【閑章4】第1話 敗残の軍ではない
メルキアの城壁から南へ延びる街道を進むと、ほどなくして王軍の陣地が見えてきた。街道の両側には低い丘陵と湿地が広がり、兵士たちが木杭を打ち込んだり、土を盛り上げたりして防御施設を築いている。
初秋を迎えた平野にはまだ夏の暑さが残っていたが、街道を吹き抜ける風は以前よりも涼しくなっていた。収穫を控えた畑が広がる一方で、戦火を避けて放棄された農地も目につく。
私は馬を進めながら、街道沿いに並ぶ王軍の旗を眺めていた。
王都マリアベルクを失い、残された軍勢とともにメルキアへ撤退してから、王軍はこの地の防衛を固めてきた。各地から集まった兵士たちの装備は必ずしも揃っておらず、傷んだ鎧を着込んだ者や、包帯を巻いたまま作業を続ける者もいる。
それでも、陣地には一定の秩序が保たれていた。
資材を運ぶ兵士たちは決められた場所へ向かい、作業を監督する下士官が指示を飛ばしている。街道脇では騎兵が馬の状態を確かめ、少し離れた場所では弓兵たちが弦の張り具合を確認していた。
この防衛線を指揮しているのは、王軍総司令官ボーマン将軍だった。
ボーマン将軍は、かつて王宮執事長を務めていた人物である。その職を解かれた後、王宮を離れていたリカと接触し、ヴィルヘルムの死を機に王都へ戻ったと聞いている。その後、ハインリヒ軍による王都占領が迫る中、アルフォンス宰相とともに脱出し、メルキアへ到着してから国王陛下によって王軍総司令官に任じられた。
王宮の内情にも軍の事情にも通じている将軍の存在は、撤退によって混乱していた王軍を立て直すうえで大きな助けとなったらしい。
私はその将軍から、防衛線の視察に同行するよう求められていた。
「殿下、こちらです」
陣地の入口で待っていた士官に案内され、私は馬を降りて指揮所へ向かった。厚い布を張った天幕の中には大きな机が置かれ、その上に周辺地域の地図が広げられている。
ボーマン将軍は数人の士官と話していたが、私に気づくと穏やかな表情で頭を下げた。
「お待ちしておりました、フェルディナント殿下。道中、お変わりはありませんでしたか」
「ええ、問題ありません。お忙しいところ、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。せっかくお越しいただいたのですから、できる限り現場をご覧いただこうと思っております」
将軍はそう言って椅子を勧めると、地図の一点を指した。
「まず、こちらをご覧ください。南側の街道で敵の斥候が確認されています。今のところ大きな動きはありませんが、近いうちに部隊が進出してくる可能性があります」
メルキアへ通じる街道は、南方の湿地帯を抜けるところで幅が狭くなる。周囲の地面は柔らかく、大人数の部隊が自由に展開できる場所は限られていた。
「敵がこの街道を進むなら、ここを通るしかありません。東側の湿地も歩兵なら通れないことはありませんが、騎兵や荷車を伴う軍勢には不向きです」
「それなら、街道そのものを塞いでしまう方法もあるのではありませんか?」
「ええ、それも一つの方法です。ただ、そうすると我々も困ることになります」
将軍は街道を指でたどり、その先にある村々を示した。
「この道は南方との連絡や物資の輸送にも使っています。完全に通行不能にしてしまえば、敵を防ぐことはできても、こちらの活動まで制限されてしまいますからね」
「なるほど。だから街道の両側に陣地を築いているのですね」
「そのとおりです。敵が接近した際には、左右の陣地から攻撃できます。必要に応じて後方の予備兵力も投入しますが、できるだけ少ない損害で退けることが重要になります」
将軍の説明を聞きながら、私は地図に記された部隊の配置を追った。
王都からの撤退は決して秩序立ったものではなかった。部隊によっては大きな損害を受け、指揮官を失った兵士たちが別の部隊へ編入されることもあったと聞いている。
