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【完結】脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章4】冬を待つ王国

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【閑章4】第4話 守るべき戦線


 メルキアの王軍司令部に設けられた軍議室には、王国北部の地図が広げられていた。


 私はグスタフ陛下の少し後ろに席を与えられ、集まった将軍や指揮官たちの報告に耳を傾けていた。王都から撤退して以降、王軍はメルキアへ通じる回廊を中心に防衛態勢を整えており、先日の湿地帯での戦闘を含め、敵の接近を何度も退けている。報告を聞く限り、戦況は決して悪いものではなく、少なくとも主防衛線を突破されたという知らせは届いていなかった。


「現在の回廊防衛について、改めて確認しておきたいと思います」


 王軍総司令官のボーマン将軍が立ち上がり、地図の南側を指した。


「メルキアへ陸路で進軍する場合、敵はこの回廊を通る必要があります。西側にはヴェルミニア海と砂州が広がり、大軍が自由に展開できる地形ではありません。一方、東側はフロンティア大公国の領土に接しております」


 将軍は国境線に沿って指を動かした。


「ハインリヒ軍が東側から大きく迂回するには、大公国の領土へ踏み込まなければなりません。しかし、大公国は現在の戦いに直接介入しておらず、ハインリヒも国境侵犯によって新たな敵を作る危険を無視することはできないでしょう」


「つまり、大公国が我々に味方していなくとも、その国境が敵の動きを制限しているということですか?」


 私が尋ねると、ボーマン将軍はうなずいた。


「そのとおりです、殿下。ただし、大公国が我が軍の側面を守ってくれているわけではありません。敵が国境を越えないという保証もない以上、警戒は必要です」


 私は地図を見つめた。王都を失った後、グスタフ陛下がメルキアへ軍を集めた理由については、以前から説明を受けていた。しかし、こうして地形と国境を確認すると、その判断の意味がよく分かる。


 回廊の狭い入口を守る限り、敵は兵力の優位を十分に活かせない。こちらは限られた場所に戦力を集中できるため、王都周辺の平野で戦うよりも、はるかに守りやすいのだ。


「現在、主防衛線は安定しております。敵の斥候や小部隊との接触は続いておりますが、大規模な攻撃を受けても対応できるよう、各陣地の連携と予備戦力の配置を整えております」


 ボーマン将軍は地図上の駒を動かし、回廊内に配置された部隊を示した。


「ただし、防衛に適した地形を確保しているからといって、何もせずに守り続けられるわけではありません。兵士の交代、武器の補充、食料の輸送など、戦いを続けるための準備が必要です」


 私はうなずいた。先日の戦闘では、敵の斥候部隊を撃退できたものの、こちらにも死傷者が出ていた。矢の消費も想定を上回り、後方から補充しなければならなかったと聞いている。


 戦いに勝ったからといって、何も失わずに済むわけではない。そのことは、私自身も少しずつ理解し始めていた。


「本日、皆様にご相談したいのは、回廊の南側にあるエルンフェルト砦についてです」


 ボーマン将軍が地図の一点を指した。


 エルンフェルト砦は、主防衛線よりも南に位置する前進監視拠点だった。回廊へ接近する敵の動きを早期に察知するために設けられており、現在も守備隊が駐留している。砦の周辺では何度か敵の斥候との小競り合いが発生していたが、守備隊はその都度撃退しており、砦そのものが危険な状態にあるわけではなかった。


