【閑章4】第9話 新たな軍旗
グラーフェン集積所の撤収が決まってから、南方の警戒態勢は少しずつ変更されていた。
集積所そのものは敵の襲撃を退けたものの、今後も維持するには即応予備隊の負担が大きく、補給を続けるための人員も不足していた。そのため、残された物資を後方へ移し、前方の巡回範囲を縮小することになったのである。
私は王太子執務室で、南方から届いた報告書に目を通していた。
巡回範囲が狭まったことで、敵軍の動きを把握する方法も変わっている。以前は集積所を拠点とする斥候が街道沿いを継続的に監視していたが、現在は主防衛線から送り出す斥候の報告に加え、南方の村人や商人から得られる情報も利用していた。
もちろん、そうした証言がすべて正確とは限らない。遠くから見た兵士の人数を実際より多く数えてしまうこともあれば、別々の場所で目撃された同じ部隊を、異なる部隊として報告してしまうこともある。司令部では複数の情報を照合し、確認できた事実と推測を分けて整理していた。
私が報告書の一枚を読み終えたところで、扉が叩かれた。
「殿下、南方から新たな報告が届きました」
入室した連絡将校は、いつもより硬い表情をしていた。
「何かあったのですか?」
「敵軍の集結地付近で、これまで確認されていなかった軍旗が目撃されました。斥候の報告によれば、ザクセンブルク王国のものとよく似た意匠だったとのことです」
私は差し出された書類を受け取った。
報告には、南方の街道を北上する部隊の様子が記されていた。歩兵を中心とした隊列に荷車が随伴し、騎兵と思われる一団も確認されている。軍旗については遠方からの観察であり、まだ断定できないと書かれていた。
「ザクセンブルクの軍旗ですか……」
グラニスク会戦の記憶が蘇った。
あの戦いで、ザクセンブルクは当初、国境付近で軍を待機させていた。王軍とハインリヒ軍の戦闘が始まってからも中立を保っているように見えたが、戦況が動いたところでハインリヒ側へ介入し、王軍の敗北を決定的なものにしたのである。
その後もザクセンブルクとハインリヒの協力関係は続いていたが、今回の報告が正しければ、新たな兵力が追加で送り込まれたことになる。
「この情報は、ボーマン総司令官にも届いていますか?」
「はい。司令部へはすでに伝達しております。現在、別の斥候からの報告と照合しているところです」
「分かりました。確認が取れたら、私にも知らせてください」
「承知しました」
将校が退出した後、私は報告書を机の上へ置いた。
ザクセンブルクからの増援が事実なら、ハインリヒ軍の兵力はさらに増える。王軍はこれまで南方の防衛線を維持してきたが、敵が新たな兵力を得れば、これまでとは異なる攻撃を仕掛けてくる可能性もあった。
ただし、現時点では軍旗の意匠が似ているという報告にすぎない。私は結論を急がず、次の報告を待つことにした。
*
翌日、司令部から正式な報告が届いた。
複数の斥候が確認した軍旗の意匠と、街道沿いの住民から得られた情報が一致したことにより、ザクセンブルクから新たな部隊が到着した可能性は極めて高いと判断された。
確認できたのは、複数の軍旗を掲げた歩兵部隊と、それに随伴する荷車、そして一部の騎兵だった。正確な人数までは把握できていないものの、行軍隊列の長さや宿営地の規模から、数千人程度の増援と推定されている。
私は報告を受け、すぐに王軍司令部へ向かった。
司令部ではボーマン総司令官が南方の地図を広げ、数名の将校と情報を確認していた。私が入室すると、ボーマンは席を立って一礼した。
「殿下。ちょうどご報告に伺おうと思っていたところです」
「ザクセンブルクの増援についてですね」
「はい。まだ正確な兵力は分かりませんが、新たな部隊が到着したことは、ほぼ間違いないと考えております」
私は地図へ目を向けた。
南方の敵軍集結地には、いくつかの印が付けられている。これまで確認されていたハインリヒ軍の宿営地に加え、その周辺へ新しい部隊が配置されているようだった。
「これで、敵軍はすぐに攻勢を始めるのでしょうか」
「その可能性はあります。ただ、増援が到着したからといって、直ちに攻撃できるわけではありません」
