【閑章12話】王冠の重さ
ザクセンブルク王国の使節団がメルキアを訪れてから、数日が過ぎた。
臨時王宮では、連日のように外交文書が作成されていた。ザクセンブルクからは、ハインリヒ軍に対する軍事行動について、より具体的な条件が提示され始めている。一方、シルヴァノールとの交渉も進んでおり、海上交易の優越権を条件とする軍事支援について、双方の外交官が書状を交わしていた。
もちろん、どちらの国とも正式な協定が結ばれたわけではない。
ザクセンブルクは、内乱終結後の外交関係の正常化と、グラニスク会戦での行為を相互に不問とすることを求めている。さらに、ゲルマニア諸王国との協調関係を維持することも条件の一つだった。
シルヴァノールが求めているのは、ヴェルミニア海における交易上の優遇である。関税や港湾施設の利用条件など、具体的な内容を詰める必要があり、アルフォンス宰相は連日のように担当官吏たちと協議を重ねていた。
私は、その様子を見ながら、外交という仕事の難しさを改めて感じていた。
軍事的な問題であれば、敵の兵力や地形、補給の状況などを調べ、どのように戦うべきかを考えることになる。もちろん、それも簡単なことではない。しかし、外交の場合は相手の望むものが必ずしも明らかではなく、提示された条件が本当に相手の最終的な要求なのかさえ分からない。
しかも、一度の会談で結論が出るわけではないのだ。書状を交わし、条件を検討し、相手の返答を待つ。その間にも新しい情報が届き、情勢が変われば、再び条件を見直さなければならない。昨日まで有利だと思われていた条件が、翌日には新たな問題を生むことさえあるらしい。
アルフォンス宰相の机には、いつも新しい書類が積み上がっていた。
私も可能な限り手伝うようにしていたが、できることは限られている。外交文書の内容を確認し、各国の地理や交易事情について学び、会議に同席して議論を聞く。それだけでも一日の大半が過ぎてしまうことが珍しくなかった。
それでも、以前のように何も分からないまま報告を聞いているだけではなくなったと思う。
シルヴァノールが軍事支援を検討しているのは、ザクセンブルクのヴェルミニア海への進出を警戒しているためであり、ザクセンブルクが再び王軍へ接近してきたのも、そうした情勢と無関係ではないだろう。
どちらの国も、自国の利益を守るために動いている。そして我々もまた、王国を守るために彼らと交渉しているのだ。
もっとも、外交の結果を待っている間、王国が何もせずにいるわけではなかった。
メルキアの街では、避難民を受け入れるための住居が整えられ、港には連日のように交易船が入っている。王軍の防衛陣地も少しずつ完成に近づき、街道を行き交う兵士たちの姿には、以前よりも落ち着きが感じられるようになっていた。
王都を失った王国は、ここで新しい秩序を築こうとしている。
そのことを実感するたび、私は胸の奥に小さな希望が灯るのを感じていた。失われたものはあまりにも多いが、少なくとも我々には、まだ立ち上がる力が残されている。
◇
「国境の状況が、思わしくありません」
ある日の政務会議で、アルフォンス宰相はそう切り出した。
卓上には、フロンティア大公国から届けられた新たな書状と、メルキア南方の国境地帯を描いた地図が広げられている。地図には主要街道だけでなく、小さな集落や河川、橋梁の位置まで記されており、その周囲には官吏たちが書き込んだ細かな注記が並んでいた。
「大公国政府から、追加の照会が届いております。敗残兵や脱走兵の流入が依然として続いており、国境警備隊との衝突も発生しているようです」
グスタフ陛下は、書状へ視線を落とした。
「前回の返答では、我々も可能な限り協力すると伝えたはずだが」
「はい。しかし、現地の状況は我々が想定していた以上に深刻なようです。大公国側も国境警備を強化しておりますが、武装した集団が各地に散らばっているため、十分に対処しきれていないとのことでございます」
