第103話 旅立ちの日
開拓団の出発を迎えた朝、私はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、森の木々の向こうから鳥の鳴き声が聞こえてくる。何度も耳にしてきた朝の音だけれど、今日でしばらく聞けなくなるのだと思うと、少しだけ寂しく感じた。これまでにも何度となく旅に出てきたのに、今朝はいつもと違う。目が覚めた瞬間から、今日という日が特別なものになるのだと、何となく分かっていた。
寝台から起き上がった私は、荷物を確認してから鏡の前に立った。昨日の夜、ずっと考えていたことがある。七年前、王宮を飛び出したときから続けてきた、髪の色を変える魔法のことだ。
私は鏡に映る自分を見つめながら、ゆっくりと魔法を解いた。
金色だった髪が、本来の茶色へと戻っていく。
鏡の中に現れたのは、七年前まで見慣れていた私の姿だった。もっとも、あの頃より背も伸びたし、顔つきだって少しは大人になったと思う。十五歳だった少女と、二十二歳になった今の私では、同じ髪色でもずいぶん印象が違う。
それでも、懐かしさはあった。
王宮で暮らしていた頃、毎朝侍女たちに髪を整えてもらっていたことを思い出す。あの頃は、自分の髪を誰かに結ってもらうのが当たり前だった。王女としての身だしなみを整えることも、私にとっては日常の一部だったのだ。
今は違う。髪を整えるのも、着る服を選ぶのも、すべて自分で決めている。そんな当たり前のことが、昔の私にはできなかった。
「……うん」
私は小さく頷いた。
不思議と、怖さはなかった。
王女としての自分を隠すために続けてきた魔法を解いたからといって、これまでの生活がすべて変わるわけではない。私はこれからも冒険者のリカとして生きていくし、王宮へ戻るつもりもない。
ただ、もう隠す必要はないと思ったのだ。
身支度を整え、荷物を手に部屋を出ると、居間ではタクマが自分の装備を確認していた。
「おはよう、タクマ」
「ああ、おはよう。リカ、荷物は……」
こちらを振り向いたタクマが、途中で言葉を止めた。
「……えっ?」
「……何?」
「いや、その髪……」
タクマは驚いたように私の顔を見つめている。
彼が私の本来の髪色を見るのは、これが二度目だ。以前、一度だけ魔法を解いて見せたことがあるけれど、普段はずっと金髪で過ごしていたのだから、驚くのも無理はない。
「あ、うん。戻してみた」
「いや、戻してみたって……」
「……なんというか、心境の変化?」
少し照れくさくなって、私は曖昧に笑った。
タクマはしばらく私を見つめていたけれど、やがて何かを察したように表情を和らげた。彼は私が王宮を飛び出した理由も、これまで何を恐れてきたのかも知っている。だからこそ、今朝の私の姿を見て、何かが変わったのだと感じたのかもしれない。
「……そっか」
「うん」
「似合ってるよ。前に見たときも思ったけど」
「……ありがと」
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
タクマはそれ以上、理由を尋ねなかった。昨日の夜、私が何を考えていたのかを知っているわけではないけれど、きっと何となく察してくれたのだと思う。
「でも、別に王女に戻るわけじゃないからね?」
念のためにそう言うと、タクマは笑った。
「分かってるよ。リカはリカだろ?」
「……うん」
その言葉が、何より嬉しかった。
王女だった頃の私も、冒険者として暮らしてきた私も、どちらも同じ人間なのだと、タクマは当たり前のように受け止めてくれる。私自身がようやくそう思えるようになったことを、彼は特別なことのようには扱わなかった。
だからこそ、私は安心して笑うことができたのだと思う。
◇
朝食を済ませ、最後の荷物を確認すると、私たちは家を出た。
玄関の扉を閉め、鍵をかける。いつもと変わらない動作のはずなのに、今日は少しだけ手が止まった。何度も出入りした扉も、見慣れた窓も、玄関先の小さな段差さえ、今朝は妙に目につく。
今回の旅は、これまでの遠征とは違う。
今までも依頼で何週間も家を空けたことはあったけれど、今回はいつ帰れるのか分からない。開拓地に新しい街ができるまでには、何か月も、あるいは何年もかかるかもしれないし、そのまま向こうで暮らすことになる可能性だってある。
