【閑章4】第8話 王国の値段
メルキア港に入った商船の積荷一覧が届いたのは、朝の執務を始めて間もなくのことだった。
私は港湾担当官から差し出された書類を受け取り、食料と医薬品の数量を確認した。ヴェルミニア海を渡ってきたシルヴァノールの商船には、穀物や乾燥豆、保存の利く魚の加工品などが積まれており、医薬品についても前回の入港時より種類が増えている。いずれもメルキアでは不足しがちな品物であり、商人たちが航海を続けてくれていることは、現在の王国にとって大きな支えだった。
ただし、到着した物資だけで王軍と市民の需要を満たせるわけではない。メルキアには現在、およそ二万五千の王軍将兵が駐留しており、その中には負傷者や後方勤務の兵士も含まれている。さらに、王都から逃れてきた住民や南方の村から避難してきた人々もおり、市内の食料需要は以前より大きくなっていた。
「穀物については、前回より多く積まれております」
港湾担当官が説明した。
「ただ、商人側も今後の入荷を確約できないとのことです。シルヴァノール本国での収穫状況に問題があるわけではありませんが、船舶の手配や航路の安全を考えると、定期的に同じ数量を運べるとは限らないそうです」
「分かった。次の船が来るまでの在庫は、どれくらいになる?」
「現在の配給量を維持した場合、軍と市内を合わせて、およそ三週間分です。ただし、港に入った物資のすべてが王国の管理下にあるわけではありません。民間商人が販売する分も含まれておりますので、実際に配分できる量はもう少し少なくなります」
「そこは分けて計算してくれ。市場に流れる品物まで、王国の備蓄として扱うわけにはいかない」
「承知しました」
私は書類の余白に確認事項を書き込み、担当官へ返した。
港が機能していることは、現在のマリアベル王国にとって大きな支えだった。南方の街道は敵軍によって脅かされており、陸路から大量の物資を運び込むことは難しい。一方、ヴェルミニア海を利用した交易は今も続いているため、食料や医薬品を外部から調達する手段が残されている。
もっとも、船が到着すればすべて解決するという話でもなかった。購入資金の確保に加え、荷揚げを行う人員、倉庫の空き、配給先まで運ぶ荷車など、物資を実際に使える状態にするまでには多くの手間がかかる。王都を失った今、その一つひとつを以前より慎重に管理しなければならなかった。
机の上には、南方から届いた戦闘報告も置かれている。
グラーフェン集積所で敵の襲撃を受けた王軍は、ユリアナ率いる即応予備隊の支援によって敵を撃退した。しかし、その後の検討で集積所の維持は困難と判断され、残された物資を後送したうえで撤収している。
「集積所の物資は、ほぼすべて回収できたそうだな」
「はい。戦闘による損失は比較的軽微だったとのことです」
「それは幸いだった。だが、後方へ移した物資を前線へ運ぶ手間は増える。帳簿上の残量が同じでも、使える量まで同じとは限らない」
担当官は頷いた。
これまで集積所で補給を受けていた巡回部隊は、今後、主防衛線の内側から必要な物資を持ち出すことになる。移動距離が伸びれば馬の飼葉も余分に必要になり、同じ人数で警戒できる範囲も狭くなるだろう。集積所にあった物資を無事に回収できたことは確かに成果だが、その物資を前方へ運び直すために、新たな人員と荷車が必要になるのである。
戦闘に勝ったことは間違いない。それでも、王軍の活動を支える仕組みは少しずつ後方へ押し戻されていた。
私は補給担当者への連絡事項をまとめ、次の書類へ手を伸ばしたところで、外交担当の書記官が入室してきた。
「宰相閣下。シルヴァノール使節団より、正式な回答を持参したいとの申し入れがございました」
「軍事支援の件か?」
「はい。本国での協議を終え、改めて条件を提示したいとのことです」
私は書類から顔を上げた。
シルヴァノールとの軍事支援交渉は、メルキアへ撤退して間もない頃から続けている。王国側は派兵の可能性を探り、先方はヴェルミニア海における交易上の権益について協議を求めてきた。これまでの会談では双方の希望を伝える段階にとどまっていたが、今回は本国の判断を踏まえた具体的な条件が示されるのだろう。
「午後に時間を設けよう。先方には、以前と同じ会議室を用意すると伝えてくれ」
「承知しました」
