【閑話4】第5話 援軍の条件
ザクセンブルク王国の特使がメルキアを訪れてから、既に幾日かが過ぎていた。
私の机には、その際の会談記録と、先方から新たに届けられた書状が並んでいる。どちらも通常の外交文書として扱うには厄介な代物で、特に軍事協力に関する部分は、閲覧できる者を厳しく制限していた。
書状には、先日の提案について本国との協議を行ったこと、そして具体的な条件を詰めるため、改めて会談の機会を設けたいことが記されている。しかし、肝心の軍事行動については、相変わらず曖昧な表現が使われていた。
私は書状を机に置き、以前の会談記録を開いた。
ハインリヒ軍がメルキアへ攻勢をかけた場合、ザクセンブルク軍が南方からその後方地域を脅かす。
提案そのものは、軍事的に十分な価値を持っている。ハインリヒがメルキア攻略のために主力を集中させれば、南方の守備は相対的に手薄になる。そこへザクセンブルク軍が進出すれば、敵は兵力を分散させる必要に迫られ、補給路の維持にも相応の負担が生じるだろう。
問題は、その提案を行った国がザクセンブルクだということだった。
グラニスクの会戦が始まる以前、ザクセンブルク王国はマリアベル王国の内乱に対して中立の立場を表明していた。国境付近に軍を展開していたものの、その目的はあくまで国境の監視と警備であり、いずれの陣営にも加担しないというのが公式な説明だった。
ところが、実際に王軍とハインリヒ軍が衝突すると、ザクセンブルク軍は突如として戦場へ介入し、ハインリヒ側に立って王軍を攻撃したのである。
中立国の軍が予告なく敵として現れたことで、王軍は想定していなかった方向からの攻撃を受け、戦線の維持が困難になった。戦闘の混乱に加え、ザクセンブルク軍の動向を把握できていなかったことが、敗北を決定的なものにした。
彼らは王軍と正式な軍事同盟を結んでいたわけではない。したがって、同盟条約に違反したという話ではなかった。しかし、中立を表明し、国境監視を名目として展開していた軍が、会戦の最中に突然一方の陣営へ加担したことは、王軍にとって到底容認できるものではなかった。
私自身、あの日の報告書を何度も読み返している。戦死者と行方不明者の数、失われた装備、撤退中に放棄された物資。報告書には数字が整然と並んでいるが、その一つひとつの背後には、帰還を待っていた家族や、部下を失った将校たちがいる。
それでも、国王陛下は交渉の継続を認められた。
相手を信用できないからといって、利用できる可能性まで捨てるべきではない。陛下の判断は、宰相として理解できるものだったし、王国が置かれた状況を考えれば、むしろ必要な決断だったとも思う。
だからこそ、私が確認しなければならない。
ザクセンブルクが何を約束し、その約束によって王国が何を得られるのか。そして、約束が守られなかった場合、我々は何を失うことになるのか。
「宰相閣下。会談の準備が整いました」
扉の外から声がかかり、私は書類を閉じた。
「分かりました。先方をお通ししてください」
机の上に残した書状を施錠できる箱へ収め、私は隣室へ向かった。
◇
今回の会談には、前回のような国王への謁見という形式は取られていない。
ザクセンブルクの使節団がメルキアを訪れたこと自体は、既に王宮内でも知られている。しかし、彼らがハインリヒとの協力関係を見直す可能性について、どこまで具体的な協議を進めているのかは別の問題だった。
仮にその内容がハインリヒ側へ漏れれば、ザクセンブルクは態度を硬化させるかもしれない。反対に、王軍内部へ不用意に広まれば、グラニスクで戦った将兵たちの反発を招くおそれがある。特に、ザクセンブルク軍との戦闘で部下や友人を失った者にとって、かつての敵国と軍事協力を協議しているという事実は、容易に受け入れられるものではないだろう。
そのため、今回の協議は臨時王宮の一室で、必要最小限の人数に限って行うことになっていた。
室内には長机が一つ置かれ、その上に筆記具と数枚の白紙が用意されている。私の隣には記録を担当する書記官が座り、向かい側にはザクセンブルクの特使が控えていた。