そのため、家の中にあった不要な物はほとんど整理した。傷みやすい食料は使い切り、持っていける物は荷物に詰め、必要のない物は処分した。家具などの大きな物は残してあるけれど、家の中は以前よりずっとがらんとしている。
片づけをしている間は、やるべきことが多くて寂しさを感じる暇もなかった。けれど、こうしてすべての準備を終え、家の外に立ってみると、ようやく本当に出発するのだという実感が湧いてきた。
私は玄関の前で立ち止まり、家を振り返った。
ここでタクマと暮らし、毎日のように料理を作り、依頼から帰ってきては疲れた体を休めた。シエラが遊びに来ることもあれば、フリーダやクルシュたちを招いて賑やかに食事をしたこともある。タクマと何でもない話をしながら食事をした夜も、二人でこれからのことを考えた時間も、今では大切な思い出になっていた。
ボーマンと過ごした日々のことも思い出した。
王宮を抜け出してからの七年間、私はいろいろな場所を旅してきたけれど、ここは初めて自分の意思で暮らすことを選んだ、大切な家だった。王女として与えられた部屋ではなく、誰かに決められた住まいでもない。自分で選び、そこで暮らすことを決めた場所だったからこそ、離れることがこんなにも寂しいのかもしれない。
「……また、帰って来れるといいね」
私がそう言うと、タクマも家を見つめた。
「……ああ」
それだけだった。
必ず帰ってくるとは、どちらも言わなかった。新しい街での生活がどうなるのか、まだ分からないからだ。開拓地で暮らし始めれば、そこで新しい日常が生まれるだろうし、仕事や人とのつながりも増えていく。いつかこの家へ戻る機会があったとしても、以前とまったく同じ暮らしに戻るとは限らない。
それでも、いつかまたこの家の扉を開けて、懐かしい景色を眺める日が来たらいいなと思った。
私たちは家に背を向け、森の中の小道を歩き始めた。
しばらく進むと、木々の間から見慣れたログハウスが姿を現した。シエラが暮らしている家だ。
彼女はすでに外で待っていた。
「……おはよう。準備、できた」
「おはよう、シエラ!」
「おはよう。待たせたか?」
「……大丈夫」
シエラはいつものように短く答えたあと、私の顔を見て一瞬だけ目を見開いた。
「……髪、戻したんだ」
「うん。ちょっとね」
シエラは私の髪をじっと見つめ、それから小さく頷いた。
「……似合ってる」
「ありがとう、シエラ」
彼女はそれ以上、何も尋ねなかった。
シエラも長期間家を空けることになるため、ログハウスの中はすでに片づけてあるらしい。彼女は最後に扉の鍵を確かめると、私たちのところへ歩いてきた。
「……行こう」
「うん!」
三人で森の小道を進み、ノヴァグラードへ通じる転移魔法陣へ向かった。
この魔法陣には、これまで何度も助けられてきた。街へ買い物に行くときも、ギルドで依頼を受けるときも、森の家とノヴァグラードを簡単に行き来できたのは、この魔法があったからだ。森の中で静かに暮らしながら、街で冒険者として働くことができたのも、この転移魔法陣があったおかげだった。
私たちは魔法陣の上に立ち、いつものように転移した。
次の瞬間、景色が変わり、ノヴァグラード側の転移地点へ到着する。
「……ちょっと待って」
私は二人を呼び止めた。
「どうした?」
「この魔法陣、解除しておこうと思って」
タクマが少し驚いた顔をした。
「……解除するのか?」
「うん。しばらく使わないし、誰かに見つかって悪用されても困るから。念のためね」
私は魔法陣の中心に手をかざし、術式を確認した。
森の家へつながる転移魔法陣は、私が組み上げたものだ。魔力の流れを一つずつ断ち、術式の接続を解除していくと、淡く光っていた模様が静かに消えていった。接続先の術式も機能を失い、これで二つの地点を結ぶ転移魔法は完全に停止した。
もう、ノヴァグラードから森の家へ直接戻ることはできない。
もちろん、家そのものがなくなったわけではない。森の道を歩けば、いつでもあの場所へたどり着けるだろうし、必要になれば再び魔法陣を設置することもできる。
