【閑章9話】王都を離れる日
王都を放棄する。
その決定が下された翌朝、プラネヴィアの王軍司令部では、夜明けを待たずに撤退準備が始まっていた。
王都マリアベルクを守るために築かれた防衛線を捨て、残された王軍をメルキアへ移す。軍議の席で説明された方針は明快だったが、実際に動かさなければならないものを考えると、私には気が遠くなるような話に思えた。
二万を超える兵士とその装備、軍馬、食料、軍需物資、そして野戦病院に収容されている傷病兵。これらを敵の目前から運び出し、海を渡ってメルキアまで送り届けなければならない。しかも、プラネヴィアの港に集められた輸送船だけでは、一度に全軍を運ぶことなど到底できなかった。
王国海軍は輸送船団の護衛と航路の確保を引き受け、陸軍はその間、防衛線を維持する。船が港へ戻るたびに兵士と物資を積み込み、少しずつ陣地を縮小していくという計画だった。
「傷病兵と後方部隊から先に乗船させる。戦闘部隊は陣地を維持し、港の収容能力に合わせて順次後退する」
陛下の命令を受け、参謀たちが地図の上に駒を並べていく。部隊ごとの撤退順序だけでなく、港へ向かう街道の使用時間、輸送船の接岸位置、積み込む物資の優先順位まで、細かな調整が必要になるらしい。
中でも最も危険なのは、最後まで防衛線に残る部隊だった。
後方の兵士から順番に撤退させれば、前線を守る人数は当然減っていく。敵にその動きを悟られれば、手薄になった陣地へ攻撃が集中するだろう。だからといって、すべての部隊を一斉に後退させれば、港へ通じる街道は兵士と荷車で埋まり、船に乗れない者が取り残されてしまう。
撤退とは、単に敵から遠ざかることではない。敵と向き合ったまま軍の形を保ち、少しずつ戦力を後方へ移していく、極めて難しい作戦なのだと私は初めて知った。
「魔導騎士団は、最後まで機動予備として残ります」
地図を見つめていたユリアナ・シュタイナー団長が、静かに申し出た。
「敵が攻勢を強めた場合は、我々が迎撃して後退の時間を稼ぎます。ただし、魔導士団の離反によって広域防御を維持する余力はありません。残存する魔導士は、港へ通じる主要街道と後退経路の防御に集中させていただきたいと考えています」
「認める。だが、陣地に固執するな。お前たちまで失うわけにはいかぬ」
「承知しております。敵を撃退することよりも、撤退を完了させることを優先いたします」
ユリアナ団長は短く答えたが、その言葉が意味するものは決して軽くなかった。
彼女の率いる魔導騎士団も、ここまでの戦いで少なからぬ損害を受けている。それでも、最も危険な最後尾を引き受けることに、ためらいを見せなかった。
私はその覚悟を立派だと思ったが、同時に、軽々しく称賛してよいものなのか分からなかった。彼らが危険な場所に残るのは、勇敢さを示すためではない。誰かがそこに残らなければ、ほかの兵士たちが逃げられないからだ。
「フェルディナント」
陛下に名を呼ばれ、私は慌てて姿勢を正した。
「お前には港で、傷病兵と後方要員の乗船確認を任せる。輸送担当官の指示をよく聞き、取り残される者が出ぬよう努めよ」
「私が、ですか」
「そうだ。王太子として兵を率いることだけが務めではない。兵を無事に運び、必要な物資を届けることも、軍を預かる者の責任だ」
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げた。
剣を抜いて戦うことも、魔法で敵を退けることもできない。そんな私に与えられたのは、港で人員を数え、船へ送り出すという仕事だった。
しかし、陛下はそれを軽い役目として与えたわけではないのだろう。軍議を終えて席を立つ直前、私に向けられた眼差しには、確かな信頼と、それに見合う責任を求める厳しさがあった。