書記官が退出すると、私はシルヴァノールとの過去の交渉記録を取り出した。
援軍を得られれば、王軍の防衛計画に余裕が生まれる。だが、相手がどの程度の兵力を、いつ、どのような条件で派遣するのかが分からなければ、その援軍を前提に作戦を立てることはできない。さらに、外国軍を受け入れるとなれば、宿営地や補給、指揮権の問題も生じるため、兵力が増えるという理由だけで歓迎できるものでもなかった。
私は過去の会談記録に目を通しながら、今回確認すべき事項を書き出していった。
*
午後、シルヴァノールの使節団が仮王宮を訪れた。
代表を務めるのは、これまでの交渉にも出席していたエルフの外交官だった。銀色を帯びた淡い金髪を後ろで束ね、深緑の礼服を身につけている。人間であれば四十代ほどにも見える落ち着いた容貌だったが、実際には私よりはるかに長い年月を生きているという。
彼は会議室へ入ると、丁寧に一礼した。
「アルフォンス宰相閣下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、遠路ご足労いただき感謝します。航海はいかがでしたか」
「幸い、海は穏やかでした。メルキアの港も、以前と変わらず活気がありますね」
「戦時下ですから、以前ほどの賑わいではありませんが」
「それでも、船を迎える人々の働きぶりは変わりません。私が初めてこの港を訪れた頃から、何度も倉庫や桟橋は造り替えられましたが、あの光景には懐かしさを覚えます」
使節は穏やかに微笑んだ。
彼が初めてメルキアを訪れたのは、私が生まれるよりもずっと前のことらしい。シルヴァノールとの交易は長い歴史を持ち、港の施設や商人の顔ぶれが変わっても、その関係は途切れることなく続いてきた。
私たちにとっては祖父や父の代から続く交易でも、彼にとっては自分自身が見届けてきた変化なのだろう。長命のエルフと人間では、同じ年月を振り返るにしても、その受け止め方が異なるのかもしれなかった。
挨拶を終えると、双方が席に着いた。
「本日は、先日ご相談いただいた軍事支援について、本国での協議結果をお伝えするために参りました」
「ありがとうございます。こちらとしても、具体的な条件を伺いたいと思っていました」
使節は頷き、持参した書類を卓上へ置いた。
「まず申し上げたいのは、我が国がマリアベル王国の存続を望んでいるということです。長年にわたって築いてきた交易関係は、我々にとっても大切なものですから」
「その点については、私どもも同じ考えです」
「ただ、軍隊を派遣するとなれば、交易とは異なる判断が必要になります。我が国の兵士を国外へ送り出し、他国の戦争に参加させる以上、相応の理由と保証が求められます」
私は頷いた。
シルヴァノールがマリアベルを支援する理由はある。もしハインリヒが王国全土を掌握し、ゲルマニア諸国との関係を強めれば、ヴェルミニア海の交易にも影響が及ぶ可能性がある。海上交易を重視するシルヴァノールにとって、この戦争は決して無関係な出来事ではなかった。
しかし、だからといってシルヴァノールが無条件で軍隊を派遣する義務はない。自国の防衛を維持しながら国外へ兵を送るには、費用も人員も必要になる。さらに、戦争の結果によっては他国との外交関係が悪化するおそれもあり、軍事介入を決断するには相応の利益が求められるのだろう。
使節は書類を開き、説明を続けた。
「本国では、軍事支援の対価として、ヴェルミニア海における交易上の権益を求める方針がまとまりました」
「具体的には、どのような内容でしょうか」
「メルキア港における我が国の商船への関税優遇、特定航路での優先的な交易権、そして港湾施設の一部について優先使用を認めていただくことです」
書記官が書類を受け取り、私の前へ置いた。
私は記載された条件を順に確認した。
関税の優遇そのものは、珍しい要求ではない。交易量を増やす目的で特定の国に有利な税率を適用することは、平時の通商交渉でも検討される。港湾施設の優先使用についても、一定の範囲であれば協議の余地があり、大型商船の入港に合わせて荷揚げ設備を確保する仕組みは、港の運営を安定させる効果も期待できるだろう。
問題は、その権益がどの程度の期間にわたって保証されるのかだった。
「この関税優遇は、三十年間となっていますね」
「はい。戦争終結後も、その期間は維持していただきたいと考えております」
