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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章7話】内側から崩れる盾


 プラネヴィアの防衛戦が始まってから、十日余りが経過していた。


 王軍は依然として防衛線を維持している。ハインリヒ軍とザクセンブルク軍は幾度となく攻撃を仕掛けてきたが、河川と湿地を利用した防御陣地を突破することはできずにいた。主要な渡河地点には土塁や防御柵が築かれ、魔導士たちが防御結界を展開することで、敵軍の進撃を阻んでいる。


 もちろん、王軍が一方的に勝っているわけではない。敵軍の攻撃を撃退するたびに負傷者が増え、兵士たちの疲労も蓄積していた。昼間に激しい戦闘があった場所では、夜になると土塁の補修や障害物の設置が行われ、休息を取れる兵士の数も限られている。それでも、グラニスクでの敗北を経験した王軍にとって、六万五千の敵軍を相手に戦線を維持できているという事実は大きかった。


 港には王国海軍の輸送船が次々と入港し、食料や武器、魔石を運び込んでいる。キーリアから出撃した反乱派艦隊は既に撃破されており、海上補給路は王国海軍によって守られていた。負傷兵は後方へ移送され、代わりに各地から補充兵が送り込まれてくる。陸上で敵軍を押し返すことはできなくても、王軍にはまだ戦い続けるだけの力が残されていた。


 私は軍務卿から任された補給状況の確認にも、ようやく慣れてきたところだった。


 各部隊から提出される報告書を確認し、不足している物資があれば補給担当者へ伝える。負傷兵の収容状況を把握し、必要に応じて港湾担当者との調整にも立ち会う。王太子として華々しい仕事とは言えないかもしれないが、こうした作業が防衛線の維持に欠かせないことは、既に十分理解していた。


 ただ、仕事に慣れたからといって、気持ちまで落ち着いたわけではない。


 報告書には毎日のように負傷者の数が記され、消費された魔石や武器の補充量が並んでいる。数字を追っているだけでは見落としてしまいそうになるが、その一つひとつが戦場で起きている出来事と結びついていた。負傷者が増えれば野戦病院の負担が大きくなり、魔石の消費が増えれば、それだけ激しい魔法戦が行われたということになる。


 以前の私なら、こうした数字を見ても、単に軍の運営に必要な情報として受け止めていただろう。しかし、グラニスクで多くの兵士が命を落とす光景を見てからは、報告書の数字が以前とは違って見えるようになっていた。


 そんなある日のことだった。


「殿下。軍務卿閣下がお呼びです」


 私は補給担当者から受け取った報告書を机へ置き、王軍本営へ向かった。


 天幕へ入ると、グスタフ陛下と軍務卿が地図を挟んで話し合っていた。二人の表情は、いつもより険しいように見えた。


「フェルディナント。来たか」


「はい、陛下。何か問題が?」


 軍務卿が私へ一枚の報告書を差し出した。


「魔導士団の一部で、不穏な動きが確認されております」


 私は思わず報告書へ目を落とした。


 そこには、魔導士団に所属する複数の将校が、軍の方針に対して公然と不満を表明していることが記されていた。中には、命令の妥当性について上官と激しく言い争った者や、配置転換に対して強い反発を示した者もいるらしい。


「戦闘が続いていますから、疲労による不満でしょうか」


「それも一因ではあるでしょう。しかし、問題はもう少し根深いようです」


 軍務卿は、報告書の一節を指した。


「彼らの中には、ハインリヒ殿下の軍制改革を支持している者がおります」


 私は顔を上げた。


 ハインリヒ殿下の改革論については、グラニスクでの会談でも聞いている。王国の軍制や財政を立て直し、諸侯の権限を制限することで、国王を中心とした統治体制を強化するというものだった。


 その考え方自体には、一定の合理性がある。王国の制度には古くから続く慣習が多く、必ずしもすべてが現在の状況に適しているとは限らない。能力より家格が重視される場面があることも、軍に所属する者たちにとっては不満の種になるのだろう。