アルフォンス宰相は、地図上の国境地帯を指し示した。
「この地域には、以前から小規模な集落や交易路が点在しております。しかし、王都からの撤退に伴って地方行政の機能が弱まり、治安維持に必要な人員も不足しております」
「地方官吏たちはどうしている」
「王都へ逃れた者もいれば、ハインリヒ側の統治下に入った者もおります。メルキアへ避難してきた者もおりますが、元の任地へ戻すことは容易ではございません。特に、王軍の主要な防衛線から外れた地域では、現地の役人が独自の判断で行政を維持しているところもあり、王国政府からの指示が十分に行き届いておりません」
私は、地図へ目を向けた。
メルキアの防衛線は、湿地帯と主要街道を利用して構築されている。しかし、その外側にも多くの集落があり、人々が暮らしている。王軍が守るべき領土は、防衛線の内側だけではないのだ。
戦場の地図を眺めていると、どうしても街道や河川、兵を配置できる場所ばかりに目が向いてしまう。しかし、その地図に記された小さな点の一つ一つにも、家族を養い、畑を耕し、日々の生活を営んでいる人々がいる。
彼らにとって、自分たちの集落が王軍の防衛線の内側にあるかどうかなど、本来は関係のないことなのだろう。
「王軍の兵を派遣することはできぬのか」
陛下が尋ねると、アルフォンス宰相は難しい表情を浮かべた。
「一部の街道には警備隊を配置しておりますが、広い地域を十分に巡回するには人員が足りません。王軍の主力を分散させれば、メルキアの防衛にも影響が出ます」
その説明に、私は思わずボーマンへ視線を向けた。
総司令官は静かに頷いた。
「現状では、主要街道と橋梁の防衛を優先せざるを得ません。小規模な部隊を各地へ分散させれば、敵の攻勢が始まった際に集結させることが難しくなります。国境の治安維持に必要な兵力を確保することは、今の王軍にとって容易ではございません」
「つまり、守るべき土地があるのに、守るための兵を十分に送れぬということか」
陛下の言葉に、誰もすぐには答えなかった。
私も、何と言えばよいのか分からなかった。
王国には、まだ二万五千ほどの兵が残されている。しかし、その兵力をすべて自由に動かせるわけではない。負傷兵や後方支援の人員も含まれているうえ、メルキアそのものを守るために、多くの兵を防衛線へ配置しなければならない。
国境の集落を守るために兵を送れば、メルキアの防衛が弱まる。メルキアを守るために兵を集めれば、国境の集落へ十分な手が届かない。
どちらも、王国の民であることに変わりはないというのに。
「国境を守るための兵が、国境の民を守れぬとはな」
陛下は、苦々しげに呟いた。
アルフォンス宰相は、しばらく沈黙してから口を開いた。
「大公国側も、国境警備の強化を進めております。ただし、武装集団が国境を越えて活動する状況が続けば、交易路の安全にも影響が及ぶでしょう。商人たちが危険を感じて往来を控えるようになれば、物資の調達にも支障が生じかねません」
「交易が止まれば、我々の補給にも響く」
「はい。現在の王国にとって、フロンティア大公国との関係は極めて重要でございます」
グスタフ陛下は、地図を見つめたまま考え込んでいた。
やがて、静かに口を開く。
「アルフォンス。大公国へは、改めて協力の意思を伝えよ。国境の治安について、我々も可能な限りの対応を続ける」
「承知いたしました」
「それから、この地域の行政状況について、もう少し詳しい報告を集めておいてくれ。どの集落にどれほどの住民が残り、どこまで王国政府の指示が届いているのか、正確に把握しておきたい」
「御意」
その指示を最後に、会議は次の議題へ移った。
しかし私は、地図に示された国境地帯のことが、いつまでも頭から離れなかった。