ボーマンは落ち着いた口調で答えた。
「数千人の兵士が増えれば、それだけ食料や飼葉が必要になります。宿営地の確保に加え、既存の部隊との連絡方法や指揮系統も整えなければなりません。ザクセンブルク軍が独自の指揮官を持っているのであれば、ハインリヒ軍との作戦調整にも時間がかかるでしょう」
「では、しばらくは動かないと?」
「そうとも限りません。準備を整えながら、一部の部隊だけを先に動かすことも考えられます。重要なのは、敵軍がこれまでより多くの兵力を使えるようになったという事実です」
ボーマンは地図の南側を指した。
「これまでは、主防衛線への攻撃に兵力を集中させれば、ほかの場所へ回せる部隊が限られていました。しかし増援が加われば、正面から圧力をかけながら、別の部隊を補給路や警戒拠点へ向かわせることも可能になります」
私は地図を見つめた。
グラーフェン集積所への襲撃は、比較的小規模な部隊によるものだった。それでも王軍は即応予備隊を投入し、最終的には集積所の維持を断念している。
もし同じような攻撃が複数の場所で起きれば、王軍はさらに難しい判断を迫られるだろう。
「陛下にも報告されていますか?」
「はい。本日午後、軍議を開く予定です。殿下にもご出席いただければと思います」
「もちろんです」
私は頷き、軍議までに現在の防衛態勢を確認しておくことにした。
*
午後の軍議には、グスタフ陛下をはじめ、アルフォンス宰相、ボーマン総司令官、ユリアナ魔法騎士団長、そして主要な軍指揮官たちが出席した。
会議室の中央には南方の地図が広げられ、敵軍の集結地と王軍の防衛線が示されている。
ボーマンは、ザクセンブルクからの増援について報告した後、現在の防衛態勢の説明を始めた。
「主防衛線そのものは、現在も維持できております。ただし、エルンフェルト砦からの撤収とグラーフェン集積所の閉鎖により、前方で継続的に警戒できる範囲は狭くなりました」
ボーマンは地図の南側を指した。
「これまでは、前方の拠点を利用して敵軍の動きを監視しておりましたが、現在は主防衛線から斥候を送り出す形が中心となっています。そのため、敵軍の動きを把握するまでに時間がかかる場合があります」
「敵が複数の方向から動いた場合、対応が遅れる可能性があるということか」
陛下の問いに、ボーマンは頷いた。
「はい。特に、敵が一部の部隊で正面を牽制しながら、別の部隊を側面へ向かわせた場合、どちらが主攻撃なのかを見極める必要があります」
続いて、ユリアナが即応予備隊の状況を説明した。
「現在の即応予備隊は、複数の部隊を組み合わせて運用しております。グラーフェン集積所では敵の襲撃に対応できましたが、同じ規模の攻撃が別々の地点で発生した場合、すべてへ同時に対応することは難しくなります」
「予備隊を分散させればよいのではないか?」
将校の一人が尋ねた。
「分散させれば、それぞれの地点へ到着する時間は短くなります。しかし、部隊を細かく分けすぎると、敵の主力が現れた際に十分な兵力を集中できません」
ユリアナは地図の中央付近を指した。
「今の兵力で対応するなら、予備隊の一部を移動しやすい場所に置き、敵の動きを確認してから投入する方が安全だと考えます」
ボーマンもその意見に同意した。
「私も同じ考えです。前方へ部隊を増やすのではなく、主防衛線を維持したうえで、予備隊の配置と連絡方法を見直すべきでしょう」
軍議では、斥候の報告経路や伝令の交代地点についても検討が行われた。前方の拠点が減ったことで、情報が司令部へ届くまでの時間が延びているため、重要な報告をできるだけ早く集約できる仕組みが必要だった。
私は説明を聞きながら、決定事項を記録していった。
敵軍の兵力が増えたからといって、王軍も同じように兵を増やせるわけではない。現在の兵力をどのように配置し、どの場所を優先して守るのかを考えなければならなかった。
そこで、私は以前から気になっていたことを口にした。
「陛下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ、フェルディナント」
「シルヴァノールからの軍事支援は見送られました。ザクセンブルクからも協力の提案はありますが、今回の増援を考えれば、簡単に信用できる相手ではありません」