 しかし、だからといって王軍の将校が反乱軍の指導者を支持することは、別の問題ではないのだろうか。


「魔導士団の将校たちが、ハインリヒ殿下を支持しているのですか」


「全員ではありません。ごく一部ですが、以前から軍制改革を求めていた者たちです。能力に応じた昇進や、魔導士の待遇改善を期待しているようです」


 陛下は黙って話を聞いていた。


 軍務卿が続ける。


「また、陛下がハインリヒ殿下を王太子に指名せず、フェルディナント殿下を後継者とされたことについて、不満を持つ者もおります」


 私は、思わず言葉を失った。


 王太子に選ばれたことが、誰かの不満につながっている。


 考えてみれば、当然のことなのかもしれない。私は王族ではあるものの、もともと王位を継ぐ立場ではなかった。ハインリヒ殿下が長年にわたって王位継承者の一人として見られてきたことを考えれば、突然私が王太子になったことを受け入れられない者がいても不思議ではない。


「……私が王太子になったことも、原因なのですね」


 私がそう言うと、陛下は首を振った。


「お前が責任を感じることではない。王太子を誰にするかは、国王である私が決めたことだ」


 その言葉はありがたかったが、だからといって不満が消えるわけではない。むしろ、私自身が王軍内部の分裂に関係しているという事実を、否応なく意識させられた。


 私は、改めて報告書へ目を落とした。


 王軍の内部にも、ハインリヒ殿下の考え方を支持する人々がいる。陛下の統治を正しいと信じている者ばかりではなく、別の未来を望む者もいるのだ。


 その事実を、私は初めて明確に突きつけられた気がした。


     ◇


 翌日、さらに詳しい報告が届いた。


 ハインリヒ陣営から、王軍の将校や諸侯へ帰順を呼びかける書簡が送られているという。


 その一部を入手した軍務卿は、王軍本営で内容を説明した。


「ハインリヒ殿下は、自らを正統な王位継承者と主張しております。陛下の統治を批判する一方、帰順した者については地位と財産を保障すると約束しています」


 軍務卿は、書簡の写しを私へ渡した。


 そこには、王国の改革が必要であること、現在の統治体制では諸外国に対抗できないこと、そしてハインリヒ殿下こそが王国を立て直せる人物であることが、整然と記されていた。文章は感情的な非難に終始するものではなく、王国が抱える問題を列挙し、それに対する改革案を示す形になっている。


 さらに、魔導士団の将校たちへ向けた内容も含まれていた。


 軍制改革後は能力に応じた昇進を進め、魔導士の地位を高める。旧来の家格や人脈に左右されない登用制度を整え、魔導士たちがその能力にふさわしい役割を担えるようにするという。


 私は、その文章を読みながら複雑な気持ちになった。


 書かれていることだけを見れば、必ずしも間違っているとは思えない。軍制の改革や能力に応じた昇進は、王国にとって必要なことかもしれない。魔導士たちが自分たちの能力を正当に評価してほしいと願うことも、理解できる。


 しかし、そのために内戦を起こし、ザクセンブルク軍を招き入れたことまで正当化できるわけではない。


「……よく考えられていますね」


 私が呟くと、軍務卿は頷いた。


「ハインリヒ殿下は、将校たちが何に不満を持っているのかを理解しておられます。単に帰順を命じるのではなく、彼らが帰順する理由を用意しているのです」


 私は、もう一度書簡へ目を落とした。


 そこには、ハインリヒ殿下の名前が記されている。


 グラニスクで顔を合わせたとき、彼は自分の主張を理路整然と語っていた。父である陛下に対しても、感情を荒らげることなく、王国の未来について論じていた。


 あのときの言葉が、今は王軍内部の人々を動かすために使われている。


 彼は、戦場で敵を倒すだけではなく、敵軍の中にいる人々の心まで動かそうとしているのだ。


 陛下は、しばらく書簡を眺めていた。


「不満を持つ者を、すべて処罰するわけにはいかぬな」


「はい。しかし、実際に敵軍と連絡を取っている者がいる可能性もございます」


「意見を持つことと、命令に背くことは別だ。事実関係を確認せよ。ただし、疑いだけで将校を拘束することは許さぬ」


 軍務卿は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 私は陛下の判断を聞きながら、少しだけ安心していた。