四十代半ばほどの男で、濃い色の礼服を身につけている。先日の謁見と同じく、物腰は穏やかで、こちらの警戒を気にする様子もない。国王陛下からグラニスクでの軍事介入について厳しく問いただされた際も、この男は自国の判断を誤りだったとは認めなかった。
「宰相閣下。再びお話しする機会をいただき、感謝申し上げます」
「こちらこそ。貴国からのご連絡は拝見いたしました」
私は席を勧め、相手が腰を下ろしたところで会談記録を開いた。
「本日は、先日陛下へお申し出いただいた軍事協力について、具体的な内容を確認したく存じます」
「承知しております。我が国としても、双方にとって有益な合意を目指したいと考えております」
「それでは、まず軍事行動について伺いましょう」
特使は軽く頷いた。
私は書記官へ目配せし、記録を始めさせた。
「貴国は、ハインリヒ軍がメルキアへ攻勢をかけた場合、南方からその後方地域を攻撃する用意があると説明されました。この方針に変更はございませんか」
「基本的な方針に変更はございません」
「では、具体的にはどの段階で行動を開始されるのでしょうか」
特使は少し考えてから答えた。
「それは、ハインリヒ軍の動向によるところが大きいでしょう。主力がメルキア方面へ移動し、南方の守備が手薄になった段階が、我が軍にとって最も有利な機会となります」
「その判断は、貴国の軍司令部が独自に行うということでしょうか」
「軍事行動の最終的な判断は、当然ながら我が国が行います」
私は頷き、書記官が記録を終えるのを待った。
「では、我が軍は貴国の行動開始を、どのように確認すればよろしいのでしょうか」
「双方の軍事担当者による連絡体制を整えることは可能かと存じます」
「連絡体制を整えることと、実際に軍が動くことは別でございます」
特使は私を見た。
「我が国の意思を疑っておられるのですか」
「貴国がどのような意思をお持ちか、確認しているところでございます」
私は会談記録の該当箇所を指で押さえた。
「仮に我が軍が、貴国の南方攻撃を前提として反攻の準備を進めたといたしましょう。しかし、予定された時期になっても貴国の軍が動かなかった場合、我が軍は重大な危険にさらされます」
「そのような事態を避けるためにも、協定が必要なのではありませんか」
「協定が必要であることには同意いたします。ただし、協定を結ぶことと、その履行を確認できることも、また別の問題でございます」
特使は、そこで一度口を閉じた。
私は相手の返答を急がせず、机の上の書類を一枚めくった。
「我が国が必要としているのは、貴国が動く可能性ではございません。実際に軍が行動したと確認できる手段です」
「なるほど。宰相閣下のお考えは理解いたしました」
特使は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「ただし、部隊の配置や作戦の開始時期について、現段階ですべてをお伝えすることはできません。我が国にも軍事上の機密がございます」
「それは承知しております。我が国も、現在の防衛配置をすべて開示するつもりはございません」
「では、双方の軍事担当者による非公開の協議を設けるということで、いかがでしょうか」
「その必要性については、陛下とボーマン総司令官へ報告いたします」
私はそこで、もう一つ確認した。
「なお、我が軍は現在、独自の防衛計画に従って行動しております。貴国との協議を理由として、その計画を変更する予定はございません」
「それは、我が軍の協力を必要としていないという意味でしょうか」
「いいえ。貴国の協力が実現すれば、我が軍にとって大きな利益となるでしょう。しかし、実現するかどうか分からない軍事行動を前提として、兵を動かすことはできないという意味でございます」
特使は、しばらく私を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「慎重なお立場であることは、よく理解いたしました」