私は一度言葉を区切った。
「では、フロンティア大公国についてはどうでしょう。ロデリック公王と陛下には長年の親交がありますし、グリューンヴァルトの移譲以降、交易も以前より活発になっています。それでも、軍事支援をお願いすることは難しいのでしょうか」
陛下はすぐには答えず、ボーマンへ目を向けた。
「まずは、軍事面から説明してやってくれ」
「承知しました」
ボーマンは地図の東側を指した。
*
「殿下。現在のメルキア防衛において、フロンティア大公国の存在は非常に重要です」
ボーマンは、メルキア南方の狭い陸路と、その東側に広がる大公国領を示した。
「ハインリヒ軍が東側から大きく迂回しようとすれば、大公国の国境を越える必要があります。しかし、大公国は現在、中立を維持しております」
「つまり、敵軍は自由に通過できないということですね」
「はい。もちろん、国境を侵犯すること自体は不可能ではありません。しかし、その場合は大公国軍との衝突を招くおそれがあります。ハインリヒにとっても、現在の戦争に新たな敵を増やすことは避けたいはずです」
私は地図を見つめた。
これまで王軍が南方の防衛線に兵力を集中できていたのは、東側から大規模な敵軍が侵入する可能性が低かったからでもある。もし大公国の国境が存在しなければ、王軍はさらに広い範囲を警戒しなければならなかっただろう。
「大公国が中立を守っているからこそ、我々は東側へ大きな兵力を割かずに済んでいます。あの国境は、現在の防衛態勢を支える重要な条件なのです」
ボーマンの説明を聞き、私は頷いた。
「ですが、正式に援軍をお願いしたとしても、断られれば中立のままではありませんか?」
「その可能性は十分にあります。ただ、要請を断られたという事実が外部へ伝われば、ハインリヒ側が大公国の姿勢を探ろうとするかもしれません。国境付近で挑発的な行動を取ることも考えられますし、我々としては現在の安定した状態を不用意に揺さぶりたくありません」
ボーマンはそう説明した後、アルフォンスへ視線を向けた。
「外交面については、宰相閣下からご説明いただくのがよろしいでしょう」
「そうですね」
アルフォンスは頷き、地図の東側へ目を向けた。
「殿下もご存じのとおり、グリューンヴァルト大森林の移譲以降、大公国との関係は以前より深まっております。難民の受け入れと開拓地の管理を進めていただいているほか、食料を中心とした交易も活発になりました」
私は頷いた。
グリューンヴァルト大森林の移譲は、王都を失った後、陛下が決断された大きな外交上の取り決めだった。大公国へ土地を移すことで、難民の受け入れと開拓を進めてもらう一方、マリアベル側も交易を通じて必要な物資を調達できる関係を築いている。
もちろん、食料が無償で提供されているわけではない。王国は商人たちから必要な物資を購入しており、大公国側も交易によって利益を得ている。それでも、現在のメルキアにとって、安定した食料の調達先があることは大きな意味を持っていた。
「大公国からの協力が、今の王国を支えていることは承知しています。ですが、敵軍の増強が続くのであれば、それだけで防衛を維持できるのかという不安もあります」
私がそう言うと、アルフォンスは頷いた。
「ご懸念はもっともです。ただ、現在の関係は双方に利益があります。大公国は開拓地を得て交易を拡大し、我々は難民問題への対応と物資の調達を進めることができる。今のところ、この関係を維持することが双方にとって最も有利なのです」
アルフォンスはそこで一度言葉を区切った。
「しかし、大公国が我々に軍を派遣すれば、ハインリヒは大公国を明確な敵国と見なすでしょう。そうなれば、現在続いている交易や国境の安定が、そのまま維持できる保証はなくなります」
「兵を得る代わりに、食料の調達が難しくなる可能性があるということですか」
「そのとおりです。援軍が到着しても、その兵士たちを養う食料が不足してしまえば、王軍全体の負担が増すことになります」
私は考え込んだ。
