【閑章8話】王都放棄
プラネヴィアの防衛線は、まだ維持されていた。
魔導士団の一部がハインリヒ側へ離反し、王軍は河川沿いの防御陣地を失ったものの、グスタフ陛下と軍務卿の指揮によって後方の予備陣地へ戦線を移していた。敵軍は引き続き攻撃を繰り返していたが、周辺の丘陵や湿地を利用した防御によって、その進撃を食い止めている。
王軍の即応可能な兵力は、およそ三万。グラニスク会戦へ臨んだ六万の半数にまで減少していたが、兵士たちは依然として陛下の命令に従い、与えられた陣地を守り続けていた。
ただ、軍の雰囲気は以前とは明らかに違っていた。
魔導士団の離反以降、各部隊では将校の忠誠を確認する動きが進められている。命令の伝達経路も改めて整理され、不審な行動があれば速やかに報告するよう通達されていた。軍務卿は過度な取り締まりによって兵士たちの不安を煽らないよう注意していたが、それでも疑念を完全に消すことはできない。
私は補給担当者たちとともに、各部隊の状況を確認する仕事を続けていた。
港には王国海軍の輸送船が入港し、食料や武器、魔石を運び込んでいる。負傷兵は後方へ移送され、補充兵も少しずつ到着していた。海上補給路は依然として安全であり、王軍が物資不足によって戦えなくなるような状況ではなかった。
それでも、補給担当者たちの表情には疲労が浮かんでいた。
兵士の数が減れば、必要な食料も減る。しかし、部隊の再編成が続いているため、どこに何人の兵士がいるのかを確認するだけでも時間がかかる。負傷者の移送予定が変更されれば船の手配も変わり、魔導士団の再編成に伴って魔石の配分も見直さなければならなかった。
私は、戦争が続くということの意味を、少しずつ理解し始めていた。
戦場で敵を撃退するだけでは、軍は維持できない。兵士が食べ、休み、負傷すれば治療を受け、再び戦えるようにする。そのためには、数え切れないほど多くの人々が働き続けなければならないのだ。
そして、その努力によってようやく維持されている防衛線が、今は以前よりも脆くなっている。
◇
王都マリアベルクからの報告が届いたのは、そんなある日のことだった。
差出人は、宰相アルフォンス・ヴァルテンベルク。
彼は王都に残り、王国政府の運営と物資の調達、各地の諸侯との連絡を続けていた。グラニスクでの敗北以降、王都では戦況の悪化が知られるようになり、市民の間にも不安が広がっているという。
陛下は書簡に目を通すと、軍務卿と私にも内容を確認するよう命じた。
「王都では、一部の商人や貴族が財産を移し始めております」
軍務卿が報告書を読み上げた。
「市場では食料の買い占めも見られるようですが、宰相閣下が備蓄の放出と価格の監視を進めており、現時点では大きな混乱は発生していないとのことです」
私は少し安心した。
王都には大勢の人々が暮らしている。もし食料が不足し、治安が悪化すれば、戦場とは別の場所で多くの人々が苦しむことになる。
「アルフォンスは、よくやってくれているな」
陛下は静かに頷いた。
「はい。加えて、重要文書や国庫資産の整理も進めているようです。万一、王都から政府機関を移す必要が生じた場合に備えた措置とのことです」
私は顔を上げた。
「王都から、政府を移すのですか?」
「可能性の話だ」
陛下が答えた。
「今すぐ王都を放棄するつもりはない。しかし、戦況が悪化した場合に備えておくことは必要だ」
私は書簡へ目を落とした。
王都は、マリアベル王国の中心だった。
王宮があり、政府の各機関が集まり、長い年月をかけて王国の政治と経済を支えてきた場所である。私は幼い頃から何度も王都を訪れ、王太子となってからはそこで暮らすことが当たり前になっていた。
その王都を離れる可能性がある。
考えたこともなかった話だった。
「フェルディナント。王都は重要な場所だが、王国そのものではない」
陛下は、私の表情から考えていることを察したようだった。
「政府が機能し、軍が残り、国民を守る意思がある限り、王国は存続できる。アルフォンスは、そのための準備を進めているのだ」
私は頷いた。
しかし、その言葉の意味を、本当に理解できていたかどうかは分からなかった。
◇
数日後、グラニスク地方を治めるグラーフェンベルク伯爵から使者が到着した。
