第107話 森の最初の夜
タクマを探しに荷馬車の方へ向かうと、ちょうど職人の班長と話を終えたところだった。
「タクマー! ご飯できそうだよ!」
「おう、今行く。そっちは見張りの組み合わせ、決まったか?」
「うん。ヴィクターさんにも伝えてあるよ」
「それなら、ひとまず今日の仕事は終わりか」
「そうだといいんだけどね」
私がそう答えると、隣にいたシエラが小さく頷いた。
「……ご飯が先」
「分かってるって。シエラはさっきからそればっかりだね」
「……お腹、空いた」
タクマが笑いながら歩き出し、私たちもその後に続いた。
広場の中央では、炊事を担当する職人たちが大鍋を囲んでいた。今日の夕食は干し肉と野菜を煮込んだスープに、集結地から持ってきた硬いパンだ。豪華とは言えないけれど、三日間の移動を終えたばかりの私たちには十分ありがたかった。
焚き火の周囲には、すでに何人もの冒険者や警備兵が集まっている。食事を受け取った者から空いている場所に腰を下ろし、今日の道中について話していた。
「いやあ、あの川には参ったな。まさか昼近くまでかかるとは思わなかった」
「荷馬車が一台ずつしか渡れなかったからな。あれで車輪でも外れてたら、まだ向こう岸にいたぞ」
「縁起でもないこと言うなよ」
そんな会話を聞きながら、私たちもスープを受け取った。
近くの丸太に腰を下ろすと、シエラは早速パンをちぎり始めた。タクマも隣に座り、スープの具を確かめている。
「明日は整地からだっけ?」
私が尋ねると、タクマは頷いた。
「その予定。職人さんたちが地面の状態を調べてくれたから、まずは中央の草地から手をつけるらしい」
「荷馬車の場所はもう決まったし、あとは天幕を増やしたり、道を作ったり?」
「それもあるけど、先に水の流れを確認したいって言ってたな。雨が降ったときに野営地が水浸しになったら困るだろ」
「確かに。南側は地面が軟らかかったもんね」
「そういうこと。まあ、詳しい話は明日の朝だ」
タクマはパンをスープに浸してから口へ運んだ。
「それにしても、ここでしばらく暮らすことになるんだよな」
「そうだね。後続の人たちが来るまでは、私たちだけで何とかしないと」
「四十五人もいるんだから、何とかなるさ」
「……四十五人分、ご飯がいる」
シエラの一言に、タクマが吹き出した。
「そうだな。それが一番大事かもしれない」
私は笑いながら、もう一度広場を見回した。
中央にはまだ数張りの天幕しかなく、荷馬車から降ろしていない荷物も多い。水を使うたびに南側の水場まで汲みに行かなければならず、道具の置き場所も仮決めのままだ。
明日から忙しくなりそうだった。
◇
夕食が終わる頃には、森の向こうへ日が沈みかけていた。
私とタクマはヴィクターに呼ばれ、北側の警戒場所へ向かった。シエラとコンラートも一緒だ。
広場の北側には背の高い木々が密集しており、昼間でも奥の方は薄暗い。今は夕暮れの影が伸び、少し離れただけで人の姿が見えにくくなっていた。
「こちらをご覧ください」
ヴィクターが警備兵の一人を少し先へ歩かせた。
男は木々の間を進み、十数歩ほど離れたところで立ち止まる。まだ姿は確認できるけれど、その向こうにある太い幹の陰へ入ると、あっという間に見えなくなった。
「この辺りは、見張りを置くだけでは互いの位置を確認しづらいんです。昼間は問題ありませんが、夜になるとさらに見通しが悪くなります」
「なるほど。じゃあ、見張りの場所を変えた方がいいのかな?」
私が尋ねると、コンラートが周囲を確認しながら口を開いた。
「少し間隔を詰めた方がよいでしょう。夜間は遠くまで見通せませんから、互いに連絡を取れる位置を優先した方が安全です」
「見張りの人数は足りますか?」
タクマの問いに、ヴィクターが答える。
「警備隊と冒険者を合わせれば対応できます。ただ、北側だけに人を集めすぎるわけにもいきません」
シエラは近くの木に手を当て、枝の向こうを見つめていた。
「……ここ、音が分かりにくい」
「音?」
「……木に当たって、違う方から聞こえる」
そう言われて耳を澄ませると、確かに森の中ではいろいろな音が重なっていた。風に揺れる葉の音、どこかで鳴いている鳥の声、枝が擦れ合う音。少し離れた場所から聞こえたはずの物音が、別の方向から響いてくることもある。
「……音だけで、場所を決めない方がいい」
「では、不審な音がした場合も、すぐに追いかけない方がよさそうですね」
ヴィクターが言うと、シエラは頷いた。
コンラートも同意した。
「一人で確認に向かえば、持ち場が空いてしまいます。まずは報告し、必要なら別の者を向かわせるべきでしょう」