それでも今、目の前に広げられた地図には、各部隊の担当区域と予備兵力の位置が明確に記されていた。
「将軍。王軍は、まだ十分に戦えるのでしょうか」
私の問いに、ボーマン将軍は少し考えてから答えた。
「ええ、戦えます。ただし、以前と同じ戦い方はできません」
「兵力が減ったからですか?」
「それもあります。ですが、兵の数だけが問題ではありません。今の我々は、失った兵力を容易には補えないのです。ですから、勝てる場所で戦い、守る必要のない場所では無理をしない。その判断を徹底する必要があります」
将軍は地図の上に置かれた駒を一つ動かした。
「兵士たちが勇敢に戦ってくれることは、私もよく分かっています。だからこそ、その勇敢さに頼りきりになってはいけないのですよ」
将軍は地図を畳むと、天幕の入口へ目を向けた。
「少し現場を歩いてみましょうか。地図だけでは分からないこともありますから」
私はうなずき、将軍とともに指揮所を出た。
防衛陣地では、兵士たちがそれぞれの仕事を続けていた。木柵の補強をする者、土嚢を積み上げる者、弓の弦を張り替える者。将軍が通りかかると、兵士たちは作業の手を止めて敬礼した。
「皆さん、ご苦労さまです。作業は順調ですか?」
「はい、将軍! 予定どおり進んでおります!」
「それは何よりです。ただ、無理はしないでくださいね。疲れた状態で作業を続けると、思わぬ怪我につながりますから」
将軍はそう声をかけると、積み上げられた土嚢の状態を確かめた。
「こちらはもう少し高くしておいた方がよさそうですね。敵の弓兵から見通される場所があります。担当の方に確認していただけますか?」
「承知しました!」
命令というより、必要な作業を一つずつ説明しているような話し方だった。それでも兵士たちは将軍の言葉を真剣に聞き、すぐに作業へ戻っていく。
さらに進むと、木箱の上に腰を下ろして弓を調整している若い兵士がいた。
まだ二十歳にもなっていないように見える。使い込まれた革鎧を身につけ、手元の弓には何度も補修した跡が残っていた。
「調子はいかがですか?」
ボーマン将軍が声をかけると、若い兵士は慌てて立ち上がった。
「し、将軍! それに殿下まで!」
「そのままで構いませんよ。弓を調整していたのでしょう?」
「はい! 昨日から少し弦の具合が悪くて、張り替えておりました」
将軍は弓を見て、軽くうなずいた。
「大切な道具ですからね。気になることがあれば、遠慮せず整備担当へ相談してください」
「ありがとうございます!」
私は若い兵士の装備を眺めた。
「その弓は、以前から使っているものですか?」
「はい、殿下。王都にいた頃から使っています。途中で一度折れかけたんですが、修理してもらいました」
「王都からの撤退にも参加していたのですね」
「はい。あのときは、正直もう駄目かと思いました」
兵士は少し照れくさそうに笑った。
「でも、こうしてまた部隊に戻れましたし、今度はちゃんと敵を迎え撃てます。あのときみたいに逃げるばかりじゃありません」
私は彼の言葉に、すぐには返事ができなかった。
王都からの撤退について、私は多くの報告を受けていた。しかし、実際にその場にいた兵士がどのような思いで逃げ延び、再び武器を手にしているのか、深く考えたことはなかった。
「怖くはありませんか?」
思わず尋ねると、兵士は少し考えてから答えた。
「怖いですよ。敵の矢が飛んでくるのは、何度経験しても慣れません。でも、ここで踏ん張らないと、また後ろの町や村が危なくなりますから」
その言葉を聞いて、私は陣地の向こうに広がる平野へ目を向けた。
この防衛線の後方には、メルキアの町があり、そこには多くの人々が暮らしている。王都から逃れてきた者たちも、今はその町で生活していた。
「そうですね。皆さんがここを守ってくださっていることに、感謝しています」
「い、いえ! そんな、殿下にお礼を言われるようなことじゃ……」