それでも、いつでも簡単に帰れる道を、自分の手で閉じたことには、少しだけ特別な意味があるように思えた。
「……よし。これで大丈夫」
私は立ち上がり、二人に笑いかけた。
「行こう!」
◇
ノヴァグラードの街は、朝からいつも以上に賑わっていた。
開拓団の集合場所となっている街門付近には、荷馬車が何台も並び、職人や冒険者たちが忙しそうに行き交っている。警備隊の兵士たちは隊列を整え、物資を積んだ荷車の確認を進めていた。
これから大公国内の各地で人員や物資が合流する予定なので、ここにいるのは開拓団の一部にすぎない。それでも、荷馬車の列や出発を待つ人々の姿を見ると、いよいよ大きな事業が動き出すのだという実感が湧いてくる。
私たちが到着すると、さっそく顔見知りの冒険者が声をかけてきた。
「おっ、リカさん! おはようござい……えっ?」
「おはよう!」
「……あれ? 髪、どうしたんですか?」
「ああ、これ? 本当はこっちが地毛なんだよね」
「ええっ!? そうだったんですか!?」
驚く冒険者に笑って答え、私はそのまま集合場所へ向かった。
ところが、少し歩いたところで別の知り合いに呼び止められた。
「リカさん!? 髪の色が違う!」
「うん。本当はこっちが地毛なんだよね」
「そうなんですか!? ずっと金髪だと思ってました!」
「まあ、そうだよね……」
さらに、荷馬車の近くで顔見知りの商人に声をかけられる。
「おや、リカさん。今日はずいぶん印象が違いますね」
「本当はこっちが地毛なんだよね……」
……三回目。
そのあとも、行く先々で同じような質問をされた。
当然といえば当然だ。ノヴァグラードで暮らすようになってから、私はずっと金髪だったのだから、突然髪の色が変われば誰だって驚くだろう。私自身、これほど多くの人に顔を覚えられているとは思っていなかったし、改めて街での知り合いが増えたのだと実感した。
ただ、頭では分かっていても、何度も同じ説明をするのはなかなか大変だった。
「……もう、説明するの面倒くさい!」
思わずそう呟くと、隣のタクマが笑い出した。
「そりゃ、みんな驚くだろ。ずっと金髪だったんだから」
「分かってるけど! こんなに聞かれると思わなかったんだもん!」
「……目立つ」
シエラがいつもの調子で言った。
「シエラ、それ朝も言ってなかった!?」
「……言ってない」
「そうだっけ!?」
タクマはますます楽しそうに笑っている。
……もしかして、髪の色を戻すのは出発してからにした方がよかったんじゃないだろうか。
そんなことを考え始めた頃、コンラートさんが私たちのところへやってきた。
「リカさん。おはようございます。本日は……」
彼は私の顔を見るなり、言葉を止めた。
その表情が、驚きから別のものへ変わっていく。最初は目を見開いていたけれど、やがて懐かしいものを見つけたように表情を和らげた。
「……リカさん」
「おはよう、コンラートさん」
私はいつもどおり挨拶した。
コンラートさんはしばらく私を見つめていたけれど、やがて静かに頭を下げた。
「……よく、お似合いです」
「……ありがとう」
彼が何を考えているのか、何となく分かった。
コンラートさんは、私が王女だった頃の姿を知っている。七年前の私と今の私ではずいぶん違うけれど、本来の髪色に戻った姿を見て、何か感じるものがあったのだろう。
彼にとって、私はかつて仕えていた王家の王女なのだ。今は冒険者として接してくれているけれど、だからといって昔の記憶が消えるわけではない。私が髪の色を戻したことにも、きっと私自身とは違った意味を感じているのだと思う。
「……そんな顔しないでよ、コンラートさん」
「申し訳ありません。ただ……」
彼は少し言葉を探したあと、穏やかに微笑んだ。
「こうして、またお目にかかれるとは思っておりませんでしたので」
「……うん」
私はそれ以上、何も言わなかった。
コンラートさんも、私が王女だったことを周囲に話すつもりはないのだろう。彼はいつもどおりの態度に戻ると、部下たちの準備状況について報告してくれた。
そのやり取りを、少し離れたところからユリウスとミレイユが見ていた。
「……ミレイユ」
「うん……」
「リカさんって、やっぱり……」
「……今は聞かない方がいいと思う」
