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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章10話】メルキアの王宮


 王宮というものは、建物のことを指すのだと思っていた。


 高い天井に、磨き上げられた大理石の床。歴代国王の肖像画が飾られた回廊を近衛兵が警備し、官吏や貴族たちが忙しなく行き交う。王都マリアベルクの王宮は、私にとって幼い頃からそういう場所だった。王国の政治が動く場所であり、国王が暮らす場所でもある。立派な建物であることは、その権威を示すためにも必要なのだろうと、漠然と考えていたものだ。


 ところが、今の王宮には、そのどれもない。


 メルキアに到着して数日が過ぎた朝、私は狭い廊下の片隅で、書類の束を抱えたまま立ち往生していた。


「殿下、申し訳ございません。少々、お通りいただけますでしょうか」


「ああ、すまない。こちらこそ邪魔をした」


 向こうからやって来た官吏に道を譲ろうとしたところ、今度は背後から別の官吏が大きな木箱を運んでくる。仕方なく壁際へ身を寄せると、抱えていた書類の一枚が床へ滑り落ちた。拾い上げようと屈んだところで、さらに別の者が通りかかり、結局、私は書類を抱え直して廊下の端へ退避することになった。


 王太子という立場になってから、私の周囲では人々が必要以上に道を譲ってくれるようになった。しかし、ここでは誰もが忙しすぎて、そんなことを気にしている余裕もないらしい。もっとも、私としてはその方が気楽だった。


 メルキアの臨時王宮として使用されているのは、かつてこの地方を治めていた領主の館である。


 王族が滞在するための部屋こそ用意されているものの、王国政府のすべてを収容できるほど大きな建物ではない。そのため、近隣の商館や役所、貴族の屋敷まで借り上げ、各部署が分散して仕事をしていた。


 かつて客人を迎えていた広間には長机が並べられ、応接室では財務官たちが帳簿を広げている。廊下の突き当たりにある物置は文書保管室となり、庭には急ごしらえの倉庫まで建てられていた。王都から持ち出された書類や金庫、印章、備品の類いが毎日のように運び込まれ、そのたびに置き場所を巡って小さな騒ぎが起きている。


 その一方で、持ち出せなかったものも多かった。


 王国の歴史を記した古文書や、長年にわたって蓄積された行政記録。各地の土地台帳や税務関係の書類についても、写しが残されているものと、王都に原本を置いたままのものがあるらしい。書類一枚が見つからないだけで、ある村の納税記録を確認できなくなることもあるというのだから、行政というものは想像以上に膨大な記録によって支えられているのだと、今さらながら感心してしまう。


 私が抱えているのは、そうした失われた記録を再整理するための資料だった。


「殿下。その書類は、こちらでお預かりいたします」


 執務室へ入ると、年配の官吏が立ち上がった。


「助かる。これで全部だと思うが、確認してもらえるだろうか」


「承知いたしました。しかし、殿下にこのような仕事までお願いすることになるとは……」


「構わないよ。私が軍議に出席しているだけでは、何も片づかないからね」


 そう答えると、官吏は困ったように笑った。


 王太子が書類を運んだところで、王国の危機が解決するわけではない。それは私にも分かっている。しかし、何もしないでいることには、どうにも耐えられなかった。


 グラニスクで敗れ、プラネヴィアを放棄し、ついには王都まで失った。王軍の兵士たちは戦場で命を懸けて撤退路を守り、アルフォンス宰相をはじめとする官吏たちは、王都が陥落する寸前まで行政機構の移転に奔走していた。


 その間、私は何をしていたのだろう。


 負傷兵の輸送を手伝い、命令を伝え、陛下に随行した。自分なりにできることはしたつもりだったが、それでも、何か大きな仕事を成し遂げたという実感はない。王太子としての責任ばかりが大きくなり、それに見合うだけの能力が自分に備わっているのか、今でも自信が持てなかった。


 そんな私にできることが書類運びならば、喜んで引き受けようと思った。


「殿下。こちらの台帳も、今日中に整理する必要がございます」


「分かった。どこへ運べばいい?」


「隣の建物の二階でございます。ただ、そちらも現在は大変混み合っておりまして……」


「では、先に置き場所を確認してくるよ」


 私がそう言うと、官吏は再び苦笑した。


 王宮を失った王国は、想像していた以上に忙しい。


 しかし、その忙しさは決して無意味なものではなかった。誰もが自分の仕事を探し、失われた仕組みを一つずつ立て直そうとしている。王都を離れたときには、すべてが終わってしまったように感じられたものだが、ここでは既に新しい一日が始まっているのだ。


     ◇


「まず、現状を整理いたしましょう」


 その日の午後、臨時王宮の会議室で開かれた政務会議は、アルフォンス宰相のその一言から始まった。


 出席しているのは、グスタフ陛下、主要な行政官、軍の幹部、そして私である。卓の上には王国の地図と数冊の帳簿が広げられ、壁際には追加の資料を抱えた官吏たちが控えていた。


