第100話 王冠はいらない
ロデリック公王は、私たちがどのような立場で開拓事業に関わるのか、その話をしようと言った。
先ほどまでの説明だけでも、十分に驚かされている。マリアベル王国から割譲されたグリューンヴァルト大森林の一部を開拓し、新たな街を造る。そのために、私とタクマの力を借りたいというのだ。
魔物の討伐や周辺の調査、開拓に携わる人々の護衛。そうした仕事なら、冒険者である私たちにもできることはあるだろう。けれど、公王は先ほど、望むなら相応の地位を用意することもできると言っていた。
その言葉が、どうにも気になっていた。
「さて、待遇の話をする前に、もう一つ知っておいてもらいたいことがある」
ロデリックはそう言って、机に広げられた地図へ目を落とした。
「先ほどは森の資源や交易路、難民の受け入れについて話したな。だが、俺がグスタフにこの土地の割譲を求めた理由は、それだけではない」
「……ほかにも理由があるんですか?」
「ああ。お前たちも、すでに身をもって知っているはずだ」
ロデリックは、ノヴァグラードからマリアベルとの国境へ続く街道を指さした。
「マリアベルの内戦によって、我が国にも被害が出ている。国境を越えて流れ込んでくる敗残兵や脱走兵の問題だ」
私はタクマと顔を見合わせた。少し前、私たちはノヴァグラードの近くで起きた商隊襲撃事件を調査している。シエラと三人で襲撃現場を調べ、林の奥に潜んでいた武装集団を発見したのだ。
彼らは、ハインリヒ側の王国軍に所属していた兵士たちだった。
メルキア方面へ進軍したものの、父の率いる王軍の反撃を受けて敗走し、追撃を逃れるうちに大公国へ入り込んでしまったという。故郷へ戻ることもできず、仕事を探しても雇ってもらえず、最後には食料を得るために商隊を襲うようになっていた。
「……はい。私たちも、そういう人たちを捕まえたことがあります」
「十二人だったそうだな。ノヴァグラードの警備隊から報告が上がっている。全員を生かして捕らえたうえ、負傷者の治療までしたそうではないか」
「怪我をしている人を、そのままにはできませんでしたから」
「うむ。だが、罪を見逃したわけでもない。きちんと警備兵へ引き渡したと聞いている」
ロデリックは頷くと、再び地図へ視線を戻した。
「そういう事件が、国境のあちこちで起きているのだ。商隊が襲われ、村では食料や家畜を奪われる。我が国の警備隊も対処しているが、広い国境をすべて監視することはできん。まして相手は、武器の扱いに慣れた元兵士たちだ」
私は、あの林の中で戦った男たちを思い出した。
彼らは決して弱くなかった。見張りを配置し、仲間と連携して動き、戦闘が始まれば訓練された動きを見せていた。私たちが制圧できたのは、タクマの剣技とシエラの斥候としての腕、そして私の魔法があったからだ。普通の商人や村人にとっては、十分すぎるほど危険な相手だっただろう。
「俺はグスタフに対策を求めた。内戦を始めたのがあいつではないことは分かっているし、王都を失って苦しい状況にあることも承知している。だが、こちらの民が被害を受けている以上、友人だからといって黙っているわけにはいかん」
「……それは、当然だと思います」
私は静かに答えた。
父が苦しい立場にあることは分かっている。けれど、それを理由に、大公国の人々が被害を受けても仕方がないとは言えない。マリアベルの内戦は、すでに王国の中だけで完結する問題ではなくなっているのだ。
「グスタフもそれは理解していた。だが、今の王国軍には、国境地帯まで十分な兵を回す余裕がない。そこで、あの森の一部を我が国へ割譲し、こちらの責任で開拓と治安対策を進められるようにしたわけだ」
ロデリックは地図上のグリューンヴァルト大森林を指で示した。
「森に人を入れ、街道を整え、警備の拠点を置く。人が住み、目の届く場所が増えれば、武装集団が身を隠して活動できる範囲も狭くなる。もちろん、森を切り開けばすべて解決するというほど単純な話ではないがな」
「……なるほど」
私は地図を見つめながら、その意味を考えた。
先ほどまでは、森林資源や交易路の整備といった経済的な価値を中心に話を聞いていた。けれど、開拓地を造ることには、国境の治安を守るという目的もあったのだ。
大公国が自国の領土として管理できるようになれば、警備隊を配置し、街道を整備し、人の出入りを把握しやすくなる。国境を越えてきた武装集団が森へ逃げ込んだとしても、これまでより対処しやすくなるだろう。