若い兵士は慌てて姿勢を正した。
ボーマン将軍が穏やかに笑った。
「感謝の言葉は、素直に受け取ってよいのですよ。殿下も、皆さんの働きをご覧になりたくて、今日はここまで来られたのですから」
「は、はい! ありがとうございます!」
兵士は顔を赤くしながら敬礼した。
私たちはその場を離れ、さらにいくつかの陣地を見て回った。
途中、将軍は負傷した足をかばいながら資材を運んでいる兵士を見つけ、作業を代わってもらうよう勧めていた。また、交代時間を過ぎても働いている部隊には、休憩を取るよう指示していた。
「将軍は、兵士たちのことをよく見ていらっしゃるのですね」
私がそう言うと、将軍は少し意外そうな顔をした。
「そうでしょうか。私一人で全員の様子を把握することはできませんが、気づいたことは伝えるようにしています」
「皆さんも、将軍のことを信頼しているように見えます」
「そうであれば嬉しいですね。ただ、信頼というものは、一度命令を出しただけで得られるものではありません。普段から互いの仕事を理解し、約束を守ることが大切なのだと思います」
将軍は作業を続ける兵士たちを見渡した。
「彼らには、それぞれ帰る場所があります。家族もいれば、友人もいるでしょう。戦場ではどうしても部隊や人数で考えることが増えますが、そのことは忘れないようにしたいものです」
私は先ほどの若い兵士を思い出した。
あの兵士にも、王都で暮らしていた頃の生活があり、戦争が終われば戻りたい場所があるのだろう。
そんなことを考えながら指揮所へ戻ると、天幕の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「報告します!」
入ってきた伝令は、ボーマン将軍に向かって敬礼した。
「南方の前哨部隊より連絡です。ハインリヒ軍の歩兵およそ六百が街道沿いに北上しています。騎兵も確認されましたが、数は多くありません」
「ありがとうございます。先行する斥候は、もう後退を始めていますか?」
「はい。敵主力との接触はまだありません」
「分かりました。斥候には予定どおり後退を続けるよう伝えてください。無理に敵の動きを探る必要はありません」
「承知しました!」
ボーマン将軍は地図へ視線を戻した。
「六百ほどですか。おそらく、防衛線の様子を確かめに来たのでしょうね」
将軍は周囲の士官たちに目を向けた。
「第一防衛線の部隊へ警戒を伝えてください。弓兵は配置につきますが、敵が射程に入るまでは攻撃を控えるように。予備隊は第二陣地で待機させてください」
「はっ!」
「それから、敵が後退しても追撃は行わない方針です。各部隊の指揮官にも、その点を徹底しておいてください」
士官たちは指示を復唱し、次々と天幕を出ていった。
将軍は慌てる様子もなく、私に向き直った。
「殿下、実際の防衛戦をご覧になりますか?」
「ぜひお願いします。現場で何が起きているのか、自分の目で確かめたいと思っていました」
「では、後方の観測所へご案内しましょう。前線の陣地へお連れすることはできませんが、そこからなら戦況をご覧いただけます」
「分かりました」
将軍は護衛を担当する士官に指示を出し、私は案内に従って観測所へ向かった。
そこは街道を見下ろす小高い丘の上にあり、木柵の内側から南方の防衛線を見渡すことができた。遠くには湿地帯が広がり、その間を縫うように街道が延びている。
やがて、南方に土煙が上がった。
街道を進む歩兵の列が見え、その後方には騎兵らしき一団も続いている。敵は途中で隊列を整え、王軍の陣地へ向けて前進を始めた。
私は思わず身を乗り出した。
「敵は、あのまま進むつもりなのでしょうか?」
隣にいた士官が答えた。
「おそらく、こちらの防御力を確かめるつもりでしょう。突破できればそのまま進み、難しければ引き返す。大軍を投入する前によく行われる方法です」