「エルンフェルト砦は、これまで十分に役割を果たしてきました。敵の接近を早期に把握できることは、主防衛線の部隊が準備を整えるうえで大きな利点です」


 将軍はそう説明した後、砦と後方の陣地を結ぶ街道を示した。


「しかし、敵の活動が活発になるにつれ、砦を維持するための負担が増えております。補給隊を送る際には護衛を付けなければならず、守備隊の交代にも慎重な準備が必要です」


「砦の守備隊だけではなく、そこへ物資を運ぶ兵士たちも必要になるということですね」


「はい。しかも、砦への輸送に使った兵や荷車は、その間、他の任務に就くことができません」


 私は砦の位置を確認した。確かに、主防衛線から南へ離れた場所にある。敵の動きを早く知るためには有利な位置だが、その分、後方との連絡や補給には手間がかかるのだろう。


「ですが、将軍。砦が敵の接近を監視しているのであれば、その役割は重要なのではありませんか?」


「もちろんです、殿下。エルンフェルト砦が重要な拠点であることは間違いありません」


 ボーマン将軍は穏やかな口調で答えた。


「ただし、重要な場所であることと、守り続けるべき場所であることは、必ずしも同じではありません」


 その言葉に、私は少し考え込んだ。重要な場所であるならば、守り続けるべきではないのか。少なくとも、これまでの私はそう考えていた。


「補給の面からも、ご説明いたします」


 アルフォンス宰相が手元の書類を開いた。


「現在、エルンフェルト砦への輸送は継続できております。しかし、敵の斥候を警戒する必要があるため、輸送隊の編成や出発時刻の調整に手間がかかっております」


 宰相は砦への輸送記録を示した。


「以前は一度の輸送で済んでいた物資についても、警戒のために荷を分けたり、護衛の都合に合わせて出発を遅らせたりすることがあります。その結果、荷車や護衛兵が他の輸送任務に戻るまでの時間が長くなっているのです」


「それほど負担が増えているのですか?」


「はい。今すぐ補給が途絶えるという状況ではありませんが、こうした負担が積み重なれば、他の部隊への物資輸送にも影響が出ます」


 アルフォンス宰相は別の書類へ目を移した。


「メルキアは港を持つ都市ですから、海路による物資の搬入も可能です。しかし、港へ届いた物資を各陣地へ運ぶには、やはり荷車や馬、輸送を担当する兵士たちが必要になります」


 私は地図の北側に目を向けた。メルキアの港には、現在も商船が出入りしている。陸路だけに頼らず物資を受け取れることは、王軍にとって大きな利点だった。


 だが、港に食料や武器が届いたとしても、それだけで前線の兵士たちの手元に届くわけではない。倉庫から荷を運び出し、必要な数量に分け、各陣地へ送り届ける人員が必要になる。


「海から物資を受け取れても、陸上の輸送負担がなくなるわけではないのですね」


「そのとおりです、殿下。それに、海路で必要な物資のすべてを確保できるわけでもありません。限られた輸送手段を、どこに使うか考える必要があります」


 私は先日の軍議で聞いた、矢の補充について思い出した。敵を撃退するために使った矢は、後方の備蓄から補充される。しかし、その備蓄も無限ではなく、使えば減っていく。エルンフェルト砦を維持するための物資も、同じように消費され続けているのだ。


 ボーマン将軍が再び地図の前へ立った。


「そこで、エルンフェルト砦からの計画的な撤収を提案いたします」


 軍議室の中で、何人かの指揮官が顔を見合わせた。私は思わず砦の位置を見つめたが、守備隊はまだ戦えるうえ、砦も敵に奪われていない。それなのに、こちらから撤収するというのだ。


「将軍、砦を放棄すれば、敵の接近を知るのが遅くなるのではありませんか?」


「はい。その不利は避けられません」


 ボーマン将軍は、私の疑問にすぐ答えた。


「現在は砦からの報告によって、敵が主防衛線へ接近する前に準備を整えることができます。撤収すれば、その時間は短くなるでしょう」


「それでも、撤収した方がよいと?」


「私はそう考えております」


 将軍は砦の駒を取り除き、主防衛線の位置を示した。


「今回、主防衛線を後退させるつもりはありません。回廊の入口を守る態勢は維持したまま、砦に配置している兵力を後方へ戻します」


 さらに、監視に使用する経路を地図上に示した。


「前方の監視については、通常の斥候と騎兵の巡回によって継続します。必要に応じて魔法による索敵も組み合わせますが、魔法騎士団の即応予備隊を常時投入することは考えておりません」