 かつて王都で開かれていた会議と比べれば、随分と簡素なものだ。椅子の数も足りず、立ったまま説明を聞いている者までいる。しかし、アルフォンス宰相はそのようなことを気にする様子もなく、淡々と報告を始めた。


「王都から移送できた国庫資金と、メルキアに残る税収を合わせましても、従来の王国財政を維持することは不可能です。歳入の大部分を失った以上、平時と同じ支出を続ければ、いずれ財政は行き詰まります」


 予想していたことではあったが、改めて数字を示されると厳しい現実を突きつけられた気分になる。


 王都を失ったということは、宮殿や街を失っただけではない。そこに集まっていた商人や職人、官吏、そして王国各地から納められる税収まで失ったということなのだ。王国政府がメルキアで仕事を再開したからといって、以前と同じように金が集まってくるわけではない。


「軍の維持費はどうなっておる」


 陛下が尋ねた。


「最優先で確保いたします。ただし、軍以外の支出を大幅に削減する必要がございます。王宮の維持費、儀礼に関わる費用、当面延期できる公共事業については、既に見直しを進めております」


「民への影響は」


「避けられない部分もございます。しかし、食料の流通と治安維持に必要な支出まで削れば、かえって混乱を招きます。その点は慎重に判断いたします」


 アルフォンス宰相は帳簿の一冊を閉じ、卓上に広げられた地図へ視線を移した。


「もっとも、悪い話ばかりではございません」


 その言葉に、私は思わず顔を上げた。


「メルキアには港があります。そして、王国海軍は現在も健在です」


 宰相は地図の海岸線を指し示した。


「北方のシルヴァノールとの交易は、引き続き可能でございます。既に複数の商会と交渉を進めており、穀物、薬品、布、金属材料などの調達について、具体的な見通しが立ち始めております」


「シルヴァノールが、我々に協力してくれるのか?」


 私が尋ねると、アルフォンス宰相は頷いた。


「軍事的な協力ではございません。あくまで商取引です。代金を支払い、船を手配し、相手に利益がある限り、交易を続けることはできます」


 なるほど、と私は思った。


 国同士の関係が良好だからといって、必ずしも軍を派遣してくれるわけではない。しかし、軍事的な同盟を結ばなくとも、商売まで止める必要はないのだ。むしろ、商人にとって重要なのは、取引が安全に行われ、代金が確実に支払われることなのだろう。


「さらに、フロンティア大公国との陸上交易も維持されております。こちらからは食料、家畜、飼料、木材などを調達できる見込みです」


「大公国は中立を保っているのだったな」


「はい。少なくとも現時点では、我々との民間交易を妨げる動きはございません」


 アルフォンス宰相は再び帳簿を開いた。


「今後は軍事費と民政費を明確に区分し、必要な物資の購入計画を立てます。商人への支払いを滞らせれば、交易そのものが途絶えかねません。徴発に頼るのではなく、可能な限り正規の買い上げを維持する方針です」


「だが、金は無限ではあるまい」


「無論でございます。そこで、港湾の関税収入を確保するとともに、王都から避難してきた職人たちの就業を進めます。武具の修理、荷役、船舶の補修、食料加工など、軍と民の双方に必要な仕事は少なくありません」


 宰相の説明を聞きながら、私は次第に驚きを覚えていた。


 王都から逃れてきたばかりだというのに、既にこれほど具体的な計画が進められている。もちろん、すべてが予定どおりに進むとは限らないだろう。商船が嵐に遭うこともあれば、物価が上がることもある。敵が交易を妨害する可能性だってある。


 それでも、何もできずに滅亡を待つ状況ではないのだ。


「備蓄については、まず軍と主要都市の必要量を算定し、継続的な補給を前提として、三か月分を目標に確保してまいります」


「三か月か」


 陛下が呟いた。


「はい。すべてを一度に備蓄することは困難ですが、海路と陸路の双方から補給を続けられるのであれば、十分に現実的な目標でございます」


 アルフォンス宰相は、そこで一度言葉を切った。


「現時点の試算では、半年の抗戦は十分に可能と考えております。交易が維持され、軍の損耗が想定の範囲に収まるのであれば、一年の継戦も視野に入ります」


 会議室が静かになった。


 私は、その言葉を頭の中で繰り返した。


 半年。あるいは、一年。


 グラニスクで敗れたときには、王国がそこまで持ちこたえられるなど、考えもしなかった。プラネヴィアから撤退したときも、次にどこへ逃げればよいのか、そればかりを考えていた。


 しかし、アルフォンス宰相は既に、その先を見据えているらしい。


「確かなのか、アルフォンス」


 陛下が尋ねた。


「保証はできません。敵の行動、交易の状況、避難民の増加によって、必要な支出は変わります。ただ、我々が管理できる部分については、既に手を打ち始めております」


 アルフォンス宰相は落ち着いた声で続けた。


「陛下。王都は失いました。しかし、王国の財政が完全に失われたわけではございません。残された資源を適切に使えば、まだ戦えます」


 陛下はしばらく帳簿を見つめ、それから静かに頷いた。


「よかろう。必要な措置を進めよ」


「承知いたしました」


 アルフォンス宰相は深く頭を下げた。


 私は、その横顔を見ながら思った。


 戦争は、兵士が剣を振るうだけで続けられるものではない。食料を買い、運び、分配し、兵士に給金を支払い、負傷者を治療する。そうした仕事が途絶えた瞬間、どれほど勇敢な軍隊でも戦えなくなる。