ならば私も、与えられた仕事を最後まで果たさなければならない。
◇
プラネヴィア港は、既に巨大な兵站拠点と化していた。
桟橋には何隻もの輸送船が並び、荷役の兵士たちが食料袋や木箱を次々と積み込んでいる。港の広場には傷病兵を乗せた荷車が列を作り、その周囲を軍医や衛生兵が忙しく行き来していた。
軍馬のいななき、荷車の軋む音、船員たちの怒号が入り混じり、普段なら商人や漁師で賑わっているはずの港には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
「殿下、こちらが本日第一便の乗船予定名簿です」
輸送担当官から渡された書類には、部隊ごとの人数と乗船先が細かく記されていた。私はその数字を確かめながら、実際の乗船状況と照合していった。
最初のうちは、単純な確認作業だと思っていた。
名簿に書かれた人数と、船に乗り込む兵士の数が一致していればよい。そう考えていたのだが、実際には予定どおりに進むことの方が少なかった。
「第三野戦病院の負傷兵が、予定より二十名多く到着しております!」
昼前、血相を変えた衛生兵が駆け込んできた。
「第二便に回せないのか」
輸送担当官が尋ねると、衛生兵は首を振った。
「第二便も既に満載です。それに、こちらには重傷者が含まれております。後回しにすれば、容体が悪化するおそれがあります」
私は慌てて名簿を見直した。確かに、第三野戦病院からの移送人数は予定より増えている。前夜の小競り合いで負傷者が出たためらしいが、既に船の収容人数は限界に近かった。
港にはほかにも乗船を待つ兵士がいる。誰かを優先すれば、その分だけ別の誰かが後回しになる。
「軽傷者のうち、徒歩で移動できる者はいますか」
「おりますが、別の船へ移すにも時間がかかります」
「では、重傷者を先に乗せてください。軽傷者については、次の便の輸送担当官と調整します。私からも確認しますので、まずは担架を止めないでください」
自分の判断が正しいのか、確信はなかった。それでも、ここで立ち尽くしていては何も進まない。
担当官は一瞬だけ私を見たあと、すぐに部下へ指示を飛ばした。
その後も、問題は次々と起きた。
所属部隊とはぐれた兵士が乗船場所を間違え、荷馬車の車輪が壊れて物資の搬入が遅れ、名簿には記載されているはずの衛生兵が見つからない。ある部隊では、負傷者の人数を報告したあとに容体が悪化した者が出て、急遽、輸送の優先順位を変更する必要が生じた。
私はそのたびに担当官へ確認し、必要なら別の部署へ伝令を走らせた。王太子である私が口を出せば、現場の兵士たちは一応従ってくれる。しかし、彼らの方が輸送の実務をよく知っている以上、私が勝手な判断を下せば、かえって混乱を招いてしまう。
何度か失敗しかけた末に、私はようやく、自分がすべてを決める必要はないのだと気づいた。
現場の者が必要としていることを聞き、判断に迷っている問題を整理し、責任を持って調整する。それだけでも、仕事は少しずつ進んでいく。
昼を過ぎる頃には、書類の数字を追うだけで頭が痛くなっていた。
それでも、負傷兵を乗せた船が桟橋を離れていくのを見ると、胸の奥に小さな安堵が生まれた。あの船に乗った者たちは、少なくとも今夜、敵の攻撃を受ける陣地に残らずに済む。
私は手元の名簿へ目を落とした。
そこには、兵士たちの名前と所属部隊が整然と並んでいる。朝までは単なる数字の集まりに見えていたものが、今は一人ひとりの命を示す記録のように思えた。
この書類のどこかに間違いがあれば、誰かが船に乗れなくなるかもしれない。
そう考えると、疲れたからといって確認を怠るわけにはいかなかった。
◇
撤退準備が進む一方、王都マリアベルクからは連日のように報告が届いていた。
