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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章11話】裏切り者の使者


 メルキアに移ってから、十日ほどが過ぎた。


 臨時王宮の廊下には相変わらず書類を抱えた官吏たちが行き交い、港には連日のように交易船が入っている。街の外では王軍の兵士たちが防衛陣地を築き、主要な街道には検問所が設けられた。王都マリアベルクを失ったという事実が変わったわけではないが、メルキアへ到着した直後の混乱は、少しずつ収まりつつあった。


 アルフォンス宰相が進めている物資の調達計画も、ようやく具体的な成果を上げ始めている。シルヴァノールからは穀物や薬品が運び込まれ、フロンティア大公国との国境では商人たちが荷車を往来させていた。港の倉庫には新たな備蓄が積み上げられ、王都から避難してきた職人たちも、軍需品の修理や物資の加工といった仕事を与えられ始めている。


 ボーマン総司令官の指揮する王軍も、防衛線の整備を進めていた。湿地帯を通る主要街道には陣地が築かれ、橋梁の警備も強化されている。負傷兵の治療や装備の補充にはまだ時間が必要だが、少なくとも王軍が一方的に追い立てられる状況は終わりつつあった。


 半年、あるいは一年。


 その程度の期間であれば、王国は十分に戦い続けられる。


 以前の私なら信じられなかっただろうが、今ではその見通しにも、少しずつ現実味を感じるようになっていた。もちろん、戦争が長引けば民の負担も増える。しかし、守り抜くための時間があるということは、失われた王国を立て直すための機会が残されているということでもある。


 もっとも、軍事と財政に見通しが立ったからといって、すべての問題が解決したわけではない。


 そのことを思い知らされたのは、ある日の朝、アルフォンス宰相に呼ばれて政務室を訪れたときだった。


「殿下。ちょうどよいところへお越しくださいました」


 宰相は机の上に置かれた二通の書状を示した。


「本日は、陛下へご報告すべき外交案件がございます。殿下にも同席いただければと存じます」


「外交案件、ですか」


「はい。どちらも、今後の王国にとって重要な内容です」


 そう言われ、私は書状へ視線を落とした。一通にはシルヴァノールの外交官の署名があり、もう一通はフロンティア大公国から届けられた正式な国書だった。


 どちらも、今の王国にとって欠かせない交易相手である。しかし、宰相の表情を見る限り、単なる商取引の報告ではないらしかった。


     ◇


「シルヴァノールが、軍事支援を検討しているだと?」


 グスタフ陛下は、アルフォンス宰相の報告を聞くと、わずかに眉を上げた。


「はい。現時点では非公式な打診にすぎませんが、先方は我々への支援について協議する用意があるようです」


 宰相は卓上に広げた地図を指し示した。


「背景にあるのは、ザクセンブルク王国の動向でございます」


 ザクセンブルク。


 その名を聞くだけで、私は今でもグラニスク会戦を思い出す。王軍の味方として参戦するはずだったザクセンブルク軍は、戦いの最中に態度を翻し、ハインリヒ側へ加担した。その裏切りによって王軍は決定的な打撃を受け、以後の撤退を余儀なくされたのである。


「ザクセンブルクは、マリアベル王国の内乱を利用して、ヴェルミニア海への影響力を拡大しようとしていると見られています」


 アルフォンス宰相は説明を続けた。


「シルヴァノールにとって、ヴェルミニア海は重要な交易海域です。これまで海上交易において大きな利益を得てきた彼らにとって、ザクセンブルクの台頭は歓迎できるものではありません。特に、マリアベルの沿岸港湾がザクセンブルクの影響下に入れば、交易航路の安全や港湾の利用条件にも影響が及ぶ可能性がございます」


「なるほど。つまり、我々を助けたいというより、ザクセンブルクを牽制したいわけか」


 陛下が言うと、宰相は頷いた。


「そのように考えるのが妥当かと存じます。もっとも、利害が一致するのであれば、我々にとっても悪い話ではございません」


「条件は?」


「ヴェルミニア海における海上交易の優越権でございます」


 私は思わず顔を上げた。


「優越権、ですか?」


「はい。具体的な内容は今後の交渉次第ですが、関税上の優遇や特定航路の優先利用、港湾施設の使用条件などが想定されます。シルヴァノールの商船が他国より有利な条件で交易できるようにすることが、先方の狙いなのでしょう」