その言葉が本心かどうかは分からない。しかし、少なくとも軍事協力の具体的な保証について、先方がまだ明確な回答を用意していないことは確認できた。
◇
「それでは、我が国からの要望についても、改めてご説明させていただきます」
特使は持参した書類を開いた。
「第一に、グラニスク会戦に関する問題でございます」
私は、書記官の筆が一瞬止まったことに気づいた。
彼も、あの戦いで何が起きたかを知っている。もっとも、今は感情を表に出す場面ではない。
「先日の謁見でも申し上げましたとおり、我が国は過去の対立を長く引きずることを望んでおりません。両国が協力関係を築くのであれば、グラニスクでの出来事について、今後一切の責任を追及しないことを確認したいと考えております」
「具体的には、どのような責任を想定されているのでしょうか」
「戦後の賠償請求、外交上の制裁、あるいは我が国の行動に対する公式な非難などでございます」
私は、相手の書類へ視線を落とした。
「文書の案はございますか」
「こちらに」
特使は一枚の紙を差し出した。
そこには、両国がグラニスク会戦に関する過去の対立を解消し、今後その責任を追及しない旨の文言が記されていた。
私は一度目を通し、さらに冒頭から読み返した。文章そのものは簡潔だったが、問題となるのは、過去の出来事をどのように扱うかという部分である。
「この文言では、我が国がグラニスク会戦における貴国の行動を、正当なものとして承認したと解釈される余地がございます」
「そのような意図はございません」
「でしたら、表現を改めていただく必要がございます」
私は書類を机に置いた。
「我が国が今後、貴国に対して賠償や制裁を求めないことについては、交渉の余地がございます。しかし、それはグラニスクで何が起きたかを否定することとは別の問題です」
「我が国としても、歴史上の出来事を消し去ろうというわけではございません」
「では、貴国が当初、国境監視を目的として軍を展開していると説明されていたことについては、相違ございませんね」
「はい。そのとおりでございます」
「そして、実際の会戦では、その軍がハインリヒ側に立って王軍を攻撃した。この事実についても、双方の認識に相違はございませんか」
特使はすぐには答えなかった。
私はその間に、グラニスクの戦後報告書を思い出していた。
王軍の各部隊から届けられた損害報告には、戦死者の名前だけでなく、最後に確認された位置や、撤退できなかった理由まで記されている。中には、ザクセンブルク軍が中立を維持するものと考え、別の方面からの攻撃に備えていた部隊もあった。彼らは、突然現れた新たな敵に対応するため、十分な準備もないまま戦線を変更しなければならなかったのである。
彼らがどのような状況で戦い、どのような損害を受けたのかを、私は知っている。
もちろん、今ここで彼らのためにザクセンブルクを断罪することはできない。宰相として私が担うべき仕事は、王国を存続させ、これ以上の犠牲を減らすための条件を整えることだからだ。
だが、そのために過去の事実まで書き換える必要はない。
「宰相閣下」
特使が口を開いた。
「我が国が当初、国境の監視を目的として軍を展開していたことは事実でございます。しかし、その後の情勢変化により、我が国として新たな判断を下したものでございます」
「その判断によって、貴国の軍がハインリヒ側に加わったことも事実でございますね」
「否定いたしません。ただし、その判断が不当であったというご指摘については、我が国として同意いたしかねます」
「その点について、今ここで一致する必要はございません」
私は答えた。
「我が国が過去の責任について今後請求を行わないことと、貴国の軍事介入によって王軍が損害を受けた事実を否定することは、同じではございません」
特使は、私の言葉を聞いてから、ゆっくりと頷いた。
「つまり、賠償請求や制裁については協議できるものの、当時の軍事行動に対する評価については、両国それぞれの立場を維持する、ということでしょうか」
