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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章6話】プラネヴィアの盾


 敗北した軍隊というものは、もっと無秩序なものだと思っていた。


 グラニスクからプラネヴィアへ続く街道を進みながら、私は何度もそんなことを考えていた。王軍は六万の兵力を率いて決戦に臨み、ハインリヒ殿下の反乱軍とザクセンブルク軍の挟撃を受けて敗北した。再集結できた兵力は、およそ四万。失われた二万の中には戦死者だけでなく、負傷者や捕虜、別方向へ撤退した部隊も含まれているが、それでも取り返しのつかない損害であることに変わりはない。


 しかし、王軍は崩壊していなかった。


 街道には長い行軍の列が続き、各部隊は指揮官の命令に従って移動している。負傷兵を乗せた荷車が通るときには道を空け、後方から追いついてきた部隊は所属を確認したうえで隊列へ加わっていた。装備を失った兵士や、仲間に肩を借りながら歩く者も少なくなかったが、少なくとも誰もが勝手な方向へ逃げ出しているわけではない。


 もちろん、行軍の雰囲気は出征したときとはまったく違っていた。


 兵士たちの表情には疲労が色濃く浮かび、会話も少ない。ときおり、行方の分からない仲間について尋ねる声が聞こえた。負傷者を運ぶ荷車の上からは苦しげなうめき声が漏れ、道端では軍医が歩けなくなった兵士の容体を確かめている。隊列の中には、所属部隊の軍旗を失った兵士たちもいた。彼らは近くの将校に事情を説明し、指示された集結地点へ向かっていたが、その表情からは疲労だけでなく、仲間を失った悲しみも感じられた。


 私はその光景を見るたびに、グラニスクでの敗北を思い出した。


 今朝まで隣にいた仲間が、もう戻ってこない。そうした兵士たちが、この行軍の列には何千人もいるのだろう。私自身、出征前に言葉を交わした若い兵士の無事を確かめられないままだった。故郷へ帰ったら弟に剣を教えるのだと笑っていた彼も、この長い行軍のどこかにいるのかもしれないし、グラニスクの戦場に取り残されているのかもしれない。


「殿下。間もなくプラネヴィアの外縁に入ります」


 近衛兵の言葉に、私は顔を上げた。


 前方には緩やかな丘陵が続き、その向こうに街の建物が見え始めていた。遠くには水面が広がり、陽光を受けて白く輝いている。潮の香りを含んだ風が吹き抜け、長い行軍で乾いていた喉に、少しだけ心地よい空気が流れ込んできた。


 プラネヴィアは、王国でも有数の港町だった。


 内陸から続く街道と海上交通が交わる場所にあり、商業都市として栄えてきた歴史を持つ。軍事上も重要な拠点であり、港には王国海軍の施設が設けられているという。私はこれまで王都で暮らすことが多く、プラネヴィアを訪れた経験はほとんどなかったが、その名前は商業や軍事に関する講義で何度も耳にしていた。


 街へ近づくにつれて、私はあることに気づいた。


 港の方角から、絶え間なく荷車が行き来しているのだ。


 積まれているのは食料や木材、武器の入った箱らしい。荷車の列は街の外まで続き、兵士や作業員たちが忙しそうに荷物を運んでいる。街道沿いには一時的な集積所が設けられ、到着した物資を部隊ごとに振り分ける作業も行われていた。


 グラニスクで敗北したばかりだというのに、プラネヴィアでは既に次の戦いに向けた準備が始まっていた。


     ◇


 プラネヴィアの港を初めて見たとき、私は思わず足を止めた。


 埠頭には大小さまざまな船が停泊し、その周囲を大勢の人々が行き交っている。軍艦の姿もあれば、物資を満載した商船もあり、荷役作業員たちは次々と木箱や樽を陸へ運び出していた。帆柱が林立する港内には船員たちの掛け声が響き、荷車の車輪が石畳を鳴らしながら行き交っている。


 埠頭の一角には王国海軍の軍旗が掲げられ、士官たちが船舶の入出港を指揮していた。港の入口付近には軍艦が停泊し、外海から入ってくる船を確認している。港湾施設の周囲にも兵士が配置され、物資の輸送と警備が並行して進められていた。