王国の領土でありながら、王国の手が十分に届かない場所がある。国を守るという言葉の意味を、私はまた一つ考え直さなければならないようだった。
◇
その日の午後、ボーマン総司令官からメルキアの防衛計画について報告が行われた。
臨時王宮の会議室には大きな地図が広げられ、主要街道や橋梁、湿地帯の位置が細かく記されている。防衛線の要所には駒が置かれ、王軍の配置が一目で分かるようになっていた。
「主要街道の陣地構築は、ほぼ予定どおりに進んでおります」
ボーマンは、地図を指し示しながら説明した。
「湿地帯を迂回できる道路は限られており、敵が大軍を進める場合、通過できる場所は自然と絞られます。我々はその地形を利用し、複数の防衛線を構築しております」
私は、以前にも聞いた説明を思い出した。
メルキアは北をヴェルミニア海に面し、南側にはフロンティア大公国の領土が張り出している。そのため、東方から大軍が侵攻する場合、通過できる地域は比較的限られていた。
さらに、街道の周囲には湿地帯が広がり、橋梁を確保しなければ大量の物資を運ぶことも難しい。大軍を動かすには、兵士だけでなく食料や武器、馬の飼料まで運ばなければならない。どれほど兵力に勝っていても、補給が滞れば戦い続けることはできないのだ。
王軍は、その地形を最大限に利用して防衛線を築いている。
「負傷兵の一部も復帰し始めております。装備の補充にはまだ時間が必要ですが、部隊の再編成も順調に進んでおります。王都から避難してきた職人たちの協力もあり、武具の修理や消耗品の補充については、当初の見込みより改善が進んでおります」
「ハインリヒ軍の動きはどうだ」
グスタフ陛下が尋ねた。
「王都周辺の統治と占領地の掌握に兵力を割いているようです。現時点では、メルキアへ大規模な攻勢を開始する兆候は確認されておりません。ただし、王都から西方へ向かう街道の警備は強化されており、今後の動向には引き続き注意が必要でございます」
「そうか」
陛下は、地図の上に置かれた駒を見つめた。
「ならば、この時間を無駄にするわけにはいかぬな」
「御意」
「防衛線の整備を急げ。補給路を確保し、負傷兵の復帰と新たな兵の訓練も進めよ。ハインリヒが攻めてきたとき、我々が十分に備えていることを思い知らせてやらねばならぬ」
「承知いたしました」
ボーマンが頷くと、陛下はさらに続けた。
「ザクセンブルクが本当にハインリヒ軍の後方を攻撃するのであれば、我々にも反攻の機会が生まれるだろう」
私は、その言葉に顔を上げた。
反攻。
メルキアへ撤退してから、王軍は防衛のことばかりを考えていた。少なくとも、私にはそう見えていた。
しかし、陛下は違ったらしい。
「守り続けるだけでは、いずれ国が痩せ細る。機会があるならば、余は王都を取り戻したい」
陛下の声には、確かな力があった。
「王都には、今も多くの民が暮らしている。ハインリヒの支配を受け入れた者もいるだろうが、我々の帰還を待っている者もいるはずだ。王国の正統な政府がメルキアに残っていることを、彼らにも示し続けねばならぬ」
私は、マリアベルクを離れた日のことを思い出した。
王宮の廊下、慌ただしく荷物を運ぶ官吏たち、街を離れる馬車の列。あの日、私たちは王都を守りきれなかった。
しかし、だからといって、二度と戻れないと決まったわけではない。
王軍がメルキアで戦い続け、補給を維持し、兵力を回復させることができれば、いつか反攻の機会が訪れるかもしれない。ザクセンブルクが本当にハインリヒ軍の後方を攻撃するのであれば、その可能性はさらに高まるだろう。
「ただし、反攻には十分な準備が必要でございます」
ボーマンが答えた。
「ザクセンブルクの協力が得られるとしても、敵の動向と我が軍の戦力を慎重に見極めねばなりません。焦って兵を動かせば、せっかく整えた防衛線を失うことにもなりかねません」
「分かっておる」
陛下は頷いた。