宰相アルフォンス・ヴァルテンベルクは、陛下の命令を受け、王国政府の移転を指揮している。
各官庁の重要文書、国庫の財貨、外交記録、徴税台帳。王都から運び出さなければならないものは、軍需物資に劣らず膨大だった。しかも、政府の仕事は建物や書類を移せば済むというものではない。役人たちが移動したあとも、各地から届く報告を受け取り、必要な命令を出し、軍への補給を続けなければならなかった。
王都を離れるというのは、王宮の扉を閉めて馬車に乗ることではないのだ。
国を動かしてきた仕組みそのものを、別の土地へ移さなければならない。
さらに難しいのは、王都に暮らす人々の問題だった。
政府が移転するという噂が広まれば、人々は当然、不安を抱く。裕福な商人や貴族の中には早々に荷馬車を確保し、家財をまとめて避難を始める者もいたという。
一方で、長年暮らした家を離れられない者もいる。店を構える商人、年老いた親を抱える家族、王都の外に頼れる親類を持たない人々。彼らにとって、王都を去るという選択は、生活のすべてを失うことにも等しかった。
アルフォンス宰相は希望者の避難を支援するよう命じていたが、王都の住民すべてをメルキアへ移すことなど不可能だった。政府の移転に使用できる荷馬車や護衛の数には限りがあり、街道の安全も十分に確保されているわけではない。
結局、多くの人々が王都に残ることになった。
そして、それは兵士たちも同じだった。
アルフォンス宰相から届いた報告には、近衛兵団と王都守備隊の一部が政府の移転に同行する一方、相当数の部隊が王都に残る見込みであると記されていた。
中にはハインリヒを正統な王位継承者と認め、既に帰順の意思を示した将校もいるという。しかし、残留する者のすべてが寝返ったわけではなかった。
王都に家族を持つ兵士もいる。市民の安全を守るため、最後まで街に残ることを望む者もいる。自分の部隊だけを置いて逃げるわけにはいかないと考える将校もいるのだろう。
陛下への忠誠と、故郷への思い。
その二つを天秤にかけなければならない状況を想像すると、私は簡単に彼らを責めることができなかった。
「王都の部隊は、どれほどこちらへ来るのでしょうか」
私は夕刻の報告会で、陛下に尋ねた。
「正確な人数は、まだ分からぬ」
陛下は机上の報告書を閉じた。
「アルフォンスには、無理に全軍を連れてくる必要はないと伝えてある。王都に残る者たちにも、それぞれの事情がある」
「ですが、陛下に忠誠を誓った兵士たちではありませんか」
「そうだ。だからこそ、彼らに何を命じるかは慎重でなければならぬ」
陛下は静かに続けた。
「忠誠とは、命じればどこまでも従わせてよいというものではない。まして、家族を捨てて来いと命じることが、王の務めだとは思わぬ」
私は返す言葉を失った。
これまで私は、忠臣とは最後まで主君に従う者だと思っていた。もちろん、それは間違いではないのだろう。だが、陛下はその忠誠を受ける側として、従う者が何を失うのかまで考えていた。
王太子になってから、私は幾度も自分の未熟さを思い知らされてきた。
それでも、このときほど、王であることの難しさを感じたことはなかった。
◇
撤退開始から数日が過ぎると、プラネヴィアの防衛線にも変化が現れ始めた。
後方部隊と傷病兵の輸送が進み、続いて一部の戦闘部隊が港へ下がる。前線に残る部隊は、これまでと同じ規模で守っているように見せかけながら、陣地を少しずつ縮小していた。
だが、敵も愚かではない。
ハインリヒ軍の斥候が動きを活発にし、王軍の防衛線へ小規模な攻撃を繰り返すようになった。兵力が減った場所を探るような攻撃が増え、そのたびに王軍は予備兵力を動かして対応しなければならなかった。
ある日の午後、港で輸送状況を確認していた私は、北西の方角から低い轟音が響くのを聞いた。