 アルフォンス宰相は、慎重に言葉を選びながら続けた。


「ただし、交易上の優遇と、港湾や領海そのものを他国へ譲り渡すことは別の問題です。我々としても、認められる範囲を見極めねばなりません。過度な優遇を認めれば、今後ほかの交易国との関係にも影響が及びますし、王国自身の関税収入を損なうおそれもございます」


 私は、その説明を聞きながら考え込んだ。


 軍事支援を受けるために交易上の利益を差し出す。それだけ聞けば、王国にとって不利な取引のようにも思える。しかし、戦争が長引けば王国の財政はさらに苦しくなり、交易そのものが衰退する可能性もある。今のうちに有力な交易相手を確保し、軍事的な支援まで得られるのであれば、必ずしも悪い条件とは限らないのだろう。


 陛下はしばらく地図を眺めていた。


「海軍は健在だ。今すぐ他国の軍に頼らねばならぬ状況ではない。しかし、シルヴァノールが味方につけば、補給も沿岸防衛もさらに安定するだろう」


「はい。相手の求める権利と、提供される支援の内容が釣り合うのであれば、検討する価値は十分にございます」


「よかろう。交渉は続けよ。ただし、条件を急いで受け入れる必要はない」


「承知いたしました」


 私は、そのやり取りを聞きながら、外交というものについて改めて考えていた。


 シルヴァノールは、我々を救うためだけに軍事支援を申し出ているわけではない。自国の利益を守るために、王国の存続を望んでいるのだ。


 だが、それは必ずしも悪いことではないのだろう。こちらも王国を守るために相手の力を必要としている。互いに利益があるからこそ、長く続く協力関係を築けるのかもしれない。


「もう一通は、フロンティア大公国からでございます」


 アルフォンス宰相は、別の書状を取り上げた。


「こちらは、少々厄介な問題です」


 その言葉に、陛下の表情が引き締まった。


「何があった」


「我が国からの敗残兵や脱走兵が、相次いで大公国領へ流入しているとのことです。武装したまま国境を越える者もおり、一部では略奪や住民との衝突が発生しているようです」


「……何だと」


 陛下の声が低くなった。


「既に大公国政府から、正式な照会が届いております。状況の説明と、再発防止に向けた対応を求める内容です」


「王軍の兵なのか」


「必ずしもそうとは限りません。ハインリヒ側の部隊から離脱した者もいるでしょうし、所属の判然としない武装集団も含まれていると思われます。戦場から離れた兵士が武器を持ったまま国境を越えれば、現地の住民にとっては、どちらの軍に属していたかなど関係のない話でしょう」


 アルフォンス宰相は、地図上の国境地帯を指し示した。


「戦争が長引けば、軍から離れた兵士たちが周辺地域へ流出することは避けられません。しかし、隣国の領民にまで被害が及ぶとなれば、外交問題となります。大公国側が国境警備を強化すれば、我々との交易にも影響が出かねません」


 陛下は深く息を吐いた。


「我が国の内乱が、隣国の民にまで害を及ぼしているのか」


「はい。大公国としても、国境の治安維持に負担を強いられているのでしょう」


 私は、メルキアへ到着してから目にしてきた避難民たちを思い出した。


 故郷を追われた者の中には、武器を持って逃げてきた兵士もいる。彼らの多くは、戦場から離れて静かに暮らしたいと願っているのだろう。しかし、食料も金も尽きれば、略奪に手を染める者が現れても不思議ではない。