 驚いたのは、その規模だった。


 荷揚げされた物資は、港の倉庫へ運ばれるものもあれば、そのまま荷車へ積み替えられて街の外へ向かうものもある。食料、医薬品、武器、矢、魔石、築城に使う木材や工具まで、あらゆるものが次々と運び込まれていた。倉庫の前では補給担当者が帳簿を片手に数量を確認し、作業員たちへ荷物の行き先を指示している。


「……随分と準備が早いのですね」


 私がそう言うと、同行していた補給担当の将校が頷いた。


「海軍には、グラニスクでの戦闘以前から輸送準備を進めてもらっておりました。万一、王軍が後退する場合に備えた措置です」


「では、敗北する前から?」


「はい。戦いは、勝つことだけを考えて準備するわけにはまいりませんので」


 私は感心して港を見渡した。


 グラニスクでは、陛下と軍務卿が南方のザクセンブルク軍を警戒し、予備兵力を配置していた。それでも敗北を避けられなかったが、王軍は最悪の事態を想定して次の拠点も準備していたのだ。戦場での判断だけでなく、その後に軍を立て直すための準備もまた、軍を率いる者に求められる仕事なのだろう。


 埠頭の奥では、兵士たちが輸送船から下船していた。


「あちらは?」


「後方から送られてきた補充兵です。各地の守備隊から抽出された部隊や、新たに動員された兵士たちになります」


 グラニスクで損耗した部隊を補うため、王国各地から兵士が集められているらしい。下船した兵士たちは将校の指示に従って整列し、所属部隊や配属先の確認を受けていた。中にはまだ新しい軍装を身につけた若い兵士もおり、戦場から戻ってきた者たちとは対照的な姿に見えた。


 一方、別の埠頭では負傷兵を乗せた荷車が船へ向かっていた。担架に乗せられた兵士たちが慎重に運び込まれ、軍医や衛生兵がその様子を見守っている。船内には療養のための場所が設けられているらしく、負傷者を受け入れる担当者が一人ずつ名前と容体を確認していた。


「重傷者は、後方の港へ移送いたします。こちらの野戦病院だけでは、すべての負傷者を収容しきれませんので」


「……なるほど」


 私はようやく理解した。


 王国海軍の役割は、敵の軍艦と戦うことだけではない。


 兵士たちが食べる食料を運び、戦うための武器を届け、負傷した者を安全な場所へ移す。さらに、新たな兵士を前線へ送り込むこともできる。陸軍が四万もの兵士を維持するには、毎日膨大な量の物資が必要になる。そのすべてを陸路だけで運ぼうとすれば、どれほど多くの荷車や馬が必要になるのだろう。


 しかし、船であれば、一度に大量の物資を運ぶことができる。


 もちろん、港へ運び込んだだけでは兵士たちの手元に届かない。そこから倉庫へ運び、必要な数量を確認し、各部隊へ配分する作業が必要になる。それでも、海上輸送によって大量の物資を安定して送り込めることは、王軍にとって何より大きな支えになっていた。


 私は港に並ぶ船を見つめながら、王国を支える力が陸軍だけではないことを実感していた。


     ◇


 プラネヴィアへ到着した翌日、王軍本営では防衛計画についての軍議が開かれた。


 グスタフ陛下を中心に、軍務卿、ローゼンハイム公爵、各部隊の指揮官たちが集まっている。私も王太子として出席し、地図を見ながら説明を聞いていた。


「敵軍は、グラニスクでの戦闘後に再編成を進めております。ハインリヒ軍は約三万五千、ザクセンブルク軍は約三万。合わせて六万五千程度と推定されます」


 軍務卿の説明に、諸将の表情が引き締まった。


 王軍は約四万。補充兵の到着が始まっているとはいえ、現時点で敵軍との兵力差は大きい。しかも、王軍はグラニスクでの敗北によって熟練した兵士や将校を失っている。単純に人数を補えば、以前と同じ戦力に戻るというわけではなかった。