そして、そこに新しい街ができれば、警備や補給の拠点としても機能するはずだ。
「ただな、俺は連中を取り締まるだけでは、問題は終わらんと思っている」
ロデリックは腕を組み、少し考えるように言葉を続けた。
「捕まえて罰するべき者は罰する。武器を持って村や商隊を襲うような連中を放置するわけにはいかん。だが、追い払うだけでは別の場所へ移るだけだし、捕らえた者をすべて牢へ入れておくわけにもいかん」
「……そうですね」
「そもそも、軍から離れた者が皆、盗賊になるわけではないだろう。働く場所さえあれば、真っ当に暮らそうとする者もいるはずだ」
その言葉に、私はあの十二人の話を思い出した。
彼らも、最初から商人を襲うつもりだったわけではないという。
大公国へ逃れてきたあと、農作業でも荷運びでもいいから仕事を探した。けれど、まとまった人数の外国兵を雇おうとする者は少なく、身元を証明するものもない。怪我をして働けない仲間もおり、残っていた金も次第に底をついてしまった。
その末に、彼らは商隊を襲った。
事情を聞いたとき、私は胸が痛んだ。けれど、被害を受けた商人の顔も覚えている。荷物を奪われ、荷馬車を壊され、次の仕事を受けることさえ怖がっていた人だ。
どれほど困っていたとしても、他人から奪っていい理由にはならない。だから、私たちは彼らを警備兵へ引き渡した。
あれが間違った判断だったとは思わない。けれど、彼らが罪を犯す前に、何か別の道を見つけられていたらどうだったのだろう。
「そこで、あの森だ」
ロデリックの声に、私は顔を上げた。
「開拓には大勢の人手が必要になる。木を切り、道を造り、資材を運び、建物を建てる。そうした仕事の中には、特別な技術を持たなくても始められるものがあるだろう」
「……つまり、元兵士の人たちを雇うということですか?」
「そうだ。もちろん、誰でも無条件に受け入れるつもりはない。武装解除と身元の確認は必要だし、罪を犯した者には我が国の法に従って責任を取らせる。住民の安全を犠牲にしてまで、連中を救うつもりはないからな」
ロデリックは、そこだけははっきりと言い切った。
「だが、武器を捨て、働く意志のある者なら、受け入れる道を考えてもよい。元は軍人だ。規律を知り、集団で行動することにも慣れている。荷運びや警備に向いた者もいるだろうし、土木作業の経験を持つ者もいるかもしれん」
私はその考えを頭の中で整理した。
武装集団を取り締まるには、人手も費用もかかる。捕らえたあとも、処遇を決め、監視し、必要なら収容する場所を用意しなければならない。けれど、彼らの一部が武器を捨てて働くようになれば、治安上の脅威を減らしながら、開拓に必要な人手も確保できる。
もちろん、簡単なことではないだろう。元兵士を受け入れることに不安を感じる住民もいるはずだし、実際に問題を起こす者が出てくる可能性もある。それでも、ただ追い払うだけでは解決しない問題に対して、別の答えを用意しようとしているのだ。
「……公王陛下は、そういう人たちに新しい仕事を与えようと考えているんですね」
「うむ。もっとも、慈善事業だけで国は動かせん。治安を守り、人手を確保し、開拓地を発展させる。どれも我が国にとって利益のある話だ」
ロデリックはそう言って、にやりと笑った。
「そして、そのためにお前の力を借りたい」
「……私の、ですか?」
「ああ。お前なら、そういった人材も使えるかもしれん」
私は思わず瞬きをした。
「……どうして、そう思われるんですか?」
「先ほどの十二人の話だ。お前たちは、相手がハインリヒの兵士だったからといって、容赦なく斬り捨てたりはしなかった。負傷者を治療し、事情を聞き、それでも罪は罪として警備兵へ引き渡した」
ロデリックは、私の目をまっすぐに見た。
「敵だから殺すわけでも、可哀想だから見逃すわけでもない。相手を人間として扱いながら、必要な線引きもできる。そういう判断ができる者は、案外少ないものだぞ」
「……そんな、大したことではありません」
「お前にとってはそうかもしれん。だが、俺にとっては十分に評価できる実績だ」
私は少し戸惑った。
あのときは、ただ目の前の依頼を果たそうとしていただけだった。商人を襲った人々を捕まえ、怪我をしている人を治療し、警備兵へ引き渡す。それが私たちにできることだと思ったから、そうしたのだ。