「分かりました。北側は二人一組とし、互いに連絡が取れる位置に配置します。異変があっても勝手に持ち場を離れず、待機している冒険者へ連絡するよう徹底しましょう」
ヴィクターはその場で警備兵を呼び、配置の変更を伝えた。
見張りの位置を分かりやすくするため、木の幹には目印となる布を結びつけることになった。視界を遮る枝も、必要な部分だけを払っておく。
作業を始めた警備兵たちを見ながら、タクマが私に小声で話しかけた。
「森の中だと、街道沿いの野営とは勝手が違うな」
「うん。昼間に見たときは、ここまで暗くなると思わなかった」
「見張りをする方も大変だ」
「……慣れれば、少し分かる」
シエラが振り返った。
「……でも、暗いと見えないものは見えない」
「シエラでも?」
「……うん」
そう答えたシエラは、何でもないことのように木々の間へ視線を戻した。
◇
夜が深まると、野営地の様子はすっかり変わった。
夕食の間は賑やかだった焚き火の周囲も静かになり、ほとんどの人が天幕へ入っている。広場に残っているのは、火の管理をする者と夜間警戒の担当者くらいだ。
私とタクマは、最初の見張りが交代する前に各所を確認して回ることにした。
東側には荷馬車が一列に並び、その外側を警備兵が巡回している。南側の水場へ続く道には目印が置かれ、暗くなってから不用意に近づかないよう、通路の入口にも見張りがいた。
北側へ向かうと、若い冒険者が二人、木々の間をじっと見つめていた。
「お疲れさま。何か変わったことはあった?」
私が声をかけると、一人が少し困ったような顔をした。
「いや、それが……さっきから何かが動いているような気がするんですけど、姿が見えなくて」
「どの辺り?」
「向こうの木の辺りです。何度か枝が鳴ったんですよ」
私も耳を澄ませてみた。
確かに、かさかさと葉が擦れるような音がする。けれど、それが風なのか動物なのか、私には判断がつかなかった。
ちょうど近くにいたシエラが、ゆっくりと顔を上げた。
「……あれは、風」
「えっ、そうなんですか?」
「……上の枝が揺れてる」
見上げると、高いところにある枝が風に揺れ、そのたびに葉が触れ合っていた。
「じゃあ、今のは?」
若い冒険者が別の方向を指した。
少し離れたところで、短く甲高い声が響く。
「……鳥」
「全部分かるんですか?」
「……全部は、分からない」
シエラはあっさり答えた。
「……一度だけじゃ、決められない。続けて聞く」
「続けて、ですか?」
「……足音なら、何度か鳴る。枝なら、風でまた揺れる」
若い冒険者は真剣な顔で頷いた。
私も森の奥へ視線を向けた。魔力の気配を探ることはできるけれど、普通の動物が立てる小さな物音まで、魔法で全部把握できるわけではない。
「分からないときは、無理に確かめに行かずに報告してね」
「はい。分かりました」
私たちは二人を残し、次の警戒場所へ向かった。
「シエラ、ありがとう。助かったよ」
「……まだ、何もしてない」
「いや、十分してくれたと思うけど」
タクマがそう言うと、シエラは少し首を傾げた。
「……そう?」
◇
最初の見張りの交代が終わり、私たちも一度休むことになった。
天幕の中にはすでに毛布が敷かれていたけれど、地面の硬さまではどうにもならない。横になると背中に小さな石の感触があり、私は何度か寝返りを打った。
「……寝られないのか?」
隣からタクマの声がした。
「ううん。ちょっと地面が硬くて」
「明日、下に敷くものを増やせるか聞いてみるか」
「そうだね。でも、みんな同じだろうし、贅沢は言えないかな」
しばらくすると、タクマの寝息が聞こえ始めた。
私は目を閉じたものの、外から聞こえる音が気になって、なかなか眠れなかった。
木々を揺らす風の音に混じって、遠くから低い鳴き声が聞こえてくる。何かが地面を引っかくような音もしたけれど、それが本当に外から聞こえたのか、天幕の布が擦れただけなのかも分からない。
やがて少し眠ったらしく、次に目を開けたときには、外で誰かが話している声がした。
「……北側から報告です」
聞き慣れた警備兵の声だった。
私は身を起こした。
隣ではタクマも目を開けている。
「何かあったみたいだな」
「うん。ちょっと確認してくる」
「俺も行くよ」
私たちは装備を整え、天幕の外へ出た。
焚き火の近くでは、ヴィクターが警備兵から報告を受けていた。
「北側の林から、枝の折れる音と足音が続けて聞こえたそうです。こちらへ近づいている可能性があります」
「姿は確認できましたか?」
「まだです。ただ、音が一度きりではなく、何度か続いているとのことです」
ヴィクターは私たちに気づくと、状況を説明してくれた。