 王軍の中に異なる考えを持つ者がいるからといって、その全員を敵と見なすわけにはいかない。そんなことをすれば、今度は王軍自身が内部から壊れてしまうだろう。


 しかし、同時に不安も感じていた。


 実際に敵軍と連絡を取っている者がいるのだとすれば、彼らは王軍の配置や防御計画を知っている可能性がある。防衛線を維持するために必要な情報が、そのまま敵軍へ伝わってしまうかもしれないのだ。


 ハインリヒ殿下は、戦場で敵軍を打ち破るだけでなく、王軍内部の不満を利用しようとしている。


 その手腕は、グラニスクで見せた軍事的な判断とは異なる意味で恐ろしいものだった。


     ◇


 私は魔導騎士団の陣地を訪れ、ユリアナ・シュタイナーに話を聞くことにした。


 彼女は正式に魔導騎士団長へ任命されて以来、部隊の再編成と前線の防衛に追われている。グラニスクでの損害は大きかったが、残された騎士たちは彼女の指揮のもとで戦い続けていた。


「フェルディナント殿下。何かございましたか」


「少し、魔導兵団のことで聞きたいことがあってね」


 私がそう言うと、ユリアナはすぐに事情を察したようだった。


「魔導士団の一部で、不穏な動きがある件ですね」


「知っていたのですか」


「はい。魔導騎士団にも、いくつか報告が届いております」


 彼女は私を天幕へ案内し、現在の状況を説明してくれた。


 魔導士団の中には、ハインリヒ殿下の改革論を支持する者が以前から存在していたらしい。特に、軍の昇進制度や魔導士の待遇について不満を持つ将校たちの間では、改革への期待が強かったという。


 ただし、それは必ずしも反乱への賛同を意味するものではなかった。


 軍制改革を望む者の中にも、国王への忠誠を守りながら制度の改善を求めている者はいる。むしろ、そうした者たちの方が多いのだという。


「ユリアナ殿は、どう考えているのですか」


 私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。


「王国の制度に改善すべき点があることは、私も否定いたしません。魔導士の登用制度についても、見直す余地はあると思っております」


「では、ハインリヒ殿下の考え方にも理解できる部分があると?」


「はい。ですが、それと今回の反乱は別の問題です」


 ユリアナは、静かな口調で続けた。


「王国のあり方について、異なる考えを持つ者がいることは理解しております。ですが、今この防衛線を放棄すれば、その先に暮らす民が戦火にさらされます」


 私は黙って彼女の言葉を聞いていた。


「私たち魔導騎士団は、王国の民を守るために存在しています。グラニスクで前団長が命を落としたのも、撤退する兵士たちを守るためでした。私は、その責任を忘れるつもりはありません」


 彼女の表情には、迷いがなかった。


 私は、リカルティールが彼女を信頼していた理由を改めて理解した気がした。


 ユリアナは、ただ命令に従うだけの軍人ではない。自分が何のために戦うのかを理解し、その責任を果たそうとしている。王国の制度に問題があることを認めながらも、だからといって目の前の民を危険にさらしてよいとは考えていないのだ。