けれど、ロデリックはそこに別の可能性を見いだしているらしい。
「そして、もう一つある」
ロデリックは、少しだけ声を落とした。
「お前がマリアベル王国の王女であることだ」
私は小さく息を呑んだ。
予想していなかったわけではない。けれど、改めてそう言われると、やはり胸の奥が落ち着かなくなる。
「……やっぱり、そこも関係するんですね」
「当然だろう。お前の名には、俺にも無視できん価値がある」
ロデリックは、少しも悪びれずに答えた。
「マリアベルの民を受け入れる土地に、マリアベルの王女が協力している。その事実だけでも意味はある。グスタフに忠誠を誓っていた者にとっても、故郷を失った民にとってもな」
「……でも、私は王女として活動しているわけではありません」
「分かっている。だからこそ、面白いのだ」
ロデリックは楽しそうに笑った。
「王宮を飛び出した王女が、今では冒険者として名を上げている。しかも、ノヴァグラードでは聖女とまで呼ばれているそうではないか。そんなお前が、新しい土地で人々を守るために働いているとなれば、希望を見いだす者もいるだろう」
私は黙っていた。
ロデリックの言葉は、決して間違っていないと思う。
マリアベルの王女という立場は、私が望んだものではない。けれど、王宮を出たからといって、その事実が消えるわけではなかった。
王国の人々の中には、王家の名を信じ、王族がいるというだけで安心する者もいるだろう。逆に、ハインリヒ側に従っていた者からすれば、私の存在を警戒する理由にもなるはずだ。
私が王女であるという事実には、それだけの意味がある。
「それに、お前が関わることで、この開拓事業が単なる領土拡張ではないと示すこともできる」
「……私を利用するおつもりなんですね」
「ああ。利用する」
ロデリックは即座に答えた。
あまりにも迷いのない返事に、私は思わず目を丸くしてしまった。
「俺は大公国の公王だ。国のためになるものを、使わずに放っておく理由はない。お前の魔法も、冒険者としての実績も、王女としての地位も、すべて価値がある」
ロデリックはそこで、少しだけ表情を和らげた。
「だが、勝手に使うつもりはないぞ。お前の正体を無断で公表すれば、ハインリヒ側を刺激することにもなるだろうし、お前自身を危険に晒すことにもなる。どこまで明かすか、いつ明かすかは、慎重に考えねばならん」
「……はい」
「だからこそ、こうして本人に話している。俺が何を期待しているのかを知らずに引き受けてもらっても、後で困るだけだからな」
ロデリックは腕を組み、私たちを見渡した。
「お前を選んだ真の打算は、これだ。魔物を倒せる優秀な冒険者であり、マリアベルの民にとって意味のある存在でもある。そんな人材は、探そうと思ってもそうそう見つからん」
私はしばらく言葉を返せなかった。
ロデリックは、私を王女として王宮へ戻そうとしているわけではない。けれど、王女であるという事実を、政治的な価値として利用しようとしている。
それは、私が避けてきた世界の考え方でもあった。
王宮にいた頃、私は何度も、自分の立場が自分一人のものではないと思い知らされてきた。王女がどこへ行き、誰と会い、何を口にするか。その一つ一つに意味があり、周囲の人々は常に国の利益や王家の立場を考えていた。
私は、そうした暮らしから逃れたかった。
けれど、今、ロデリックが話しているのは、少し違う。
彼は私に命令していない。王女としての義務を果たせとも言っていない。自分の打算を明かしたうえで、協力するかどうかを私自身に選ばせようとしているのだ。
私は、何ができるのだろう。
そして、何がしたいのだろう。
その二つは、似ているようで違う問いだった。
私は魔法を使える。魔物を倒すことも、人々の傷を治すこともできる。冒険者として経験を積み、今ではAランクという評価も受けている。王宮で学んだ知識もあるし、政治や外交についても、まったく分からないわけではない。
そして、望むと望まざるとにかかわらず、私はマリアベルの王女だ。
そうしたものを使えば、開拓事業の役に立てるかもしれない。けれど、それは私にできることの話だ。
私自身は、どうしたいのだろう。
正直に言えば、街を造ることそのものに、それほど興味があるわけではなかった。森を切り開き、道路を整え、建物を建てる。大切な仕事なのは分かるけれど、私はそのために冒険者になったわけではない。