魔法による爆発だった。
港にいた兵士たちが一斉に顔を上げる。ほどなくして、前線から伝令が駆け込んできた。
「敵軍が西側陣地への攻撃を強めています! 魔導騎士団が迎撃中です!」
私は思わず、遠くに見える街の外れへ目を向けた。
そこでは今も、私たちを逃がすために戦っている兵士たちがいる。この港で書類を確認している間にも、誰かが傷つき、命を落としているかもしれない。
前線へ向かいたいという衝動が、一瞬だけ胸をよぎった。
だが、私が駆けつけたところで、何ができるというのだろう。剣を取って敵と戦う訓練など、十分に受けたことはない。魔法を使って戦線を支えることもできない。
そんな私が前線へ行けば、かえって兵士たちの負担になるだけだ。
「殿下!」
輸送担当官の声に、私は振り返った。
「次の船の乗船準備が整いました。確認をお願いいたします!」
「……分かりました。すぐに行きます」
私は書類を抱え直し、桟橋へ向かった。
今の私にできることは、ここにいる兵士たちを一人でも多く、安全に送り出すことだ。
前線で戦う者には前線の役目があり、後方で働く者には後方の役目がある。どちらか一方が欠けても、軍は成り立たない。
陛下が私にこの仕事を任せた理由を、私はようやく少しだけ理解できた気がした。
その日の夕方、ユリアナ団長の部隊が敵の攻撃を退けたという報告が届いた。
私は胸を撫で下ろしたが、同時に、明日も同じように戦いが続くのだろうと思った。敵が撤退に気づくまでの時間は、確実に短くなっている。
それでも、船団は予定どおりに出港を続けた。
兵士たちが守っているのは、プラネヴィアの陣地だけではない。
仲間が生きてメルキアへ辿り着くための、わずかな時間そのものだった。
◇
最後の輸送が行われたのは、それからさらに数日後のことだった。
プラネヴィア港に残された王軍の部隊は、既に限られた数になっていた。
港の倉庫はほとんど空になり、野戦病院の設備も運び出されている。軍需物資のうち、輸送できないものは敵に利用されぬよう処分された。桟橋には最後の輸送船が待機し、残された兵士たちが乗船の順番を待っていた。
街には、王軍が去ることを知った住民たちが集まっていた。
兵士たちへ水を配る者、負傷兵の荷物を運ぶ者、ただ黙って船を見つめる者。王軍が去ったあと、この街がどうなるのか、誰にも分からないのだろう。
中には、王軍に向かって怒りをぶつける者もいた。
「俺たちを置いていくのか!」
その声を聞いたとき、私は足を止めた。
港の警備兵に制止されながら、一人の男が叫んでいた。粗末な上着を着た中年の男で、日に焼けた顔には怒りと不安が入り混じっている。
「ここまで守ってくれたじゃないか! それなのに、今さら逃げるっていうのか!」
私は何も答えられなかった。
王軍が残れば、プラネヴィアをもう少し長く守り続けられるのかもしれない。だが、その先に勝利があるとは限らない。むしろ、包囲されて全軍が失われる危険の方が大きい。
それは理解している。
しかし、目の前の男にとって、そんな軍事的な事情がどれほどの意味を持つというのだろう。彼が恐れているのは、明日から自分の家族がどうなるのかということなのだ。
私は、その問いに答えられなかった。
やがて、陛下が港へ姿を現した。
兵士たちが道を開き、集まっていた住民たちも静かになる。陛下は男の前で足を止め、しばらくその顔を見つめていた。
「すまぬ」
その一言に、男は目を見開いた。
「我々には、これ以上この街を守り続ける力がない」
陛下は言い訳をしなかった。
「それでも、ここで軍を失えば、ほかの土地に暮らす者たちまで守れなくなる。どうか、許してほしい」
男は何かを言おうとして、結局、言葉を飲み込んだ。