 そして、その仕事を支えているのは、決して王宮の高官たちだけではない。港で荷を下ろす労働者や、荷車を走らせる商人、食料を生産する農民たちもまた、王国を支えているのだ。


 アルフォンス宰相は、そうした人々の働きを一つにつなぎ、戦場とは違う場所で王国を守ろうとしているのだろう。


     ◇


 政務会議の翌日、グスタフ陛下は軍の幹部を集め、王軍の指揮体制について新たな命令を下した。


 その場に呼ばれた人物を見て、私は思わず背筋を伸ばした。


 ボーマン・ローゼンフェルト。


 かつて王宮執事長を務め、リカルティールの教育にも携わっていた老臣である。王都からの脱出に際してアルフォンス宰相と行動を共にし、メルキアで陛下と合流した人物だった。


 以前から軍人として高い評価を受けていたことは知っている。しかし、私にとってのボーマンは、王宮で厳格に職務をこなす老執事という印象の方が強かった。


 その彼が、今は軍装を身につけている。


 姿勢を正して陛下の前に立つ姿には、年齢を感じさせない威厳があった。王宮で見慣れた丁寧な所作はそのままだが、身にまとっている空気はどこか違う。長年、王家に仕えてきた老臣というより、幾度もの戦場を経験してきた軍人としての顔が、そこにはあった。


「ボーマン」


「はっ」


「お前に王国陸軍を預けたい」


 陛下は単刀直入に告げた。


「王軍は大きな損害を受けた。指揮系統を整理し、メルキアの防衛体制を築かねばならぬ。その任を、お前に引き受けてもらいたい」


 ボーマンは、わずかに目を伏せた。


「陛下。私より若く、優秀な将校は幾人もおります」


「知っておる。だが、彼らをまとめられる者が必要なのだ」


 陛下は静かに続けた。


「お前が軍務の第一線を退いて久しいことも承知している。しかし、今の王軍には、お前の経験が必要だ」


 ボーマンはしばらく沈黙していた。


 やがて、深く頭を下げる。


「陛下の御命令とあらば、謹んでお受けいたします」


 こうして、ボーマンは王国陸軍総司令官に任命された。


 私としては、老執事が突然軍の最高指揮官になったような感覚だったが、周囲の将校たちは特に驚いていない。むしろ、安堵したような表情を浮かべる者さえいた。


 どうやら、私が知らなかっただけらしい。


 その後の軍議で、ボーマンは早速、王軍の現状について報告を始めた。


「メルキアに集結した王軍は、現在およそ二万五千。負傷兵、補給要員、後方勤務の兵も含めた数字でございます」


 卓上には、各部隊の兵力と装備を記した資料が並べられていた。


「グラニスク会戦を生き延びた部隊、プラネヴィアで撤退を支えた部隊、王都から合流した近衛兵団、そして各地から集まった忠誠心の厚い諸侯軍が中心となっております」


「戦える兵は、どれほど残っている」


 陛下が尋ねた。


「部隊ごとに状況が異なります。負傷者の回復を待つ必要があるほか、装備の補充も必要です。ただし、兵の練度そのものは高く、指揮官との結束も維持されております」


 ボーマンは資料から顔を上げた。


「陛下。兵は減りました。しかし、軍そのものが弱くなったわけではございません」


 その言葉には、不思議な説得力があった。


 確かに、ここへ集まった兵士たちは、幾度もの戦いと撤退を経験している。グラニスクで王軍が崩れたあとも、彼らは陛下のもとを離れなかった。プラネヴィアで最後まで撤退を支えた者もいれば、王都に家族を残してメルキアまで同行した者もいる。


 彼らが戦場に残っているのは、命令に従っているからだけではないのだろう。


「もっとも、補充兵の確保は容易ではございません。失った兵を短期間で取り戻すことは不可能です。したがって、今後は兵力を無駄に消耗する戦いを避けねばなりません」


 ボーマンは地図を広げた。


「そのためにも、まずは防衛線を整備いたします」


     ◇


 メルキアの地形について、私はそれまで深く考えたことがなかった。


 王国の地図を見れば、王都から遠く離れた地方都市の一つである。しかし、ボーマンが広げた詳細な地図には、私の知らない特徴がいくつも記されていた。


「ご覧ください。メルキアへ西方から進入するには、この一帯を通らねばなりません」


 ボーマンが指し示したのは、王国領とフロンティア大公国領が接する地域だった。


 北側には海が広がり、南側にはフロンティア大公国の領土が大きく張り出している。その間に残された王国領は、細い回廊のようになっていた。


「さらに、この地域には湿地が多く存在します。大軍が自由に展開できる土地は限られており、重い荷車や攻城兵器が通行できる街道も多くありません」


 私は地図を覗き込んだ。


 確かに、街道は限られた場所を通っている。湿地の中には橋や堤道が記され、周囲には水路が入り組んでいた。平時であれば、交通の不便な土地として扱われていたのかもしれない。しかし、敵の大軍を迎え撃つ立場になれば、その不便さが防御上の利点となるらしい。