二人は小声で何か話していたけれど、私には最後まで聞こえなかった。
ただ、こちらを見る二人の表情が、いつもより少し真剣だったことだけは気になった。以前から何かを察しているような様子はあったけれど、今日の私の姿を見て、ますます疑問が大きくなったのかもしれない。
……まあ、今は何も聞かないでいてくれるなら、それでいいかな。
◇
出発の準備が整うと、街門近くの広場で簡単な式典が行われた。
大がかりなものではないけれど、冒険者ギルドや職人ギルドの関係者、商人たち、それに見送りに来た住民たちが集まっている。開拓団の参加者も荷馬車の近くに並び、代表者の挨拶を待っていた。
最初に前へ出たのは、バルザックだった。
「お前ら、よく聞け!」
いつもの大きな声が広場に響く。
「これからお前らが向かうのは、まだ街も道もない森の中だ。苦労も多いだろうし、危険なこともある。だが、そこに新しい街ができれば、大勢の人間が暮らしていけるようになる」
バルザックは集まった冒険者たちを見渡した。
「冒険者の仕事は危険がつきものだ。だが、仕事だからって無茶をするな。生きて帰ってこい。依頼の完了報告を受けるまでが、俺たちギルドの仕事だからな!」
その言葉に、冒険者たちから力強い返事が上がった。
私は思わず笑った。
いかにもバルザックらしい挨拶だ。普段は乱暴な言葉遣いをすることも多いけれど、彼が冒険者たちのことを大切に考えているのは、こういうときによく分かる。これまで何度も無茶をした私たちに、叱ったり呆れたりしながらも力を貸してくれたことを思い出した。
続いて、警備隊長のヴィクターが前に出た。
彼は移動中の隊列や休憩の取り方、警備隊と冒険者の連携について簡潔に説明した。これから長い行程になるため、各自が勝手な行動を取らず、決められた連絡方法を守ることが重要だという。
そして、説明を終えたヴィクターがこちらを向いた。
「それでは、リカ殿からも一言お願いいたします」
「……えっ、私も?」
「はい。ぜひ、開拓団の皆さんへお言葉を」
……聞いてないんだけど。
私はタクマを見た。
タクマは笑っている。
……また笑ってる!
「……分かったよ」
仕方なく前へ出ると、集まった人たちの視線が一斉にこちらへ向いた。
冒険者たちだけでなく、職人や商人、警備隊の兵士たちまで見ている。こんな大勢の前で話すのは久しぶりだった。
王宮にいた頃は、人前で挨拶をする機会もあった。けれど、あのときは王女として、決められた言葉を話すだけだったように思う。誰かが用意した文章を覚え、間違えないように話すことが大切で、自分が本当に何を伝えたいのかを考えることは、あまりなかった。
今は違う。
ここにいる人たちは、私の臣下でもなければ、王女としての言葉を待っているわけでもない。これから一緒に働き、新しい街を造っていく仲間たちなのだ。
私は小さく息を吸い、集まった人たちへ向き直った。
「えっと……みんな、今日はよろしくお願いします」
少しだけ笑い声が起きた。
「これから向かう場所には、まだ何もありません。だから、私たちで少しずつ造っていくことになると思います。道を造って、家を建てて、そこで暮らせるようにして……きっと、やらなきゃいけないことはたくさんあります」
私は一度言葉を区切り、皆の顔を見渡した。
「大変なこともあると思うけど、困ったときはお互いに助け合って、みんなで無事にたどり着けたらいいなって思ってます。私もできることは精いっぱい頑張るので……よろしくお願いします!」
「おう!」
「よろしくお願いします!」
冒険者たちから明るい声が返ってきた。
職人たちも笑顔で頷いてくれている。立派な挨拶ができたとは思わないけれど、少なくとも私が伝えたかったことは、きちんと伝わったようだった。
私は少しだけ安心して、元の場所へ戻った。
「よかったぞ、リカ」
タクマが小声で言った。
「……もう。急に振らないでほしいよ」
「でも、ちゃんと話せてたじゃないか」
「……心臓に悪いって」
私がそう答えると、タクマはまた笑った。
◇
式典が終わり、いよいよ出発の準備が進み始めた。
荷馬車には最後の荷物が積み込まれ、警備隊の兵士たちが配置につく。冒険者たちもそれぞれの担当を確認し、出発の合図を待っていた。