陛下はその場に立ち、男の怒りを受け止めていた。王としての威厳を示すために叱責することも、軍の事情を並べて説得しようとすることもなかった。
ただ、自分たちがこの街を守りきれなかったという事実を、認めていた。
私はその姿を、忘れることができないと思った。
王とは、常に正しい答えを持つ者なのだろうか。
そうではないのかもしれない。どうしても守れないものがあるとき、その責任から目を逸らさずに立ち続ける者こそが、王なのかもしれなかった。
やがて最後尾の部隊が港へ戻ってきた。
ユリアナ団長の魔導騎士団も、残存する兵士たちを護衛しながら後退してくる。遠くではまだ散発的な戦闘の音が聞こえていたが、敵の大規模な追撃を許さず、主力の撤退を成功させたのだ。
もちろん、全員が無傷というわけにはいかなかった。担架で運ばれる兵士もいれば、仲間に肩を貸されながら歩く者もいる。
それでも、彼らは最後まで部隊の形を崩さず、桟橋へ辿り着いた。
陛下は乗船する兵士たちへ向き直った。
「よく務めてくれた」
それだけだった。
だが、疲れ切った兵士たちは姿勢を正し、一斉に敬礼した。
私もまた、彼らとともに頭を下げた。
船が桟橋を離れる。
プラネヴィアの街並みが、ゆっくりと遠ざかっていった。
ここまで王軍を支えてくれた街。私たちが何度も戦い、何度も守ろうとした土地。そのすべてを、後ろに残していく。
私は甲板の手すりを握りしめた。
海風は冷たく、潮の匂いが強かった。だが、胸の奥に残った重さは、それとはまったく別のものだった。
◇
王都マリアベルクがハインリヒ軍の手に落ちたという報告が届いたのは、メルキアへ向かう船上でのことだった。
王国政府の主要部局と国庫の一部は、アルフォンス宰相の指揮によって既に王都を離れていたという。政府の撤収を護衛する近衛兵や守備隊も相当数が同行しており、メルキアへ向かう街道を移動しているらしい。
一方で、王都には残留を選んだ部隊も少なくなかった。
ハインリヒ軍は南側から王都へ進出し、大規模な市街戦を経ることなく入城した。王宮は占領され、ハインリヒは王都の支配を宣言したという。
王都マリアベルク、陥落。
報告書に記されたその言葉を見たとき、私はしばらく動けなかった。
王太子として迎えられた王宮。まだ慣れない儀礼に戸惑い、アルフォンス宰相から政治の仕組みを教わり、陛下と幾度も言葉を交わした場所。
そこが、もう私たちの手を離れてしまった。
思えば、私は王太子になってから、王都で過ごした時間さえ決して長くはなかった。それでも、あの街は私にとって、突然与えられた新しい人生の象徴だったのだ。
王宮の廊下も、窓から見えた庭園も、朝になると官吏たちが行き交っていた執務棟も、今はハインリヒの支配下にある。
それらを二度と見ることができないかもしれないと思うと、胸の奥に言いようのない寂しさが広がった。
陛下は報告を受けても、取り乱すことはなかった。
既に王都放棄を決断していた以上、その知らせが届くことも覚悟していたのだろう。しかし、報告書を机に置いた陛下の手が、わずかに止まったことを私は見逃さなかった。
「陛下……」
「分かっていたことだ」
陛下は静かに答えた。
「だが、分かっていたからといって、何も感じぬわけではない」
私は口を閉じた。
陛下は窓の外へ視線を向けた。そこには、海軍の艦艇に守られながら進む輸送船団があった。
「王都は失った。だが、軍も政府も残っている。我々が果たすべき仕事は、まだ終わっておらぬ」
「……はい」
私は、どうにかそう答えた。
王都を失っても、王国は終わらない。
その言葉を信じたいと思った。
けれど、王都を失った王国が、これからどのように戦い続けるのか。兵力も領土も失い、残された軍勢でどこまで敵を防げるのか。
その答えを、私はまだ知らなかった。
◇