それでも、ロデリックの話を聞いて、気になることがあった。
あの十二人の兵士たちだ。
彼らは、戦争で部隊を失い、故郷へ帰ることもできず、仕事を探しても雇ってもらえなかった。その末に商人を襲い、私たちに捕らえられた。
彼らが犯した罪は、消えるわけではない。被害を受けた商人のことを思えば、見逃すことなどできなかった。けれど、もし彼らが商人を襲う前に、働く場所を見つけられていたら。怪我をした仲間を休ませ、食料を得て、少しずつでも生活を立て直せる場所があったなら、違う道を選べたのではないだろうか。
そして、コンラートたちのことも思い出した。
彼らもまた、王国軍を離れ、仲間とともに冒険者として生きる道を選んだ人々だ。軍人だった人間が、軍を離れたあとも別の仕事を見つけ、自分たちの力で暮らしていくことはできる。
もちろん、誰もがコンラートたちのように上手くいくわけではないだろう。それでも、最初から道が閉ざされているのと、選べる道があるのとでは、まったく違う。
私は王女として国を治めるために生まれた。少なくとも、周囲の人々はそう考えていた。けれど、私はその人生を選ばなかった。
だからといって、祖国の人々が苦しんでいることまで、知らないふりをしなければならないのだろうか。
お父様は今もメルキアで戦っている。王都を取り戻し、王国を守るために、できる限りのことをしているのだろう。
私には、お父様と同じ道を歩むつもりはない。けれど、王国の人々が新しい土地で暮らし始める手助けなら、できるかもしれない。
王女として命令するのではなく、冒険者として力を貸す。そして、必要な場面では、自分が王女であるという事実も、誰かの役に立てられるかもしれない。
私は、その可能性を最初から拒む必要があるのだろうか。
「……リカルティール」
ロデリックの声に、私は顔を上げた。
「少し考え込ませてしまったようだな」
「……いえ。大丈夫です」
「ならば、そろそろ待遇の話をしようか」
ロデリックは椅子に深く腰掛け直した。
「この開拓事業は、将来的には一つの街を造ることになる。街が発展すれば、それを治める者も必要になるだろう」
「……はい」
「そこでだ。お前が望むなら、開拓地の領主となる道を用意してやってもよいぞ」
私は思わず目を見開いた。
「……領主、ですか?」
「うむ。もちろん、今すぐ爵位や領地を与えるという話ではない。だが、開拓に大きな功績を立てたなら、相応の地位を与えることはできる。お前ほどの実力と知識があれば、領主として働く道もあるだろう」
ロデリックはそう言って、今度はタクマへ視線を向けた。
「タクマ、お前も同様だ。功績次第では騎士爵なり、しかるべき地位を与えることもできるぞ」
「……俺も、ですか?」
タクマは驚いたように聞き返した。
「当然だ。俺は働いた者を正当に評価する主義だ。出身がどこであろうと、功績を立てた者には相応の報酬を与える」
タクマはすぐには答えなかった。何かを考えるように視線を落とし、しばらく黙っている。
私はその横顔を見つめながら、彼が何を考えているのか、少しだけ気になった。けれど、すぐに思い当たることがあった。
以前、私たちが王都を訪れたときのことだ。
ヴィルヘルム兄上の件で王宮へ向かった際、タクマはお父様と面談している。そこでお父様はタクマに貴族になるよう求めた。
そして、そうすれば私との間に子をなすことを許す、と。
思い出しただけで、頬が少し熱くなった。
あのときは、お父様がそんなことまで考えていたのかと驚いたし、タクマがどう受け止めたのかも気になった。
王女と平民の冒険者。
私たちが互いを大切に思っていても、王家の制度の中では、その身分差が問題になる。お父様が示したのは、タクマを貴族にすることで、私たちの関係を正式に認める道だったのだろう。
もちろん、それで私が王宮へ戻ることまで決まってしまうわけではない。けれど、貴族になるということは、王家や国との関係を新たに持つということでもある。
今のタクマは、そのことを考えているのかもしれなかった。
「……公王陛下」
やがて、タクマが顔を上げた。
「せっかくのお話ですが、俺は爵位をいただくつもりはありません」
「ほう。ずいぶん早い返事だな」
「……実は、以前にも似たような話をされたことがあるんです」
ロデリックが興味深そうに眉を上げた。
「誰にだ?」
「グスタフ陛下です」
「……グスタフが?」