「だからこそ、今は備えるのだ。勝てる機会が訪れたとき、確実にそれを掴めるようにな」
私は、その言葉に胸が熱くなるのを感じた。
王国は、まだ終わっていない。
メルキアで生き延びることだけが、我々の目的ではない。失ったものを取り戻すための準備が、今も着実に進められているのだ。
◇
軍議が終わったあと、私はグスタフ陛下に呼び止められた。
「フェルディナント。少し話をせぬか」
「はい、陛下」
陛下は会議室を出ると、隣の小さな居間へ私を案内した。
王都の宮殿であれば、国王の私室には豪華な調度品が並んでいただろう。しかし、今の臨時王宮には、そのような余裕はない。簡素な椅子と小さな卓が置かれているだけで、窓からはメルキアの街並みが見えた。
陛下は椅子に腰を下ろし、私にも座るよう促した。
「最近は、アルフォンスの仕事を手伝っているそうだな」
「はい。もっとも、私にできることなど限られておりますが」
「最初から何でもできる者などおらぬ。分からぬことを学ぼうとするだけでも、十分に意味がある」
陛下はそう言って、わずかに笑った。
私は、少し迷ってから口を開いた。
「陛下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「先ほど、王都を取り戻したいとおっしゃいました」
「うむ」
「私も、そう願っております。しかし……そのためには、また多くの兵士が命を落とすことになるのでしょうか」
口にしてから、私は自分の問いがあまりにも単純だったのではないかと不安になった。
戦争をしているのだから、犠牲が出るのは当然だ。そんなことは、私にも分かっている。
しかし、グラニスクでの敗北以来、私は多くの負傷兵や避難民を見てきた。王都を取り戻すために戦えば、再び同じような光景が繰り返されることになる。
そのことを考えると、どうしても胸が重くなった。
陛下は、しばらく私を見つめていた。
「そうだな。戦えば、また多くの者が傷つくだろう」
その答えは、驚くほど静かだった。
「余も、それを望んでいるわけではない。できることなら、一人の兵も失わずに王都を取り戻したい。しかし、現実にはそうもいかぬ」
「はい……」
「だが、戦わずに済ませれば、すべてが解決するわけでもない」
陛下は、窓の外へ視線を向けた。
「ハインリヒの支配を認めれば、戦争は終わるかもしれぬ。しかし、それによって王国の秩序が回復するとは限らない。余を信じて戦っている兵たちも、王都で我々の帰還を待つ者たちも、その先どうなるかは分からぬ」
私は、黙って耳を傾けた。
「王都を取り戻すことだけが、王の務めではない。国を存続させ、民の暮らしを守り、失われた秩序を取り戻す。そのすべてが、王の責任なのだ」
陛下は、そこで一度言葉を切った。
「だが、戦わねば守れぬものもある。余が王位を退けば済むという話ではないのだ。今も余を信じて戦っている者たちがいる以上、その責任を途中で放り出すことなどできぬ」
私は、陛下の表情を見つめた。
グスタフ陛下は、決して戦争を好む人物ではない。少なくとも、私の知る陛下はそうだった。
しかし、戦争を避けることだけを考えれば、王国を守れるわけでもないのだろう。
「余は、勝つために戦っている」
陛下は、静かに言った。
「だが、勝つことだけを考えていては、王にはなれぬ」
私は、その言葉の意味を考えた。
戦争に勝つことと、国を守ること。その二つは同じように思える。しかし、必ずしも一致するわけではないのかもしれない。
勝利のために民を犠牲にすれば、たとえ戦場で勝ったとしても、王として守るべきものを失ってしまう。反対に、目先の犠牲を避けるために戦いを放棄すれば、より多くの民が苦しむことになるかもしれない。
どちらが正しいのか、簡単に答えを出せる問題ではなかった。
「難しいですね」
私がそう言うと、陛下は苦笑した。