メルキアの港へ到着したのは、空が薄く茜色に染まり始めた頃だった。
船団が港へ近づくと、岸壁には王国旗が掲げられ、先に到着した兵士たちが整列しているのが見えた。
プラネヴィアとは異なる、どこか静かな港町だった。
王都マリアベルクのような壮麗な宮殿も、大きな官庁街もない。それでも港には倉庫が並び、荷馬車が行き交い、兵士たちが忙しく物資を運んでいる。王軍の到着に備え、既に臨時の宿営地や医療施設が整えられていた。
船が接岸すると、兵士たちは順番に下船していった。
負傷者を乗せた担架が運び出され、軍馬が慎重に船から降ろされる。輸送担当官たちは名簿を確認し、到着した部隊をそれぞれの宿営地へ案内していた。
私はその光景を見ながら、ようやく撤退が終わったのだと実感した。
もちろん、戦争が終わったわけではない。王都を失った今、これからどれほど厳しい戦いが待っているのかも分からない。
それでも、プラネヴィアにいた兵士たちの大部分は、無事にこの地へ辿り着くことができた。港で何日も名簿と向き合い、乗船する兵士たちを見送ってきた私にとって、その事実は何よりもありがたかった。
政府の一行がメルキアへ到着したのは、それからしばらく後のことだった。
アルフォンス宰相は王都からの長い移動で疲れた様子を見せていたが、到着するなり各部局の責任者を集め、移転した文書や物資の確認を始めた。王都から持ち出した書類は膨大で、荷車ごとに行き先を決め、臨時の執務室へ運び込まなければならないらしい。
王国政府は、メルキアへ到着したからといって休むこともできなかった。
王都から同行した近衛兵や守備隊も、順次宿営地へ移動していく。
彼らの数は、私が想像していたより多かった。
もっとも、王都に残った部隊も少なくないと聞いている。全員が陛下のもとへ集まったわけではないし、これから先も王都に残る者たちがどのような扱いを受けるのかは分からない。
それでも、陛下とともに戦うことを選び、家族や故郷を離れてここまで来た者たちが、これほどいるのだ。
私は、そのことに驚きと安堵を覚えた。
そして、アルフォンス宰相の一行の中に、見覚えのある老人の姿を見つけた。
「……ボーマン殿?」
思わず声を上げると、老人がこちらを向いた。
ボーマン・ローゼンフェルト。
かつて王宮執事長を務め、長年にわたって王家を支えてきた人物だ。私が王太子として王宮へ迎えられた頃から、彼はいつも落ち着いた物腰で接してくれた。
その姿を見つけた瞬間、王都で過ごした日々が不意に思い出された。
ボーマンは私の姿を認めると、いつもと変わらぬ所作で一礼した。
「王太子殿下。ご無事で何よりでございます」
「あなたも、王都から来られたのですね」
「はい。アルフォンス宰相閣下に同行してまいりました」
「長い道のりだったでしょう。お疲れではありませんか」
「お気遣い、痛み入ります。しかし、この程度で音を上げていては、陛下に顔向けできませんからな」
そう言って、ボーマンは穏やかに微笑んだ。
その声には、長旅の疲れを感じさせるものがほとんどなかった。もちろん、実際には苦労もあったのだろう。王都からの撤収が容易ではなかったことは、アルフォンス宰相の報告を通して知っている。
それでも、彼はいつもと変わらない。
私は思わず笑みを浮かべた。
王都を離れてから、見慣れた顔に会うことが、これほど心強いとは思わなかった。
やがて、ボーマンの到着を知った陛下が姿を現した。
「ボーマン」
陛下が名を呼ぶと、老人は深く頭を下げた。
「陛下。ご無事のお姿を拝見でき、安堵いたしました」
「お前も来てくれたか」
「陛下をお支えする者が、まだ必要でございましょう」
陛下はしばらくボーマンを見つめ、それから小さく頷いた。
「……そうだな。必要だ」
二人の間には、それ以上の言葉はなかった。
