改善ができないか、担当者へ確認してみるつもりだった。


 副官が退出すると、私は机の上に広げた勤務表へ目を戻した。


 夜間警備の交代時間を変更したことで、一部の部隊では日中の訓練時間も調整する必要があった。私は各部隊の予定を照らし合わせ、訓練場を使用する時間が重ならないよう順番を変更していった。


 明日は朝から宿営地の点検があり、午後には補給担当者との打ち合わせも予定されている。私は翌日の予定表を確認し、冬季訓練計画の修正を続けた。

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