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【完結】脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第6章】森の向こうの未来 

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第98話 冒険者の王


 フロンティア大公国の公王、ロデリック・フロンティア・アシュフォード。


 その名はもちろん、以前から知っていた。マリアベル王国の王女として育った私にとって、隣国の統治者について学ぶことは当然のことだったし、七年前にノヴァグラードへ移り住む際にも、この国の制度や歴史については一通り調べている。


 けれど、こうして本人と向かい合ってみると、書物から得た知識とはずいぶん印象が違った。


 私の記憶にある王族や貴族たちは、正式な会談の席では言葉遣いや礼儀作法を何よりも重んじていた。ところが、目の前のロデリック公王は、そんな堅苦しい空気を少しも気にしていないようだった。背筋を伸ばして座っているだけでも威厳は十分に感じられるのに、本人はむしろ、私たちの緊張を解こうとしているように見える。


「さて、まずは何から話したものかな」


 ロデリックは私たちに椅子を勧め、自分も向かい側へ腰を下ろした。侍従が茶を運んでくると、軽く礼を述べてから一口飲み、改めて私とタクマを見渡す。


「そう緊張するな。今日は公式な謁見ではない。俺が話をしたくて、お前たちを招いたのだからな」


「……はい。ありがとうございます」


 私はそう答えたものの、なかなか気持ちは落ち着かなかった。


 先ほど、ロデリックは私の本当の名前を呼んだ。しかも、幼い頃に父と一緒に訪れたことまで覚えているらしい。隣国の王家同士なのだから、過去に面識があっても不思議ではないけれど、今の私は王女としてではなく、リカという名前で冒険者をしている。


 お父様が私の居場所を知っていたことは、ボーマンから聞いている。シエラが私の護衛と監視を兼ねて、長い間そばにいたことも、今では知っている。ボーマンがノヴァグラードを訪れた際には、王宮を出たあとの私がどのように見守られていたのか、ほとんどすべてを話してくれた。


 だから、王家が私の活動を把握していたこと自体は、もう驚くような話ではない。ただ、その情報が隣国の公王にまで伝わっていたとは思っていなかった。


「あの、公王陛下……」


「うむ。何だ?」


「先ほど、私のことをリカルティールとお呼びになりましたよね。どうして、私がノヴァグラードにいるとご存じだったんですか?」


 ロデリックは一瞬きょとんとした顔をしたあと、何がおかしいのか、豪快に笑い始めた。


「ははは! なるほど、そこが気になっていたか!」


「……はい」


「なに、難しい話ではない。お前がこの国へ来たとき……いや、正確にはマリアベル王家がお前の冒険者としての活動を把握した際だな。グスタフから、それは丁寧な書簡が届いたぞ」


「……お父様から?」


「ああ。内容も実にあいつらしいものだった」


 ロデリックは楽しそうに笑いながら、昔の手紙を読み上げるような口調になった。


「『娘が厄介になっている。何か迷惑を掛けた際は、遠慮なくたたき返してほしい』とな!」


「お、お父様っ!?」


 私は思わず声を上げてしまった。


 まさか、そんな手紙を送っていたなんて!


 確かに、お父様なら言いそうなことではある。私が王宮を飛び出したことを知ったときも、きっと相当怒っていたはずだし、冒険者として活動していると分かれば、何を考えているのかと呆れたに違いない。けれど、だからといって、隣国の公王にまでそんなことを書かなくてもいいじゃない!


「ははは! その顔を見る限り、思い当たる節があるようだな!」


「そ、それは……!」


 私は言い返そうとしたけれど、うまい言葉が見つからなかった。隣ではタクマが口元を押さえ、必死に笑いをこらえている。


「……タクマ?」


「いや、悪い。でも、なんかお父さんらしいなと思って……」


「もう!」


 私が睨むと、タクマはますます笑いそうになっていた。ロデリックもそんな私たちを眺めながら、しばらく楽しそうに笑っていたけれど、やがて少しだけ声を落とした。


「もっとも、あいつも本気でお前を追い返してほしかったわけではあるまい。そうするつもりなら、俺に手紙を送るより先に、自分の兵を差し向けていたはずだからな」


「……そう、でしょうか」


「俺はそう思うぞ。少なくとも、あの手紙には、お前を捕らえて連れ戻せなどとは一言も書いていなかった」


 私は思わず黙り込んだ。


 お父様が私の居場所を知りながら、無理に連れ戻そうとはしなかったことは、もう知っている。ボーマンから事情を聞いたときにも、そのことについては色々と考えた。けれど、こうしてお父様の古い友人から当時の話を聞くと、また違った気持ちになる。