ロデリックは一瞬驚いたような顔をしたあと、何かを察したように笑った。
「なるほど。あいつも、なかなか考えることがあるようだな」
タクマは苦笑した。
「そのときは、貴族になることがリカとの将来につながるのかもしれないと思いました。正直、俺には貴族の仕事なんて分からないですし、自分に務まるのかも不安でしたけど……」
彼はそこで、私の方を見た。
「でも、今は状況が違います。マリアベルは戦争の最中ですし、リカも王女として王宮へ戻るんじゃなくて、冒険者として生きることを選んでいます。俺も、その生き方を一緒に続けたいんです」
タクマの声は穏やかだったけれど、そこにははっきりとした意志があった。
「だから、今の俺が爵位をいただくのは、違う気がします」
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
タクマは、私が望むから仕方なく冒険者を続けているわけではない。彼自身も、今の生活を大切に思ってくれているのだ。私たちは別々の場所で生まれ、まったく違う人生を歩んできた。それでも、今は同じ道を選ぼうとしている。
そのことが、何より嬉しかった。
「……ふむ」
ロデリックは腕を組み、しばらくタクマを見つめていた。
「グスタフの考えも分からんではない。あいつは王であると同時に、お前の恋人の父親でもあるからな」
「……はい」
「だが、お前がそう決めたのなら、俺が無理に爵位を押しつける理由もない」
ロデリックはそう言って、今度は私へ視線を向けた。
「さて、リカルティール。お前はどうする?」
私は静かに息を吸った。
領主になるということは、単に立派な屋敷に住み、爵位を名乗るという話ではない。領地に住む人々の暮らしを守り、税や財政を管理し、争いが起きれば裁かなければならない。開拓地であれば、まだ十分に整っていない制度や仕組みを、一つずつ築いていく必要もあるだろう。
その責任がどれほど重いものか、私は王宮で学んできた。そして、そうした責任を背負うことが、私の望む人生ではないことも知っている。
「……公王陛下。せっかくのお話ですが、爵位も領地も、私には必要ありません」
ロデリックは少しだけ目を細めた。
「……理由を聞いてもよいか?」
「私は、これからも冒険者として生きていきたいんです」
私は隣に座るタクマを見た。彼もこちらを見て、小さく頷いてくれた。
「タクマと一緒に、自分たちで行く場所を決めて、自分たちで仕事を選んで。そうやって生きていくことが、今の私にとって何より大切なんです」
ロデリックは何も言わず、私の言葉を待っていた。
「でも、祖国の人々が苦しんでいることを、何も知らなかったことにはしたくありません」
私は、あの十二人の兵士たちを思い出した。そして、コンラートたちのことも。
「私たちが捕まえた兵士の人たちは、最初は仕事を探していたそうです。でも、雇ってもらえなくて、最後には商人さんたちを襲ってしまいました」
「……うむ」
「もちろん、だからといって罪を見逃していいわけではありません。でも、あの人たちがそうなる前に、別の道を選べる場所があったら、何か違っていたのかもしれないと思うんです」
私は一度言葉を区切り、考えていたことを続けた。
「私は、王女として国を治めるつもりはありません。でも、冒険者としてなら、人々を守ることができます。魔物を倒したり、怪我をした人を治療したり、困っている人の話を聞いたり……そういうことなら、私にもできます」
ロデリックは静かに頷いた。
「そして、必要なときには、王女としての立場が役に立つこともあるのかもしれません」
そう口にすると、少しだけ不思議な気持ちになった。
以前の私なら、王女としての立場を利用されることに、もっと強い抵抗を覚えていたかもしれない。けれど、今は違う。その立場をどう使うか、自分で選べるのなら、誰かのためになると自分で判断したときに、その力を使うこともできるのではないだろうか。
「だから、開拓のお仕事には協力したいと思います。私たちにできることがあるなら、ぜひ力になりたいです」
「……それは、王女としての責任感からか?」
ロデリックが静かに尋ねた。
私は少し考えてから、首を横に振った。
「……いいえ」
そして、はっきりと答えた。
「私が、自分でそうしたいと思ったんです」
ロデリックはしばらく黙っていた。