「そのようにお考えいただいて結構です。ただし、我が国が公式な記録を訂正したり、戦死者に関する報告を撤回したりすることはございません」
「承知いたしました。その点については、本国と調整いたしましょう」
私は書記官に、今のやり取りを正確に記録するよう指示した。
戦死者の名前が並ぶ報告書と、目の前にある外交文書は、まったく異なる目的で作られている。しかし、どちらも国家が残す正式な記録である以上、互いに矛盾する内容を記すわけにはいかなかった。
◇
「第二に、内乱終結後の外交関係についてでございます」
特使は別の書類を取り出した。
「我が国は、マリアベル王国との関係正常化を望んでおります。また、ゲルマニア諸王国との協調関係についても、従来どおり維持していただきたいと考えております」
「関係正常化については、我が国としても検討する用意がございます」
私は答えた。
「ただし、ゲルマニア諸王国との協調という表現については、具体的な範囲を確認する必要がございます」
「我が国としては、周辺地域の安定を損なう軍事同盟が新たに形成されることを懸念しております」
「シルヴァノールとの関係を指しておられるのでしょうか」
特使は微笑を浮かべた。
「特定の国に限った話ではございません。しかし、ヴェルミニア海の勢力均衡について、我が国が関心を持っていることはご理解いただけるかと存じます」
「承知しております」
私は机の上に置いた地図を広げた。
ヴェルミニア海は、マリアベル王国にとって重要な交易路である。現在のメルキアを支える物資の多くも、港を通じて運び込まれている。シルヴァノールとの交易関係を維持できなければ、王軍だけでなく、避難してきた住民たちの生活にも影響が及ぶ。
その一方で、ザクセンブルクがシルヴァノールの影響力拡大を警戒していることも理解できた。彼らにとって、マリアベル王国の内乱が終わったあと、ヴェルミニア海における勢力均衡がどのような形になるかは、重要な外交問題なのだろう。
「貴国の懸念については承知いたしました。しかし、我が国が他国と外交関係を結ぶ権利まで制限されることは、受け入れられません」
「我が国も、通常の交易を妨げるつもりはございません」
「では、武器の購入についてはいかがでしょうか」
特使は少し眉を上げた。
「武器、ですか」
「はい。我が国がシルヴァノールから武器や軍需品を購入する場合、それは貴国の求める協調関係に反するのでしょうか」
「通常の商取引であれば、直ちに問題となるものではないでしょう」
「港湾施設の優先利用を認める場合は?」
「その条件によるかと存じます」
「では、軍事顧問を受け入れる場合はいかがでしょう」
特使はそこで、少し考え込んだ。
「軍事顧問となれば、単なる商取引とは異なります。具体的な役割や人数によって、判断が必要となるでしょう」
「つまり、どこまでが認められる協力であり、どこからが貴国の懸念する軍事的な影響力の拡大に当たるのか、現時点では明確ではないということですね」
「一律に定めることが難しい問題であると申し上げております」
私は頷いた。
「その点は理解いたします。しかし、判断基準が明確でなければ、我が国が行う外交上の決定について、後から貴国が異議を唱える余地が残ります」
「そのような事態を避けるためにも、双方で協議を行うことが重要ではありませんか」
「協議することと、相手国の承認を必要とすることは別でございます」
特使は口元の笑みを消した。
私は言葉を続けた。
「我が国は、ゲルマニア諸王国との友好関係を維持する用意がございます。しかし、他国との外交交渉を行うたびに貴国の承認を求めるような関係は、正常な国家間の協調とは申せません」
「我が国が求めているのは、あくまで敵対的な軍事同盟を結ばないことでございます」
「でしたら、その『敵対的』という言葉の定義を明確にする必要がございます」
私は書記官へ視線を向けた。
「今の点も、次回までの確認事項に加えてください」
書記官が頷き、筆を動かす。
特使は少しの間、私の手元にある記録を眺めていた。
「宰相閣下は、随分と細かな点まで確認されるのですね」