そんな中、エリナが私たちのところへ駆け寄ってきた。
「リカ! タクマ! シエラ!」
「エリナ!」
私は笑顔で手を振った。
エリナは私の髪を見て、最初こそ驚いた顔をしたけれど、すぐにいつもの明るい笑顔を見せた。
「……ほんとに行っちゃうんだね」
「うん。いよいよだね」
「向こうにギルドができたら、ちゃんと顔出してよね!」
「もちろん!」
「それから、たまには手紙も送ってよ! どんな街になってるか知りたいし!」
「分かったって」
私は笑いながら答えた。
エリナとは、いつもこんな調子で話してきた。依頼の相談をするときも、仕事を終えて報告に戻ったときも、彼女は気さくに声をかけてくれた。だから、今日もいつもと同じように笑って別れられるのだと思っていた。
けれど、エリナは次の言葉を口にしようとして、少しだけ俯いた。
「……なんか、変だね」
「え?」
「いつもみたいに依頼に出かけるだけなのに……」
エリナの声が、わずかに震えていた。
「……いつ帰ってくるか、分かんないんでしょ?」
「……うん」
私が頷くと、エリナの目から涙がこぼれた。
「……寂しくなるじゃん……」
「……エリナ」
私は思わず彼女を抱きしめた。
エリナとは、ノヴァグラードで冒険者として活動するようになってから、ずっと顔を合わせてきた。依頼を受けるときも、報告するときも、いつも受付で笑顔を見せてくれた。
仕事で疲れて帰ってきたとき、彼女の明るい声に何度も元気づけられたことを思い出す。私たちが危険な依頼を終えて帰ってきたときには、心配して怒られたこともあったし、何でもない話で笑い合ったこともあった。
ギルドの受付嬢と冒険者という関係から始まったけれど、今では大切な友人の一人だった。
「……ありがとう、エリナ」
「……何がよ……」
「今まで、いろいろお世話になったから」
「……そんなの、こっちの台詞だよ……」
エリナは涙を拭いながら、私を抱きしめ返してくれた。
しばらくそうしていると、後ろから豪快な声が響いた。
「おいおい! 何しんみりしてんだよ!」
振り返ると、フリーダとクルシュが立っていた。
「フリーダ! クルシュ!」
「別に二度と会えねえわけじゃねえだろ! そんな顔して送り出すなって!」
フリーダはいつもどおりの笑顔で言った。
「どうせそのうち、そっちへの輸送護衛依頼とか出るだろ。そしたらあたしたちも行くからな!」
「……本当に?」
「当たり前だろ! 新しい街がどんなもんか、あたしだって見てえしな!」
クルシュも穏やかに頷いた。
「そのときは、ぜひ案内してくださいね。フリーダが迷惑をかけないよう、私も一緒に参りますから」
「おい! なんであたしが迷惑かける前提なんだよ!」
「……普段の行いでしょうか」
「クルシュ!」
いつもどおりの掛け合いに、私たちは思わず笑ってしまった。
エリナも涙を拭いながら笑っている。
……うん。きっと、また会える。
今回の旅は、もう二度とノヴァグラードへ戻らないという話ではない。新しい街ができれば、商人や冒険者たちが行き来するようになるだろうし、私たちだって仕事でこちらへ戻る機会があるかもしれない。
今までと同じように頻繁には会えなくなるけれど、だからといって、これまで築いてきた関係がなくなるわけではないのだ。離れた場所で暮らすことになっても、互いを気にかけ、また会いたいと思える人たちがいる。それだけでも、私はずいぶん幸せなのだと思う。
「……向こうに来たら、ちゃんと案内するからね!」
「おう! 楽しみにしてるぜ!」
フリーダは豪快に笑った。
そのとき、少し離れたところからバルザックが声をかけてきた。
「おい、リカ!」
「ん?」
「向こうでも、無茶だけはするなよ」
「……バルザックまでそれ言うの?」
「お前が一番言われなきゃならんからな」
「……ひどくない?」
「自覚がないなら、なおさらだ」
バルザックは呆れたように笑った。
私もつられて笑ってしまった。
「……分かったよ。気をつける」
「おう。それでいい」
それだけ言うと、バルザックはほかの冒険者たちのところへ向かっていった。