「難しいとも。余も、いつも正しい答えを出せているとは思っておらぬ」
その言葉に、私は驚いた。
国王とは、常に正しい判断を下す者なのだと思っていた。しかし、陛下自身も迷い、悩みながら決断しているのだ。
「だからこそ、考え続けねばならぬ。王が考えることをやめれば、その代償を払うのは民だからな」
私は、深く頷いた。
王冠とは、権威を示すためのものだと思っていた。しかし、その下には、私の想像も及ばないほど多くの責任があるのだろう。
私はまだ、そのすべてを理解できるわけではない。それでも、いつか自分も同じ立場に立つことになるのであれば、今のうちに学ばなければならないことが、あまりにも多いように思えた。
◇
その日の夕刻、私は再び政務室を訪れた。
グスタフ陛下は、アルフォンス宰相とともに、フロンティア大公国からの追加報告を確認していた。机の上には、メルキア外縁部の地図が広げられている。
「この街道沿いの集落でも、武装集団の目撃が増えているのか」
「はい。大公国側も国境警備を強化しておりますが、広い地域を完全に監視することは難しいようです」
アルフォンス宰相は、地図上のいくつかの地点を指し示した。
「王国側の行政機構が十分に機能していないことも、問題を深刻にしております。住民からの訴えを受け付ける役所そのものが、閉鎖されている地域もございます。現地の領主や有力者が独自に治安維持を行っているところもありますが、十分な兵力や財源を持っているわけではありません」
陛下は、地図を見つめたまま黙っていた。
やがて、部屋の隅で書類を確認していたボーマンへ視線を向ける。
「ボーマン、こちらへ来い」
「はっ」
ボーマンは書類を置き、陛下のもとへ歩み寄った。
陛下は、アルフォンス宰相と私へ向き直った。
「すまぬが、しばらく席を外してくれぬか。ボーマンと二人で話したいことがある」
「承知いたしました」
アルフォンス宰相は一礼し、私もそれに倣った。
長年陛下に仕えてきたボーマンである。軍事や王宮の事情について、二人だけで相談したいこともあるのだろう。
私たちは政務室を出て、扉を閉じた。
廊下へ出ると、アルフォンス宰相はいつものように書類を抱え直した。
「殿下。私は執務室へ戻りますが、何かご用命はございますか」
「いえ。私も、まだ確認しておきたい資料がありますので」
「承知いたしました。それでは、また明日」
宰相はそう言って、廊下の向こうへ歩いていった。
私は一度だけ、閉じられた政務室の扉へ視線を向けた。
陛下とボーマンが何を話しているのか、もちろん私には分からない。
しかし、あの二人であれば、きっと王国のために必要なことを話し合っているのだろう。
そう考え、私は自分の仕事へ戻った。
◇
翌朝、グスタフ陛下から呼び出しがあった。
政務室へ入ると、既にアルフォンス宰相が待っていた。机の上には、昨日と同じメルキア外縁部の地図が広げられている。
「アルフォンス。フロンティア大公国へ、新たな使節を送ってもらいたい」
陛下は、私たちが席に着くとすぐに切り出した。
「国境問題について、もう少し踏み込んだ協議を行いたいのだ」
「承知いたしました。具体的には、どのような内容をお考えでしょうか」
アルフォンス宰相が尋ねると、陛下は地図上の一角を指し示した。
「この地域だ」
そこは、メルキアの南方に位置する外縁部だった。
王軍の主要な防衛線からは外れており、フロンティア大公国との国境に接している。小規模な集落や街道が点在しているものの、現在の王国政府による統治が十分に行き届いていない地域でもあった。
「この一帯について、大公国と国境の整理を協議したい」
「国境の整理、でございますか」
「うむ」
陛下は、静かに続けた。
「場合によっては、メルキア外縁部の一部を、フロンティア大公国へ譲ることも検討したい」
私は、思わず顔を上げた。
アルフォンス宰相も、すぐには言葉を返さなかった。