その沈黙の間、私は少しだけ緊張した。爵位も領地も断りながら、開拓事業には協力したいなど、都合のよいことを言っていると思われたかもしれない。
けれど、これが今の私の正直な気持ちだった。王女としての役割を引き受けるつもりはない。けれど、祖国のために何かできることがあるなら、冒険者として力を貸したい。その二つは、決して矛盾するものではないと思う。
「……ははっ」
ロデリックが小さく笑った。
そして次の瞬間、豪快な笑い声を上げた。
「はははは! そうか! 二人揃って爵位を断るか!」
突然の笑い声に、私は思わず肩をすくめた。
「まったく、面白い連中だ! 爵位を与えると言われて、こうもあっさり断る者は珍しいぞ!」
「……申し訳ありません」
「謝る必要などない! そもそも俺が欲しいのは、森へ踏み込んで魔物を討伐できる人材だ。領主の椅子に座る者なら、ほかにも候補はいる!」
ロデリックはひとしきり笑ったあと、少しだけ表情を引き締めた。
「だがな、リカルティール。お前が今言ったことは、決して軽いものではないぞ」
「……はい」
「祖国の民を守りたいと言うなら、その言葉には責任が伴う。森の開拓は綺麗事だけでは進まん。魔物もいれば、飢えた人間もいる。時には、助けたいと思っても助けられん者も出てくるだろう」
私は黙って頷いた。
ロデリックの言うとおりだ。私が力を貸したところで、すべての人を救えるわけではない。魔物に襲われる人もいれば、戦争によって傷ついたまま、立ち直れない人もいるかもしれない。
それでも、私にできることがあるのなら。
「……それでも、私にできることをしたいと思います」
ロデリックは満足そうに頷いた。
「よし。それならば、俺もお前たちを冒険者として使わせてもらおう!」
そう言って、再び豪快に笑う。
「もっとも、冒険者として働くなら、相応の責任は果たしてもらうぞ。公王の頼みだからといって、気楽な仕事になるわけではないからな!」
「……もちろんです」
私は自然と笑みを浮かべた。ようやく、話の落としどころが見えてきた気がした。
「それにしても、タクマ。お前は開拓事業そのものには、あまり興味がないのか?」
ロデリックが何気なく尋ねると、タクマは少し意外そうな顔をした。
「いえ、むしろ興味はありますよ」
「ほう?」
「俺、前の仕事で家を売っていたんです。だから、何もないところに新しい街ができるっていうのは、ちょっと面白そうだなって」
私は思わずタクマの方を見た。
確かに、彼は以前、日本で住宅の営業をしていたと話していた。家を建てる仕事そのものをしていたわけではないけれど、家を買う人たちの希望や、新しい暮らしへの期待には触れてきたのだろう。
「もちろん、俺が実際に家を建てられるわけじゃないんですけどね。でも、街ができて、人が住み始めて、少しずつ賑やかになっていくっていうのは、見てみたい気がします」
「ははは! なるほど! お前にはお前の理由があるというわけか!」
ロデリックは楽しそうに笑った。
「それでよい。建物を造る者には建物を造らせ、魔物を倒せる者には魔物を倒させる。それが人を使うということだ!」
タクマも笑った。
「そう言ってもらえると助かります」
私はそんな二人のやり取りを聞きながら、少しだけ可笑しくなった。
私は、開拓地で暮らすことになる人々のことを考えていた。けれど、タクマは新しい街ができていくこと自体にも、興味を持っているらしい。同じ仕事に参加するにしても、理由は少しずつ違う。
それでも、二人で同じ場所へ向かうことができるのなら、それでいいのだと思う。
「さて、では具体的な話をしよう」
ロデリックは地図を指しながら説明を始めた。
「今回の開拓事業については、大公国から冒険者ギルドへ正式に依頼を出す。お前たちはAランク冒険者として、それを受けてもらう形だ」
「……ギルドを通すんですね」
「当然だ。お前たちが冒険者として働きたいと言うのなら、その立場を尊重せねばなるまい。依頼内容や報酬、責任の範囲についても、ギルドを交えて明確にしておく必要がある」
ロデリックの説明によれば、私たちに期待されている仕事は、開拓予定区域の調査、危険な魔物の討伐、建設作業員や輸送隊の護衛などが中心になるという。
また、国境地帯へ流れ込んできた武装集団に関する情報収集や、必要に応じた接触についても、協力を求められる可能性があるらしい。ただし、武装集団への対応を冒険者だけで決めるわけではない。大公国の治安を担当する者と連携し、武装解除や身元の確認、罪を犯した者への処分などは、国の責任で行うことになる。