 もちろん、だからといって許されることではない。戦争によって生活を奪われた者が、今度は別の人々の生活を奪ってよいはずがないのだ。


「アルフォンス。事実関係を調べよ。王軍に所属していた者が関わっているのであれば、可能な限り責任を持って対応せねばならぬ」


「承知いたしました」


「大公国へも返答を送れ。我々に責任のない者まで引き受けることはできぬが、国境の治安維持には協力する意思があると伝えるのだ」


「御意」


 陛下は、そこで一度言葉を切った。


「フロンティア大公国との関係を損なうわけにはいかぬ。交易だけの問題ではない。隣国の民が我々の戦争によって苦しんでいるのであれば、それを放置することはできぬ」


 私は、陛下の言葉に頷いた。


 王国を守るための戦争が、隣国にまで混乱を広げている。自分たちが苦しい立場にあるからといって、他国の事情を無視してよいわけではないのだ。


 そして、その日の会議が終わろうとしたとき、扉の外から一人の官吏が慌ただしく入ってきた。


「陛下。南方より外交使節団が到着いたしました」


「どこの国だ」


「ザクセンブルク王国でございます」


 私は、思わずアルフォンス宰相と顔を見合わせた。


 つい先ほど、その国の動向について話していたばかりだった。


     ◇


 ザクセンブルク王国の使節団が到着したという知らせは、臨時王宮に小さくない波紋を広げた。


 グラニスク会戦での裏切りを忘れた者など、誰もいない。


 王軍の将校たちの中には、使者の受け入れそのものに反対する者もいた。王都を失う原因となった国の代表を、なぜ今さら迎え入れなければならないのかというのである。彼らの中には、実際にグラニスクで戦い、部下や友人を失った者もいるのだから、その怒りは当然のものだろう。


 その気持ちは、私にも理解できた。


 しかし、グスタフ陛下は面会を許可した。


「使者を斬ったところで、失った兵が戻るわけではない。何を言いに来たのか、まずは聞こうではないか」


 その一言で、反対の声は収まった。


 翌日、臨時王宮の謁見室に、ザクセンブルク王国の特使が姿を現した。


 四十代半ばほどに見える男だった。濃い色の礼服を身につけ、胸元にはザクセンブルク王家の紋章が飾られている。物腰は穏やかで、表情にも余裕があった。王都の宮殿に比べれば随分と質素な謁見室であるにもかかわらず、周囲を見回して不満を示すような素振りもない。


 グスタフ陛下の前に進み出ると、男は丁寧に一礼した。


「ザクセンブルク国王陛下の名代として参りました。お目通りをお許しいただき、感謝申し上げます」


「挨拶はよい」


 グスタフ陛下は、相手が顔を上げるのを待ってから口を開いた。


「グラニスクでの行いについて、まず説明してもらおうか」


 室内の空気が張り詰めた。


 特使は一瞬だけ目を伏せたものの、すぐに落ち着いた表情へ戻った。


「我が国の判断により、マリアベル王国の皆様へ多大なご心痛をおかけしたことは、承知しております」


「心痛、か」


 陛下の声には、怒りを押し殺したような響きがあった。


「余の兵は、あの戦場で幾千も死んだ。貴国の軍を友軍と信じ、背後を預けていた者たちだ」


 特使は、陛下の視線を正面から受け止めた。


「戦場で多くの命が失われたことは、誠に遺憾でございます。しかし、我が国は独立した主権国家であり、ゲルマニア諸王国の安定を守る責務を負っております。当時の情勢において、我が国が最善と判断した行動でございました」


 私は、その言葉を聞いて唇を噛んだ。


 最善の判断。


 その一言で、グラニスクの戦場に倒れた兵士たちの命を片づけられてはたまらない。


 もちろん、ザクセンブルクの国王には、自国の利益を守る責任があるのだろう。しかし、同盟軍として戦場へ赴きながら、戦いの最中に立場を変えたことまで、国家の利益という言葉で正当化できるものなのだろうか。


「なるほど」


 それまで黙っていたボーマンが、静かに口を開いた。


「戦場で友軍の背後を脅かすことを、貴国では安定への貢献と呼ぶのですかな」


 特使はボーマンへ視線を向けた。


「我が国としては、内乱の早期終結が最も望ましいと考えておりました」


「そのために、我が軍を敗北させたと」


「結果として、そのような事態になったことは否定いたしません」


 ボーマンはそれ以上追及しなかった。しかし、その沈黙がかえって恐ろしく感じられた。


 特使も、自分が歓迎されていないことは十分に理解しているのだろう。それでも謝罪や撤回の言葉を口にすることはなかった。個人としてどう思っているかは分からないが、少なくともザクセンブルク王国の代表として、過去の判断を誤りだったと認めるつもりはないらしい。