「陛下。それは……領土の割譲を意味するのでしょうか」
「そうだ」
陛下は、ためらうことなく頷いた。
「この地域は、既に我々の統治が十分に及んでおらぬ。行政機構は弱体化し、治安維持にも十分な兵を割けない。その結果、住民が危険にさらされ、隣国にまで混乱が広がっている」
「しかし、陛下」
アルフォンス宰相は、慎重に言葉を選んだ。
「領土を譲るということは、王国にとって極めて重大な決断でございます。現在の情勢でそのような提案を行えば、他国からも王国の弱体化を示すものと受け取られかねません。特に、ハインリヒ側がこの動きを知れば、陛下が王国の領土を守る意思を失ったと宣伝する可能性もございます」
「分かっておる」
「それに、領土に暮らす住民の権利や財産、徴税、行政の引き継ぎなど、解決すべき問題は少なくありません。王軍の防衛線との関係についても、慎重な検討が必要です」
陛下は、アルフォンス宰相の言葉を遮らなかった。
すべてを聞き終えてから、静かに口を開いた。
「だからこそ、まずは協議なのだ。条件も定めずに土地を渡すつもりはない」
陛下は、地図の上に指を置いた。
「この地域を我々が十分に守れぬのであれば、別の方法を考えねばならぬ。大公国は既に国境警備を強化しており、現地の治安維持に必要な力を持っている。彼らと協力することで住民の安全を確保できるのであれば、検討する価値はあるだろう」
私は、陛下の指先が示す地域を見つめた。
地図の上では、小さな集落がいくつも並んでいるだけだった。しかし、その一つ一つに人々の生活があることを、私は先日の会議で改めて思い知らされていた。
それでも、王国の領土を自ら手放すという判断には、簡単に納得できなかった。
「しかし、王国の領土を……」
私は、思わず口を挟んでいた。
陛下がこちらへ視線を向ける。
「何だ、フェルディナント」
「申し訳ございません。ただ……我々は既に多くの領土を失っています。そのような状況で、まだ守っている土地を自ら手放すというのは……」
最後まで言い切ることができなかった。
自分でも、何を言いたいのか整理できていなかったのだ。
領土を失うことが、王国にとって大きな損失であることは間違いない。しかし、その土地に暮らす人々が十分に守られていないことも、先日の会議で理解している。
王太子としては、領土を守りたい。
だが、守るための力が足りないのであれば、どうすればよいのだろうか。
陛下は、しばらく私を見つめていた。
「フェルディナント。余とて、好き好んで領土を手放したいわけではない」
「はい……」
「だが、地図の上で我が国の領土と記されているだけでは、そこに暮らす民を守ったことにはならぬ」
私は、思わず息を呑んだ。
「我々が守るべきものは、土地そのものだけではない。その土地に暮らす人々の命と生活だ。王国の名を掲げながら、何もしてやれぬのであれば、国王として別の道を考えねばならぬ」
陛下の声は、静かだった。
しかし、その言葉には確かな重みがあった。
アルフォンス宰相は、しばらく考え込んでから頷いた。
「……承知いたしました。まずは大公国側の意向を確認し、協議の可能性を探ってまいります」
「頼む」
「ただし、正式な交渉に入る場合は、住民の権利と王国の安全保障について、十分な条件を設ける必要がございます。大公国側がどのような形で統治を引き受けるのか、住民の身分や財産がどう扱われるのかについても、明確な取り決めが必要でしょう」
「無論だ。そこはお前に任せる」
陛下は、そこでようやく小さく息を吐いた。
私は、地図上に示されたメルキア外縁部を見つめていた。
昨日まで、そこは当然のように王国の領土だった。いや、今もそうであることに変わりはない。
しかし、陛下はその土地を守るために、あえて手放す可能性を考えている。
その判断が正しいのかどうか、今の私には分からなかった。