「見張りの一人が確認に向かおうとしたそうですが、もう一人が止め、決めた手順どおりに報告してきました」
「じゃあ、見張りの人たちは持ち場に残ってるんですね」
「はい。こちらで確認する人員を向かわせます」
私は頷いた。
「私も行きます。シエラを呼んでもいいですか?」
「お願いします。森の様子を確かめてもらえると助かります」
タクマがシエラを呼びに行き、その間に私は周囲の魔力を探ってみた。
今のところ、近くに強い魔力の反応は感じられない。ただ、これだけで安全だと決めつけることはできなかった。
ほどなくして、シエラが弓を持って現れた。
「……何か来た?」
「北側で足音がしたんだって。まだ姿は見えてないみたい」
「……分かった」
ヴィクターが警備兵を二人連れ、私たちも一緒に北側へ向かった。
◇
北側の見張り場所へ着くと、二人の冒険者がこちらを振り返った。
「リカさん、あっちです」
一人が林の奥を指した。
「最初は枝が折れる音だけだったんですが、その後、落ち葉を踏む音が何度も続いて……」
「それで、もう少し近くで確認しようとしたんですけど」
もう一人が言いかけると、隣の冒険者が苦笑した。
「決めたばかりの手順を破るなって、俺が止めたんです」
「いや、分かってるよ。だからちゃんと待ってただろ」
二人のやり取りを聞いて、ヴィクターが頷いた。
「その判断で構いません。持ち場を離れずに報告してくれて助かりました」
私たちは少し離れた場所から、林の奥を確認することにした。
シエラが前へ出て、じっと耳を澄ませる。
しばらくすると、がさり、と茂みが揺れた。
続いて、何かが地面を掘るような音がする。
「……何かいる」
シエラが小さく言った。
「魔物かな?」
「……たぶん、違う」
「分かるの?」
「……足音が軽い。何頭かいる」
私はもう一度魔力の気配を探った。
確かに、魔物らしい強い反応はない。
けれど、シエラはまだ弓を下ろさず、茂みの向こうを見つめていた。
「……近づいてくる」
次の瞬間、木々の間から小さな影が現れた。
ずんぐりとした胴体に短い脚。鼻先を地面へ近づけ、落ち葉を押しのけながら歩いている。
「……猪?」
私が呟くと、タクマも目を凝らした。
「似てるな。あれ、三頭いるぞ」
親子なのか、少し大きな一頭の後ろを、小さな二頭がついてきていた。こちらにはまだ気づいていないらしく、地面の匂いを嗅ぎながら少しずつ近づいてくる。
「食べ物を探してるのかな?」
「……たぶん」
シエラが答えた。
「……焚き火の匂いも、届いてるかも」
そのとき、大きな一頭が顔を上げた。
鼻先を動かし、こちらの方を向く。
私たちと目が合ったような気がした。
「……気づいた」
シエラが言うのとほぼ同時に、獣は短く鳴いた。
すると三頭は一斉に向きを変え、茂みの奥へ走り去っていった。枝が揺れ、落ち葉を踏む音が遠ざかっていく。
私たちはしばらくその場で様子を見ていたけれど、獣たちが戻ってくる気配はなかった。
「……行った」
シエラが弓を下ろした。
「よかった。魔物じゃなかったんだね」
私が言うと、タクマも息をついた。
「夜中に戦闘にならなくて助かったな」
ヴィクターは警備兵へ指示を出し、北側の警戒を続けるよう伝えた。
「野生動物とはいえ、野営地の近くまで来たことは確認できました。今夜は配置を変えず、引き続き警戒してください」
「承知しました」
見張りの冒険者たちも頷いた。
そこへ、連絡を受けて様子を見に来たコンラートが合流した。
「状況は聞きました。被害はなかったようですね」
「はい。小型の獣が数頭近づいてきただけでした」
私が説明すると、コンラートは見張りの二人へ目を向けた。
「報告も早かったと聞いています。よい判断でした」
「ありがとうございます」
「ただ、今後も同じようなことがあるでしょう。音だけで判断できない場合は、今日と同じように連絡してください」
「はい!」
ヴィクターもその場で状況を確認し、必要な人員だけを残して解散を指示した。
結局、野営地の大半の人たちは何があったのかも知らず、天幕の中で眠ったままだった。
◇
その後は大きな異変もなく、夜間警戒の交代が進んだ。
私とタクマも残りの休息を取り、次に目を覚ましたときには、天幕の外が明るくなり始めていた。
森の朝は思っていたよりも賑やかだった。
夜中には聞こえなかった鳥の声があちこちから響き、木々の間を小さな動物が走り回っている。焚き火の近くでは、早起きした職人たちが朝食の準備を始めていた。
「おはよう、タクマ」
「おはよう。結局、あれから何もなかったみたいだな」
「うん。見張りの人たちも、特に変わったことはなかったって」