「それにしては、随分と人数が多いように見えますね」
「こちらに一定の損害を与えるつもりかもしれません。ですが、将軍はすでに迎撃の準備を整えております」
敵軍が街道の狭くなる地点へ差しかかった。
王軍の前方陣地から弓が放たれ、街道上の敵兵が次々と盾を掲げる。敵も弓で応戦したが、王軍の兵士たちは土塁と木柵の陰に身を隠していた。
しばらくすると、敵の歩兵が街道の両側へ広がろうとした。しかし、湿地に足を取られた兵士たちは思うように進めず、後続の部隊も動きを鈍らせている。
私は地図で説明された地形を思い出した。
あの湿地帯は、ただの障害物ではなかった。敵が自由に動けない場所へ誘導することで、少ない兵力でも正面から対抗できるようになっている。
敵軍は街道の中央へ兵を集め直し、盾を構えた歩兵を先頭に前進を再開した。
王軍の陣地へ近づくにつれて、弓の応酬が激しくなる。やがて敵の先頭が木柵の近くまで迫り、両軍の兵士が槍を突き出し始めた。
私は息を詰めてその様子を見守った。
観測所からは戦場の細かな動きまでは分からない。それでも、前方の王軍が後退することなく敵を押しとどめているのは見て取れた。
そのとき、後方で待機していた王軍の予備隊が動き始めた。
「予備隊が前へ出るのですか?」
「はい。敵が中央に兵力を集中したため、側面から圧力をかけるのでしょう」
予備隊は街道脇の乾いた地面を通り、敵軍の側方へ回り込んでいく。
ほどなくして、敵の隊列が乱れ始めた。
正面の防衛陣地を突破できず、側面からも攻撃を受けた敵兵たちは、少しずつ後退していく。
やがて敵軍の後方で撤退を知らせる旗が掲げられ、歩兵が街道を南へ引き返し始めた。騎兵もそれに続き、王軍の兵士たちが追撃に出ようとする様子が見えたが、すぐに停止の合図が送られた。
敵軍はそのまま南方へ退いていった。
「……勝ったのですね」
私がつぶやくと、隣の士官がうなずいた。
「防衛線は維持できました。敵もこれ以上の攻撃は無理と判断したのでしょう」
観測所の周囲では、兵士たちが安堵した表情を見せていた。
王都を失って以来、私が耳にしてきた報告の多くは撤退や損害に関するものだった。こうして敵を退けたという知らせを聞くのは、随分と久しぶりのように感じられる。
私は南方の街道を眺めた。
王軍はまだ戦える。その事実が、胸の内にあった不安を少しだけ和らげてくれた。
しかし、戦闘が終わって指揮所へ戻ると、そこに勝利を祝う雰囲気はほとんどなかった。
ボーマン将軍は各部隊から届いた報告書を確認しながら、士官たちへ次々と指示を出していた。
「第一陣地の木柵は、明朝までに修復できるよう手配してください。破損した盾は回収して修理班へ。負傷者は後方の治療所へ移し、歩ける者についても軍医の確認を受けさせてください」
「承知しました」
将軍は一枚の報告書を手に取り、眉を寄せた。
「弓矢の消費が少し多いですね。第一陣地だけで、これほど使用しましたか」
「敵が二度にわたって前進したため、予定より多く使用しております」
「そうですか。では、第二陣地の備蓄から補充しましょう。ただし、そちらの残数も確認してください。次の攻撃に備える分まで使ってしまっては困りますからね」
「承知しました」
別の士官が報告書を差し出した。
「将軍、予備隊の損害についてです。重傷者が三名、軽傷者が十一名。戦死者は二名との報告です」
私はその数字を聞いて、思わず顔を上げた。
戦場では敵軍が後退し、王軍の兵士たちが勝利を喜んでいた。しかし、その戦いで命を落とした者もいたのだ。
ボーマン将軍は報告書を受け取り、しばらく目を通してから口を開いた。
「分かりました。戦死した二人の所属と名前を確認し、遺族への連絡を手配してください。負傷者については、軍医から回復の見込みを報告してもらいましょう」
「はい」