「三十年ですか」
「我々としては、決して過度に長い期間を求めているつもりはありません。交易の仕組みを整え、商人たちが安心して船を運航できるようになるまでには、それなりの年月が必要ですから」
使節の言葉に、ためらいはなかった。
彼にとって三十年という期間は、十分に見通しを立てられる時間なのだろう。長命のエルフたちは、人間の王国よりも長い時間をかけて交易関係を築き、商人や外交官が同じ役割を何十年も担うことがあるという。
一方、人間の王国にとって三十年は、決して短い期間ではない。戦争が終わった後、王国の財政を立て直すには関税収入が重要になる。復興のために必要な資金を確保しようとしても、特定の国だけに長期間の優遇を約束してしまえば、将来の政策を大きく制限することになる。
さらに、特定航路での優先権や港湾施設の使用条件が組み合わされば、他国の商人がメルキアへ寄港する際にも影響が出るかもしれない。港を復興させるためには交易相手を増やすことが望ましいが、そのための余地を今から狭めることにもなりかねなかった。
しかも、今ここで約束した条件を実際に負担するのは、私たちだけではない。次の世代の国王や商人たちも、その取り決めに従わなければならないのだ。
「条件については理解しました。では、軍事支援の内容を確認させてください」
「もちろんです」
私は書類を置き、使節へ向き直った。
*
「まず、派遣を予定されている兵力は、どの程度でしょうか」
「現在、本国で検討されているのは、歩兵を中心とした部隊です。ただし、派遣人数については最終的な決定に至っておりません」
「到着までの期間は?」
「派遣が承認された後、船舶の手配と兵員の集結を行う必要があります。正確な日程は、現時点ではお約束できません」
「指揮権についてはいかがでしょう。王軍との共同作戦を行う場合、指揮系統を明確にしておかなければなりません」
「我が国の軍隊を、マリアベル王軍の指揮下へ全面的に置くことは難しいでしょう。ただし、作戦ごとに協力体制を整えることは可能だと考えております」
「派遣期間と撤収条件についても、まだ協議が必要ということですね」
「はい。戦況の推移によって、必要な期間も変わるでしょうから」
私は使節の説明を聞きながら、手元の書類へ確認事項を書き込んだ。
派兵を検討していること自体は事実なのだろう。しかし、具体的な兵力も到着時期も定まっていない。仮に派遣が実現しても、王軍がどの程度の作戦を任せられるのかは分からなかった。
また、兵士を受け入れるためには、宿営場所や食料、医薬品の手配も必要になる。シルヴァノール軍が独自の補給体制を持って来るのか、それともマリアベル側が一部を負担するのかによって、王軍の備蓄に与える影響は大きく変わる。現状では、援軍を得ることでどれだけ防衛力が増すのか、正確に見積もることさえ難しかった。
「率直に申し上げますと、現状では判断が難しい条件です」
私は書類を閉じた。
「要求されている交易上の権益は、三十年間にわたって保証する内容です。一方で、その対価となる軍事支援については、規模も期間も確定していない。これでは、国王陛下へ承認をお願いするための材料が足りません」
使節は静かに頷いた。
「おっしゃることは理解できます。ただ、我々も条件が整わないまま派兵を約束することはできません。軍事行動を決定するには、本国の諸機関を説得する必要があります」
「そのために、先に交易上の保証を得たいということですね」
「はい。戦争への介入は、我が国にとっても大きな決断です。軍事的な負担に見合う利益がなければ、承認を得ることは難しいでしょう」
使節の説明は筋が通っていた。
シルヴァノールとしては、確実な利益がなければ軍隊を派遣できない。一方、マリアベルとしては、援軍の実体が定まらないまま将来の財政を拘束する約束はできない。双方とも自国にとって必要な保証を求めているのだが、その順序が食い違っているのである。
「条件については、陛下へ報告したうえで改めて回答させていただきます」
「承知しました。我々も、マリアベル王国のご事情は理解しております。十分にご検討ください」
使節は丁寧に一礼した。
会談はそこで一度終了となった。
*
使節団が退出した後、私は外交担当の書記官とともに会議室へ残り、交渉記録を整理していた。