「敵は兵力で我々を上回っております。しかし、どれほど多くの兵を集めても、同時に戦場へ投入できる人数には限界がございます」


「つまり、狭い場所で迎え撃つということか」


 陛下が尋ねた。


「はい。ただし、一か所に固執するつもりはございません」


 ボーマンは地図上に複数の線を引いた。


「第一線では主要街道と橋梁を中心に敵の進軍を阻みます。敵が突破を試みれば、工兵と魔導兵団によって進路を制限し、十分な損害を与えたうえで次の防衛線へ下がります」


「後退を前提とするのか?」


 私は思わず尋ねた。


「必要とあらば、でございます」


 ボーマンは私を見た。


「殿下。陣地を守ることと、軍を守ることは、必ずしも同じではございません。一つの陣地を守るために全軍を失えば、その先を守る者がいなくなります」


「……なるほど」


「我々の目的は、敵に一度勝つことではございません。敵が何度攻めてこようとも、メルキアを容易に落とせぬ状況を維持することです」


 私は改めて地図へ目を落とした。


 街道を塞ぎ、橋を守り、湿地を利用する。敵が陣地を攻略すれば、こちらは次の陣地へ下がる。その間に負傷者を後送し、兵士を交代させ、補給を受ける。


 そうして戦いを長引かせれば、兵力で勝る敵にも大きな負担を強いることができる。敵は前進するたびに街道を整備し、物資を運び、次の陣地を攻略しなければならない。一方の王軍は、あらかじめ準備した防衛線を利用できる。


 兵の数では劣っていても、戦う条件まで相手に合わせる必要はないのだ。


「敵が十万を率いて来ようとも、その十万が同時に剣を振るえるわけではございません」


 ボーマンは落ち着いた声で続けた。


「重要なのは、敵が戦場へ送り込める兵の数を、こちらが制限することです」


 私は思わず頷いた。


 なるほど、これが経験豊富な将軍の考え方なのか。


 ただ兵士を並べて敵を待ち受けるのではなく、地形そのものを利用して戦い方を決める。敵の数が多いのであれば、その数を生かせない場所で戦えばよい。


 もっとも、私が感心していると、ボーマンはすぐに釘を刺した。


「無論、湿地があるからといって安心はできません。敵が街道を整備し、仮設橋を架け、あるいは別の進路を見つければ、状況は変わります。季節によって地盤の状態も異なりますから、常に偵察と補修が必要となります」


「では、陣地を築けば終わりというわけではないのだな」


「はい。防衛とは、築いた陣地を維持し続ける仕事でもございます」


 ボーマンは続けて、予備部隊の配置と兵士の交代について説明した。


 前線の兵を固定せず、一定期間ごとに後方へ下げて休ませる。負傷者は速やかに搬送し、補充された装備を受け取らせる。魔導騎士団は一か所に拘束せず、敵が突破を図った際に投入できる機動部隊として運用する。


 ユリアナ団長も、その方針に同意していた。


「魔導騎士団を前線へ分散配置すれば、局地的な防御力は上がります。しかし、敵の主攻が判明した際に集中して対応することが難しくなります。総司令官の方針が適切かと存じます」


「では、そのように進めよ」


 陛下が命じた。


 私は、そこで一つ疑問を覚えた。


「ボーマン殿。もし敵がこの回廊を完全に封鎖した場合、我々は補給を受けられなくなるのではありませんか?」


 ボーマンは、わずかに笑った。


「殿下。地図をもう少し広くご覧ください」


 そう言って、彼は海岸線を指し示した。


「我々には海がございます」


「あ……」


「王国海軍は健在です。敵が陸上から進軍を阻もうとも、海路による補給を続けることができます。港湾施設を維持し、輸送船団を護衛できる限り、我々が直ちに兵糧攻めに屈することはございません」


 私は思わず息を吐いた。


 先ほどアルフォンス宰相が説明していた交易の話が、ここでつながった。


 シルヴァノールから運ばれる食料や薬品は、単に王国の財政を支えるだけではない。前線で戦う兵士たちの命を支えるものでもあるのだ。港が機能し続ける限り、王軍は陸上の防衛線を維持しながら、必要な物資を受け取ることができる。


 もちろん、港湾施設を攻撃される危険はあるし、敵が海軍を整備する可能性もある。しかし、少なくとも今の王国には、陸上から包囲されただけで補給を断たれるという弱点がない。


 アルフォンス宰相の財政計画と、ボーマンの防衛計画は、別々のものではなかった。


 交易を守るために海軍が必要であり、海軍が補給路を守るからこそ、陸軍は長期にわたって防衛線を維持できる。さらに、陸軍がメルキアを守ることで、港と行政機構も安全に機能し続けられる。