「それから、第一陣地の弓兵を一部交代させてください。今日の戦闘で疲れているでしょうから、十分に休ませる必要があります。交代要員の配置に無理があるようなら、私に相談してください」
将軍の指示は途切れなかった。
戦闘で傷んだ設備の修復、消費した物資の補充、負傷兵の治療、部隊の交代。敵を退けた後にも、やるべきことはいくらでも残っているらしい。
しかも、将軍はどの報告にも落ち着いて耳を傾けていた。部下が説明に詰まったときには必要な情報を一つずつ尋ね、問題があれば何を優先すべきかを示している。
私はその様子を見ながら、王宮執事長を務めていた頃も、きっと同じように人々へ接していたのだろうと思った。
「将軍、一つ聞いてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。何でしょう、殿下」
「今日の戦いは、我々の勝利だったのですよね?」
「ええ。敵は防衛線を突破できず、撤退しました。十分な戦果と言ってよいでしょう」
「それなら、もう少し喜んでもよいのではないかと思ったのですが」
ボーマン将軍は私を見て、わずかに表情を和らげた。
「そうですね。兵士たちには、今日の勝利を喜んでもらいたいと思っています。勝てるという自信を取り戻すことも、今の王軍には必要ですから」
将軍は先ほどの報告書を机に置いた。
「ですが、私たち指揮官には、その後のことを考える役目があります。今日の戦いで敵は撤退しましたが、こちらも矢を消費し、設備を損傷し、兵を失っています。敵を退けたことと、次の攻撃に備えられることは別なのですよ」
「……なるほど」
「敵は今日の損害を補い、再び兵を送り込んでくるでしょう。我々も同じように補充できるのであれば問題はありません。ですが、今の王軍には、それが容易ではないのです」
私は改めて報告書に目を落とした。
戦死者二名。重傷者三名。軽傷者十一名。
数字だけを見れば、六百人もの敵軍を退けた戦果に比べて小さな損害なのかもしれない。
しかし、亡くなった兵士は二度と戻らず、負傷した兵士もすぐに戦列へ復帰できるとは限らない。消費した矢も、破損した盾も、どこかから補充しなければならなかった。
「今日の戦いは、勝って終わりというわけではないのですね」
「そのとおりです。次の戦いに備えるところまでが、我々の仕事です」
将軍は穏やかに答えた。
「殿下も、今日の勝利を喜んでくださって構いません。ただ、その勝利を得るために何を使い、何を失ったのか。それも忘れずにいていただければと思います」
「分かりました。ありがとうございます、将軍」
将軍は軽く頭を下げると、再び士官たちとの打ち合わせに戻った。
私はしばらくその場に残り、報告が集められていく様子を見ていた。
やがて打ち合わせが一段落したところで、将軍が私に声をかけた。
「殿下、もしお時間がよろしければ、治療所もご覧になりますか?」
「治療所ですか?」
「ええ。今日の戦闘で負傷した兵士たちが運ばれています。戦場だけでなく、その後の様子も知っていただければと思いまして」
「ぜひ、お願いします」
私たちは指揮所を出て、陣地の後方に設けられた治療所へ向かった。
そこにはいくつもの天幕が並び、負傷した兵士たちが寝台に横たわっていた。軍医や治療を担当する魔導士たちが忙しく行き来し、包帯を交換したり、傷の状態を確かめたりしている。
戦闘が終わってからまだそれほど時間は経っていない。治療所には新たな負傷者が運び込まれ、軍医たちは休む間もなく対応を続けていた。
ボーマン将軍は入口で軍医に声をかけた。
「皆さん、ご苦労さまです。負傷者の容体はいかがでしょうか」
「将軍。重傷者の処置はひととおり終わりました。ただ、数名はしばらく安静が必要です。魔法による治療も行っていますが、すぐに戦列へ戻せる状態ではありません」
「分かりました。必要な薬や資材があれば、遠慮なく申し出てください」
「ありがとうございます」
軍医はそう答えると、別の負傷者のもとへ向かった。