ただ、陛下が領土を軽んじているわけではないことだけは、理解できたように思う。
◇
その日の夕刻、私は臨時王宮の窓からメルキアの港を眺めていた。
港には王国海軍の艦船が停泊し、その周囲では商船から物資が降ろされている。荷車が倉庫と岸壁を往復し、兵士たちが積み荷を確認していた。海から吹く風には潮の香りが混じり、遠くでは港湾労働者たちの声が響いている。
街の外では、王軍の兵士たちが防衛陣地の構築を続けている。避難民のための住居も少しずつ整えられ、王都から逃れてきた人々が、新たな生活を始めようとしていた。
王国は、まだ生きている。
そのことを、私は確かに感じていた。
グスタフ陛下は、王都を取り戻すために戦い続けるつもりでいる。ボーマン総司令官は、そのために王軍を立て直し、メルキアの防衛線を整備している。
アルフォンス宰相は、諸外国との交渉を進めながら、王国の財政と行政を支えている。ザクセンブルクとの交渉も、シルヴァノールとの協議も、まだ結論には至っていない。しかし、いずれの交渉も、王国が生き残るための可能性を広げるものだった。
そして、私もまた、王太子としてその仕事の一端を担うようになった。
王太子に指名されたとき、私は自分にその資格があるのかと悩んだ。
グラニスクで敗れ、プラネヴィアを放棄し、王都を失ったときには、王国がこのまま滅びてしまうのではないかと恐れた。
しかし、メルキアへ到着してから、王国は少しずつ立ち直り始めている。
その過程で、私は多くのことを学んだ。
王国を守るためには、軍を率いて戦わなければならない。兵士たちを養い、武器や食料を確保するためには、財政を維持しなければならない。そして、諸外国との関係を築き、時には信用できない相手とさえ交渉しなければならない。
だが、それだけではない。
今日、グスタフ陛下は、王国の領土を他国へ譲る可能性について語った。
私は、まだその判断を完全には理解できていない。
王国を取り戻すために戦い続けると言いながら、その一方で、まだ守っている土地を自ら手放そうとしている。矛盾しているようにも思える。
しかし、陛下にとっては、どちらも王国を守るための判断なのだろう。
王国の領土を守ることと、そこに暮らす民を守ること。その二つは、必ずしも同じではないのかもしれない。
私は、以前グスタフ陛下から聞いた言葉を思い出した。
王とは、国を守ろうとする者たちの責任を、最後まで引き受ける者なのだと。
その言葉が、今になって少し違う意味を持ち始めていた。
王冠とは、王の権威を示すためのものだと思っていた。しかし、その下には、幾万もの人々の暮らしがある。
彼らの命を守り、明日をつなぐために、時には戦い、時には譲らなければならない。自分の判断によって誰かが傷つくことを知りながら、それでも決断しなければならない。
国王が下す判断には、常に何かを守るための理由がある。しかし、その理由が正しいからといって、失われるものがなくなるわけではない。領土を譲れば、そこに暮らす人々は別の国の民となる。戦いを続ければ、兵士たちが命を落とすかもしれない。
どの道を選んだとしても、誰かの人生に影響を与えることになる。
それでも、王は決断しなければならないのだ。
私は、今日の陛下の姿を思い返した。
王都を取り戻すために戦うと語ったとき、陛下の声には確かな決意があった。一方、領土の移譲について語ったとき、その表情は決して晴れやかなものではなかった。
どちらも、簡単に下せる判断ではないのだろう。
しかし、陛下はその責任から目を背けなかった。
グスタフ陛下が何を考え、どこまで先を見据えているのか、今の私にはまだ分からない。
それでも、陛下は今日も王国を守ろうとしている。
私は窓の向こうに広がるメルキアの街を眺めながら、いつか自分も、その重さに耐えられる人間になりたいと思った。