 王国を守るという仕事は、こうして多くの仕組みが組み合わさって初めて成り立つものなのだろう。


「陛下」


 ボーマンは姿勢を正した。


「メルキアは、容易には落ちませぬ」


 その言葉を聞いたとき、私は久しぶりに胸の奥が軽くなるのを感じた。


 王軍は敗れ続けてきた。しかし、今度は違う。地形を選び、兵を整え、補給を確保したうえで敵を迎え撃つことができる。


 少なくとも、これまでのように一方的に追い立てられるだけではないのだ。


     ◇


 軍議から二日後、アルフォンス宰相が陛下へ一通の報告書を提出した。


 諸外国の動向をまとめたものだった。


 王都マリアベルクがハインリヒの手に落ちたという知らせは、既に周辺諸国へ広まっている。いくつかの国は依然としてグスタフ陛下を正統な国王と認めているものの、実際に王都を支配しているハインリヒを無視できない状況になりつつあった。


「各国とも、慎重な姿勢を崩しておりません」


 アルフォンス宰相は説明した。


「我々との外交関係を直ちに断つ動きはございませんが、ハインリヒ側と接触を始めた国もございます。王都を占領したという事実は、それだけで大きな政治的意味を持ちます」


「勝った者が正しいと、そう言いたいのか」


 陛下の声には、わずかな苦々しさがあった。


「正しいかどうかではございません。どちらが今後も王国を統治できるのか、各国は見極めようとしているのでしょう」


 アルフォンス宰相の答えは、冷静だった。


 私は、その説明を聞きながら考え込んだ。


 王国の正統な国王が誰であるかという問題は、王国内だけで決まるものではないらしい。他国が誰を国王として扱い、誰と条約を結び、誰に使者を送るのか。それによって、国際社会における立場も変わっていく。


 王都を失ったという事実は、軍事的な敗北であると同時に、外交上の敗北でもあるのだ。


「……アルフォンス」


 しばらく沈黙していた陛下が、口を開いた。


「ヴィルヘルムの件について、声明を出す」


 私は思わず顔を上げた。


 アルフォンス宰相も、わずかに表情を変えた。


「ヴィルヘルム殿下の暗殺について、でございますか」


「そうだ」


 陛下は静かに頷いた。


「余がなぜハインリヒを王太子に指名しなかったのか。なぜ、あやつの王位僭称を認めることができぬのか。その理由を、諸外国にも明らかにする」


 アルフォンス宰相は、すぐには答えなかった。


「陛下。恐れながら、暗殺への関与を立証する決定的な証拠は、現在も得られておりません」


「分かっておる」


「正式な告発となれば、ハインリヒ側は強く反発するでしょう。諸外国も、必ずしも我々の主張を受け入れるとは限りません」


「それも承知しておる」


 陛下は、そこで私へ視線を向けた。


「フェルディナント。グラニスクでの会談を覚えているな」


「……はい」


 私は姿勢を正した。


 忘れられるはずがなかった。


 グラニスク会戦の前日、両軍の間に設けられた天幕で、グスタフ陛下とハインリヒ殿下は最後の話し合いを行った。私は王太子として、その場に同席していた。


 ハインリヒ殿下は、王国の改革について熱心に語っていた。地方諸侯の権限を整理し、軍制と財政を統一し、より強固な国家を築く必要があると。その主張には理解できる部分もあり、私は当時、彼の考えをすべて否定することはできなかった。


 しかし、彼は同時に、リカルティールが王宮を去ったことについても語っていた。


 妹が自由になることを認めた理由は、自分の政敵が一人減るからだと。


 あのとき私は、ハインリヒ殿下が家族さえ政治的な利害で判断していることに驚いた。リカルティールが王宮を去ったとき、彼は妹の自由を認めるよう陛下に進言していたという。その話を聞いて、私は妹思いの兄なのだと思っていた。