私は治療所の中を見渡した。
包帯を巻いた兵士たちの中には、仲間と談笑している者もいれば、目を閉じて静かに横たわっている者もいる。傷の程度はさまざまだが、誰もが今日の戦いに参加していたのだと思うと、自然と足取りが慎重になった。
そのとき、奥の寝台から声が聞こえた。
「あれ、殿下?」
振り向くと、見覚えのある若い兵士がこちらを見ていた。
午前中、陣地で弓を調整していた兵士だった。
彼は右腕に包帯を巻き、寝台の上に腰を下ろしている。私に気づくと慌てて立ち上がろうとしたが、ボーマン将軍が片手を上げて制した。
「そのままで構いませんよ。今は休むのが仕事です」
「は、はい!」
私は寝台のそばへ歩み寄った。
「腕を怪我したのですか?」
「はい。敵の矢がかすっただけなんですが、少し深く切ってしまいまして」
兵士は苦笑しながら包帯を見せた。
「せっかく弓を直したのに、今度は自分の腕が使えなくなってしまいました」
「痛みは大丈夫ですか?」
「今はもう落ち着いています。治療してもらいましたから」
そう言って笑う姿は、午前中とほとんど変わらなかった。
しかし、包帯の巻かれた腕を見れば、彼が今日の戦いで負傷したことは明らかだった。
「いつ頃、部隊へ戻れそうなのですか?」
「それが、軍医殿からしばらく弓を引くなと言われまして……。自分ではもう少し早く戻れると思うんですが」
そこへ、先ほどの軍医が戻ってきた。
「無理をしてはいけませんよ。傷が開けば、今度こそ長く休むことになります」
「分かってますって、先生」
「本当に分かっているなら、もう少し大人しくしていてください」
軍医の言葉に、若い兵士は困ったように笑った。
ボーマン将軍も穏やかに口を開いた。
「軍医の言うことは聞いてくださいね。焦って戻っても、十分に弓を引けなければ困るでしょう?」
「はい、将軍」
「今は傷を治すことを優先しましょう。部隊には、あなたが戻れるようになったら知らせてもらうことにします」
兵士は少し安心したようにうなずいた。
私は彼の腕を見つめた。
午前中、この兵士は王都からの撤退を経験し、今度こそ敵を迎え撃ちたいと話していた。その言葉どおり、今日の戦いでは防衛線に立ち、敵を退けるために戦ったのだ。
だが、勝利した今、彼はしばらく弓を引くことができない。
「今日の戦いでは、ありがとうございました」
私がそう言うと、兵士は驚いたように目を見開いた。
「いえ、そんな! 自分は命令どおりに戦っただけですから」
「それでも、皆さんが戦ってくださったおかげで防衛線を守ることができました。今は無理をせず、しっかり傷を治してください」
「……はい。ありがとうございます、殿下」
兵士は少し照れくさそうに笑い、左手で敬礼した。
私たちは彼に休むよう伝え、治療所の奥へ進んだ。
別の寝台では、脚を負傷した兵士が横たわっていた。軍医の説明によれば、命に別状はないものの、以前と同じように歩けるようになるまでには時間がかかるという。
また、治療所の隅には、戦死した兵士たちの遺品がまとめられていた。血のついた革袋や使い込まれた短剣などが、持ち主の名前を記した札とともに置かれている。
私はその前で足を止めた。
「亡くなった方々のものですか」
「ええ。所属部隊を確認し、ご家族へ届けることになります」
ボーマン将軍は静かに答えた。
「今日の戦いで、我々は防衛線を守ることができました。それは確かな勝利です。ただ、こうして失われたものもあります」
将軍は遺品に目を向けた。
「だからこそ、次の戦いではできる限り損害を減らしたいのです。もちろん、戦争である以上、すべてを防ぐことはできません。それでも、考えることをやめてはいけませんからね」
私はうなずいた。
王軍の兵士たちは、今日の勝利を喜んでいる。それは当然のことだし、私も嬉しかった。