「宰相閣下。もう一点、ご報告がございます」
「何だ?」
「シルヴァノールへ向かった商人から、ザクセンブルクの使節らしき一行を見かけたとの話が届いております」
私は手を止めた。
「ザクセンブルクの使節?」
「はい。ただし、正式な外交使節だったかどうかは確認できておりません。シルヴァノールの港で、ゲルマニア系の商人とともに行動していた者たちがいたという程度の情報です」
「接触の目的は分かっているのか?」
「いいえ。交易に関する交渉だった可能性もあります」
私はしばらく考えた。
ザクセンブルクは、グラニスク会戦でハインリヒ側へ介入した国だった。現在もハインリヒとの軍事的な関係を維持している一方、我々に対しては、ハインリヒがメルキアへ進軍した場合に背後を攻撃するという提案を持ちかけてきている。
その交渉では、ゲルマニア諸国の協調と、シルヴァノールの軍事的影響力を抑えることも条件の一つに含まれていた。ザクセンブルクがヴェルミニア海での勢力均衡を重視していることは明らかであり、シルヴァノールの軍事介入を望まない理由も十分に考えられる。
もし彼らがシルヴァノールへ接触しているのなら、軍事介入を思いとどまらせようとしていても不思議ではない。
しかし、現時点では何の確証もなかった。
「その情報は、どこまで確認できる?」
「商人の証言だけでは難しいかと。港湾関係者を通じて調べることはできますが、相手が正式な使節でなければ記録が残っていない可能性もあります」
「分かった。無理に探る必要はないが、関連する情報が入ったら知らせてくれ」
「承知しました」
私は報告書の余白に、その件を記録した。
シルヴァノールが軍事支援に慎重なのは、自国の利益を考えれば十分に説明できる。そこへザクセンブルクが何らかの働きかけを行っていたとしても、今回提示された条件の合理性が失われるわけではない。
ただ、外交交渉では相手の言葉だけでなく、その背後にある事情も把握しておく必要がある。ザクセンブルクがシルヴァノールと接触しているのなら、その目的が交易にあるのか、それとも軍事的な働きかけにあるのかによって、今後の外交判断も変わってくるだろう。
私は書記官へ、次回の会談で直接確認する機会があれば尋ねてみると伝えた。
*
その日の夕刻、私はグスタフ陛下へ交渉結果を報告した。
執務室にはフェルディナント殿下とボーマン総司令官も同席していた。机の上にはシルヴァノール側から提示された条件書が置かれ、陛下はすでにその内容へ目を通されている。
「三十年間の関税優遇か」
陛下は書類を置いた。
「交易相手としての利益を求めることは理解できる。しかし、援軍の規模も到着時期も決まっておらぬのだな」
「はい。派兵そのものについても、最終的な承認は得られていないとのことです」
「ボーマン。軍としてはどう見る?」
陛下の問いに、ボーマンが静かに答えた。
「援軍が到着すれば、防衛上の選択肢が増えることは確かです。ただし、派遣規模と時期が定まらない以上、現段階で王軍の作戦計画に組み込むことはできません」
「仮に数千の兵が来たとしても、指揮系統が別では運用が難しいか」
「共同作戦の調整は可能でしょう。しかし、指揮権や担当区域を明確にしなければ、かえって混乱を招くおそれがあります。特に現在のメルキアでは、主防衛線の指揮系統を安定させることが重要です」
ボーマンの言葉には、軍事的な現実がよく表れていた。
援軍という言葉だけを聞けば、兵力が増えることは歓迎すべき話に思える。しかし、実際には兵士の食料や宿営場所、指揮官同士の連絡方法など、受け入れる側にも準備が必要になる。人数が増えれば、その分だけ補給の負担も増すため、援軍が独自の補給手段を持たない場合には、王軍の備蓄から食料を供給することになるだろう。
もちろん、援軍が独自の補給体制を整えて来るのであれば、負担は大きく軽減される。しかし、現時点ではその点についても明確な回答がなく、兵力の増加がどれほどの防衛力向上につながるのか判断できなかった。
「アルフォンス。財政面ではどうだ?」
「関税優遇を認めれば、短期的には交易量の増加が期待できます。しかし、戦後も三十年間維持するとなれば、王国の関税収入に大きな影響が出ます」
私は条件書の該当箇所を示した。