 しかし、本人の口から語られた理由は違っていた。


 彼にとって、妹の出奔は王位継承争いにおける障害が一つ減ることでもあったのだ。


 そして、会談の終わりに陛下は尋ねた。


 ヴィルヘルムを殺したのは、お前か、と。


「ハインリヒは、余の問いを否定しなかった」


 陛下が言った。


「証拠があるのかと問い返し、余が何と答えれば信じるのかと尋ねた。それだけだった」


 私は、あのときのハインリヒ殿下の表情を思い出した。


 怒りも、動揺も見せなかった。ただ、父親の問いを受け流すように、静かに答えていた。


「……はい。私も、その場で聞いておりました」


 私が答えると、アルフォンス宰相はしばらく考え込んだ。


「陛下。その会談における発言は、重要な証言にはなり得ます。しかし、否定しなかったこと自体を、犯行の証明とすることはできません」


「分かっておる。余も、そのように考えている」


 陛下は答えた。


「だが、余はあやつがヴィルヘルムを殺したと確信している」


 その言葉は、静かだった。


 怒りに任せて口にしたものではない。長い時間をかけて考え、苦しみ、それでも変えることのできなかった結論なのだろう。


「余は、あの日もハインリヒに軍を解散するよう求めた。今ならば、これ以上の流血を避ける道を探ることができると告げた」


 陛下は、卓の上に置かれた地図へ目を落とした。


「だが、あやつは拒んだ。そして、多くの者が死んだ」


 私は、グラニスクの戦場を思い出した。


 土煙の中を逃げる兵士たち。負傷者を運ぶ荷車。退却を支えるために前線へ残った部隊。


 プラネヴィアでも、多くの兵士が命を落とした。そして、王都まで失った。


 王国の改革を巡る意見の違いから始まった争いは、もはや父と息子だけの問題ではなくなっていた。


「父として、あやつを救う道を探したつもりだった」


 陛下は続けた。


「だが、余は国王でもある。これ以上、民に理由を示さぬまま戦わせるわけにはいかぬ」


 アルフォンス宰相は、深く頭を下げた。


「承知いたしました。声明文を起草いたします」


「断定できぬことを、事実として書く必要はない。余が何を疑い、何を確信し、なぜハインリヒに王位を委ねられぬのか。それを明らかにせよ」


「御意」


 こうして、グスタフ陛下はヴィルヘルム殿下の暗殺について、ハインリヒの関与を正式に告発することを決めた。


 声明は王国の名において発せられ、諸外国へも届けられることになった。


 私は、その決断を目の前で見届けた。


 グラニスクでの会談では、陛下は最後まで息子を説得しようとしていた。王位を要求し、軍を挙げた息子に対して、それでも流血を避ける道を探ろうとしていたのだ。


 今、その同じ人物が、息子の罪を世界へ訴えようとしている。


 陛下がハインリヒ殿下への愛情を失ったのかどうか、私には分からない。むしろ、あのときの会談を思い返せば、簡単に割り切れるものではないのだろうと思う。


 しかし、国王として守らなければならないものは、息子一人ではない。


 戦場で命を落とした兵士たちにも、故郷を追われた民にも、王国が戦い続ける理由を示す必要がある。


 王としての責任が、父親としての願いを押し退けなければならないこともある。


 私は、その事実を改めて思い知らされた。


     ◇


 メルキアの防衛体制が整えられる一方で、王国政府には別の問題も持ち込まれていた。


 避難民である。


 王都から逃れてきた人々は、メルキアの市街地だけでなく、周辺の村や街道沿いにも集まっていた。商人や職人、官吏の家族、戦火を逃れた農民たち。中には、軍から離れた兵士や、負傷して戦えなくなった者もいる。


 彼らの多くは、持ち出せるだけの荷物を抱え、十分な準備もないまま故郷を離れてきた。財産の大部分を置き去りにしてきた者もいれば、家族とはぐれたまま、ようやくメルキアへたどり着いた者もいるという。


 当然ながら、住居も食料も不足している。


「現在、避難民の登録を進めておりますが、すべてを把握するには時間が必要です」


 担当官の報告を受けながら、アルフォンス宰相は眉を寄せた。


「市街地だけで収容できる人数には限界がございます。周辺の村々にも協力を求めておりますが、受け入れ先の確保が追いついておりません」


 私は、その会議にも同席していた。


 王軍の防衛線が整いつつあると聞いて、少し安心していたところだった。しかし、戦争の問題は兵士たちだけのものではないらしい。


「食料の配給はどうなっている?」


「登録を終えた者から順次開始しております。ただし、各地へ分散した避難民については、まだ十分に行き届いておりません」


「治安については」


「一部で盗難や略奪が発生しております。軍を離れた者の中には武器を持ったまま移動している者もおり、取り締まりが必要です」


 アルフォンス宰相は、しばらく考え込んだ。


「ボーマン殿。外縁部へ治安維持のための部隊を派遣する余裕はありますか」


 同席していたボーマンは、すぐには答えなかった。


「小規模な部隊であれば可能です。しかし、現在は防衛線の構築と補給路の警備を優先しております。広い地域へ兵を分散させれば、前線の戦力に影響が出かねません」


「そうですか……」


 アルフォンス宰相は地図を見つめた。


 メルキアの外縁部には、フロンティア大公国との国境に近い地域も多い。そこへ避難民が流入し、食料不足や治安の悪化が広がれば、王国だけの問題では済まなくなるだろう。


「フロンティア大公国との連絡を強化する必要がございます」


 宰相が言った。


「交易の安全確保だけでなく、国境付近の避難民についても協議すべきでしょう。双方の領民が不必要な争いに巻き込まれることは避けねばなりません」


「よかろう」


 陛下は頷いた。


「必要な使者を送れ。国境の治安についても、可能な範囲で協力を求めよ」


「承知いたしました」


 私は、そのやり取りを聞きながら、王都からの撤退を思い出していた。


 あのときは、誰を船に乗せ、誰を先に運ぶのかを決めるだけでも大変だった。しかし、避難民を安全な場所へ運べば、それで終わりというわけではない。


 住む場所を用意し、食料を配り、仕事を探し、病人を治療しなければならない。さらに、受け入れる側の住民にも生活がある。突然多くの人々が流入すれば、食料の価格が上がり、住居が不足し、仕事を巡る争いが起こることもあるだろう。