伯爵はグラニスク周辺に広い領地を持つ有力諸侯の一人であり、王軍には自領から動員した数千の兵士を率いて参加していた。グラニスク会戦でも王軍側として戦い、敗北後はプラネヴィアの南西方面を守る部隊の一角を担っている。
彼の領地は、今回の戦争によって大きな被害を受けていた。
グラニスク周辺では両軍の戦闘が行われ、農地や街道が荒れ、住民の避難も続いている。伯爵領の城砦や集落の一部は敵軍の勢力圏に入りつつあり、家臣たちからは領地の防衛を優先すべきだという意見が強まっているらしい。
使者は陛下の前で深く頭を下げた。
「我が主は、領内の状況を深く憂慮しております。つきましては、配下の諸侯軍を一時的に再配置し、領地の防衛にあたる許可を賜りたく存じます」
軍務卿が地図へ目を落とした。
「伯爵軍が現在の配置を離れれば、プラネヴィア南西の防御が手薄になります。敵軍がその方面から進撃した場合、我々の側面を脅かすことになるでしょう」
使者は困ったような表情を浮かべた。
「それは承知しております。しかし、伯爵領では既に多くの住民が避難を余儀なくされております。このままでは、領地そのものが失われかねません」
私は、その言葉を聞きながら複雑な気持ちになった。
伯爵の立場も理解できる。
王軍の将校であると同時に、彼は領地を治める貴族でもある。領民を守る責任があり、家臣たちの生活も背負っている。王国全体の戦争を優先するあまり、自分の領地が荒廃していくことを、黙って見ているわけにはいかないのだろう。
陛下は、しばらく考えてから答えた。
「伯爵の事情は理解する。しかし、軍をすべて引き揚げることは認められぬ。南西の防衛線を失えば、王都への道が危険にさらされる」
使者は頭を下げたまま、陛下の言葉を待った。
「一部兵力による領地防衛は許可しよう。ただし、主力は現在の配置を維持すること。必要な補給については、軍務卿と協議せよ」
「……ありがたき幸せにございます」
使者は深く礼をした。
私は、その様子を見ながら、陛下の判断は妥当なものだと思った。
伯爵の事情を無視するわけにはいかない。しかし、王軍全体の防衛線を危険にさらすこともできない。
両方を守るためには、どこかで折り合いをつけるしかないのだ。
◇
その頃、近衛兵団の一部でも不穏な動きが確認されていた。
近衛兵団は王室を守るための精鋭部隊であり、王宮や王都の警護を担当している。現在はその一部が王軍本営の警備にあたっていたが、魔導士団の離反以降、将校たちの間で意見の対立が生じているという。
軍務卿から報告を受けた私は、思わず尋ねた。
「近衛兵団まで、ハインリヒ殿下を支持しているのですか?」
「一部に、そのような考えを持つ者がおります」
軍務卿は慎重に答えた。
「彼らは王家への忠誠を重視しております。しかし、その王家の正統な継承者が誰なのかという点で、意見が分かれているのです」
私は言葉を失った。
近衛兵団は、国王を守るための部隊だと思っていた。
しかし、彼らの中には、ハインリヒ殿下こそが正統な王位継承者だと考える者もいるらしい。
王家への忠誠と、現在の国王への忠誠。
それが必ずしも同じ意味ではないということを、私は初めて理解した。
「現時点では、大規模な離反は確認されておりません。ただし、王軍本営の警備については配置を見直しております」
軍務卿はそう説明した。
私は頷いたものの、胸の奥に不安が残った。
魔導士団の一部が離反したばかりだというのに、今度は近衛兵団の中にも不穏な動きがある。
王軍は敵軍の攻撃を食い止めている。しかし、その内部では少しずつ結束が失われているのかもしれなかった。
◇
グラーフェンベルク伯爵軍との連絡が途絶えたのは、それから数日後のことだった。
最初は通信の不具合か、敵軍による妨害が疑われた。
しかし、偵察部隊から届いた報告は、それだけでは説明できないものだった。
「伯爵軍が、許可された範囲を超えて移動しております」
軍務卿が地図を指した。
「現在の配置を離れ、南西方面へ兵力を移動させているようです。さらに、伯爵領の城砦では、ハインリヒ側の使者が出入りしているとの情報もございます」
陛下は、しばらく黙っていた。
「……伯爵本人の意思を確認せよ」
「承知いたしました」
軍務卿は使者を送り、伯爵へ説明を求めた。
しかし、使者は伯爵本人に面会できないまま引き返してきた。
伯爵軍の陣地では警備が強化され、王軍から派遣された使者は立ち入りを拒まれたという。
私は、その報告を聞きながら嫌な予感を覚えた。