「ユリアナ団長が編成を進めている予備隊ですね」


「ええ。あの部隊は、緊急時にまとまった戦力を動かすために必要です。監視任務のために常時拘束してしまえば、本来の役割を果たせなくなります」


 私はうなずいた。魔法騎士団の隊員たちが各地へ派遣されていることは知っていたが、限られた人員の中から、さらに緊急時の備えを確保しようとしているのだ。


「砦を維持すれば、敵の動きを早く知ることができます。しかし、そのために兵士や輸送隊を使い続ければ、主防衛線を支えるための余力が減ってしまいます」


 ボーマン将軍は私に向き直った。


「大切なのは、敵をできるだけ遠くで見つけることだけではありません。敵が回廊へ接近したとき、我が軍が確実に対応できる状態を保つことです」


 私は地図を見つめた。砦を維持する利点は確かにある。しかし、その利点を得るために、他の場所で必要な戦力まで使ってしまっては意味がない。


 エルンフェルト砦を撤収しても、王軍が守る回廊の主防衛線は変わらない。むしろ、砦の維持に使っていた人員と物資を主防衛線のために使えるようになる。


「……少し分かった気がします」


「それは何よりです」


 将軍は小さくうなずいた。


 だが、私はもう一つ気になっていることがあった。


「将軍、エルンフェルト砦の近くには、集落があったはずです」


「はい。砦の周辺には、小規模な集落がいくつかございます」


「砦を撤収した場合、そこに住む人々はどうなるのでしょうか?」


 ボーマン将軍は静かにうなずいた。


「当然、住民の避難も必要になります。軍だけが撤収し、周辺の人々を取り残すわけにはまいりません」


「避難先は確保できているのですか?」


「その点については、アルフォンス宰相と調整を進めております」


 アルフォンス宰相が書類を確認した。


「メルキア周辺の町や村に受け入れを依頼しております。ただし、避難する人数によっては宿泊場所や食料の確保が必要になりますので、現地での調査を進めているところです」


 私はしばらく考えた後、グスタフ陛下へ向き直った。


「陛下、お願いがございます」


「申してみよ」


「砦から撤収するのであれば、周辺の住民が安全に避難できることを確認してから進めるべきだと思います。兵士たちが先に撤収してしまえば、住民だけで移動することが難しくなるかもしれません」


 陛下は私の言葉を聞き、ボーマン将軍へ視線を向けた。


「ボーマン、軍の撤収と住民の避難を一体として進めることは可能か?」


「はい。撤収の順序を調整すれば、住民の移動を護衛することも可能です。ただし、避難に必要な時間を確保するため、事前の準備が重要になります」


「アルフォンス、受け入れ先の準備は任せられるか?」


「承知いたしました。現地の行政担当者とも連絡を取り、必要な輸送手段と食料の確保を進めます」


 グスタフ陛下は地図を見つめ、しばらく考え込んでいた。その間、軍議室に集まった者たちは誰も口を開かず、陛下の判断を待っていた。


 やがて陛下は顔を上げ、ボーマン将軍へ向き直った。


「エルンフェルト砦からの撤収を認める。ただし、軍の撤収と住民の避難は一体として進めよ。住民を置き去りにすることがないよう、十分に準備を整えてから実行するのだ」


「承知いたしました」


 ボーマン将軍が深く頭を下げると、アルフォンス宰相も書類に指示を書き加え、避難に必要な手配について確認を始めた。


 私はその様子を見ながら、軍の撤収というものが、単に兵士たちを後方へ移動させるだけでは済まないことを改めて感じていた。砦を守ることはできても、守り続けるための負担が大きくなれば、撤収を選ぶ必要がある。そして、その判断によって暮らしを変えなければならない人々がいるのだ。


 数日後、私はボーマン将軍の許可を得て、撤収準備が進むエルンフェルト砦を訪れた。


 砦の周辺では兵士たちが忙しく動き回り、武器や物資を荷車へ積み込んでいた。運び出せるものから後方へ移送する方針らしく、倉庫の前には荷車が並び、兵士たちが次々と荷物を運び出している。


 私は現地の指揮官に案内され、砦の内部を見て回った。


「撤収の準備は順調ですか?」


「はい、殿下。物資の移送は予定どおり進んでおります。負傷者についても、すでに後方への移送を始めております」


「守備隊は、いつ撤収する予定なのですか?」


「物資と負傷者の移送を終えた後、住民の避難を進めます。その後、主力を後退させ、最後に警戒部隊を残して周辺の安全を確認してから撤収する予定です」


 指揮官は地図を広げ、撤収経路を示した。


「こちらの街道を通り、後方の防衛陣地へ移動します。住民の避難についても、軍の護衛を付けて同じ経路を使用する予定です」


「敵の斥候が現れた場合は?」


「後衛の警戒部隊が対応します。必要であれば、後方の部隊から増援を送る手配も整えております」


 私はうなずき、砦の中を見渡した。兵士たちは慌ただしく動いているものの、混乱している様子はない。誰もが自分の役割を理解し、必要な作業を進めていた。


「撤収することになって、兵士たちは落ち込んでいるのではありませんか?」


 私が尋ねると、指揮官は少し笑った。


「もちろん、残念に思っている者はおります。ここを守るために、皆で苦労してきましたから」


 指揮官は砦の外壁へ目を向けた。


「ですが、撤収が決まったことで、次に何をすべきか明確になりました。いつまで守り続けるのか分からない状態よりも、今は動きやすくなっております」


「そういうものなのですね」


「はい。兵士たちにとって、命令が明確であることは大切です。守ると決まれば守りますし、撤収すると決まれば、そのために必要な準備を進めます」


 私は指揮官の言葉を聞きながら、砦の外へ目を向けた。この場所を守るために戦ってきた兵士たちが、自分たちの意思で砦を離れる。敵に追い立てられて逃げるのではなく、次の戦いに備えるための撤収なのだ。