「この兵力差で再び野戦を挑むことは避けるべきです。我々はプラネヴィア周辺の地形を利用し、防御に徹します」


 軍務卿は地図上の河川を指した。


 プラネヴィアの内陸側には河川と湿地が広がっており、大軍が一度に進撃できる場所は限られている。特に主要街道が通る渡河地点は、軍勢の移動に欠かせない場所だった。河川そのものは決して越えられないほど大きなものではないが、周囲の地形が複雑なため、大軍が隊列を維持したまま進撃できる場所は限られているという。


「敵軍がこちらへ進撃する場合、いくつかの渡河地点を通過しなければなりません。そこへ防御陣地を構築し、敵の進撃を阻止します」


「敵が別の場所から迂回してきた場合は?」


 私が尋ねると、軍務卿は別の地点を示した。


「湿地帯を大軍で通過することは困難です。ただし、小規模な部隊であれば迂回する可能性があります。そのため、偵察部隊を配置し、必要に応じて魔導騎士団を投入します」


 私は頷いた。


 グラニスクでは、広い平野で両軍が正面からぶつかり合った。兵力で優勢だった王軍は、敵を押し込むことができたものの、ザクセンブルク軍の介入によって側面を突かれた。


 しかし、今回は違う。


 河川や湿地を利用すれば、敵軍は兵力のすべてを同時に投入できない。王軍は限られた場所を守ることで、兵力差を補うことができる。敵がどれほど大軍であっても、狭い渡河地点に一度に送り込める兵士の数には限界があるのだ。


「陛下。港湾施設についても、海軍と調整を進めております」


 補給担当の将校が報告した。


「食料、医薬品、武器、矢に加え、魔石や築城用資材の輸送も継続しております。負傷者の後方移送も順次進めており、港の収容能力にはまだ余裕がございます」


 陛下は頷いた。


「海上補給路が維持できる限り、我々は戦い続けられるということだな」


「はい。ただし、敵軍もその重要性は理解しているはずです。海軍には、輸送船団の護衛を強化してもらっております」


 軍務卿が補足した。


「ハインリヒ派の海軍が、キーリアの港に集結しているとの報告もございます。海上での妨害には警戒が必要です」


 私は地図の海岸線へ目を向けた。


 陸上では王軍が劣勢に立たされている。しかし、海上では事情が違うらしい。


 王国海軍の主力は依然としてグスタフ陛下に忠誠を誓っており、主要な軍港も王軍側が確保しているという。キーリアに集まった反乱派艦隊は、王国海軍の一部にすぎなかった。


 陛下は地図を見つめながら、静かに命じた。


「陸の防衛線は我々が守る。海は海軍に任せよう。港を失わぬ限り、王軍は戦える」


     ◇


 防御陣地の構築が始まると、プラネヴィア周辺は巨大な工事現場のようになった。


 兵士たちは河川沿いに土塁を築き、木材を使って防御柵を設置している。街道の要所には障害物が置かれ、魔導士たちは防御魔法を展開しやすい場所を確認していた。橋の周辺では通行路を確保しながら防御施設を整え、敵軍が渡河を試みた際に集中して攻撃できるよう、弓兵や魔導士の配置も検討されていた。


 私は軍務卿から、補給物資の配分と負傷兵の収容状況を確認する仕事を任された。


 最初は、王太子である私がそのような仕事をしてよいのかと思った。しかし、軍務卿によれば、各部隊の状況を把握することは指揮官にとって重要な仕事なのだという。


「兵士が何を必要としているのかを知らずに、軍を動かすことはできません。殿下にも、実際に見ていただくのがよろしいでしょう」


 そう言われてしまえば、断る理由はなかった。


 私は補給担当者とともに港の倉庫を回り、食料や医薬品の在庫を確認した。倉庫には大量の物資が積まれていたが、担当者たちはそれでも不足する可能性を心配していた。


「食料は十分にあるように見えますが」


「四万の兵士が毎日食べますからな。港へ届いた物資を保管するだけではなく、必要な部隊へ届けなければなりません」


 担当者は苦笑した。


「食料があっても、調理する人員や燃料が足りなければ兵士は食べられません。医薬品があっても、軍医が足りなければ治療は進みません。物資というものは、必要な場所へ届いて初めて役に立つのです」