シルヴァノールとの交渉が不成立に終わったことは、アルフォンスから報告を受けている。あの国は軍隊を派遣しない代わりに、海上交易を継続することを約束してくれた。
大公国についても、軍事支援だけを求めれば、すでに得られている協力関係を危険にさらすことになるのだ。
「さらに、大公国にはもう一つ大きな事情があります」
アルフォンスは続けた。
「フロンティア大公国は、ゲルマニア諸王国連合に属しておりません」
「それは承知しています」
「今回の戦争は、マリアベル王家の王位をめぐる内戦です。そこへ連合の外にいる大公国が軍事介入すれば、ザクセンブルクは外部勢力による干渉だと主張するでしょう」
アルフォンスは地図の南方へ目を向けた。
「ザクセンブルクは連合内で強い影響力を持っています。大公国が我々の側に立って参戦すれば、連合の諸王国へ共同対応を呼びかける可能性があります。すべての国が応じるとは限りませんが、大公国としては連合全体との対立に発展する危険を考えなければなりません」
私は頷いた。
ザクセンブルクは、王軍に対してハインリヒへの背後攻撃を提案してきた際にも、ゲルマニア諸国の協調と、シルヴァノールの軍事的影響力を抑えることを条件に挙げていた。
彼らが連合の結束を重視しているのであれば、大公国の介入を利用して他国を動かそうとする可能性は十分にある。
「ロデリック公王が陛下の旧友であっても、そこまでの危険を冒す理由はないということですね」
「はい。公王陛下はグスタフ陛下のご友人ですが、同時に大公国の君主でもあります。友人として力になりたいと思われたとしても、国の利益を無視することはできません」
アルフォンスはさらに、軍事支援を受ける場合の条件についても説明した。
大公国が兵士を派遣するなら、補給路や宿営地の確保、国境地帯での軍の通行など、さまざまな取り決めが必要になる。どのような対価を求められるかは分からないが、将来の交易や国境管理に影響する条件が生じる可能性もあった。
グリューンヴァルトの移譲は、難民対策と開拓地の管理を目的として成立した取り決めである。それを理由に、さらに軍事支援まで求めることが当然だとは言えなかった。
「つまり、今の関係を維持する方が、王国にとっても大公国にとっても利益が大きいということですね」
「私はそう考えております」
アルフォンスの説明が終わると、陛下が口を開いた。
「フェルディナント。ロデリックには、すでに十分な協力をしてもらっておる。グリューンヴァルトを託し、交易を通じて我らを支えてくれているのだ。その関係を壊してまで、兵を求めるつもりはない」
「はい、陛下」
「今の我らに必要なのは、大公国の軍旗ではない。あの国との交易が続き、国境が守られることだ。少なくとも、現在の状況ではな」
私は深く頷いた。
大公国に援軍を求めないのは、助けを期待できないからではない。すでに成立している協力関係を維持することが、現在の王国にとって最も有利だと判断しているからだった。
陛下はボーマンへ視線を戻した。
「では、軍の配置について話を続けよう」
*
軍議は再び、南方の防衛態勢についての検討へ戻った。
ボーマンは、ザクセンブルクからの増援によって敵軍が取り得る行動を整理したうえで、王軍側の対応を示した。
「まず、主防衛線は現在の位置を維持します。敵軍の増強を理由に、こちらから大規模な攻撃を仕掛けることは考えておりません」
将校たちが頷いた。
「そのうえで、即応予備隊の配置を見直します。敵が複数地点で攻撃を仕掛けてきた場合に備え、予備隊の一部を移動しやすい位置へ置き、必要に応じて投入できるようにします」
ユリアナが地図を確認しながら口を開いた。
「配置を変更する場合、部隊の移動に必要な時間を確認しておく必要があります。グラーフェン集積所を撤収したことで、前方へ向かう際の補給にも以前より時間がかかりますから」
「その点は、補給担当者とも調整しましょう」
ボーマンは頷いた。
「また、斥候からの報告を集約する担当を明確にし、重要情報が司令部へ届くまでの時間を短縮します。伝令の交代地点についても、必要な場所を再確認してください」
私は決定事項を記録しながら、必要な人員と物資について考えていた。