伯爵は領地を守るために兵力の再配置を求めた。
陛下はその事情を理解し、一部の移動を許可した。
それにもかかわらず、伯爵軍は命令を無視して移動している。
何かが起きていることは明らかだった。
「伯爵は、ハインリヒ殿下へ帰順するつもりなのでしょうか」
私が尋ねると、軍務卿はすぐには答えなかった。
「可能性はございます。しかし、現時点では断定できません」
陛下は、静かに口を開いた。
「伯爵の領地が危険にさらされていることは事実だ。だが、だからといって王軍の命令を無視してよいわけではない」
その声には、怒りよりも深い疲労が滲んでいるように感じられた。
◇
伯爵から正式な書簡が届いたのは、翌日の午後だった。
軍務卿が封を切り、内容を確認する。
その表情が、次第に険しくなっていった。
「……陛下」
「申せ」
「グラーフェンベルク伯爵は、ハインリヒ殿下を正統な国王として承認するとのことです」
私は、思わず息を呑んだ。
軍務卿は、書簡の内容を読み上げた。
伯爵は、これ以上の戦争によって領民を犠牲にすることはできないと主張していた。ハインリヒ殿下からは領地と爵位の保全が約束されており、今後はその指揮下に入るという。
そして、配下の諸侯軍も、すべてハインリヒ側へ移動させると記されていた。
「兵力は?」
陛下が尋ねた。
「およそ四千五百と見込まれます」
私は地図へ目を落とした。
四千五百。
王軍の即応兵力が約三万まで減少していることを考えれば、決して小さな数字ではない。
しかし、軍務卿の表情は、兵力の減少だけを問題にしているようには見えなかった。
「陛下。問題は、伯爵軍が守っていた地域です」
軍務卿は地図の南西側を指した。
そこには、プラネヴィアから内陸へ続く街道と、いくつかの城砦が記されている。伯爵軍は、その地域を守ることで敵軍の迂回を防いでいた。
「伯爵が帰順したことで、この方面の城砦と街道が敵軍に利用される可能性が高くなりました」
「……つまり?」
私が尋ねると、軍務卿は地図上の経路を指でなぞった。
「ハインリヒ軍とザクセンブルク軍は、プラネヴィアの正面防衛線を迂回し、南側から王都へ向かうことが可能になります」
私は、ようやく事態の深刻さを理解した。
これまで王軍は、プラネヴィアの防衛線で敵軍を食い止めてきた。
しかし、敵軍が南側から迂回して王都へ向かうのであれば、プラネヴィアで戦い続けても意味がない。
王軍が守っている場所を避けて、敵軍が王都へ進撃できてしまうのだ。
「兵を失ったこと以上に、守るべき道を失いました」
軍務卿は、静かにそう言った。
天幕の中に、重い沈黙が落ちた。
◇
その日の夕方、王軍本営では緊急の軍議が開かれた。
グスタフ陛下、軍務卿、ローゼンハイム公爵、各部隊の指揮官たちが集まり、今後の方針について協議する。
軍務卿は、グラーフェンベルク伯爵の離反によって生じた問題を説明した。
「現在の防衛線は、正面からの攻撃に対しては有効です。しかし、南西方面の城砦と街道が敵軍の手に渡れば、プラネヴィアを迂回して王都へ進撃することが可能になります」
ローゼンハイム公爵が腕を組んだ。
「では、伯爵軍が守っていた地域を奪い返せばよいのではないか」
「そのためには、現在の防衛線から兵力を抽出しなければなりません。敵軍は依然として六万以上の兵力を維持しており、正面の防御を弱めれば突破される危険があります」
軍務卿は地図を指した。
「さらに、伯爵軍は我々の部隊配置を把握しております。南西方面へ兵力を移動させれば、その動きが敵軍へ伝わる可能性もございます」
私は、地図を見つめながら考えた。
プラネヴィアの防衛線は、敵軍の進撃を阻むために築かれたものだった。
しかし、敵軍が別の道を通れるようになれば、防衛線の価値は大きく下がってしまう。
王軍がここに留まり続ければ、敵軍は王軍との決戦を避けて王都へ向かうかもしれない。逆に、王都を守るために兵力を移動させれば、プラネヴィアの防衛線を維持できなくなる。
どちらを選んでも、危険がある。
「王都へ戻り、籠城することはできないのでしょうか」
私が尋ねると、軍務卿は少し考えてから答えた。
「不可能ではありません。しかし、王都には多くの市民が暮らしております。敵軍が包囲すれば、食料の確保や避難の問題が生じます」
ローゼンハイム公爵も頷いた。