 戦場から離れた場所にも、戦争は続いているのだ。


 会議のあと、私は担当官のもとを訪れ、避難民の登録作業を手伝うことにした。


 帳簿には、名前、出身地、家族の人数、現在の滞在場所などが記されている。同じ村から逃れてきた者でも、家族が揃っているとは限らない。途中ではぐれた者もいれば、故郷に残った者もいる。


 ある書類には、母親と二人の子供の名前が記されていた。父親の欄は空白のままで、備考には、王都で消息不明とだけ書かれている。


 私はその文字を見つめ、しばらく筆を止めた。


 その父親が兵士だったのか、商人だったのか、それとも普通の職人だったのか、私には分からない。既に命を落としているのかもしれないし、どこかで家族を探しているのかもしれない。


 ただ、少なくともこの母親と子供たちは、帰る場所を失っているのだ。


 私は書類を確認し、必要な欄へ印をつけた。


 戦場で兵士の数を数えることにも、ようやく慣れてきたつもりだった。しかし、こうして一人一人の名前を目にすると、その数字の向こうにある生活を想像せずにはいられなかった。


 王国を守るという言葉は、随分と簡単に口にできる。


 だが、実際に守らなければならないものは、あまりにも多いのだ。


     ◇


 その夜、私はアルフォンス宰相から預かった書類を届けるため、陛下の執務室を訪れた。


 扉の向こうから、話し声が聞こえてくる。


 入室の許可を得て中へ入ると、グスタフ陛下、アルフォンス宰相、ボーマンの三人が卓を囲んでいた。卓上には財政関係の帳簿と軍の配置図が並べられ、使い込まれた燭台の明かりが、それらを照らしている。


 どうやら、まだ仕事を続けていたらしい。


「フェルディナントか。遅くまでご苦労だったな」


 陛下が声をかけてくれた。


「いえ。こちら、宰相閣下からご指示いただいた書類です」


「ありがとうございます、殿下」


 アルフォンス宰相が受け取る。


 私はそのまま退出しようとしたが、陛下に呼び止められた。


「少し、話を聞いていくか」


「よろしいのですか?」


「構わぬ。お前にも知っておいてもらいたいことだ」


 私は空いている椅子へ腰を下ろした。


 ボーマンが広げていたのは、メルキアの防衛線を示した地図だった。昼間の軍議で見たものよりも細かな書き込みが増えており、街道や橋梁の位置だけでなく、物資の集積場所や兵の交代経路まで記されている。


「前進陣地の構築は、予定どおり進んでおります」


 ボーマンが説明する。


「主要街道と橋梁の警備を強化し、工兵部隊による陣地整備も始めました。資材の搬入に多少の遅れはございますが、現時点で大きな問題はございません」


「兵の様子はどうだ」


「士気は高く保たれております。長い撤退を経験した兵たちですので、休養と装備の補充は必要ですが、命令に従って持ち場へ向かっております」


 続いて、アルフォンス宰相が報告した。


「港湾の交易についても、進展がございました。シルヴァノールからの商船が入港し、穀物と薬品の荷下ろしが始まっております」


「それはよい知らせだな」


「はい。フロンティア大公国との陸上交易も継続しております。今後は輸送量を増やし、備蓄の確保を進めます」


 私は、二人の報告を聞きながら、昼間の光景を思い返していた。


 港へ向かう荷車。陣地の構築へ出発する兵士たち。帳簿を抱えて廊下を行き交う官吏。


 メルキアへ到着したばかりの頃は、誰もが疲れ切っていた。王都を失い、長い撤退を終え、これからどうなるのか分からないまま、慣れない土地で仕事を始めたのだ。


 しかし、今は少しずつ状況が変わり始めている。


 王国政府は行政を再開し、王軍は防衛線を築き、港では交易が続いている。失ったものはあまりにも多いが、それでも残されたものを使って王国を支えようとしている人々がいる。


「……陛下」


 私は、気づけば口を開いていた。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何だ」


「私たちは、本当にメルキアを守りきれるのでしょうか」


 言ってから、少し後悔した。あまりにも率直な質問だったかもしれない。しかし、どうしても聞いておきたかった。


 グラニスクでは、王軍六万という兵力を持ちながら敗れた。プラネヴィアでも、敵の進軍を止めることはできなかった。今、残された兵力は二万五千ほどしかない。


 防衛に有利な地形があるとはいえ、敵が再び大軍を率いて攻めてくれば、今度こそ持ちこたえられないのではないか。そんな不安が、胸の奥に残っていた。


 陛下は、ボーマンへ視線を向けた。


「どうだ、ボーマン」


 ボーマンは、しばらく考えてから答えた。


「容易な戦いにはなりません。しかし、我々には地形の利がございます。兵の練度も高く、海路による補給も維持されております」


 彼は地図へ視線を落とした。


「半年は戦えましょう。一年も、十分に視野に入ります。ただし、敵がどのような手段を講じてくるかによって、状況は変わります」


「……一年」


 私は思わず呟いた。


 一年という時間が、これほど長く感じられたことはなかった。


 戦争が始まってからというもの、私たちは常に次の戦い、次の撤退、次の危機に追われていた。明日どうなるのかさえ分からない日々だった。


 しかし、今は違う。


 一年先を見据えて、戦うための準備を進めている。


 もちろん、長く戦えるということは、それだけ多くの人々が戦争に苦しむ可能性もあるということだ。防衛線を維持できたとしても、故郷を追われた人々がすぐに帰れるわけではないし、失われた命が戻ってくるわけでもない。