 砦の視察を終えると、私は近くの集落へ向かった。


 そこでは、住民たちが荷物をまとめ、メルキア方面への避難準備を進めていた。家の前に荷車を停めて家財を積み込む者や、家畜を連れて移動する準備をする者、持ち出せない道具を納屋へ運び込んで戸締まりを確認する者など、それぞれが慌ただしく動いていたが、表情は決して明るいものではなかった。


 私は同行していた担当者に尋ねた。


「避難する人々の受け入れ先は、決まっているのですか?」


「はい、殿下。メルキア周辺の町や村で受け入れる予定です。ただ、家族の人数や家畜の有無によって移動先を分ける必要がありますので、現在も調整を進めております」


「食料は足りるのでしょうか?」


「当面の分については確保しております。避難後の配給については、アルフォンス宰相の指示で準備が進められております」


 私はうなずき、荷車のそばで作業している住民たちへ目を向けた。一人の年配の男性が、家の前に積まれた荷物を見つめながら、何を持っていくべきか迷っている様子だった。


「何か、お困りですか?」


 私が声をかけると、男性は驚いたように振り返った。


「これは……殿下でいらっしゃいますか」


「はい。避難の準備が進んでいるか、確認に参りました」


 男性は慌てて頭を下げたが、私はそれを制した。


「どうか、そのままで。何かお手伝いできることがあればと思いまして」


「いえ、ありがとうございます。荷物は何とかまとめているところです。ただ、全部を持っていくわけにはいきませんので……」


 男性は家の方へ目を向けた。


「この家には、もう長いこと住んでおります。畑もありますし、家畜もおります。王軍の皆さんが守ってくださったおかげで、これまで何とか暮らしてこられました」


「そうでしたか」


「ですから、撤収すると聞いたときは驚きました。ですが、兵士の皆さんも大変なのでしょう。私らがここに残っていては、かえって迷惑になるかもしれません」


 男性は少し困ったように笑った。


「ただ、いつ戻れるのかが分からないのが、不安でしてな」


 私はすぐに答えることができなかった。王軍が防衛線を立て直せば、いずれこの地域を取り戻せるかもしれない。しかし、それがいつになるのか、そもそも本当に戻れるのか、今の私には分からない。


「……申し訳ありません。いつ戻れるかについては、今の段階ではお約束できません」


 男性は静かにうなずいた。


「そうでしょうな。殿下に聞いても、困らせるだけでした」


「いえ。大切なことだと思います」


 私は男性の荷物を見た。


「避難先については、すでに説明を受けていますか?」


「はい。メルキアの近くの村へ行くように言われております。ただ、向こうでどのように暮らせばよいのか、まだよく分からなくて……」


「分かりました。担当者に確認してみます」


 私は同行していた担当者を呼び、男性の避難先について尋ねた。担当者は手元の名簿を確認し、受け入れ先の村と、到着後に案内を担当する者について説明した。食料についても、当面は避難民向けの配給が行われる予定だという。


 私はその内容を男性へ伝えた。


「到着後は、村の担当者が案内してくださるそうです。食料についても、当面の分は用意されているとのことでした」


「そうですか。それなら、少し安心しました」


 男性は深く頭を下げた。


「ありがとうございます、殿下」


「どうか、お気をつけて」


 私は男性に別れを告げ、集落の中を歩いた。避難の準備を進める人々の姿を見ていると、軍議で地図を動かしていたときには気づかなかったことが、次々と思い浮かんできた。


 地図の上では、砦を一つ放棄するだけのことだった。しかし、そこには家があり、畑があり、長い年月をかけて築かれてきた暮らしがある。それらを置いていかなければならない人々にとって、撤収は決して簡単なことではないのだ。


 集落から砦へ戻った頃には、午後の作業も終わりに近づいていた。私は明日の撤収に備えて後方へ戻る予定だったが、出発前にもう一度、現地指揮官へ挨拶しておこうと考えた。


 指揮官は砦の中庭で、翌日の警戒配置について部下と確認していた。私はその作業が終わるのを待って声をかけようとしたが、そのとき、監視塔から降りてきた兵士が足早に近づいてきた。