「王都で徹底抗戦すれば、市街地が戦場になる。王宮や城壁が残っていても、民が犠牲になっては意味がない」
私は、王都の街並みを思い浮かべた。
王宮へ続く大通り、商人たちが集まる市場、住宅が立ち並ぶ街区。そこには、戦争とは無関係に暮らしている人々が大勢いる。
もし王都が戦場になれば、彼らはどうなるのだろう。
陛下は、長い間地図を見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……王都を放棄する」
その言葉に、軍議の空気が変わった。
「陛下……」
ローゼンハイム公爵が顔を上げた。
陛下は、落ち着いた声で続けた。
「王都を守るために王軍を失うわけにはいかぬ。王軍が壊滅すれば、王国そのものが失われる」
軍務卿は黙って聞いていた。
「メルキアへ移る。あの半島であれば地形を利用して防御できるし、海軍の支援も受けられる。王国政府と残存王軍を維持し、戦いを続けるのだ」
私は地図の北方へ目を向けた。
メルキア半島。
王都の北西に位置し、ヴェルミニア海に面した地域だった。
王国海軍が制海権を握っている現在、海上から物資を運び込むことができる。さらに、半島という地形は防御にも適している。
王軍がプラネヴィアから海路で移動すれば、敵軍の陸上部隊に追撃される危険を減らすこともできる。
陛下は、軍務卿へ命じた。
「王軍の撤退計画を立てよ。海軍と協議し、兵士と物資の輸送を準備する。負傷者の移送も優先せよ」
「承知いたしました」
「また、王都のアルフォンスへ連絡せよ。政府機関の移転準備を正式に命じる」
軍務卿は深く頭を下げた。
私は、陛下の決断を聞きながら、胸の奥が重くなるのを感じていた。
王都を放棄する。
その言葉が、これほど重いものだとは思わなかった。
◇
翌日から、プラネヴィアでは撤退準備が始まった。
王軍の兵士たちは、引き続き防衛線を維持しながら、後方の物資を整理している。港では海軍士官たちが輸送船の手配を進め、兵士や負傷者、武器、魔石などをどの順番で運ぶかについて協議していた。
私は軍務卿から、補給物資の整理と輸送計画の確認を手伝うよう命じられた。
港湾担当者たちは、既に王軍の撤退を想定した計画を用意していたらしい。海軍が制海権を維持していることもあり、輸送そのものは不可能ではないという。
ただし、二万五千前後の兵士を移動させるとなれば、簡単な仕事ではなかった。
負傷者を優先して移送し、戦闘可能な部隊は防衛線を維持する。武器や魔石、食料なども運ばなければならないが、すべてを一度に積み込むことはできない。港に船が集中すれば荷役作業が滞るため、入出港の順序も調整する必要があった。
さらに、敵軍に撤退を察知されれば、プラネヴィアへの攻撃が激しくなる可能性もある。
私は海軍士官から説明を受けながら、輸送計画の複雑さに驚いていた。
「殿下。船があれば何でも運べるというわけではありません。積み込む順番を間違えれば、必要な物資が先に到着しないこともございます」
「なるほど……」
「また、兵士たちを一度に移動させることもできません。防衛線を維持する部隊と、先に移動する部隊を分ける必要があります」
私は頷いた。
これまで、王軍の撤退というものを、兵士たちが命令に従って移動することだと考えていた。
しかし、実際には違う。
誰を先に移動させるのか。どの部隊が最後まで残るのか。負傷者をどう運ぶのか。食料や武器をどの順番で積み込むのか。
そのすべてを考えなければ、軍は安全に撤退できないのだ。
私は、港に停泊する輸送船を見つめた。
グラニスクで敗北した王軍を支えてきた海軍が、今度は王軍を新たな防衛拠点へ運ぼうとしている。
王国海軍が制海権を維持していることが、どれほど重要なのかを改めて実感した。
◇
一方、王都マリアベルクでは、アルフォンス宰相が政府機関の移転準備を進めていた。
陛下から正式な命令が届くと、彼は重要文書や国庫資産、王国の印章などを整理し、メルキアへ移送する準備を開始したという。
王都からメルキアへ向かう場合、政府機関の人員や重要物資は陸路で移動する必要がある。王軍がプラネヴィアから海路で撤退するのとは異なり、街道の安全を確保しながら移動しなければならなかった。
また、王都には大勢の市民が暮らしている。
すべての市民を移住させることは不可能であり、避難を希望する者や、敵軍による報復を受ける恐れのある者を優先して退避させる必要があった。