だが、長年にわたって王家を支えてきた老人と、その忠誠を受けてきた国王との間には、私にはまだ分からないほど深い信頼があるのだろう。
グラニスクで敗れ、プラネヴィアを放棄し、王都まで失った今、陛下の周囲からは多くの人々が去っていた。戦死した者もいれば、ハインリヒに寝返った者もいる。事情があって王都に残った者も少なくない。
それでも、こうして戻ってくる者がいる。
陛下のそばに立つボーマンの姿を見ていると、私の胸の奥にも、少しだけ温かなものが広がった。
◇
翌日、メルキアに集まった王軍の部隊が、改めて確認された。
グラニスク会戦から生き残り、プラネヴィアの防衛線を守り抜き、海を渡ってきた兵士たち。
王都からアルフォンス宰相に同行し、陛下への忠誠を選んだ近衛兵や守備隊。
さらに、各地からメルキアへ合流した小規模な部隊もあった。
王軍の規模は、開戦時の六万には遠く及ばない。兵士の損失だけでなく、離反した部隊や、王都に残った部隊もある以上、数の上ではハインリヒ軍に大きく劣っている。
それでも、港の外に設けられた宿営地を歩いていると、私は不思議なことに気づいた。
兵士たちの表情に、以前ほどの動揺が見られないのだ。
もちろん、疲労は色濃く残っている。負傷した者も多く、装備の傷みも激しい。戦友を失った悲しみを抱えている者もいるだろう。
それでも、兵士たちは黙々と武具を整え、陣地の構築に取りかかっていた。将校たちも、必要以上に声を荒らげることなく部隊を動かしている。
グラニスクの敗北直後には、軍全体を覆う不安と混乱があった。
プラネヴィアでは、裏切りや離反によって、味方を信じられなくなる瞬間もあった。
だが、ここにいる兵士たちは違う。
何度も戦い、何度も退き、それでもなお陛下のもとに残ることを選んだ者たちだった。
「……随分と、雰囲気が違いますね」
私がそう呟くと、隣を歩いていたボーマンが頷いた。
「そうでございましょうな」
「兵の数は減りました。王都まで失いました。それなのに、以前よりも落ち着いて見えるのです」
「彼らは、幾度も戦場を経験しております。恐怖を知らぬわけではございません。恐怖の中で、どう動けばよいかを学んだのでしょう」
ボーマンは宿営地の兵士たちへ目を向けた。
「そして何より、ここまで来た者たちは、自分が誰のために戦うのかを知っております」
「陛下のために、ですか」
「それだけではございません。共に戦ってきた仲間のため、家族のため、そして自分たちが守るべきもののためでございます」
私は黙って耳を傾けた。
「軍の強さは、数だけで決まるものではございません。無論、数が不要というわけでもありませんが、命令を信じ、互いを支え、困難な状況でも崩れぬ軍というものは、そう簡単に得られるものではないのです」
ボーマンの声は穏やかだった。
しかし、その言葉には不思議な重みがあった。
「彼らは、容易には崩れぬ軍になりますぞ」
私は改めて宿営地を見渡した。
兵士たちは、明日の勝利を確信しているわけではないのだろう。それでも、ここで戦うことを選んでいる。
そして、彼らがこれまでの戦いで積み重ねてきた経験は、決して無駄にはなっていないはずだった。
王都を失い、領土を失い、多くの仲間を失った。
それでも、彼らは兵士としての務めを忘れていない。
私は、その姿を頼もしく感じた。
◇
その日の夕刻、陛下はメルキアに集まった将兵たちを前に、短い言葉を述べられた。
港の広場には王国旗が掲げられ、各部隊の代表者たちが整列している。遠くには王国海軍の艦艇が停泊し、夕日に照らされた帆と船体が、穏やかな海面に影を落としていた。
王都を失ったこと。
多くの土地を敵の支配下に置かれたこと。
そして、ここまでの戦いで数多くの将兵が命を落としたこと。
陛下は、それらを隠そうとはしなかった。