「報告します。南方の街道付近に敵の斥候を確認しました」


 指揮官はすぐに顔を上げた。


「人数と位置は?」


「確認できたのは六名です。街道から少し離れた場所を移動しており、現在は南側の分岐路付近で停止しています」


「こちらへ向かっている様子はあるか?」


「いいえ。砦へ接近する動きは見られません。ただ、周辺を調べているようです」


 指揮官は報告を聞くと、部下に監視を続けるよう命じた。そのうえで、砦の内部に残っている警戒部隊へ情報を伝えるよう指示する。


 私はその様子を見ながら、地図に記されていた街道の分岐点を思い出した。


「敵が現れたのですね」


「はい、殿下。ですが、今のところ攻撃の兆候はありません。斥候が周辺の状況を調べているのでしょう」


「追い払わなくてもよいのですか?」


 私が尋ねると、指揮官は落ち着いた口調で答えた。


「こちらから出撃すれば、敵を追い払うことはできるかもしれません。しかし、今の任務は敵の斥候を撃破することではありません。住民と守備隊を安全に撤収させることです」


「敵が砦へ近づいてきた場合は?」


「そのときは対応します。ただ、こちらから追いかければ、敵のいる場所へ兵を出すことになります。撤収の準備を進めている今、必要のない危険を冒すべきではありません」


 指揮官はそう説明すると、部下が持ってきた監視記録を確認した。そこには敵を発見した時刻と位置、移動方向が記されており、監視塔から見える範囲についても細かく書き込まれていた。


 しばらくして、別の兵士が新たな報告を持ってきた。


「敵の斥候が分岐路の北側へ移動しました。砦への接近はありませんが、街道の様子を確認しているようです」


「分かった。引き続き監視を続けろ。人数に変化があれば、すぐに報告するように」


 兵士が戻っていくと、指揮官は地図の上に敵の位置を記した。


「殿下、こちらをご覧ください」


 私は指揮官の隣へ進み、地図をのぞき込んだ。


「現在、敵がいるのはこの分岐点付近です。エルンフェルト砦からであれば、監視塔から周辺の動きを確認できます。しかし、砦を撤収すれば、後方の主防衛線から直接見通すことは難しくなります」


「つまり、明日からは敵がこの場所へ来ても、すぐには分からなくなるのですね」


「その可能性はあります。ですから、監視の方法を変える必要があるのです」


 指揮官は、後方から巡回する斥候隊の経路を示した。


「今後は、この経路を通って定期的に周辺を確認します。敵の動きが見つかれば、伝令を通じて主防衛線へ報告することになります」


「ですが、巡回していない間に敵が移動した場合は?」


「その場合、発見が遅れることもあるでしょう。砦に常時監視兵を置いていた頃と、まったく同じようにはいきません」


 指揮官はその不利を隠そうとはしなかった。


「ただ、巡回する場所や時刻を調整し、複数の斥候から報告を集めれば、敵の動きをある程度把握することはできます。重要なのは、砦がなくなった後も、監視の任務そのものを途切れさせないことです」


 私はうなずいた。軍議でボーマン将軍が説明していた監視能力の低下とは、こういうことなのだろう。砦を撤収すれば、これまで当たり前のように得られていた情報が手に入らなくなる。その不利を承知したうえで、別の方法を用意しなければならないのだ。


 指揮官は監視記録をまとめると、伝令を呼んだ。


「本日確認した敵の位置と移動方向を、後方の司令部へ届けてくれ。撤収後の巡回経路についても、担当部隊へ伝えるように」


「承知しました」


 伝令は書類を受け取ると、馬の準備をするために中庭へ向かった。


 その後、私は翌日から監視任務を引き継ぐ斥候隊の指揮官とも顔を合わせた。彼は砦の守備隊長と地図を広げ、巡回経路や報告の時刻、敵を発見した場合の対応について確認していた。


「砦がなくなれば、これまでより遠くまで足を運ぶ必要があります。ですが、巡回の途中で敵を見つけた場合は、無理に接触せず、まず位置と規模を報告するようにしております」


「敵が大勢で接近していた場合は、どうするのですか?」


「その場合は、主防衛線へ直ちに伝令を送ります。必要であれば別の経路からも報告を届け、敵の動きを確認しながら後退する予定です」


 私は二人の指揮官が、地図の上で一つずつ確認を進めていく様子を見守った。砦を撤収するという命令はすでに決まっているが、その後の監視任務まで終わるわけではない。むしろ、砦がなくなるからこそ、新しい方法を確実に整えておく必要があるのだ。