「お前たちには、魔物を倒すだけでなく、現地で起きていることをよく見て、必要な情報を伝えてもらいたい。場合によっては、武器を捨てようとする者たちとの橋渡しを頼むこともあるだろう」
「……分かりました」
私は頷いた。
これまでの冒険者としての仕事とは、少し違う部分もあるだろう。けれど、人々を守るために必要な仕事であることに変わりはない。
「もちろん、開拓地の運営までお前たちに任せるつもりはないぞ。現地の代官はこちらで立てる。行政や建設、予算の管理はそちらに任せるつもりだ」
「……代官の方がいらっしゃるんですね」
「うむ。警備についても、別途責任者と人員を配置する。人選や細かな役割については、追って連絡しよう。お前たちは現地で彼らと協力しながら、冒険者としての仕事を進めてくれればよい」
私は少しだけ安心した。
街を造るという話を聞いたときは、何をどこまで任されるのか分からなかった。けれど、こうして役割を分けて考えれば、私たちがすべてを背負う必要はないのだと分かる。行政や建設には、その仕事に詳しい人がいる。私たちは私たちにできることをすればいい。
「安心しろ。お前たちに税の徴収や、住民同士の揉め事の裁定まで任せるつもりはない」
「……それを聞いて安心しました」
私がそう答えると、ロデリックはまた笑った。
「ははは! 俺も安心だ! 優秀な冒険者に帳簿をつけさせて、魔物を放置するわけにはいかんからな!」
タクマも笑っている。先ほどまでの重苦しい話が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
「さて、正式な依頼については、ギルドと条件を詰めてから連絡することになる。報酬や期間についても、その際に確認してくれ」
「はい。分かりました」
「無論、働いた分はきちんと報酬を払う。公王の頼みだからといって、ただ働きをさせるつもりはないぞ。それがこの国の流儀だ」
タクマが笑った。
「それなら安心しました」
「ははは! 現金な男だな!」
ロデリックはそう言って、楽しそうに笑った。
けれど、私はタクマの言葉にも頷いていた。冒険者として働く以上、報酬は大切だ。危険な仕事を引き受けるのだから、その対価をきちんと受け取ることは、決して恥ずかしいことではない。そして、報酬を受け取るということは、仕事として責任を負うということでもある。
王女として命じられるのではなく、冒険者として依頼を受ける。その違いは、私にとって何より大きかった。
「まったく、グスタフの娘が爵位を断って冒険者を選ぶとはな。あいつが聞いたら、どんな顔をするやら!」
ロデリックがからかうように言った。
「……きっと、呆れると思います」
「ははは! 違いない!」
そう笑ったあと、ロデリックは少しだけ真剣な表情になった。
「だが、リカルティール。お前が自分で選んだ道なら、胸を張って歩め」
「……はい」
私は静かに頷いた。
七年前、私は自由になりたくて王宮を飛び出した。誰かに決められた人生ではなく、自分の望む人生を歩きたかったからだ。
あの頃の私にとって、自由とは、誰にも自分の進む道を決められないことだった。王女としての義務から離れ、自分の足で世界を歩き、知らなかったものに触れることができれば、それだけで十分だと思っていた。
けれど、王宮を離れてからの七年間で、私は多くの人に出会った。困っている人を助け、時には助けられ、どうすることもできない現実に直面したこともある。タクマと出会ってからは、一人で生きることだけが自由ではないのだと、少しずつ思うようになった。
自分の意志で誰かのために力を尽くすこともできる。誰かに命じられたからではなく、自分で考え、自分で選び、その結果に責任を持つこと。それもまた、自由の一つの形なのだと思う。
私はもう、王女として国を治めるつもりはない。けれど、王女だった自分を、すべて捨て去る必要もないのかもしれない。
王宮で学んだことも、冒険者として身につけた力も、私が歩んできた人生の一部だ。そこに王女としての立場が加わることで、誰かの助けになるのなら、私は自分の意志でそれを使いたい。
祖国のためにできることがあるのなら、私はその手を伸ばしたい。
隣にいるタクマと一緒に。
王冠はいらない。
私には、この杖と、自由に歩いていける足があるのだから。