伝令の交代地点を増やせば、馬と担当者が必要になる。予備隊の配置を変更すれば、新しい待機地点に宿営場所や飼葉を用意しなければならない。防衛施設の補修を進める場合も、木材や工具、作業を行う兵士を確保する必要がある。
「ボーマン総司令官。配置変更に必要な物資について、各部隊から一覧を提出していただけますか」
「もちろんです。何かご懸念がございますか?」
「現在の備蓄で対応できるものと、新たに調達しなければならないものを分けておきたいのです。配置を決めても、必要な物資が届かなければ実行できませんから」
ボーマンは頷いた。
「おっしゃるとおりです。各部隊に確認させ、必要な数量をまとめて提出いたします」
「ありがとうございます。アルフォンス宰相とも相談し、調達の優先順位を決めたいと思います」
私はそう答え、手元の記録へ新たな項目を書き加えた。
軍議ではその後も、斥候の活動範囲や防衛施設の点検について協議が続いた。敵軍の増援は確認されたものの、現時点で大規模な攻勢が始まる兆候はなく、王軍としては現在の防衛線を維持しながら準備を進める方針が決まった。
*
軍議を終えた後、私はアルフォンスとともに、大公国との連絡記録を確認していた。
そこには、国境警備の状況や商人の通行、グリューンヴァルト方面へ向かう人々の移動について、さまざまな報告がまとめられている。
大公国では、国境を越える武装集団への警戒を強めており、商人や避難民についても既存の取り決めに従って対応しているという。
「大公国側も、国境の混乱を警戒しているのですね」
「はい。王都を失ってから、南方では兵士の離散や武装集団の活動が増えています。大公国としても、自国の領内へそうした者たちが入り込むことは避けたいのでしょう」
アルフォンスは書類の一枚を示した。
「こちらは、グリューンヴァルト方面への移動に関する報告です。開拓地へ向かう人々の通行が続いており、必要な物資を運ぶ商人も増えているようです」
私は報告を受け取り、内容を確認した。
グリューンヴァルト大森林は、かつてマリアベル王国の領土だった。しかし、現在は大公国へ移譲され、開拓地の整備が進められている。難民の受け入れ先としても利用されており、王都や南方から逃れてきた人々の一部が、新しい生活を始めるために向かっていた。
もちろん、森を開拓するには多くの時間と労力が必要になる。住居を建て、畑を作り、道を整備するまでには、食料や工具などの物資も欠かせない。大公国側も相応の負担を引き受けているはずだった。
「大公国にとっても、簡単な事業ではありませんね」
「ええ。しかし、開拓地が発展すれば、新しい農地や交易路が生まれます。長期的には大公国にとっても利益になるでしょう」
アルフォンスは続けた。
「我々にとっても、難民の受け入れ先が確保されることは大きな意味があります。現在のメルキアでは、避難民を受け入れるための住居や食料が不足していますから」
私は頷いた。
軍議では、大公国が中立を維持していることの軍事的な意味を教えられた。しかし、こうして人や物の移動を記録した書類を見ていると、その関係が王国の暮らしを支えていることも分かる。
大公国から届く食料は、メルキアの市場や配給に利用されている。グリューンヴァルトへ向かう人々は、新しい土地で生活を始めようとしている。そして国境では、大公国の兵士たちが自国の安全を守るために警戒を続けている。
いずれも大公国が自国の利益のために行っていることであり、マリアベル王軍への直接的な軍事支援ではない。それでも、その結果として王国が得ている利益は決して小さくなかった。
「陛下が援軍を求めないと判断された理由が、よく分かりました」
私がそう言うと、アルフォンスは穏やかに頷いた。
「公王陛下との親交は、今後も大切にすべきものです。ただし、国家同士の関係は友情だけで成り立つものではありません。双方に利益があるからこそ、長く続けられるのです」
「はい。今の関係を維持することが、王国にとっても重要なのですね」
「そのとおりです」
私は書類を机の上へ戻し、国境に関する連絡を今後も継続するよう担当者へ指示することにした。
*
翌朝、私は王軍の訓練場と司令部を訪れ、軍議で決定された防衛態勢の変更がどこまで進んでいるかを確認した。