 私は、その言葉を忘れないようにしようと思った。


 考えてみれば、王都で暮らしていた頃の私は、食事が用意されることも、必要なものが手元へ届くことも、当たり前のように受け止めていた。しかし、それらは誰かが準備し、運び、管理してくれていたからこそ成り立っていたのだ。


 戦場では、その当たり前のことが命に直結する。


 食料が届かなければ兵士は空腹のまま戦わなければならず、医薬品が不足すれば助かるはずの命を失うこともある。魔石が不足すれば魔導士たちの運用にも支障が出るし、武器の補修ができなければ戦える兵士の数そのものが減ってしまう。


 野戦病院を訪れたときも、同じようなことを感じた。


 負傷兵たちは次々と運び込まれ、軍医たちは治療に追われている。比較的軽傷の者は簡単な処置を受けて部隊へ戻っていくが、重傷者は長期間の療養が必要になる。負傷の程度によって収容場所が分けられ、後方へ移送できる者から順に港へ運ばれていた。


 私は担架に乗せられた兵士たちを見送りながら、補給担当者に尋ねた。


「海軍がなければ、どうなっていたのでしょうか」


「陸路での移送に頼るしかありません。ですが、それでは時間も人員も必要になりますし、輸送できる人数にも限界がございます」


「では、海軍が負傷者を運んでくれることで、野戦病院にも余裕ができるのですね」


「そのとおりです。もちろん、負傷者を安全に送り届けるためには、海上の安全が確保されていなければなりませんが」


 私は頷いた。


 戦争は、戦場だけで行われているわけではない。


 港で働く人々も、船を動かす船員たちも、負傷者を治療する軍医たちも、皆が王軍を支えている。彼らの働きがなければ、どれほど勇敢な兵士が集まっていても、軍として戦い続けることはできないのだ。


     ◇


 防衛線の構築が進む中、私は魔導騎士団の陣地を訪れた。


 ユリアナ・シュタイナーは、残存部隊の再編成に追われていた。グラニスクでの戦闘によって魔導騎士団にも少なくない損害が出ており、負傷者の治療や部隊の再配置が必要になっていた。


「フェルディナント殿下。わざわざお越しいただき、恐縮です」


「いや、こちらこそ忙しいところを申し訳ない。部隊の状況を確認したくてね」


 ユリアナは私を天幕へ案内し、現在の状況を説明してくれた。


 魔導騎士団は、戦死した団長に代わって彼女が指揮を執っている。部隊の統制は維持されているものの、熟練した騎士を失った影響は大きく、再編成には時間が必要だという。特に、長年同じ部隊で戦ってきた者たちが失われたことで、部隊間の連携を改めて確認しなければならない場面も増えているらしい。


「ユリアナ殿も、少しは休まれた方がよいのではありませんか」


 私がそう言うと、彼女は小さく首を振った。


「休むべき者には休息を取らせています。ですが、指揮を執る者がいなくなるわけにはまいりません」


 その言葉に、私は返す言葉を失った。


 彼女自身も疲れているはずだった。軍装にはまだ戦闘の痕跡が残り、目元にも疲労が浮かんでいる。それでも、部下たちの前では弱音を吐くことができないのだろう。


「……団長のことは、残念でした」


 私がそう言うと、ユリアナはしばらく黙っていた。


「立派な方でした。私が副団長として務めてこられたのも、あの方のおかげです」


 彼女は静かに答えた。


「ですが、今は残された部下たちを守らなければなりません。団長も、それを望まれると思います」


 私は頷いた。


 リカルティールが彼女を信頼していた理由を、少し理解できた気がした。


 その日の午後、グスタフ陛下はユリアナを本営へ呼び、魔導騎士団長への正式な任命を告げた。


「ユリアナ・シュタイナー。お前を魔導騎士団長に任ずる。団を立て直し、王軍の盾となれ」


「謹んで拝命いたします」


 ユリアナは深く頭を下げた。


 華々しい昇進ではなかった。尊敬していた上官の死によって引き継いだ、重い役職だった。それでも彼女は、その責任を受け入れたのだ。


     ◇


 ハインリヒ軍とザクセンブルク軍がプラネヴィアへ接近したのは、防衛陣地の構築が進んでから数日後のことだった。


 敵軍は王軍の防衛線を突破しようとしたが、河川と湿地によって進撃路が限られている。最初の攻撃は、主要街道が通る渡河地点へ集中した。


 王軍は、あらかじめ築いた防御陣地で敵を迎え撃った。


 魔導士団が防御魔法を展開し、敵の攻撃を防ぐ。その間に弓兵や魔導士たちが反撃を加え、渡河を試みる敵軍の前進を阻止した。橋へ近づこうとした敵兵は、王軍の集中攻撃を受けて足を止め、後続の部隊も思うように進めなくなっていた。