 やがて伝令が馬に乗り、砦の門を出ていった。


「殿下、我々は明日、この砦を撤収します。しかし、敵の監視をやめるわけではありません」


 指揮官は門の外へ目を向けながら続けた。


「明日からは、別の部隊が別の方法で監視を続けます。我々はそのために必要な情報を、最後まで引き継がなければなりません」


「分かりました。撤収するというのは、ここでの任務を終えるだけではないのですね」


「はい。次に任務を引き受ける者が困らないようにするところまでが、我々の仕事です」


 私は指揮官に礼を述べ、後方へ戻る準備を進めた。


 砦を離れる前、もう一度だけ監視塔を見上げた。そこでは兵士が変わらず南方を見張っており、撤収の準備が進んでいる間も、敵の動きを確認する任務は続けられていた。


 翌日、エルンフェルト砦からの撤収は予定どおり進められた。


 住民たちは軍の護衛を受けながらメルキア方面へ移動し、砦に残っていた物資と負傷者の移送も完了した。守備隊の主力が後方へ移動した後、最後に残った警戒部隊も周辺の安全を確認してから砦を離れ、敵に利用される恐れのある設備には必要な処置が施された。


 私は後方の防衛陣地で、撤収してきた兵士たちが新しい配置に就く様子を見届けた。これまで砦の守備や輸送路の警戒に当たっていた兵士たちが戻り、主防衛線の各陣地へ再配置されていく。補給隊についても、砦への輸送に使っていた人員や荷車を他の任務へ回せるようになった。


 ボーマン将軍は、撤収によって生まれた余力をすべて前線へ投入するのではなく、一部を交代要員や予備戦力として残すよう指示していた。


「殿下、撤収後の配置について、こちらをご覧ください」


 将軍が新しい部隊配置を記した地図を示した。


 エルンフェルト砦の位置には、すでに王軍の駐留を示す印はない。しかし、回廊を封鎖する主防衛線の位置は、以前と変わっていなかった。


「砦を撤収したことで、敵の動きを監視できる範囲は狭くなりました。これまでよりも、敵の接近を把握する時間が短くなる可能性があります」


「その点について、現地でも説明を受けました。監視任務を引き継ぐ斥候隊が、巡回経路や報告の方法を確認していました」


「それは何よりです。監視能力の低下を完全に補うことはできませんが、伝令の経路を見直し、敵の接近が確認された場合の対応手順も改めて整えております」


 将軍は地図の上で、斥候が使用する経路と、主防衛線への連絡路を示した。


「砦があった頃と同じだけの監視能力を維持することはできません。しかし、監視の方法を変え、連絡と対応を整えることで、不利をできる限り小さくすることはできます」


 私は地図を見つめた。エルンフェルト砦を失ったことで、王軍が前方を監視できる範囲は狭くなった。しかし、主防衛線は維持され、兵士たちの交代や物資の輸送には以前より余裕が生まれている。


 砦を守り続けることも、一つの選択だったのだろう。だが、ボーマン将軍は回廊を守るために、砦からの撤収を選んだのだ。


「将軍、今回の撤収で戻ってきた兵士たちは、すべて主防衛線へ配置するのですか?」


「いいえ。長期間の警戒勤務を終えた者には休養が必要ですし、装備の整備も行わなければなりません。そのうえで、交代要員や予備戦力として使えるように配置を調整します」


「なるほど。戻ってきたからといって、すぐに全員を使うわけではないのですね」


「はい。戦える兵士を残しておくことも、戦いを続けるためには大切ですから」


 私はうなずいた。王軍は今も回廊を守り続けており、敵の攻撃を撃退できるだけの力も残されている。しかし、その力を維持するためには、守る場所だけでなく、兵士たちの使い方や物資の運び方まで考えなければならないのだ。


 その日の夕方、私はメルキアへ戻り、エルンフェルト砦からの撤収と住民の避難状況について報告書をまとめた。


 軍の撤収は予定どおり完了し、避難した住民たちも順次受け入れ先へ到着している。ただし、宿泊場所や食料の配給については、引き続き調整が必要な地域もあるという。


 私はその点を報告書に書き加え、担当者から受け取った避難民の名簿を添えた。さらに、現地で確認した監視任務の引き継ぎについても簡単に記載し、砦の撤収後も斥候による警戒が継続されていることを報告事項に加えた。


 すべての書類を確認すると、私はグスタフ陛下の執務室へ向かい、撤収と避難の結果について報告することにした。


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