「我々は、多くのものを失った」
港に集まった兵士たちが、静かに耳を傾ける。
「だが、ここにいる者たちは、まだ戦うことができる。王国海軍も健在であり、政府もこの地で再び務めを果たす」
陛下は一度、言葉を切った。
「王都を失ったからといって、我々が守るべき人々まで失われたわけではない。私は、王としての責任を最後まで果たすつもりだ」
大きな歓声が上がったわけではなかった。
それでも、兵士たちは一斉に姿勢を正し、王国旗へ向かって敬礼した。誰かが声を張り上げることもなく、ただ静かに、整然と敬礼を続けている。
私はその光景を見ながら、彼らが何を思っているのだろうと考えた。
故郷を失った者もいるだろう。家族を王都に残してきた者もいる。戦友の死を悼みながら、それでも次の戦いに備えている者もいるはずだ。
彼らが陛下に求めているのは、必ず勝てるという約束なのだろうか。
それとも、どれほど厳しい状況になっても、自分たちとともに立ち続けてくれるという確信なのだろうか。
私には、まだその答えが分からなかった。
ただ、陛下がここにいること、そして陛下を信じる者たちがこれほど残っていることに、確かな意味があるのだと思った。
式が終わったあと、私は陛下のそばへ歩み寄った。
「陛下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「私たちは、ここから王都を取り戻せるのでしょうか」
口にしてから、愚かな質問だったかもしれないと思った。
王都を失ったばかりの陛下に、そのようなことを尋ねるべきではなかったのかもしれない。だが、どうしても聞かずにはいられなかった。
陛下はすぐには答えなかった。
港の向こうには、夕暮れの海が広がっている。その沖合には、王国海軍の艦艇が静かに停泊していた。
「……分からぬ」
やがて、陛下はそう答えた。
私は思わず顔を上げた。
勝てると励ましてくれるものだと思っていたわけではない。それでも、国王の口からその言葉を聞くとは思っていなかった。
「戦争とは、こちらの望みどおりに進むものではない。どれほど準備を重ねても、敗れることはある。今回の戦いで、お前もそれを見ただろう」
「……はい」
「だが、まだ終わってはおらぬ」
陛下は港に集まる兵士たちへ視線を向けた。
「我々を信じて、ここまで来た者たちがいる。ならば、王として果たすべき務めも残っている」
その声は、決して大きくなかった。
それでも、私は深く頷いた。
王都は失った。多くの兵士が命を落とし、王国の領土の大半が敵の手に渡ろうとしている。
それでも、ここにはまだ王がいて、その王を信じる者たちがいる。
王国とは、王宮の建物や王都の城壁だけで成り立っているものではない。人々が暮らし、互いを支え、その営みを守ろうとする者たちがいて初めて、国というものが形になるのだろう。
私はまだ、王太子として何をなすべきなのか、十分に理解しているとは言えない。
港で傷病兵を船へ送り出す仕事を任されただけでも、数えきれないほどの失敗をしかけた。王都を離れる人々の苦しみにも、何一つ答えを示すことができなかった。
それでも、ここまでの戦いで見てきたものを、忘れてはならないと思った。
兵士たちの疲れた顔も、プラネヴィアの港で怒りをぶつけた男の声も、王都から辿り着いた人々の安堵した表情も。
それらはすべて、王太子という立場にいる私が、これから背負わなければならないものなのだろう。
港に掲げられた王国旗が、夕風を受けて静かにはためいていた。
いつか、王太子として胸を張れる日が来るのだろうか。
今の私には、まだ分からない。
ただ、ここまで来た以上、最後まで自分の務めを果たしたいと思った。
たとえ、その先に何が待っているのだとしても。