「特に問題なのは、特定航路の優先権と港湾施設の使用条件です。現状の文面では、将来ほかの国と通商協定を結ぶ際にも制約が生じる可能性があります。王国の復興には新しい交易相手を増やす必要がありますが、その選択肢を狭めることになりかねません」
フェルディナント殿下が書類へ目を落とした。
「三十年ということは、戦争が終わっても、その後の統治に影響が残るわけですね」
「はい。現在の我々だけでなく、将来の王国が負担することになります」
「それだけの条件を約束して、援軍が到着しなかった場合はどうなるのですか?」
「その点についても、明確な取り決めが必要です。派兵が実現しなかった場合に権益が発生しないよう、条件を設けなければなりません」
殿下は頷いた。
王太子として、将来の王国をどのような形で引き継ぐことになるのかを考えているのだろう。現在の戦争を生き延びることが最優先であるのは間違いないが、そのために結んだ約束が戦後の統治を難しくする可能性もある。
陛下はしばらく書類を見つめた後、口を開いた。
「実体の定まらぬ援軍と引き換えに、三十年の関税を約束することはできぬ」
私は頷いた。
「私も同じ考えです。ただし、条件を全面的に拒否する必要はないと思っております」
「代案があるのか?」
「はい。軍事支援が実際に開始された段階で関税優遇を適用し、期間も限定する方法です。港湾施設の使用についても、優先的な利用枠を設けることはできますが、排他的な権利は認めない。航路についても、他国の交易を妨げない範囲で調整する余地があります」
「それならば、王国の負担を抑えられるか」
「少なくとも、現在の条件よりは将来の選択肢を残せます」
陛下はボーマンへ目を向けた。
「軍として、そのような条件で援軍を得られるなら受け入れられるか?」
「派遣規模と到着時期が明確になり、共同作戦の指揮系統について合意できるのであれば、検討に値すると考えます」
「分かった」
陛下は条件書を私へ返した。
「アルフォンス。その方針で交渉を続けよ。必要な譲歩は検討するが、内容の定まらぬ約束に王国の将来を委ねるわけにはいかぬ」
「承知しました」
私は一礼し、書類を受け取った。
*
翌日、私はシルヴァノールの使節と再び会談した。
前日の協議内容を踏まえ、王国側の代替案を提示する。使節はこれまでと変わらない穏やかな態度で席に着き、私が説明を始めると、手元の書類へ目を落とした。
「国王陛下とも協議いたしました。軍事支援については、引き続き前向きに検討したいと考えております。ただし、提示された条件をそのまま受け入れることは難しいという結論になりました」
使節は静かに頷いた。
「どのような変更をご希望でしょうか」
「まず、関税優遇については、実際に軍事支援が開始された段階で適用したいと考えています。期間についても限定し、戦後の延長は改めて協議する形にしたい」
「なるほど」
「港湾施設については、シルヴァノール商船の優先使用枠を設けることは可能です。ただし、他国の商船を排除するような条件は認められません。航路についても同様です」
使節は書類へ目を通した。
「マリアベル王国のご事情は理解できます。しかし、この条件では本国の承認を得ることは難しいかもしれません」
「理由を伺っても?」
「我が国が求めているのは、軍事支援に伴う負担を補うだけの利益ではありません。戦後も安定した交易関係を維持できるという保証です。短期間の優遇だけでは、軍隊を派遣する決断を支えるには不十分なのです」
「その点は理解しています。しかし、我々としても、戦後の交易政策を長期間拘束する約束はできません」
使節は少し考えてから、穏やかな口調で答えた。
「三十年という期間は、我々にとって特別に長いものではありません。港を整備し、商人たちが新しい航路を定着させるには、それくらいの年月が必要だと考えております」
「それは、シルヴァノールの商人たちにとってはそうなのでしょう」
私は相手の目を見て続けた。
「しかし、マリアベル王国では三十年の間に、商人も役人も世代が変わります。今の私たちが結んだ約束によって、次の世代が交易の方法を選べなくなる可能性がある。それを考慮しないわけにはいきません」
使節は私の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。確かに、同じ年月でも、国によって受け止め方は異なりますね」