 私が知らないところで、お父様は何を考え、どんな思いで書簡を送ったのだろう。自分の娘が王宮を飛び出し、遠い街で冒険者をしていると知ったとき、王として、そして父親として、どれほど複雑な思いを抱いたのだろうか。


 怒っていなかったわけではないと思う。心配だって、きっとしていたはずだ。それでも、少なくとも私の自由を奪うために手紙を送ったわけではなかったのだろう。


「……お父様らしいですね」


 私は小さく呟いた。


「そうだろう? あいつは昔から、そういう男だ」


 ロデリックは懐かしそうに笑った。


「俺もこの国の慣例に従い、若い頃は冒険者をやっていた。俺は海が好きでな。よくマリアベルへ行っていたものだ。その頃からグスタフとは旧知の仲だ」


「海、ですか?」


 タクマが興味を示した。


「ああ。この国は内陸にあるからな。若い頃は、海を見るだけでも随分と気分が高揚したものだ。マリアベルの港町には商船が行き交い、遠方の国々から様々な品が運ばれてくる。あの賑わいが好きだったのだ」


 ロデリックは当時を思い出すように目を細めた。先ほどまでの豪快な笑顔とは少し違う、遠い昔を懐かしむような表情だった。


「港を拠点に護衛の依頼を受けたり、商船に乗せてもらったり、時には海沿いの街道で魔物を討伐したりとな。若い頃は、随分と好き勝手に旅をしたものだ」


「公王陛下も、普通の冒険者と同じように依頼を受けていたんですか?」


 私が尋ねると、ロデリックは笑った。


「もちろんだ。もっとも、俺の場合は王家の人間だということが知られていたからな。訪問先で領主に挨拶を求められたり、商人から交易の相談を持ちかけられたりすることも多かった」


「……それって、冒険者というより外交官じゃないですか?」


 タクマが思わず言うと、ロデリックは愉快そうに笑った。


「ははは! 確かにな! 今思えば、冒険者の仕事と外交の仕事が半々だったような気もする!」


 私はその話を聞きながら、少し納得していた。


 大公家の人間が冒険者として活動するのは、単に剣や魔法の腕を磨くためだけではない。王宮の外へ出て、様々な立場の人々と接することに意味があるのだ。領主や商人と話すことも、普通の冒険者と同じように依頼を受けることも、将来国を治める立場になれば、きっと役に立つ経験なのだろう。


 もちろん、王族としての立場を完全に捨てられるわけではない。それでも、城の中にいるだけでは知ることのできない人々の暮らしや、地方の事情を自分の目で確かめる機会になる。フロンティア大公家が長年この慣例を守ってきた理由も、そこにあるのだと思う。


「グスタフとは、そうした旅の途中で何度も顔を合わせた。あいつも若い頃は、今よりずっと血気盛んだったぞ」


「……お父様が?」


「ああ。もっとも、頑固なところだけは昔から変わらんがな!」


 ロデリックはまた豪快に笑った。


 私は思わず、お父様の若い頃を想像してみた。けれど、どうしても王宮で難しい顔をしていた姿ばかりが浮かんでしまう。私にとってのお父様は、いつも国のことを考え、時には厳しい言葉を口にする人だった。若い頃にどんなことをしていたのか、詳しく聞いたことはほとんどない。


「お前の父親にも、若い頃は色々とあったということだ。いずれ機会があれば、本人に聞いてみるといい」


「……きっと、教えてくれないと思います」


「ははは! 違いない!」


 しばらく笑い声が続いたあと、ロデリックは茶を一口飲み、少しだけ表情を改めた。


「さて、昔話ばかりしていても仕方がないな。今度は、お前たちの話を聞かせてもらおう」


 その視線が、私とタクマへ向けられる。


「ノヴァグラードでのスタンピードの件、お前らが活躍していたことはよく聞いている。よくぞやってくれた」


 それまでの気さくな口調とは少し違う、真剣な声音だった。


「あの街は我が国にとって重要な拠点だ。多くの民の命を救ってくれたこと、国を預かる者として礼を言わせてもらう」


「……ありがとうございます」


 私は思わず姿勢を正した。


 スタンピードのときのことは、今でも鮮明に覚えている。次々と押し寄せる魔物の群れ、防壁の上で戦い続けた冒険者たち、負傷者を運ぶ人々と、必死に治療を続けた仲間たち。あのときは街を守ることだけで精一杯で、自分たちがどれほどのことを成し遂げたのか、落ち着いて考える余裕さえなかったと思う。