 この人物は、憎まれることを承知で派遣されてきたのだ。


「それで」


 グスタフ陛下が口を開いた。


「その貴国が、今さら何の用だ」


 特使は、そこで初めて本題へ入った。


     ◇


「我が国は、マリアベル王国の内乱が周辺諸国へ波及する事態を、強く懸念しております」


 特使はそう切り出した。


「特に、フロンティア大公国およびシルヴァノールによる軍事介入については、ゲルマニア諸王国としても看過できない問題でございます」


 私は思わず顔を上げた。


 シルヴァノールから軍事支援の打診があったことは、つい昨日報告を受けたばかりである。まだ正式な交渉にすら至っていないはずだった。


「我が国は、両国と通常の交易を行っているだけだ」


 陛下が答えた。


「その点については、我が国も問題視しておりません。商取引は国家間の正常な関係の一部でございます」


「ならば、何を懸念しておる」


「外国軍の駐留、軍事同盟、あるいは外国軍による直接的な戦闘参加でございます」


 特使は、わずかに言葉を強めた。


「そのような事態となれば、ゲルマニア諸王国も相応の措置を講じざるを得ません」


 事実上の参戦警告だった。


 私は、背筋に冷たいものを感じた。


 メルキアの防衛線は整いつつある。しかし、ハインリヒ軍だけでも王軍を大きく上回る兵力を持っているのだ。そこへさらにゲルマニア諸王国の軍が加われば、いかに防衛に有利な地形であっても、戦いは一層厳しくなるだろう。


 しかも、ザクセンブルクはマリアベル王国の南方に位置している。彼らが本格的に参戦すれば、王軍はハインリヒ軍だけでなく、別の方向からの脅威にも備えなければならなくなる。


「我が国がどの国と外交交渉を行うかは、我が国自身が決定することでございます」


 アルフォンス宰相が、静かに言った。


「無論でございます」


 特使は即座に頷いた。


「しかし、その決定によって戦火が拡大するのであれば、我が国にも判断する権利が生じましょう」


「シルヴァノールとの交渉について、何かご存じなのですか」


 宰相が尋ねると、特使は微笑を浮かべた。


「ヴェルミニア海の情勢については、我が国も常に注意を払っております」


 直接の答えではなかった。しかし、十分だった。


 ザクセンブルクは、シルヴァノールが王軍への支援を検討していることを、既に把握しているらしい。


 私は、昨日の会議を思い返した。


 シルヴァノールは、ザクセンブルクのヴェルミニア海への進出を警戒している。そしてザクセンブルクもまた、シルヴァノールが王国へ接近することを警戒している。


 私たちの知らないところで、既に両国の駆け引きが始まっているのだろう。


 さらに考えてみれば、シルヴァノールが王軍を支援した場合、ザクセンブルクがそれを理由に参戦する可能性もある。そうなれば、王国を守るために求めた支援が、かえって戦争を拡大させることになりかねない。


 外交とは、単に味方を増やせばよいというものではないらしい。


「余は、他国の軍を招いておらぬ」


 グスタフ陛下は、冷静に答えた。


「自国の領土を、自国の兵で守っているだけだ」


「その原則が維持されるのであれば、我が国としても歓迎いたします」


 特使は深く頭を下げた。


 しかし、その言葉には条件が付いていることが明らかだった。


 私は、改めて目の前の男を見つめた。


 この人物は、単に警告を伝えるためだけに来たのだろうか。


 そう考えたところで、特使が再び口を開いた。


「もっとも、我が国としても、現在の情勢をこのまま放置することが望ましいとは考えておりません」


 グスタフ陛下が眉を寄せた。


「どういう意味だ」


「ハインリヒ殿下による統治について、我が国では改めて検討が行われております」


 私は、耳を疑った。


     ◇


「ハインリヒ殿下は王都を掌握されました。しかし、内乱は終結しておりません。グスタフ陛下の王軍はメルキアにおいて健在であり、長期戦となる可能性も高まっております」


 特使は、まるで他人事のように淡々と説明した。


「戦争が長引けば、マリアベル王国だけでなく、ゲルマニア諸王国の交易にも悪影響が及びます。さらに、シルヴァノールが軍事的な影響力を拡大する事態となれば、我が国としても看過できません」


「それで?」


 陛下が短く促した。


「我が国は、ハインリヒ殿下への支持について、見直す用意がございます」


 室内が静まり返った。


 私は、特使の言葉を理解するまでに少し時間がかかった。


 ハインリヒへの支持を見直す。


 つまり、ザクセンブルクは再び立場を変えるということなのか。


「……一度我らを裏切った国の言葉を、今度は信じよと申すか」


 グスタフ陛下の声は低かった。


 特使は、わずかに頭を下げた。


「国家の利害は変わるものでございます、陛下」


 私は、思わず拳を握った。


 あまりにも身勝手な言い分だった。


 グラニスクで王軍を裏切ったときも、国家の利益のためだったという。そして今度は、その利益が変わったから、再び立場を変えるというのだ。


 しかし、グスタフ陛下は怒鳴らなかった。


「具体的には、何をするつもりだ」


「ハインリヒ殿下がメルキアへ攻勢をかける場合、我が国は南方からその後方地域を脅かす用意がございます」


 特使は地図を求め、卓上へ広げられたものの一角を指し示した。


「ハインリヒ軍の主力が西方へ集中すれば、南方の守備は手薄となりましょう。その機会に我が軍が行動を起こせば、反乱軍は兵力を分散せざるを得なくなります。場合によっては、補給路そのものを脅かすことも可能です」