 私は王軍本営から、その様子を見守っていた。


 グラニスクでは、広い平野で両軍が正面からぶつかり合った。しかし、今回は敵軍が渡河地点へ集中せざるを得ず、兵力のすべてを同時に投入することができない。王軍はその利点を生かし、敵の攻撃を食い止めていた。


「敵前衛、後退を開始!」


 伝令の報告に、軍務卿が頷いた。


「追撃は不要だ。防御陣地を維持せよ」


 陛下も同意した。


「敵を深追いするな。今は守ることが重要だ」


 私は、戦場の向こうで後退する敵軍を見つめた。


 グラニスクでは、王軍が敵を押し込んでいた。しかし、今度は逆に、敵軍の攻撃を受け止めている。兵力では劣っているにもかかわらず、王軍は戦えていた。


 それは、私にとって大きな驚きだった。


     ◇


 プラネヴィアでの攻防は、その後も続いた。


 敵軍は複数の渡河地点で攻撃を繰り返し、ときには夜間に小規模な部隊を送り込んで王軍の防御線を探ろうとした。主要街道への攻撃が失敗すると、今度は別の渡河地点へ兵力を移動させ、王軍の対応を試すような動きを見せることもあった。


 しかし、王軍も無策ではない。


 偵察部隊が敵の動向を監視し、危険な場所にはユリアナ率いる魔導騎士団が増援に向かう。必要に応じて一部の陣地を放棄することもあったが、防衛線全体が崩れることはなかった。


 グスタフ陛下と軍務卿は、敵の攻撃に合わせて兵力を移動させ、各部隊の負担を調整していた。ある地点で敵軍の攻撃が激しくなれば、別の地点から予備兵力を移動させる。しかし、グラニスクでの経験を踏まえ、予備兵力を使い切るような配置は避けていた。


 王軍の兵士たちにも、少しずつ自信が戻ってきたようだった。


 グラニスクでは敗北した相手を、今度は食い止めている。


 もちろん、王軍にも損害は出ていた。防御に成功していても、戦闘が続く限り負傷者は増える。魔導士たちの魔力にも限界があり、休息を取らせながら交代で前線へ投入する必要があった。負傷者の中には、治療を受ければ再び戦線へ戻れる者もいたが、長期間の療養が必要な者も少なくなかった。


 それでも、王軍は戦線を維持していた。


 そして、その戦いを支えていたのが、港から絶え間なく運び込まれる物資だった。


 食料、医薬品、武器、魔石。海軍の輸送船が到着するたびに、補給担当者たちは忙しく働き、必要な部隊へ物資を送り届けていた。港には負傷兵を後方へ運ぶ船も入港し、各地からの補充兵も少しずつ到着している。


 しかし、敵軍もその重要性を理解していた。


 ある日の軍議で、海軍から新たな報告が届いた。


「キーリアの港より、反乱派艦隊が出撃したとのことです」


 軍務卿が顔を上げた。


「規模は?」


「複数の軍艦が確認されております。プラネヴィアへの輸送船団を狙っている可能性が高いとのことです」


 私は地図の海岸線へ目を向けた。


 ハインリヒ殿下は、陸上で王軍を突破できないと判断し、海上補給路を断とうとしているのだろう。陸軍がどれほど強固な防御陣地を築いても、食料や武器が届かなくなれば戦い続けることはできない。