「ええ。私たちは、援軍を求める立場にあります。しかし、だからといって、どのような条件でも受け入れられるわけではありません」
「承知しております」
使節は書類を閉じた。
その後も、双方は関税優遇の期間や港湾施設の使用条件について、細かな調整を続けた。例えば、関税優遇の対象となる品目を限定する方法や、港湾施設の使用枠を一定期間ごとに見直す方法なども検討したが、シルヴァノール側が求める長期的な保証と、王国側が認められる範囲には依然として隔たりがあった。
シルヴァノールが求める条件は、平時であれば交渉を重ねることで合意に至る可能性もある。しかし、現在の王国には、戦争がいつ終わるのかさえ見通せない状況であり、将来の交易政策を大きく拘束する約束を結ぶことは難しかった。
私は、前日に書記官から聞いた情報を思い出した。
「ところで、一つ確認してもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「最近、ザクセンブルクからシルヴァノールへ使節が訪れたという話を耳にしました。何かご存じでしょうか」
使節は表情を変えなかった。
「我が国には、さまざまな国の商人や外交官が訪れます。ザクセンブルクとの交流も、以前からございます」
「今回の軍事支援に関して、何らかの協議が行われたのでしょうか」
「他国との個別の協議内容について、私の立場からお答えすることはできません」
「そうですか。失礼しました」
私はそれ以上追及しなかった。
使節は肯定も否定もしなかったが、それだけで何かを判断することはできない。仮にザクセンブルクが接触していたとしても、シルヴァノールが今回提示した条件は、自国の利益に基づいて説明できるものだった。
また、外交官が他国との協議内容を明かさないことは、特別に不自然な対応でもない。こちらが同じ質問を受けたとしても、ザクセンブルクとの交渉内容をすべて明らかにすることはないだろう。
私は話題を戻し、残された条件について確認を続けたが、その日の会談でも合意には至らなかった。
*
数日後、シルヴァノールの使節から、改めて面会の申し入れがあった。
私はこれまでと同じ会議室で使節を迎えた。使節は挨拶を済ませると、持参した書類を開き、静かな口調で説明を始めた。
「アルフォンス宰相閣下。本国より、軍事支援についての最終的な回答が届きました」
「伺いましょう」
「慎重に検討した結果、我が国は現時点での軍事派遣を見送ることとなりました」
私は静かに頷いた。
予想していなかったわけではない。これまでの交渉で、双方の条件に大きな隔たりがあることは明らかになっていた。マリアベル側が譲歩できる範囲を示しても、シルヴァノール側が求める長期的な保証には届かなかったのである。
それでも、正式な回答を聞けば、王国が期待できる支援の一つが失われたことを認めざるを得なかった。
「残念ですが、貴国の判断は承知しました」
「ご期待に沿えず、申し訳ありません」
「いえ。軍隊を派遣することが容易な決断ではないことは、理解しております」
使節は一礼した後、説明を続けた。
「ただし、軍事派遣を見送ることと、マリアベル王国との関係を断つことは別の問題です。我が国は今後も国交を維持し、食料や医薬品をはじめとする交易を継続する方針です」
「それを聞いて安心しました。現在のメルキアにとって、海上交易は欠かせないものです」
「民間商船の航行を妨げる措置を取る予定もございません。また、今後の情勢に変化があれば、外交協議を再開する余地は残されております」
「ありがとうございます。王国としても、貴国との友好関係を維持したいと考えています」
使節は穏やかな表情を浮かべた。
「我々も、自国の民に対して責任を負っております。今回の決定が、マリアベル王国の皆様にとって厳しいものであることは承知しておりますが、どうかご理解いただければと思います」
「もちろんです」
私は答えた。
彼らが自国の利益を優先したことを、責める理由はない。私自身も、マリアベル王国の将来を守るために、相手の求める条件を受け入れなかったのだから。互いに相手の事情を理解していても、すべての要求を満たせるわけではない。