 私は、思わず地図へ身を乗り出した。


 確かに、ハインリヒ軍がメルキアを攻めるには、大軍を西方へ移動させる必要がある。そこで南方から別の軍が動けば、ハインリヒは背後を警戒しなければならない。


 王軍がメルキアの防衛線で敵を食い止めている間に、ザクセンブルク軍が後方を脅かす。


 もし本当にそのような状況になれば、王軍にとって大きな好機となるだろう。


 ハインリヒ軍は、メルキアの湿地帯を攻略するために兵力を集中させなければならない。その一方で、南方の守備も維持しなければならなくなる。補給路が脅かされれば、前線の大軍を支えることさえ難しくなるかもしれない。


「軍事的には、確かに意味のある提案です」


 ボーマンが口を開いた。


「実際にそのような行動が取られるのであれば、敵の補給と兵力運用には相当な負担が生じましょう」


 特使は頷いた。


「ご理解いただけたようで、何よりです」


「ただし」


 ボーマンは言葉を続けた。


「貴国が本当にハインリヒ軍を攻撃するという保証は、どこにございますかな」


 特使は、そこで初めて少しだけ表情を引き締めた。


「正式な協定を締結し、双方の行動を定めることができればと考えております」


「協定書があれば、軍は必ず動くと?」


「国家間の約束とは、そのために存在するものではございませんか」


 ボーマンは、それ以上何も言わなかった。


 しかし、私はその沈黙の意味を理解できた。


 グラニスクでも、ザクセンブルクは王軍の味方であるはずだったのだ。


 軍事協定を結ぶこと自体に意味がないわけではないだろう。国家間の約束を破れば、外交上の信用を失うことになる。しかし、ザクセンブルクは既に一度、その信用を失うような行動を取っている。


 その国が再び約束を守ると、何を根拠に判断すればよいのだろうか。


「貴国の要求は何だ」


 グスタフ陛下が尋ねた。


 特使は、待っていたとばかりに答えた。


「内乱終結後の外交関係の正常化。そして、グラニスクでの出来事について、双方がこれ以上責任を追及しないことを希望いたします」


「随分と都合のよい条件だな」


「我が国としても、過去の対立を引きずることは望んでおりません」


 特使は、さらに続けた。


「また、ゲルマニア諸王国との協調関係を維持していただきたいと考えております。内乱終結後、ヴェルミニア海の勢力均衡が大きく変わることは、我々にとっても好ましくありません」


 私は、その言葉にシルヴァノールのことを思い出した。


 つまり、ザクセンブルクは自分たちが協力する代わりに、シルヴァノールの影響力が強まりすぎることを防ぎたいのだろう。


 シルヴァノールは、王軍を支援する見返りとして海上交易の優越権を求めている。一方のザクセンブルクは、ゲルマニア諸王国との協調を求め、ヴェルミニア海の勢力均衡を維持したいと考えている。


 どちらの提案も、王国にとって魅力的な部分がある。しかし、両方の要求をそのまま受け入れることは難しいのかもしれない。


「そして、王位継承についても」


 特使は、私へ視線を向けた。


「我が国は、フェルディナント殿下を正統な王位継承者として承認する用意がございます」


 突然、自分の名前が出てきたことで、私は一瞬言葉を失った。


 王太子に指名されてから、王位継承について考える機会は増えた。しかし、他国の使者からこうして条件の一つとして提示されると、何とも奇妙な気分になる。


 私自身が何を望んでいるかとは関係なく、王太子という立場が外交上の取引材料になっているのだ。


 もっとも、それを不快に思うだけでは済まされないのだろう。王位継承者として他国から承認されることには、王国の正統性を示すという意味がある。今後、諸外国がハインリヒを国王として扱うようになれば、我々の立場はますます厳しくなる。