 けれど、こうして公王本人から感謝の言葉をもらうと、あの戦いがどれほど大きな出来事だったのか、改めて実感させられた。私たちが守ろうとしたのは、顔見知りの人たちが暮らす大切な街だったけれど、その街を守り抜いたことは、大公国にとっても大きな意味を持っていたのだ。


「私たちだけの力ではありません。ギルドのみんなや、街の人たちも一緒に頑張ってくれましたから」


「うむ。報告にもそうあった。冒険者だけでなく、衛兵や住民も力を合わせて街を守ったとな」


 ロデリックは満足そうに頷いた。


「それでも、お前たちが果たした役割は大きい。特に、リカの魔法とタクマの剣技については、随分と詳しい報告が届いているぞ。お前らが『聖女と英雄』と讃えられていることもな」


「……そこまでご存じなんですか?」


 私は思わず苦笑した。


 あの戦い以来、街の人たちが私たちをそんなふうに呼んでくれることがある。もちろん、感謝してもらえるのは嬉しいけれど、今でも少し照れくさい。特に、街を歩いているだけで声をかけられたり、知らない人から頭を下げられたりすると、どう反応すればいいのか困ってしまう。


「ははは! 随分と立派な呼び名ではないか!」


「……私たちは、できることをしただけですから」


「うむ。それが大切なのだ。自分にできることを、必要なときに果たせる者はそう多くない」


 ロデリックは満足そうに頷いた。


「それに、優秀な冒険者の情報は、この国にとって重要だ。大規模な魔物の討伐や、危険な地域での調査、軍だけでは手が回らない仕事もある。そうしたとき、誰に何を任せられるか把握しておく必要があるからな」


 私はその言葉に頷いた。


 フロンティア大公国が冒険者ギルドを重視していることは、以前から知っていた。けれど、こうして統治者本人の口から聞くと、その考え方がよりはっきりと分かる。この国では、冒険者は単に魔物を倒す人たちではない。国や街が抱える様々な問題を解決するための、大切な存在なのだ。


 王家の人間が若い頃に冒険者を経験するという慣例も、そうした考え方と無関係ではないのだろう。冒険者の能力や役割を知っているからこそ、国の仕組みの中で彼らを活用することができる。ロデリックの話を聞いていると、この国がなぜ冒険者にとって暮らしやすい場所なのか、改めて理解できる気がした。


「そして、タクマと言ったか」


 ロデリックが、今度はタクマへ視線を向けた。


「は、はい」


「お前も実に面白いな。リカルティールに拾われ、かのボーマン師の指導を受けたとはいえ、よくぞここまで実力をつけたものだ」


「……ありがとうございます」


 タクマは少し緊張した様子で頭を下げた。


 私はその隣で、少しだけ嬉しくなった。タクマがこの世界へ来てからの成長は、ずっとそばで見てきた。ボーマンの指導があったことは確かだけれど、タクマ自身が努力を重ねてきたからこそ、今の実力があるのだ。


 もちろん、戦いの中で危険な目に遭ったことも、一度や二度ではない。剣を振るうことに迷い、悩んだ時期もあった。それでもタクマは自分なりに答えを探し、今では私と一緒に困難な依頼を引き受けられる冒険者になっている。


 その努力を、こうして公王本人が認めてくれたことが嬉しかった。


「そのボーマン師だがな、今は王国軍の総司令官として復帰し、敏腕を振るっているそうだ」


「……えっ?」


「……えっ!?」


 私とタクマの声が、ほとんど同時に重なった。


「ボ、ボーマンが……総司令官!?」


 私は思わず身を乗り出してしまった。


 ボーマンが優れた剣士であり、かつて王国軍で重要な役職を務めていたことは知っている。けれど、王宮での務めを退いてからは、長く表舞台を離れていたはずだ。そんな彼が、今になって王国軍の総司令官に復帰しているなんて、まったく想像していなかった。


「……あのボーマンさんが、軍を指揮してるんですか?」


 タクマも驚きを隠せない様子だった。


「うむ。グスタフも苦しい状況だからな。あの方ほど経験豊富な人物が戻ってくれたのは、王国軍にとって大きいだろう」


 ロデリックは静かに頷いた。


「俺も詳しい戦況まではここで話せんが、少なくとも、あの方が健在であることは確かだ」


 私は少しだけ安心した。


 ボーマンが今も元気でいること。そして、お父様のそばで力を尽くしてくれていること。それを知れただけでも、嬉しかった。


 けれど同時に、そこまでしなければならないほど、マリアベルの状況は厳しいのだろうとも思った。王都が陥落し、お父様がメルキアへ退いたことは知っている。ボーマンが再び軍を率いているという話は、王国が今も戦い続けていることを、これまで以上にはっきりと感じさせた。