長々とした別れの挨拶はなかったけれど、それが何だか彼らしいと思った。きっと彼にとっては、私たちもこれから別の場所で仕事をする冒険者の一人なのだろう。だからこそ、無事に仕事を終えて帰ってこいと、いつもどおりに送り出してくれる。
その何気ない言葉が、今はとてもありがたかった。
◇
やがて、出発の時刻が訪れた。
ヴィクターの号令が響き、警備隊の兵士たちが隊列を整える。先頭の兵士が歩き始めると、それに続いて荷馬車がゆっくりと動き出した。
車輪が石畳を転がる音と、馬の蹄の音が重なって響く。
冒険者たちはそれぞれの配置につき、職人たちも荷馬車へ乗り込んでいく。これから各地でさらに人員や物資が合流する予定だけれど、今の段階でもかなりの人数だった。
私たちも自分たちの持ち場へ向かおうとすると、エステルさんが大きな荷物を抱えて立っているのが見えた。周囲を見回しながら、少し緊張した様子で自分の荷馬車を探しているらしい。
「エステルさん、大丈夫?」
「は、はい! ただ、こんなに大勢で旅をするのは初めてなので……」
「そっか。でも、困ったことがあったら遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます!」
彼女は嬉しそうに頭を下げた。
少し離れたところでは、ユリウスが張り切って荷物を運ぼうとして、ミレイユに注意されていた。
「ユリウス! それ、全部一人で持つ必要ないでしょ!」
「いや、これくらい平気だって!」
「そういう問題じゃないの!」
……あの二人も、相変わらずだ。
コンラートさんは部下たちと一緒に装備の最終確認をしていた。六人とも落ち着いた様子で、長旅への準備は万全らしい。かつてマリアベルの兵士だった彼らが、今は冒険者として新しい街を造るために旅立とうとしていることを思うと、少し不思議な気持ちになった。
それぞれが違った事情を抱え、違った理由でこの開拓団に参加している。新しい仕事を求める人もいれば、これまでとは違う生き方を始めようとしている人もいるだろう。私たちだって、そうした人々の一人なのだ。
私はそんな仲間たちの姿を眺めながら、改めて今回の開拓事業が始まるのだと実感した。
「リカ、そろそろ俺たちも行こう」
タクマが声をかけてきた。
「うん」
「……準備、できた」
シエラも頷く。
私たちは並んで歩き始めた。
街門へ近づくと、見送りに来た人々が手を振っているのが見えた。エリナもフリーダもクルシュも、その中にいた。
「リカー! 元気でねー!」
「おう! しっかりやってこいよ!」
「皆さん、どうかお気をつけて!」
私は振り返り、大きく手を振った。
「うん! みんなも元気でね!」
そして、街門をくぐる直前に、もう一度だけ足を止めた。
振り返れば、ノヴァグラードの街並みが見える。
冒険者として暮らし、たくさんの仲間と出会った場所。王女ではなく、ただのリカとして生きることができた、大切な街だった。
今朝、森の家を振り返ったときのことを思い出す。
あの家へ直接つながる転移魔法陣は、もうない。けれど、そこで過ごした時間まで消えてしまったわけではないし、ノヴァグラードで出会った人々とのつながりも、街を離れるだけでなくなるわけではない。
王宮を飛び出したとき、私は何もかも捨ててしまいたかった。王女としての名前も立場も、これまでの人生も、すべて置いていけば自由になれると思っていた。
けれど、今は違う。
大切なものを残して旅立つことも、過去を抱えたまま前へ進むこともできる。新しい場所で生きていくからといって、これまでの自分を否定する必要はないのだ。
「……行こうか、タクマ」
「ああ」
「……行こう」
シエラも静かに頷いた。
私は前を向いた。
街道には荷馬車の列がゆっくりと伸び、朝の光の中を進んでいる。これから大公国内のさまざまな場所で人々が合流し、やがて一つの大きな開拓団になるのだろう。
七年前、私は自由を求めて王宮を飛び出した。あのときは、何もかも捨てなければ新しい人生を始められないと思っていたけれど、今は違う。大切なものを残して旅立つことも、過去を抱えたまま前へ進むこともできるのだと、ようやく分かった気がする。
私たちを乗せた開拓団の列は、朝の街道をゆっくりと進んでいく。
目指すのは、まだ地図の上にしか存在しない、新しい街だった。