「魔導騎士団の皆さんは、大丈夫なのでしょうか」


「少なくとも、私が把握している限りでは問題ありません。部下たちとも話をしておりますし、各部隊の状況も確認しています」


 彼女はそう答えたあと、少しだけ表情を曇らせた。


「ただ、魔導士団については、私の権限が及びません。団内で何が起きているのか、すべてを把握することは難しいでしょう」


 私は頷いた。


 王軍は一つの軍隊であっても、すべての部隊が同じ考えで動いているわけではない。ましてや、魔導士団と魔導騎士団では任務も組織文化も異なる。


 ユリアナが魔導騎士団の統制を維持できているからといって、魔導士団でも同じことができるとは限らないのだ。


 そのことが、今は何より不安だった。


     ◇


 数日後、敵軍の攻撃が突然弱まった。


 それまでハインリヒ軍とザクセンブルク軍は、複数の渡河地点で攻撃を繰り返していた。しかし、その日は小規模な偵察や牽制が行われるだけで、大規模な攻撃は確認されなかった。


 王軍の兵士たちは、久しぶりに落ち着いた時間を過ごすことができた。


 前線では土塁の補修が進められ、損傷した防御柵も取り替えられている。負傷兵の後方移送も順調に進み、補充兵の受け入れや部隊の再編成にも時間を割けるようになった。


 しかし、軍務卿は警戒を解かなかった。


「敵軍が再編成を進めている可能性もあります。偵察を強化し、予備兵力を待機させてください」


 陛下も同意した。


「攻撃が弱まったからといって、安心するわけにはいかぬな」


 私は、地図を見ながら敵軍の動きを確認していた。


 偵察部隊からの報告によれば、ハインリヒ軍の一部が特定の渡河地点へ移動しているという。そこは魔導士団の一部部隊が防御を担当している場所だった。


「この地点に兵力を集めているのですか」


「そのようです。ただし、敵軍が実際に攻撃するかどうかは分かりません」


 軍務卿は、地図上の渡河地点を指した。


「念のため、周辺の予備兵力を増やしておきます。魔導士団にも防御態勢の確認を命じております」


 私は頷いた。


 しかし、報告書を見つめているうちに、嫌な予感が強くなっていった。


 ハインリヒ殿下は、王軍内部の不満を利用しようとしている。そして今、敵軍は魔導士団の一部が守る地点へ兵力を集めている。


 偶然なのだろうか。


 私はその疑問を軍務卿へ伝えたが、彼は既に同じ可能性を考えていたようだった。


「殿下のお考えは分かります。しかし、現時点では確証がありません。部隊の配置を変更すれば、かえって現地の指揮系統を混乱させる恐れもあります」


 軍務卿は地図へ目を落とした。


「だからこそ、予備兵力を待機させているのです。何が起きても対応できるようにしておかなければなりません」


 私は頷いた。


 敵軍の動きが不自然だからといって、すべての将校を疑うわけにはいかない。しかし、何も起きないと信じているわけにもいかない。


 王軍は、そうした難しい状況に置かれていた。


     ◇


 異変が起きたのは、翌朝のことだった。


 夜明けとともに、ハインリヒ軍が渡河地点への攻撃を開始した。


 王軍本営には、敵軍が進撃を始めたという報告が次々と届いていた。軍務卿は各部隊へ防御態勢を取るよう命じ、予備兵力の配置を確認している。


 私は地図上の敵軍の動きを追いながら、伝令の報告を聞いていた。


「敵軍、渡河地点へ接近!」


「魔導士団へ防御結界の展開を命じよ」


 軍務卿の命令が伝えられた。


 通常なら、魔導士団が防御結界を展開し、敵の攻撃を防ぐ。その間に弓兵や魔導士たちが反撃を加え、渡河を試みる敵軍を阻止するはずだった。


 しかし、しばらくして届いた報告は、予想外のものだった。


「防御結界が展開されておりません!」


 軍務卿が顔を上げた。


「どういうことだ」


「現地部隊との連絡が混乱しております。魔導士団の一部が命令に従っていない模様です!」


 私は思わず息を呑んだ。


 軍務卿はすぐに確認を命じたが、その間にも敵軍は渡河地点へ接近していた。防御結界が展開されなければ、王軍の歩兵たちは敵の魔法攻撃を直接受けることになる。これまで何度も敵軍の攻撃を食い止めてきた防衛線が、突然その機能を失おうとしていた。