「……そう、だったんですね」


 私が呟くと、ロデリックは少しだけ表情を和らげた。


「まあ、あの方なら心配はいらんだろう。むしろ、敵に回した者の方が気の毒というものだ」


 タクマが苦笑した。


「……それは、何となく分かります」


「ははは! お前は直接鍛えられたのだからな!」


 ロデリックはまた楽しそうに笑った。重くなりかけた空気を和らげるような笑い方だったけれど、私には、その言葉が単なる慰めではないことも分かった。ロデリックはボーマンの実力をよく知っているのだろう。


 それから、彼は改めてタクマの顔を眺めた。


「しかし、この辺りではあまり見ない顔立ちをしているな。お前、どこの出だ?」


「えっ? いや、その……」


 突然の質問に、タクマが言葉を詰まらせた。


 私は思わず隣を見る。タクマが別の世界から来たことは、私も知っている。けれど、それを公王陛下に説明するわけにもいかない。そもそも、そんな話を突然聞かされても、普通は信じてもらえないだろう。


 タクマは少しだけ考え込んだあと、慎重に口を開いた。


「……遥か東方の辺境の出身です。転移魔法の事故に巻き込まれ、この地へ来ました」


「ほう、転移魔法の事故か」


 ロデリックは興味深そうに眉を上げた。


「それは災難だったな。転移魔法は便利な反面、扱いを誤れば何が起きるか分からん。見知らぬ土地へ飛ばされるとは、さぞ苦労したことだろう」


「……ええ。最初は本当に、何が何だか分かりませんでした」


 タクマは苦笑した。


 その言葉には、嘘がなかった。実際、私が森でタクマを見つけたとき、彼は魔物に追いかけられ、今にも命を落としそうになっていたのだから。言葉が通じたことだけでも幸運だったと思うし、あのときのタクマにとっては、何もかもが見知らぬものだったはずだ。


 ロデリックはそんなタクマの様子を眺め、少しだけ笑みを深めた。


「しかし、得たものも大きかっただろう?」


「……え?」


「まさか、森で自分を拾った娘が一国の王女で、しかもその恋人になるとは思わなかったのではないか?」


「そ、それは……まあ、はい」


 タクマが困ったように笑った。


「公王陛下!」


 私は思わず声を上げてしまった。


 どうして、そこでそんな話になるの!?


 ロデリックは私の反応を楽しむように、豪快に笑った。


「ははは! よいではないか! 若い二人が仲睦まじいのは結構なことだ!」


「もう……!」


 私は顔が熱くなるのを感じた。


 隣ではタクマが苦笑している。助けを求めるように視線を向けてみたけれど、彼もどう答えればいいのか分からないらしい。普段なら何か気の利いたことを言ってくれるかもしれないけれど、さすがに公王本人から恋人関係をからかわれるとは思っていなかったのだろう。


 ロデリックはしばらく楽しそうに笑っていたが、やがて少しだけ表情を改めた。


「まあ、安心しろ。俺はお前たちの素性を問題にするつもりはない」


 その言葉に、私たちは顔を上げた。


「この国では、使える者は誰でも使う。それが出自のはっきりしない異国の男だろうと、隣国の王女だろうとな!」


 ずいぶん乱暴な言い方だった。


 けれど、そこには不思議な説得力があった。ロデリック公王にとって大切なのは、私たちが何者として生まれたかではなく、何ができるかということなのだろう。


 もちろん、王族としての身分や出自がまったく意味を持たないわけではないはずだ。国を治める立場にある以上、そうした事情も考慮する必要があるだろう。むしろ、私が隣国の王女であることを知りながら、こうして招いている時点で、ロデリックには何らかの考えがあるのかもしれない。


 それでも、目の前の公王が私たちの実績をきちんと見てくれていることは伝わってきた。王女としての私だけでも、異国から来たタクマだけでもなく、ノヴァグラードで活動してきた二人の冒険者として評価してくれている。


 そのことが、私には嬉しかった。


「……ありがとうございます」


 私がそう言うと、ロデリックは満足そうに頷いた。


「うむ。だからこそ、今日お前たちをここへ招いたのだ」


「……私たちに、何か依頼があるんですか?」


 私が尋ねると、ロデリックはにやりと笑った。


「ああ。少々大きな仕事になるがな」


 その言葉に、タクマも興味を示したようだった。


「大きな仕事、ですか?」


「そうだ。普通の冒険者なら、まず引き受けんだろうな」


 ロデリックはそう言うと、机の脇に置かれていた書類の束へ手を伸ばした。その中から大きな地図を取り出し、私たちの前へ広げる。


 それは、フロンティア大公国とマリアベル王国の国境周辺を描いた地図だった。ノヴァグラードやワルシャリアの位置も記されている。さらに南東へ目を向けると、広大な森林地帯が描かれていた。