しかし、勝利の裏側には、負傷して戦えなくなった者や、二度と帰らない者がいる。その事実を知ったことで、先ほど指揮所で見た報告書の数字が、少し違ったものに感じられた。
治療所を出る頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
ボーマン将軍は私を見送りながら、穏やかに言った。
「今日はお疲れさまでした、殿下。少し慌ただしい一日になってしまいましたね」
「いえ、とても勉強になりました。将軍、ありがとうございました」
「そう言っていただけるなら何よりです。明日の軍議でも、分からないことがあれば遠慮なくお尋ねください」
「はい。よろしくお願いします」
私は将軍に礼を述べ、メルキアの城へ戻った。
夕刻、城へ戻った私は、国王陛下の執務室へ向かった。
グスタフ陛下は机に広げた書類を確認していたが、私が入ると手を止めた。
「戻ったか、フェルディナント。戦況は聞いている」
「はい。ボーマン将軍の指揮によって、敵の攻撃を退けることができました」
「そうか。将軍からも報告が届いている。よく守ってくれたものだ」
陛下は椅子の背にもたれ、私に座るよう促した。
「実際に見て、どう思った?」
「王軍は、まだ十分に戦えると感じました。防衛施設も整えられ、兵士たちの動きにも統制がありました。王都を失った軍とは思えないほどです」
「ボーマンは優秀な将軍だ。あの男が軍を立て直してくれたことは、我々にとって大きい」
陛下はうなずいたが、その表情には安堵だけではないものがあった。
「ただし、今日の勝利だけで状況が好転したわけではない。敵は今後も攻撃を続けるだろうし、こちらにも守らねばならぬ場所が多い」
「将軍も、同じようなことをおっしゃっていました」
「そうだろうな。ボーマンには、当面はメルキアの防衛を固めるよう命じてある。今は兵を無駄に失うわけにはいかん」
陛下は机の上の地図に視線を移した。
「だが、我々がこのままメルキアに留まり続けるつもりもない。いずれは王都を取り戻さねばならん。そのためにも、今は軍を維持し、力を蓄える必要がある」
「援軍の交渉も続いているのですね」
「ああ。アルフォンスが各国との交渉を進めている。すぐに結果が出るものではないが、我々にできることはまだ残っている」
陛下の言葉に迷いはなかった。
王都を失い、多くの領土が敵の手に渡っている。それでも、陛下は王国を取り戻すための道筋を考え続けている。
私はその姿を見ながら、自分が今日一日で見聞きしたことを思い返した。
ボーマン将軍は戦場で敵を退け、その直後には次の戦いに備えていた。陛下もまた、目の前の勝利だけで満足することなく、その先にある王都奪還を見据えている。
私は王太子として、その二人の判断を理解できるようにならなければならなかった。
「陛下。今後も軍議に参加させていただけますか」
「もちろんだ。お前には学んでもらわねばならんことが多い」
陛下は少しだけ笑った。
「ただ座って話を聞くだけでは足りんぞ。分からぬことがあれば、ボーマンにもアルフォンスにも遠慮なく尋ねるといい」
「承知しました」
私は頭を下げ、執務室を後にした。
自室へ戻ると、机の上にはボーマン将軍から届けられた書類が置かれていた。
明日の軍議で使用する防衛線の配置図と、各部隊の戦力をまとめた報告書だった。
私は椅子に腰を下ろし、まず配置図を広げた。
今日、敵軍が進んできた街道を指でたどり、その両側に配置された部隊の位置を確認する。観測所から見えた地形と地図を照らし合わせると、将軍が予備隊をどのように動かしたのかも理解できた。
続いて、部隊ごとの兵員数が記された報告書を手に取った。
そこには、定員に満たない部隊や、負傷者のために戦闘可能な人数が減っている部隊も記されている。
私は別の紙を取り出し、疑問に思った点を書き留め始めた。
明日の軍議では、これらの数字が何を意味するのか、ボーマン将軍に尋ねてみようと思った。