 やがて、別の伝令が天幕へ駆け込んできた。


「報告! 魔導士団の一部が陣地を離脱しております!」


「離脱だと?」


「はい! 複数の将校が部下を率いて防御陣地を放棄し、敵軍側へ移動しております!」


 天幕の中が、一瞬静まり返った。


 私は、伝令の言葉を理解するまでに時間がかかった。


 魔導士団の一部が、敵軍へ移動している。


 つまり、王軍の兵士たちが、ハインリヒ殿下の側へ寝返ったということだ。


「……帰順したのか」


 陛下が低い声で尋ねた。


「そのようです! 敵軍は既に渡河を開始しております!」


 軍務卿は、すぐに地図へ目を落とした。


「予備兵力を投入せよ。周辺の部隊には防御線の維持を命じる。魔導騎士団にも出動を要請しろ」


 陛下も頷いた。


「混乱している部隊を立て直せ。忠誠を維持している魔導士たちまで敵と見なすな。現地の指揮官に状況を確認させよ」


 命令が次々と伝えられた。


 しかし、事態は既に深刻だった。


 防御結界が展開されなかった渡河地点では、敵軍が王軍の防御線へ侵入し始めていた。周辺の部隊は突然の事態に混乱し、どの魔導士が味方なのかを確認しながら戦わなければならなくなっていた。


 中には、離反した将校の命令に従わず、その場に留まって戦うことを選んだ魔導士もいたという。しかし、同じ部隊の中で命令が分かれたことで、現地の指揮系統は大きく乱れていた。


 私は、地図上の渡河地点を見つめた。


 プラネヴィアの防衛線は、外からの攻撃に耐えてきた。しかし今、その一角が内側から崩れようとしていた。


     ◇


 ユリアナ率いる魔導騎士団が出動したのは、それから間もなくのことだった。


 彼女は予備兵力とともに突破された地点へ向かい、敵軍の進撃を阻止しようとした。


 王軍本営には、戦況を知らせる伝令が次々と駆け込んできた。


「魔導騎士団、敵前衛と交戦!」


「周辺の歩兵部隊、防御陣地を再編成中!」


「敵軍、渡河地点の確保を試みております!」


 軍務卿は報告を整理しながら、必要な部隊へ命令を出していた。


 しかし、敵軍は王軍の防御陣地について詳しく知っているようだった。


 離反した魔導士たちは、王軍の部隊配置や防御結界の運用を把握している。敵軍はその情報を利用し、守りの薄くなった地点へ攻撃を集中させていた。


「……こちらの配置を知られているのか」


 私が呟くと、軍務卿は頷いた。


「その可能性が高いでしょう。離反した将校たちは、我々の防御計画を知っております」


 私は地図へ目を落とした。


 敵軍は渡河地点を突破しただけでなく、その先の防御陣地へ向かって進撃している。王軍の予備兵力が到着するまでの時間を利用し、できるだけ深く侵入しようとしているのだろう。


 やがて、ユリアナの部隊から報告が届いた。


「魔導騎士団、敵軍の進撃を一時阻止! ただし、敵軍の増援が続いております!」


 軍務卿は、すぐに地図上の配置を確認した。


「このまま前線を維持すれば、魔導騎士団が孤立する恐れがあります」


 陛下は、厳しい表情で地図を見つめていた。


「これ以上、前線へ兵を送り込んでも消耗するだけだ。後方の予備陣地へ下がらせよう」


「承知いたしました」


 軍務卿は、すぐに撤退命令を出した。


 王軍は突破された地点の防御陣地を放棄し、後方へ移動を開始した。ユリアナ率いる魔導騎士団は、その撤退を援護するために戦い続けていた。


 敵軍は追撃を試みたが、王軍は後方の予備陣地へ兵力を集め、再び防御態勢を整えた。河川沿いの防御線を一部失ったことで、以前ほど有利な地形を利用できなくなったものの、周辺の丘陵や既存の陣地を活用することで、敵軍の進撃を食い止めることには成功した。