 陛下は報告を聞くと、静かに尋ねた。


「海軍の対応は?」


「既に護衛艦隊が迎撃に向かっております。輸送船団は安全な海域で待機させ、敵艦隊の排除を優先するとのことです」


「うむ。任せよう」


 陛下の返答は、驚くほど落ち着いていた。


 私は少し不安になったが、海軍について詳しい将校は自信を持って説明してくれた。


「殿下。王国海軍の主力は、今も陛下に忠誠を誓っております。キーリアの反乱派艦隊も侮ることはできませんが、艦艇数と練度では我が方が優勢です」


 私は頷いた。


 それでも、海の向こうで何が起きているのかを直接確かめることはできない。王軍本営では、海軍からの報告を待つしかなかった。


     ◇


 海軍から勝報が届いたのは、それから二日後のことだった。


 軍議の最中、海軍士官が本営へ姿を現し、グスタフ陛下の前で敬礼した。


「陛下。キーリアより出撃した反乱派艦隊を撃破いたしました」


 その言葉に、軍議に集まっていた将校たちの表情が変わった。


「戦果は?」


「敵艦隊は複数の艦艇を喪失し、残存艦もキーリア方面へ撤退しております。現時点で、敵艦隊が再び大規模な作戦を実施することは困難と判断されます」


 軍務卿が尋ねた。


「輸送船団の損害は?」


「護衛艦に若干の損傷がございますが、輸送船は全船健在です。既にプラネヴィアへの入港を開始しております」


 陛下は大きく頷いた。


「よくやった。これで兵を飢えさせずに済む」


 私は、その言葉を聞いて初めて理解した。


 陛下が喜んでいるのは、敵艦を沈めたことではない。四万の兵士たちへ、明日も食事を届けられることなのだ。


 海軍士官は、さらに報告を続けた。


「今後も輸送船団の護衛を継続し、プラネヴィアへの海上補給路を維持いたします。敵艦隊の再出撃にも備え、キーリア方面の監視を強化しております」


「頼んだぞ」


「はっ!」


 士官が退室すると、軍議の空気は明らかに明るくなった。


 陸上では敵軍の攻撃が続いている。しかし、海上では王軍が勝利した。グラニスクでの敗北以来、初めて届いた明確な勝報だった。


 その日の午後、私は港へ向かった。


 埠頭には王国海軍の軍艦が停泊し、船員たちが損傷した箇所の修理を進めていた。船体には戦闘の痕跡が残っていたが、軍旗は堂々と掲げられている。甲板では船員たちが忙しく働き、次の出航に備えて装備や物資の点検を行っていた。


 その隣では、輸送船から物資が次々と運び出されていた。


 食料の樽や木箱が荷車へ積み込まれ、兵士たちがそれを防衛線へ運んでいく。別の船からは補充兵が下船し、後方へ移送される負傷兵たちが慎重に乗船していた。


 私は、しばらくその光景を眺めていた。


 海軍は敵艦隊を撃破した。しかし、その勝利の意味は、敵の軍艦を沈めたことだけではない。


 この港で続いている営みそのものを守り抜いたのだ。


 陸軍が戦場で敵を食い止めている間、海軍はその背後にある補給路を守っている。どちらか一方が欠けても、プラネヴィアの防衛線を維持することは難しくなるだろう。


 私は、港の向こうに広がる海を見つめた。


 王国は、まだ戦える。


 そのことを、ようやく実感できた気がした。


     ◇


 プラネヴィアでの攻防が始まってから、さらに数日が経過した。


 王軍は防衛線を維持している。しかし、敵軍を撃退して戦争を終わらせるだけの戦力はなかった。


 ある日の軍議で、軍務卿は現状を冷静に説明した。


「我々は敵を食い止めることはできます。しかし、敵軍を撃破することは困難です」


 陛下は頷いた。


「分かっておる。だが、ここを突破されれば、王都への道が開けてしまう」


「はい。現状では、防衛線を維持しながら増援を待つしかありません」


 軍務卿は地図へ目を向けた。


 王国内の諸侯へ増援を求めることも考えられるが、既に王国は二つに分かれている。中立を保っている諸侯も多く、すぐに大規模な援軍を集めることは難しい。さらに、ザクセンブルク王国が参戦したことで、戦争は王国内だけの問題ではなくなっていた。