 その意味では、ザクセンブルクの承認にも、確かな価値があるのだ。


「提案の内容は理解した」


 グスタフ陛下が言った。


「だが、今ここで返答するつもりはない」


「承知しております。陛下におかれましても、慎重なご検討が必要でしょう」


 特使は丁寧に頭を下げた。


 その態度は終始変わらなかった。まるで、王軍を裏切った過去など、交渉の障害にはならないと考えているかのようだった。


     ◇


 特使が別室へ案内されると、グスタフ陛下は深く息を吐いた。


「……まったく、よくもあれほど平然とした顔で言えるものだ」


 私は、思わず頷いた。


「陛下。あの者たちを信用なさるのですか?」


「信用などしておらぬ」


 陛下は即答した。


「だが、信用できぬことと、話を聞かぬことは別だ」


 私は、返す言葉を失った。


 確かに、ザクセンブルクの提案には軍事的な価値がある。彼らが本当にハインリヒ軍の後方を攻撃するのであれば、王軍が反攻へ転じる機会さえ生まれるかもしれない。


 しかし、相手は一度裏切った国である。どうしても、その事実が頭から離れなかった。


「アルフォンス。どう見る」


 陛下が尋ねた。


「交渉を続ける価値はございます」


 宰相は、慎重に答えた。


「こちらが拒絶すれば、ザクセンブルクはハインリヒとの関係を維持するだけでしょう。一方、交渉を続ければ、少なくとも相手の要求や意図を探ることができます。実際に軍事行動へ踏み切る意思があるのかどうかも、具体的な条件を提示させることで、ある程度は見極められるかと存じます」


「シルヴァノールとの交渉はどうする」


「そちらも継続すべきかと存じます。シルヴァノールはザクセンブルクの海上進出を警戒しており、我々を支援する合理的な理由を持っております。ただし、要求される交易上の権利については、慎重な検討が必要です」


 アルフォンス宰相は、卓上に置かれた二つの書類を見比べた。


「どちらの国も、我々のためだけに動いているわけではございません。しかし、だからこそ交渉の余地があります。互いの利益が一致する部分を見つけられれば、王国にとって有利な条件を引き出せるかもしれません」


 私は、その説明を聞きながら考えていた。


 シルヴァノールが王軍を支援したいと考えているのは、ザクセンブルクの台頭を防ぐためである。そしてザクセンブルクが再び王軍へ接近してきたのは、シルヴァノールの影響力が強まることを警戒しているからかもしれない。


 つまり、両国の対立そのものが、今の王国にとって交渉材料になっているのだ。


 ただし、それは同時に危険な状況でもある。どちらか一方に肩入れすれば、もう一方との関係が悪化する可能性がある。王国が生き残るために行う外交交渉が、別の戦争を招くことにもなりかねない。


「ボーマン。軍事面ではどうだ」


 陛下が尋ねた。


「ザクセンブルクの提案が実現すれば、我が軍にとって大きな利益となりましょう」


 ボーマンは答えた。


「しかし、現時点では何一つ確定しておりません。シルヴァノールの軍事支援についても同様でございます」


「つまり?」


「メルキアの防衛計画に、いずれの軍事支援も組み込むべきではございません」


 ボーマンは、地図の上に置かれた駒を一つ動かした。


「我々の防衛線は、王軍だけで維持できるように整備しております。その原則を変えぬ限り、交渉すること自体に異存はございません。しかし、ザクセンブルク軍との合流を前提に兵を動かしたり、シルヴァノールの援軍を期待して防衛線を薄くしたりすることは避けるべきです」


 私は、ボーマンの言葉に頷いた。


 メルキアの防衛計画は、既に半年から一年の抗戦を見据えて進められている。地形を利用した防衛線と、王国海軍による海上補給が、その中心にある。


 そこへ外国の軍事支援が加われば、王軍にとって有利になることは間違いない。しかし、支援が得られることを前提に計画を変えてしまえば、相手が約束を守らなかったときに、王軍自身が危険にさらされる。