 それでも、戦いを続けるための時間があるということは、王国の未来を選ぶための時間が残されているということでもある。


「軍が戦い続ける限り、我々はその軍を支えます」


 アルフォンス宰相が言った。


「財政は厳しい状況にございますが、使える資源はまだ残されております。国庫を守るために国があるのではございません。国と民を守るために、国庫があるのですから」


 陛下は、その言葉に静かに頷いた。


「ならば、我々のなすべきことは明らかだ」


 その声には、迷いがなかった。


「王都は失った。多くの兵も失った。だが、王国が滅んだわけではない」


 陛下は、卓を囲む私たちを見渡した。


「余を信じて残った者たちがいる。故郷を追われ、助けを求めている民がいる。そして、今も王国を守ろうと働いている者たちがいる。その者たちがいる限り、余は王としての責任を果たさねばならぬ」


 私は、静かに耳を傾けた。


 陛下は、そこで私へ視線を向けた。


「フェルディナント。王とは、一人で国を守る者ではない」


「……はい」


「国を守ろうとする者たちの責任を、最後まで引き受ける者だ」


 私は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 王太子に指名されたとき、私は何をすればよいのか分からなかった。王宮で政務を学び、軍議に出席し、陛下の指示に従う。それが王太子の仕事なのだと思っていた。


 しかし、今は少しだけ違う。


 王国を守るために働いている人々の姿を見てきた。兵士たちは戦場で命を懸け、官吏たちは行政を維持し、商人たちは危険を承知で物資を運んでいる。避難民の登録を行う官吏も、港で荷を下ろす労働者も、それぞれの持ち場で王国を支えている。


 彼らの仕事を知り、その責任を引き受けること。


 それが、王太子として私に求められていることなのかもしれない。


 私は、ゆっくりと頭を下げた。


「承知いたしました、陛下」


 その後も会議は続いた。


 翌日の軍議で確認する事項、港湾施設の警備、避難民の受け入れ、諸外国への声明の発送。話し合わなければならないことは、まだ山ほど残っている。


 私はしばらくその場で説明を聞き、やがて退出を許された。


 廊下へ出ると、夜も遅いというのに、まだ官吏たちが働いていた。書類を運ぶ者、伝令を送り出す者、帳簿を照らし合わせる者。誰もが疲れた顔をしているが、それでも仕事を止めようとはしていない。


 私は窓際で足を止め、外へ目を向けた。


 メルキアの街には、まだ多くの灯火が残っていた。


 港では荷下ろしが続いているらしく、岸壁のあたりに小さな明かりがいくつも見える。沖には王国海軍の艦船が停泊し、街の外では兵士たちが防衛陣地の構築を進めているという。


 王都マリアベルクの壮麗な宮殿も、広い大通りも、ここにはない。かつて王宮で見慣れていた儀仗兵の整列も、華やかな晩餐会も、今のメルキアでは望むべくもないだろう。


 それでも、今のメルキアには王宮がある。


 国王がいて、宰相がいて、将軍がいる。そして、王国を守ろうと働く人々がいる。


 私は、昼間に書類を運んでいた狭い廊下を思い出した。


 あのときは、こんな場所が王宮なのかと、少しだけ不思議に思っていた。王都の宮殿とは比べものにならないほど小さく、廊下ですれ違うことさえ難しい建物だった。


 しかし、今なら分かる気がする。


 王宮とは、立派な建物のことではないのだろう。


 王国のために働く人々が集まり、その責任を引き受ける場所。そこに国王がいて、国を守ろうとする意思があるのなら、どれほど小さな建物であっても、王宮と呼ぶにふさわしいのだ。


 私は窓から離れ、自分の部屋へ向かった。


 明日も、仕事は山ほどある。今日整理しきれなかった書類も残っているし、避難民の登録もまだ終わっていない。軍議では新しい防衛線の整備状況が報告されるだろうし、港へ到着した交易品の分配についても、確認しなければならないことがあるはずだ。


 王太子になってから、仕事が減る気配は一向にない。


 以前の私なら、そんなことを考えてため息をついていたかもしれない。しかし今は、その忙しさを少しだけありがたく感じていた。


 王国の未来がどうなるのか、まだ誰にも分からない。ハインリヒ殿下が再び大軍を率いて攻めてくるかもしれないし、諸外国の判断によって状況が大きく変わることもあるだろう。


 それでも、私たちにはまだ、できることが残されている。


 そして、その仕事を続けていくための時間も、ようやく手に入れようとしているのだ。


 王国は、まだ生きている。


 少なくとも、ここにいる誰もが、簡単に滅びるつもりなどないのだから。


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