 その日の夕方、ようやく戦闘は落ち着いた。


 王軍は防衛線の一部を失ったものの、プラネヴィア全体が突破されたわけではなかった。港湾施設も王軍の支配下にあり、海軍による補給は継続できる状態だった。


 しかし、代償は大きかった。


     ◇


 翌日、軍務卿から損害状況の報告が行われた。


「現時点で、前線において即応可能な兵力は、およそ三万と見込まれます」


 私は、思わず顔を上げた。


「三万……?」


 グラニスクから撤退した時点で、王軍は約四万の兵力を維持していた。


 そこから、さらに一万もの戦力を失ったことになる。


 もちろん、その全員が戦死したわけではない。魔導士団の一部離反に加え、今回の戦闘による死傷者、部隊の分断、負傷者の後方移送などが重なった結果だった。再集結できていない部隊もあり、今後の確認によって数字が変わる可能性もあるという。


 それでも、前線で戦える兵士が大きく減少したことに変わりはない。


「補充兵の到着は続いておりますが、損耗した部隊の再編成には時間が必要です。また、魔導士団の一部離反によって、防御結界の運用にも支障が出ております」


 軍務卿は、地図上の防衛線を指した。


「現在は後方の予備陣地で戦線を維持しております。しかし、これ以上の大きな損害を受ければ、プラネヴィアの防衛は困難になるでしょう」


 陛下は黙って報告を聞いていた。


 港では、今も王国海軍が物資を運び込んでいる。海上補給路は維持され、食料や武器が不足しているわけではない。負傷兵を後方へ移送することもできるし、各地からの補充兵も到着している。


 それでも、戦う兵士たちの忠誠まで、海軍が守ることはできなかった。


「……魔導騎士団の状況は?」


 陛下が尋ねた。


「ユリアナ団長の指揮のもと、戦線を維持しております。損害は出ておりますが、部隊の統制は保たれております」


 陛下は頷いた。


「よく持ちこたえてくれた。負傷者の治療を優先し、休息を取らせよ」


 私は、ユリアナの顔を思い浮かべた。


 彼女は、前任団長の死によって引き継いだ魔導騎士団を、今も守り続けている。部下たちの疲労や損害を抱えながらも、王軍の撤退を援護し、防衛線の再構築に尽力していた。


 しかし、彼女たちがどれほど奮戦しても、失われた戦力をすぐに取り戻すことはできない。


 王軍は、確実に追い詰められつつあった。


     ◇


 その夜、私はグスタフ陛下と二人で話す機会を得た。


 王軍本営の天幕には、いつものように地図が広げられていた。プラネヴィア周辺の防衛線には新しい印が書き込まれ、失われた陣地と現在の配置が示されている。


 私は、その地図を見つめながら口を開いた。


「……陛下。私は、裏切った将校たちが許せません」


 陛下は黙って私を見ていた。


「王国の制度に不満があることは理解できます。ハインリヒ殿下の改革を支持することも、考え方としては分かります。ですが、戦闘中に防衛線を放棄するなど……」


 私は、言葉を続けることができなかった。


 彼らが防御結界を展開しなかったことで、多くの兵士が命を落とした。敵軍の攻撃を受けた部隊には、何も知らずに戦っていた者たちもいたはずだ。


 自分たちの隣で戦っていた魔導士たちが、突然命令に従わなくなる。防御結界が展開されると信じていた兵士たちは、何が起きたのか理解する間もなく敵の攻撃を受けたのだろう。