「国家間の約束でございますから」
私は答えた。
「後になって解釈が異なっていたと分かっても、簡単に取り消せるものではございません」
特使は小さく笑った。
「確かに、そのとおりでございます」
穏やかな返答だったが、こちらの要求を受け入れたわけではない。
相手もまた、自国に有利な解釈を残すために、曖昧な表現を維持しようとしているのだろう。私が確認事項を増やすたび、特使は本国との協議が必要だと答えることになる。しかし、ここで曖昧なまま合意してしまえば、戦後になってから王国の外交を縛る条件として利用される可能性がある。
その危険を避けることも、宰相としての私の仕事だった。
◇
「もう一点、王位継承に関する問題がございます」
特使は、最後の書類を取り出した。
「先日、我が国はフェルディナント殿下を正統な王位継承者として承認する用意があると申し上げました。その方針についても、変更はございません」
「それは、我が国にとって重要なお申し出でございます」
私は答えた。
ハインリヒは王都マリアベルクを占領し、自らの王位の正統性を主張している。現在もグスタフ陛下を支持する諸侯や官吏は少なくないが、外国から見れば、王都を支配している側が正統な政府であると判断される可能性もある。
その状況で、ザクセンブルクがフェルディナント殿下の王位継承権を承認することには、確かな外交的価値があった。王国の正統性を国外へ示すことができれば、今後の外交交渉や物資調達にも有利に働く可能性がある。
ただし、それだけでは不十分だった。
「確認させていただきたいのですが、貴国がフェルディナント殿下を承認されることと、ハインリヒの王位主張を否定されることは、同じ意味でございましょうか」
特使は、すぐには答えなかった。
「我が国は、ハインリヒ殿下への支持について、見直す用意がございます」
「それは先日の謁見でも伺いました」
私は、前回の会談記録を開いた。
「しかし、支持を見直すことと、正式に撤回することは異なります。貴国がフェルディナント殿下の王位継承権を認めながら、同時にハインリヒの統治についても一定の正統性を認めるのであれば、我が国が期待する外交上の効果は限定されます」
「王位継承に関する判断は、慎重に行う必要がございます」
「無論です。だからこそ、協定に記載する際には、その意味を明確にしていただきたいのです」
特使は書類へ視線を落とした。
「我が国としても、内乱終結後に安定した王位継承が行われることを望んでおります」
「その点については、我が国も同じ考えでございます」
私は答えた。
「ただし、我が国が求めるのは、フェルディナント殿下の王位継承権に対する明確な承認です。そして、貴国がハインリヒへの支持を撤回されるのであれば、その事実も別に確認する必要がございます」
「承知いたしました。その点についても、本国へ確認いたしましょう」
私は書記官へ、今の回答を記録するよう指示した。
ここまでの協議で、ザクセンブルク側が提示した条件の輪郭は見えてきた。しかし、肝心な部分になると、いずれも本国との調整が必要という回答に戻ってしまう。
もちろん、特使がその場であらゆる条件を決定できるとは考えていない。外交官には与えられた権限があり、その範囲を超える約束はできないからだ。むしろ、ここで軽々しくあらゆる条件を受け入れるような人物であれば、その約束の価値を疑わなければならないだろう。
それでも、現時点で何が確約されているのかを明確にする必要があった。
◇
「本日の協議内容について、一度整理させていただきます」
私は机の上に三枚の白紙を並べた。
「貴国のご提案には、外交関係の正常化、グラニスク会戦に関する責任の取り扱い、そして軍事協力という、性質の異なる問題が含まれております」
「そのとおりでございます」
「これらを一つの協定にまとめれば、条件の解釈が複雑になるおそれがございます。そこで、三つの文書に分けて協議を進めることを提案いたします」
私は一枚目の紙を示した。