アルフォンスは王都の治安維持と物資管理を続けながら、避難計画の調整を進めているという。
私はその報告を聞きながら、彼の仕事の大変さを思った。
前線では王軍が敵軍と戦っている。しかし、王都では別の戦いが続いているのだ。
王国政府を存続させるためには、重要な文書や資産を守るだけでなく、王都に暮らす人々の生活も考えなければならない。突然すべての役人が姿を消せば、市民は混乱し、治安も悪化するだろう。
アルフォンスは、そうした問題を一つずつ整理しながら、撤退の準備を進めていた。
私は、彼が王都に残っている理由を改めて理解した気がした。
◇
その日の夜、私はグスタフ陛下に呼ばれた。
王軍本営の天幕へ入ると、陛下は机の上に広げられた地図を眺めていた。プラネヴィアからメルキアへ向かう海上経路と、王都から北方へ続く街道が、それぞれ異なる印で示されている。
「フェルディナント。撤退準備は進んでいるか」
「はい。海軍と補給担当者たちが輸送計画を進めております。負傷者の移送を優先し、戦闘可能な部隊は防衛線を維持する予定です」
陛下は頷いた。
「よくやってくれている」
私は、少しだけ迷ってから尋ねた。
「陛下。王都を放棄することに、後悔はありませんか」
陛下は、すぐには答えなかった。
しばらく地図を見つめたあと、静かに口を開いた。
「後悔がないと言えば、嘘になるだろうな」
その言葉に、私は顔を上げた。
「マリアベルクは、王国の中心だ。私もあの街で生まれ、育ち、国王として多くの年月を過ごしてきた。あの街を敵に明け渡すことが、どれほど重い決断なのかは分かっている」
陛下は、少しだけ息を吐いた。
「だが、王都を守るために王国を失うわけにはいかぬ」
私は黙って聞いていた。
「王都で戦えば、多くの市民が犠牲になる。王軍も消耗し、最悪の場合、王国政府そのものが失われるかもしれぬ」
陛下は地図の北方を指した。
「メルキアへ移れば、まだ戦い続けられる。海軍も残っておるし、王国を支えてくれる者たちもいる。今は、王国を存続させることを優先せねばならぬ」
私は頷いた。
グラーフェンベルク伯爵は、領地を守るためにハインリヒへ帰順した。
そして、陛下は王国を守るために王都を放棄する。
どちらも、何かを守るために別の何かを捨てる決断だった。
しかし、その責任の大きさは違う。
伯爵は自分の領地と領民を守ろうとしている。陛下は王国全体を守ろうとしているのだ。
「フェルディナント」
陛下が、私の名を呼んだ。
「王冠を戴く者は、勝利を命じるだけでは足りぬ。敗れたときに、何を残すかを決めねばならぬ」
私は、静かに頷いた。
王太子となってから、私は何度も国王の責任について考えてきた。
しかし、王都を放棄するという決断を目の当たりにして、その重さを改めて感じていた。
国王とは、すべてを守れる存在ではない。
守れないものがあるときに、何を優先し、何を諦めるのかを決めなければならない存在なのだ。
◇
翌朝、私はプラネヴィアの港を訪れた。
埠頭には王国海軍の輸送船が停泊し、兵士や作業員たちが物資の積み込みを進めていた。負傷兵を乗せた荷車が港へ向かい、軍医たちは移送の順番を確認している。別の場所では、武器や魔石の入った木箱が運び込まれ、海軍士官たちが積載量を確認していた。
港の向こうには、穏やかな海が広がっている。
その海を越えた先に、メルキア半島がある。
王軍は、まだ戦っていた。
プラネヴィアの防衛線では、ユリアナ率いる魔導騎士団と残存部隊が敵軍の進撃を食い止めている。王国海軍もまた、海上補給路を守り続けていた。
しかし、王軍はここを離れることになった。
グラーフェンベルク伯爵の離反によって、南側の迂回路が敵軍に開かれた。プラネヴィアで戦い続けても、王都を守ることはできなくなってしまったのだ。
私は、港で働く人々の姿を見つめた。
彼らは王軍が撤退することを知っている。それでも、与えられた仕事を続けていた。兵士たちもまた、撤退命令を受け入れ、次の戦いに備えている。
王都を放棄するという決断は、敗北を認めることでもある。
しかし、それは戦いを諦めることではなかった。
グスタフ陛下は、王都を守るために王国を失うことを選ばなかった。
王国を残すために、王都を捨てる。
私は、メルキアへ向かう輸送船を見つめながら、その決断の重さを胸に刻んでいた。