 その光景を想像すると、胸の奥に怒りが込み上げてきた。


 陛下は、しばらく黙っていた。


「怒りだけで軍をまとめることはできぬ」


 やがて、静かにそう言った。


「もちろん、裏切りを許すつもりはない。彼らの行動によって、多くの兵士が危険にさらされたのだからな」


 陛下は地図へ目を落とした。


「だが、なぜ彼らがハインリヒに従ったのかを理解しなければ、同じことが繰り返される」


「……はい」


「王国には、さまざまな考えを持つ者がいる。私の統治を支持する者もいれば、不満を持つ者もいる。ハインリヒの改革に期待する者がいることも、理解しておかねばならぬ」


 私は、グラニスクでの会談を思い出した。


 ハインリヒ殿下は、王国の改革について理路整然と語っていた。彼の主張には、私にも理解できる部分があった。


 しかし、彼はその改革を実現するために内戦を起こし、ザクセンブルク軍を招き入れた。そして今度は、王軍内部の不満を利用して防衛線を崩した。


 私は、その政治的な手腕を恐ろしく感じていた。


「ハインリヒ殿下は、王国の人々が何を望んでいるのかを、よく理解しているのですね」


「……そうだな」


 陛下は、少し寂しそうに答えた。


「昔から、あれは人の心を読むことに長けていた。相手が何を望み、何を恐れているのかを見抜くことができた」


 陛下は、しばらく黙っていた。


「その力を、王国のために使ってくれればよかったのだがな」


 私は、何も言えなかった。


 陛下にとってハインリヒ殿下は、反乱軍の指導者であると同時に、自分の息子でもある。その息子が王国を分裂させ、多くの兵士を死なせている。


 国王としての怒りと、父親としての悲しみが、陛下の中でどのように折り合いをつけているのか、私には想像もできなかった。


「フェルディナント」


 陛下が、私の名を呼んだ。


「王冠を戴くということは、すべての者から愛されるという意味ではない。それでも、従う者も、従わぬ者も含めて、国を治めねばならぬのだ」


 私は、静かに頷いた。


 王太子になったとき、私は国王というものを、王国の頂点に立ち、命令を下す存在だと考えていた。しかし、今は少し違う。


 王国には、さまざまな考えを持つ人々がいる。国王を支持する者もいれば、反対する者もいる。そのすべてを力で従わせることはできないし、そうするべきでもないのだろう。


 それでも、王国を守らなければならない。


 私は、その責任の重さを、改めて感じていた。


     ◇


 翌朝、私はプラネヴィアの防衛線を訪れた。


 王軍は後方の予備陣地で防御を続けている。兵士たちは土塁を補修し、防御柵を設置し直していた。魔導士たちは残された戦力で防御結界を維持し、ユリアナ率いる魔導騎士団も各所の警戒にあたっている。


 港では、王国海軍が変わらず物資を運び込んでいた。


 食料や武器、魔石が次々と荷揚げされ、負傷兵たちは後方へ移送されている。海上補給路は今も守られており、王軍が戦い続けるための物資は届いていた。


 しかし、前線の兵士たちの表情には、以前とは違う不安が浮かんでいた。


 敵軍の攻撃を恐れているだけではない。


 隣で戦っている仲間が、本当に味方なのか。


 そんな疑念が、少しずつ軍の中へ広がっているように見えた。


 私は、土塁の上から防衛線を見渡した。


 グラニスクでは、敵軍の挟撃によって敗北した。プラネヴィアでは、地形と海軍の支援によって敵の攻撃を食い止めた。しかし、今度は王軍自身の内部から亀裂が生じている。


 防衛線はまだ維持されている。グスタフ陛下と軍務卿は指揮を執り続け、ユリアナ率いる魔導騎士団も忠誠を守っている。海軍もまた、王国を支えるために働き続けていた。


 それでも、以前と同じ強さを保っているわけではない。


 私は、遠くに見える敵軍の陣地を見つめた。


 外からの攻撃に耐えた盾は、内側から崩れ始めていた。


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