「第一に、外交関係の正常化に関する基本合意案です。ゲルマニア諸王国との協調や、王位継承に関する承認についても、こちらで整理することができるでしょう」
続いて二枚目を指した。
「第二に、グラニスク会戦に関する責任の取り扱いです。賠償請求や制裁について、双方がどこまで合意できるのかを明確にいたします」
最後に三枚目へ手を移した。
「第三に、軍事協力に関する非公開の付属協定案です。こちらには、軍事行動の開始条件、連絡方法、双方の義務などを記載する必要がございます」
特使は三枚の紙を見比べた。
「外交と軍事を分けるということですか」
「はい。特に軍事協力については、通常の外交文書と同じように扱うべきではございません」
「なるほど。合理的なご提案かと存じます」
特使は頷いた。
「ただし、我が国としても、三つの文書を完全に独立したものとして扱うことは難しいでしょう。軍事協力を行う以上、外交上の条件が満たされることも必要でございます」
「その点は承知しております」
私は答えた。
「文書を分けることと、合意の成立条件を切り離すことは別でございます。各文書の効力がいつ発生するのかについては、別途定める必要があるでしょう」
特使は少し考えたあと、頷いた。
「その形であれば、本国へ提案することも可能かと存じます」
私は書記官に、三文書への分離を協議上の提案として記録させた。
合意には至っていない。しかし、少なくとも今後何を協議すべきかについては、双方の認識をある程度そろえることができた。
「本日の協議内容については、我が国でも陛下へ報告いたします」
「我が国も、本国へ持ち帰りましょう」
特使は立ち上がり、丁寧に一礼した。
「宰相閣下。本日は有意義なお話ができました」
「こちらこそ。次回は、より具体的な回答をいただけることを期待しております」
特使は穏やかに微笑んだ。
「できる限り、ご期待に沿えるよう努めましょう」
私はその返答を聞きながら、相手が最後まで確約を避けていることを確認した。
◇
会談を終えた私は、協議記録を持ってグスタフ陛下の執務室を訪れた。
陛下は机の上に広げた軍の報告書を読んでいたが、私の姿を見ると書類を閉じた。
「アルフォンス。ザクセンブルクとの話はどうだった」
「先方の要求について、いくつか具体的な確認を行いました」
私は協議記録を差し出した。
「軍事協力については、行動開始の条件や連絡方法を明確にする必要がございます。しかし、現時点では先方から具体的な保証は得られておりません」
「結局、我々に求めるものは明確だが、奴らが何をするかは定まっておらぬのだな」
「おおむね、そのような状況でございます」
陛下は記録を読み進めた。
「グラニスクの責任については?」
「今後の賠償請求や外交上の制裁については、交渉の余地がございます。ただし、会戦で何が起きたかという事実まで否定することはできないと伝えております」
「当然だ」
陛下は短く答えた。
「兵を失ったことまで、なかったことにはできぬ」
「はい。先方も、歴史上の事実そのものを否定する意図はないと説明しております。具体的な文言については、改めて調整する予定です」
陛下はしばらく黙って記録を読んでいた。
「ゲルマニアとの協調については、どうだ」
「先方は、シルヴァノールとの軍事協力を警戒しております。しかし、どのような行為が敵対的な軍事協力に該当するのか、明確な基準を示しておりません」
「都合のよい解釈を残したいのだろうな」
「その可能性はございます」
私は頷いた。
「我が国の外交上の自主性を損なわない範囲で、条件を整理する必要がございます」
陛下は書類を机に置いた。
「よかろう。交渉は続けよ。だが、ボーマンの防衛計画には一切影響させるな」
「承知いたしました」
「ザクセンブルクが動けば、確かに好機となる。だが、動かなかったとしても、我々はメルキアを守らねばならぬ」
「はい。その方針は、先方にも明確に伝えております」
陛下は頷いた。
「シルヴァノールとの交渉も続けよ。どちらか一方の返答を待つために、もう一方の交渉を止める必要はない」