天幕を出ると、ヴィクターがオリヴァーへ昨夜の報告をしているところだった。
オリヴァーは少し驚いた顔をしたものの、被害がなかったと聞くと安心したように頷いた。
「野生動物が近づいてきたのですね」
「はい。見張りが早めに報告したため、警戒担当者だけで対応できました」
「分かりました。北側の配置は、しばらくそのまま維持してください」
「承知しました」
ヴィクターが答えると、オリヴァーは続けて職人の班長へ声をかけた。
「食料の保管場所も、早めに決めた方がよさそうですね」
「そうですね。今は荷馬車に積んだままですが、獣が匂いにつられて来るなら、保管方法も考えた方がよさそうです」
「では、今日の作業の中で検討しましょう」
私はそのやり取りを聞きながら、昨夜の獣たちの姿を思い出した。
確かに、あの三頭が食べ物の匂いにつられて来たのなら、また近づいてくる可能性もある。荷物を置く場所だけでなく、食べ残しの片づけ方にも気をつけた方がよさそうだった。
朝食を終えると、先遣隊はそれぞれの作業を始めた。
警備兵は昨夜と同じ配置で周辺を警戒し、冒険者たちは必要に応じて職人の作業を手伝う。職人たちは測量器具や工具を荷馬車から降ろし、中央の草地へ運び始めていた。
その中に、エステルの姿があった。
◇
「それで、今日はどこから始めるんですか?」
エステルが職人の班長に尋ねた。
班長は地面に打たれた杭を確認し、中央の草地の一角を指した。
「まずは、この範囲を平らにしたいんです。大きな石や木の根もありますから、普通に人手で作業すると結構な時間がかかりまして」
「土を動かすだけなら、私の魔法でできると思いますけど」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、どこをどう動かすかは教えてください。適当に平らにすればいいというものでもないでしょうし」
班長は嬉しそうに頷いた。
「助かります。では、まず小さな範囲で試してみましょう」
私とタクマも近くで作業の様子を見守ることにした。
職人たちは地面に目印を置き、どの部分を削り、どこへ土を移動させるかを説明していく。エステルはそのたびに頷き、指示された範囲を確認していた。
「では、ここからここまでですね」
「はい。まずは表面の凹凸をなくす程度でお願いします。深く掘りすぎないようにしてください」
「分かりました」
エステルが地面へ手を向けた。
次の瞬間、草地の一部がゆっくりと盛り上がり、土が波打つように動き始めた。
小さな石が押し出され、盛り上がっていた部分の土が低い場所へ流れていく。木の根が露出しているところでは動きを止め、職人たちが根の位置を確認してから、周囲の土だけを移動させた。
しばらくすると、さっきまで凸凹だった地面が、目に見えて平らになっていた。
「……すごい」
思わず私が呟くと、タクマも感心したように頷いた。
「これ、普通にやったら相当な作業だぞ」
職人の班長も、目を丸くして地面を見つめていた。
「……これ、人手でやったら半日かかりますよ」
「えっ、そんなに?」
エステルは少し得意げに笑った。
「それなら、結構お役に立てそうですね」
「ええ。これなら作業がずいぶん進みます」
ただし、班長はすぐに地面へしゃがみ込み、表面の土を手で触った。
「とはいえ、まだ踏み固める必要がありますね。こちらの石も取り除きたいですし、雨が降ったときに水が溜まらないかも確認しないと」
「ああ、そういう作業は残るんですね」
「もちろんです。平らになっただけでは、まだ使えませんから」
エステルは少し意外そうな顔をしたけれど、すぐに頷いた。
「分かりました。じゃあ、必要なところを教えてください」
班長は職人たちに声をかけ、地面の硬さと高さを測り始めた。
私たちも少し離れた場所から、その作業を眺めていた。
「タクマ、これなら整地も結構早く進みそうだね」
「そうだな。ただ、エステルさん一人に全部任せるわけにもいかないし、どこまで魔法でやるかは考えないとな」
「うん。魔力だって無限じゃないしね」
そんな話をしているうちに、班長が測量を終えた。
「よし。この範囲は予定どおりです」
班長は目印の杭を打ち直し、エステルへ声をかけた。
「では、次はあちらをお願いします」
「……本当に次もやるんですね」
「もちろんです。今日はここから始めますから」
エステルが小さくため息をつくと、近くにいた職人たちから笑い声が上がった。
班長は次の作業範囲を示し、職人たちが測量器具と杭を運び始めた。
「じゃあ、次の場所も確認しましょうか」
エステルは袖をまくり直し、班長の後について歩いていった。