訓練場では、即応予備隊の一部が新しい待機地点へ移動する準備を進めていた。兵士たちは装備を点検し、荷車へ必要な物資を積み込んでいる。指揮官たちは移動経路を確認し、到着後の配置について説明を行っていた。
ユリアナも現場におり、部隊の移動計画を確認していた。
「殿下。おはようございます」
「おはようございます、ユリアナ団長。準備はいかがですか?」
「予定どおり進めています。ただ、新しい待機地点では馬の飼葉が不足する可能性がありますので、補給担当者と調整しているところです」
「必要な数量は分かっていますか?」
「はい。部隊の移動に必要な分と、到着後の数日分を計算しています。ただし、現在の備蓄だけでは十分ではありませんので、追加の手配が必要になります」
私は担当者から提出された一覧を確認した。
新しい待機地点へ移動する部隊には、兵士の食料だけでなく、馬の飼葉や寝具、簡易的な宿営設備も必要になる。さらに、負傷者が出た場合に備え、救護用の物資も準備しなければならなかった。
「優先順位を決めましょう。まずは部隊が到着した直後に必要になるものを確保し、それ以外は順次運び込む形にしてください」
「承知しました」
ユリアナは頷き、部下へ指示を出した。
その後、私は司令部へ戻り、伝令の交代地点についても確認した。新しい地点を設けるには、担当する兵士と馬を確保する必要があり、既存の部隊から人員を回すことになる。
しかし、各部隊とも余裕があるわけではないため、すべての希望をそのまま実現することは難しかった。
「この地点については、常時二名を置く必要がありますか?」
私は担当将校へ尋ねた。
「夜間も含めて連絡を維持するのであれば、交代要員が必要になります」
「分かりました。では、ほかの地点と兼任できる業務がないか確認してください。人員を増やすだけでは、別の場所の警戒が薄くなってしまいます」
「承知しました」
将校は頷き、配置表を見直し始めた。
敵軍の増援が到着したことで、王軍は防衛態勢を変更しなければならなくなった。しかし、兵士や物資が突然増えるわけではない。現在あるものをどのように使い、どの場所を優先するのかを決める必要があった。
私は各部隊から提出された一覧を確認し、不足している物資についてはアルフォンスへ相談するため、調達依頼をまとめていった。
*
夕刻、王太子執務室へ戻ると、南方から新たな報告が届いていた。
敵軍集結地では、ザクセンブルクの軍旗が以前より多く確認されているという。さらに、増援部隊がハインリヒ軍の一部と共同で訓練を行っているとの情報もあった。
ただし、総攻撃の準備が整ったと判断できるほどの情報はなく、敵軍がいつ動き出すのかは分かっていない。
私は報告書に目を通し、ボーマンへ写しを送るよう書記官へ指示した。
「それから、明日の防衛施設の点検について、予定を確認したいのですが」
「はい。南側の防柵から順に点検を行う予定です。補修に必要な木材については、現在手配を進めております」
「木材が不足している場所は、先に報告してください。補修を始めてから足りないと分かるようでは困ります」
「承知しました」
私は点検予定表を受け取り、各地点で必要になる資材の数量を確認した。
南方では新たな軍旗が確認され、敵軍の兵力は増えている。一方、王軍が使える兵士や物資には限りがあり、すべての場所を同じように強化することはできない。だからこそ、今ある防衛線を維持するために、必要な作業を一つずつ進めていかなければならなかった。
「こちらの防柵については、木材の手配が間に合わない場合、応急補修を先に行うことはできますか?」
「可能だと思います。ただ、現場の担当者へ確認が必要です」
「では、明日の朝までに確認をお願いします。応急補修で対応できる場所と、すぐに木材を交換しなければならない場所を分けてください」
「承知しました」
書記官は指示を書き留め、翌朝の点検担当者へ連絡するために退出した。
私は机の上に残された補修予定表を広げ、必要な人員と荷車の数を確認した。南方から届いた軍旗の報告は司令部へ回し、明日の点検に向けて不足している資材の一覧をまとめていった。