「承知いたしました。ただし、両国の要求には矛盾する部分がございます」
「分かっておる。だからこそ、まだどちらにも約束するな」
陛下はそう言って、別の報告書を手に取った。
「選べる道があるうちに、できる限り多くの道を残しておけ」
私は深く頭を下げた。
「御意」
◇
政務室へ戻ると、先ほどの書記官が協議記録の清書を進めていた。
「宰相閣下。先方へ送る回答文書については、どのようにいたしましょうか」
「まず、今日の協議内容を三つに分けて整理してください。外交関係、グラニスクの責任、軍事協力です」
「承知いたしました」
「そのうえで、先方が確約した事項と、検討すると述べた事項を区別してください。こちらからの提案についても、合意済みと誤解される表現は避けるように」
書記官は頷き、手元の紙に指示を書き留めた。
「軍事協力に関する記録は、通常の外交文書とは別に保管いたしますか」
「はい。閲覧できる者を限定してください。特に、作戦開始の条件や連絡方法については、今後ボーマン総司令官と協議する必要がございます」
「かしこまりました」
私は机に向かい、先方から受け取った書類をもう一度確認した。
外交関係の正常化については、基本的な方向性に大きな隔たりはない。しかし、ゲルマニアとの協調という言葉の範囲は、まだ明確になっていない。仮にその条件を曖昧なまま受け入れれば、将来シルヴァノールとの交易や軍事協力を進める際に、ザクセンブルクから異議を唱えられる可能性がある。
グラニスクの責任についても、賠償請求を行わないことと、過去の行動を正当化することの違いを、文書の上で明確にしなければならない。ザクセンブルクが当初は中立を表明していたこと、その後にハインリヒ側へ軍事介入したこと、そして王軍が損害を受けたことは、いずれも記録として残すべき事実だった。
そして軍事協力については、ザクセンブルク軍が実際に動くという保証が得られていない。彼らがハインリヒ軍の後方を攻撃すれば、王軍にとって大きな利益となるだろう。しかし、その可能性に期待して防衛計画を変更することは、グスタフ陛下もボーマン総司令官も認めていない。
私は、それぞれの項目に確認事項を書き加えた。
軍事行動の開始条件と、連絡方法および確認手段については、ボーマン総司令官との協議を経て検討する。グラニスク会戦に関する責任の文言については、事実関係の否定を含まない形で再調整する。ゲルマニアとの協調については、その範囲と制限事項を明確にする。フェルディナント殿下の王位継承承認については、ハインリヒへの支持撤回と併せて確認する必要がある。
書記官が清書した協議記録を持ってきたので、私は原本と照らし合わせ、いくつかの表現を修正した。
「こちらの文書には、先方が『検討する』と述べた事項を、『同意した』と記載しないようにしてください」
「申し訳ございません。修正いたします」
「それから、軍事協力の付属協定案は、まだ作成を始めなくて結構です。先方の回答を待ち、必要な条件がそろってから着手しましょう」
「承知いたしました」
書記官が修正のために席へ戻ると、私は次回の協議に向けた確認事項を別紙にまとめた。
今日の会談で、ザクセンブルクとの距離が縮まったとは思わない。しかし、何が決まっておらず、どこに意見の相違があるのかは、以前より明確になった。相手の要求を理解することと、その要求を受け入れることは違う。少なくとも、次の協議で何を確認しなければならないかについては、整理することができた。
私は完成した報告書に署名し、書記官へ渡した。
「こちらを陛下の執務室へ届けてください。それから、ザクセンブルク側への回答文書は、私が最終確認するまで発送しないように」
「承知いたしました」
書記官が書類を抱えて部屋を出ていくのを見届け、私は次の書類を手に取った。
シルヴァノールとの交易条件に関する報告書だった。
ザクセンブルクとの交渉が続く間も、王国の外交が止まることはない。私は港湾使用料と関税に関する記載を確認し、担当官へ追加資料の提出を求めるため、呼び鈴を鳴らした。