それに、今回の交渉が不成立に終わったからといって、シルヴァノールとの関係まで損なうべきではなかった。軍事支援を得られない今こそ、海上交易を維持することが重要になる。商船が運んでくる食料や医薬品は、王軍だけでなく、メルキアで暮らす人々の生活を支えているのだ。
使節は最後に、次回の商船が予定どおりメルキアへ向かう見込みであることを伝えた。私はその情報に礼を述べ、今後の交易については引き続き担当者同士で調整することを確認した。
会談を終えると、使節団は静かに退出していった。
*
執務室へ戻った私は、シルヴァノールとの交渉結果を報告書にまとめた。
軍事支援については、現時点での派遣を見送ることが正式に決定した。一方、国交と交易は継続され、将来の情勢変化に応じた外交協議の余地も残されている。私はそれぞれの項目を確認し、国王陛下へ提出する書類として整えた。
シルヴァノールからの援軍を得られなかったことは、王軍にとって小さくない損失だった。南方の主防衛線は現在も維持されているが、前方の補給拠点を失い、巡回範囲も縮小している。新たな兵力が加われば防衛計画に余裕を持たせられたはずだが、その可能性は当面なくなった。
一方で、港を通じた物資の調達は続く。食料や医薬品が届く限り、王軍と市民の生活を支えることはできる。もちろん、それだけで戦争に勝てるわけではないが、長期にわたって防衛を続けるためには欠かせない条件だった。
私は報告書を閉じ、別の書類へ目を向けた。
そこには、ザクセンブルクとの交渉状況が記されている。
彼らはハインリヒがメルキアへ進軍した場合、その背後を攻撃する可能性を示していた。しかし、グラニスク会戦での介入を考えれば、その約束を前提に王軍の防衛計画を立てることはできない。
シルヴァノールは交易を続けてくれるが、軍隊は派遣しない。一方、ザクセンブルクは軍事協力を申し出ているものの、その約束を信用するには材料が足りない。どちらの国も、それぞれの利益に基づいて動いている以上、マリアベル王国としては相手の行動を見極めながら判断するしかなかった。
私は書類を整理し、外交担当の書記官へ渡した。
「シルヴァノールとの交渉結果は、陛下へ正式に報告してくれ。ザクセンブルクについては、引き続き情報収集を続けるように」
「承知しました」
「それから、港湾担当官を呼んでほしい。次の商船について確認したいことがある」
書記官が退出してしばらくすると、朝にも報告を受けた港湾担当官が入室してきた。
「宰相閣下。お呼びでしょうか」
「ああ。シルヴァノールとの軍事支援交渉は、残念ながら不成立となった。ただし、交易は今後も継続される」
「それは何よりです。次回の商船についても、入港予定が届いております」
「積荷の内容は?」
「穀物と乾燥豆、それに医薬品が中心となる見込みです。ただ、数量についてはまだ確定しておりません」
「次の船には、できるだけ保存の利く食料を優先してほしい。医薬品については、軍の救護施設だけでなく、市内の受け入れ施設にも配分できるよう調整してくれ」
「承知しました。商人側にも希望を伝えます」
「それから、船が到着するまでの在庫をもう一度確認してほしい。軍と市内の需要を分けて計算するんだ。市場へ流れる品物についても、王国の備蓄とは区別してくれ」
「はい。明日までに集計いたします」
私は頷き、次の入港予定が記された書類を手元へ引き寄せた。
担当官が示した日付を確認し、港の倉庫に残っている物資と、今後必要になる食料の数量を照らし合わせる。次の船が到着するまでの消費量を計算するには、軍の配給だけでなく、市内の受け入れ施設で必要になる食料も考慮しなければならない。さらに、商船の到着が遅れた場合に備えて、数日分の余裕を確保しておく必要もあった。
「この乾燥豆については、もう少し数量を増やせないだろうか」
私は積荷の予定表を指さした。
「保存が利きますし、穀物と合わせて配給することもできます。商人側に確認してみます」
「頼む。それから、医薬品のうち不足が続いているものについては、救護施設の担当者から優先順位を聞いておいてくれ。必要なものが届かなければ、数量だけ増えても意味がないからな」
「承知しました」
担当官は手元の書類へ指示を書き込み、次回の入港までに必要な調整事項を確認した。
私は港の倉庫に残っている物資の一覧を広げ、次の商船が到着するまでの配給計画を担当官と一緒に見直していった。