 グラニスクでの経験を考えれば、その危険を軽視することなどできなかった。


 陛下は、しばらく考え込んだ。


 やがて、静かに頷く。


「よかろう。どちらの国とも交渉を続けよ」


「承知いたしました」


「ただし、互いに矛盾する約束はするな。シルヴァノールへの交易上の優遇も、ザクセンブルクとの軍事協力も、条件を十分に検討してから判断する」


 アルフォンス宰相は深く頭を下げた。


「フロンティア大公国については、国境問題への対応を優先せよ。交易を維持するためにも、余計な摩擦を生むべきではない」


「御意」


 陛下は最後に、ボーマンへ向き直った。


「お前は予定どおり、防衛線の構築を進めよ」


「はっ」


「勝てる道があるなら探す。だが、民と兵の命を、相手の約束一つに預けるつもりはない」


 その言葉を聞いて、私はようやく陛下の考えが理解できた気がした。


 ザクセンブルクを信用しているわけではない。シルヴァノールの善意に期待しているわけでもない。


 どちらも、王国を守るために利用できる可能性があるから、交渉を続けるのだ。


 そして、どちらの協力も得られなかったとしても、王国が戦い続けられるように準備する。


 それが、今のグスタフ陛下の方針なのだろう。


 私は、これまで陛下の判断を、どこか受け身のものとして見ていたのかもしれない。グラニスクで敗れ、プラネヴィアを放棄し、王都を失った。敵の動きに対応しながら撤退を重ねてきたため、王国は常に追い詰められる側にいるように感じていた。


 しかし、今の陛下は違う。


 メルキアで防衛体制を整えながら、諸外国との交渉を進め、反攻の可能性まで探っている。


 失った領土を取り戻すことを、まだ諦めてはいないのだ。


     ◇


 翌日、ザクセンブルクの特使は再び謁見室へ招かれた。


 グスタフ陛下は、提案を直ちに受け入れることはできないと告げた。しかし、正式な外交交渉には応じる意思があることも伝えた。


「貴国が本当に和平を望むのであれば、その意思を言葉ではなく、条件によって示してもらおう」


 特使は深く頭を下げた。


「承知いたしました。より具体的な条件について、本国と協議いたします」


 こうして、ザクセンブルクとの交渉は継続されることになった。


 使節団が臨時王宮を去ったあと、私はアルフォンス宰相の執務室へ書類を届けに向かった。部屋の扉は開かれており、宰相は数人の官吏とともに、次の外交文書の準備を進めていた。


 机の上には、三つの外交案件に関する資料が並べられている。


 シルヴァノールは、ヴェルミニア海における交易上の優位を守りたい。


 ザクセンブルクは、ゲルマニア諸王国の利益と、自国の影響力を守りたい。


 フロンティア大公国は、国境の治安と自国民の生活を守りたい。


 そして、マリアベル王国は、生き残るために戦っている。


 それぞれの国に、それぞれの事情がある。


 私は、これまで外交というものを、国同士が友好関係を結んだり、対立したりすることだと考えていた。味方になる国があり、敵になる国がある。その区別さえつけば、何をすべきかも分かるのだろうと思っていた。


 しかし、実際はそう単純ではないらしい。


 シルヴァノールは我々を支援したいと考えているが、それは自国の利益のためでもある。フロンティア大公国は交易を続けてくれているが、国境問題については厳しい対応を求めている。


 そして、ザクセンブルクは一度王軍を裏切りながら、今度はハインリヒ軍の後方を攻撃すると申し出てきた。


 昨日の敵が、明日の味方になることもある。だが、味方だと思っていた者が、突然敵になることもある。


 グラニスクでの敗北を思い返せば、私はどうしてもザクセンブルクを信用することができなかった。


 それでも、グスタフ陛下は交渉の扉を閉ざさなかった。


 相手を信じることと、相手の力を利用することは違う。信用できない相手であっても、その国の利害を理解し、王国にとって有利な条件を探る必要がある。


 私は、机の上に並んだ三通の書状を見つめた。


 戦場では、敵の位置や兵力を見極め、どこで戦うかを決める。外交では、相手の望むものを見極め、何を差し出し、何を守るかを決めるのだろう。


 どちらも、判断を誤れば多くの人々の命に関わる。そして外交の場合は、相手が笑顔で差し出した手の中に、何が隠されているのかさえ分からない。


 私は小さく息を吐いた。


 王国を守るためには、敵と戦わなければならない。しかし、敵と戦うためには、時として別の敵と交渉しなければならないらしい。


 アルフォンス宰相がなぜ毎日あれほど疲れた顔をしているのか、ようやく少しだけ理解できた気がした。


 メルキアを守るための戦いは、既に始まっている。


 ただ、その戦場は、城壁の外にあるとは限らないらしかった。


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