 私は、その地名を見て少し驚いた。


「……グリューンヴァルト大森林?」


「ほう。知っているか」


「はい。マリアベル王国の南東部に広がる大森林ですよね。昔から魔物が多く、ほとんど開拓が進んでいない地域だと聞いています」


「そのとおりだ」


 ロデリックは頷いた。


「土地そのものは広大だが、人が住むには厳しい場所でな。魔物の問題だけでなく、街道も十分に整備されておらん。木材や水などの資源は豊富だが、それを活用するための拠点もほとんどない」


 私は地図を眺めた。


 グリューンヴァルト大森林については、王宮で地理を学んだ頃から知っている。マリアベル王国の領土ではあったけれど、実際には人の手がほとんど入っていない土地だ。森林の奥には強力な魔物が生息しているとされ、過去にも何度か開拓が試みられたものの、十分な成果を上げられなかったと聞いていた。


 それでも、土地そのものに価値がないわけではない。広大な森林には木材をはじめとする資源が眠っているだろうし、もし安全に人が暮らせる場所を確保できれば、新しい集落や交易の拠点を築くことも不可能ではないはずだ。


 ただし、それを実現するためには、魔物の討伐だけでなく、街道の整備や住居の建設、食料の確保など、様々な問題を解決しなければならない。簡単に人が住める土地ではないことも、私はよく知っていた。


 そんな場所を、なぜ今になって公王が話題にするのだろう。


「……あの、公王陛下。どうして、この森の話を?」


 私が尋ねると、ロデリックは地図の一角へ指を置いた。


「この森はな、これからの大公国にとって、非常に重要な土地になる」


「……大公国にとって?」


 私は思わず聞き返した。


 グリューンヴァルト大森林は、確かに大公国の国境に近い。けれど、少なくとも私が知っている限りでは、マリアベル王国の領土だったはずだ。いくら現在の王国が混乱しているとはいえ、他国の領土を大公国の将来に関わる土地として語るのは、少し奇妙に思える。


 ロデリックはそんな私の疑問を見透かしたように笑った。


「そのあたりの事情は、順を追って説明しよう。少々込み入った話でな」


 そう言って、彼は私とタクマを交互に見た。


「リカルティール。お前は王冠を捨てて、自由を選んだそうだな」


「……はい」


 私は静かに頷いた。


 王女として生きる道を離れ、冒険者として暮らすことを選んだ。その決断について、後悔がまったくないと言えば嘘になる。お父様のことも、故郷のことも、今なお心配している。


 けれど、タクマと一緒に歩んできた日々も、ノヴァグラードで出会った人たちとの暮らしも、私にとっては何よりも大切なものだった。だからこそ、王都が陥落したと知ったあとも、私は自分の選んだ道を歩き続けることにしたのだ。


 ロデリックはそんな私の返事を聞くと、満足そうに頷いた。


「ならば、少しばかり面白い話をしてやろう」


 彼は地図の上に置いた指を、ゆっくりと動かした。


「ここには、まだ王宮も、貴族の屋敷も、立派な街道さえない。あるのは広大な森と、そこに眠る資源、それから厄介な魔物どもだけだ」


 私は地図を見つめた。


 隣ではタクマも、真剣な表情で話を聞いている。彼も、ロデリックが単なる魔物討伐の依頼を持ちかけようとしているわけではないことに気づいたのだろう。


 ロデリックは私たちの様子を確かめると、楽しそうに笑った。


「どうだ、お前たち」


 そして、グリューンヴァルト大森林を指さした。


「お前たちの手で、ここに新しい街を造ってみる気はないか?」


「……えっ?」


 私は思わずタクマと顔を見合わせた。


 新しい街を、造る?


 それも、あのグリューンヴァルト大森林に?


 魔物の討伐や危険な地域の調査なら、私たちにもできることはあると思う。けれど、街を造るとなれば話はまったく違ってくる。人が住む場所を確保し、生活に必要なものを整え、そこへ移り住む人々を守り続けなければならない。


 そんな大仕事を、どうして私たちに持ちかけるのだろう。


 私はもう一度、地図に描かれた広大な森へ目を向けた。


 そこは、これまで誰も十分に開拓できなかった土地だった。そして、今の私たちにはまだ、その森がどのような未来につながっているのか、想像することさえできなかった。


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