 そこで、軍務卿が一つの提案をした。


「陛下。フロンティア大公国への援軍要請を検討すべきではないでしょうか」


 軍議の空気が変わった。


 陛下は、すぐには答えなかった。


「……連合憲章がある」


「承知しております。しかし、ザクセンブルクがハインリヒ殿下に加担した時点で、連合の秩序は既に破られております」


「それと、我々が域外の軍勢を招き入れることは別の問題だ。諸王国は、必ずしも同じ解釈をせぬだろう」


 私は二人のやり取りを聞きながら、かつて魔法学院で学んだゲルマニアの歴史を思い出していた。


 神聖ゲルマニア帝国。


 かつてゲルマニア地域を広く支配していたその帝国は、長い年月の末に崩壊した。フロンティア大公国はそれに先立って帝国から離脱し、独自の道を歩んでいる。


 一方、残された諸王国は、帝国の崩壊後も完全に関係を断ったわけではなかった。互いの独立を認めながら、共通の秩序を維持するために結成したのが、ゲルマニア諸王国連合である。


 その中でも、マリアベル王国とザクセンブルク王国は二大強国として知られていた。


 もっとも、連合といっても、各国の上に皇帝が君臨していた時代とは違う。共通の軍隊も、各国の王に命令できる中央政府も存在しない。連合憲章によって一定の義務を負うものの、実際の運営は各国の合意に委ねられている。


 そして、その憲章には、連合外の国家による軍事介入を制限する規定があった。


 加盟国が域外の国家から軍事援助を受ける場合には、原則として連合の承認を必要とする。これは、外部の大国が連合内部の争いへ介入し、諸王国の独立を脅かすことを防ぐための取り決めだった。


 フロンティア大公国は、かつて神聖ゲルマニア帝国の一部でありながら、現在はゲルマニア諸王国連合に属していない。


 つまり、そこへ援軍を求めることは、単に隣国へ助けを求めるという話では済まないのだ。


「ザクセンブルクは、ハインリヒ殿下を正統な国王として承認する可能性がございます」


 軍務卿が続けた。


「そうなれば、彼らは自らの介入を、正統な国王からの要請に応じたものだと主張するでしょう」


「そして、我々がフロンティアの軍勢を招き入れれば、連合憲章に違反したと非難するわけか」


「はい。もちろん、こちらにも反論の余地はございます。ザクセンブルクの軍事介入そのものが、連合の秩序を脅かす行為です。しかし、他の加盟国がどちらの主張を支持するかは分かりません」


 陛下は、しばらく黙っていた。


 ゲルマニア諸王国連合は、極めて緩やかな連合体である。加盟国の意見が必ずしも一致するわけではなく、共通の決定を下すまでには時間がかかることもある。


 今の王軍には、その時間がなかった。


 しかし、連合憲章を無視してフロンティア大公国の援軍を招き入れれば、これまで中立を保っていた諸王国が、マリアベル王国を非難する可能性もある。


 戦場で勝つための判断が、外交の場では王国を不利な立場へ追い込むかもしれないのだ。


「……検討はしておこう」


 やがて、陛下はそう答えた。


 軍務卿は深く頭を下げたが、それ以上の進言はしなかった。


 私は、陛下がすぐに決断できない理由を、少しずつ理解し始めていた。


     ◇


 その夜、私はグスタフ陛下に呼ばれた。


 王軍本営の天幕へ入ると、陛下は机の上に広げられた地図を眺めていた。そこにはプラネヴィア周辺だけでなく、王国全土と周辺諸国の位置が記されている。


「フェルディナント。少し話がある」


「はい、陛下」


 陛下は椅子を勧めると、地図の東方を指した。


「フロンティア大公国のことだ」


 私は頷いた。


「軍務卿の進言ですね」


「うむ。軍事的に考えれば、援軍を求めるべきなのだろう。ザクセンブルクがハインリヒに味方した以上、我々だけで戦い続けるのは容易ではない」


 陛下は、しばらく地図を見つめていた。


「だが、外国の軍勢を王国へ招き入れることには、相応の代償が伴う」


「……はい」


「連合憲章の問題もある。ザクセンブルクが既に介入しているとはいえ、それを理由に我々まで域外の軍勢を招き入れれば、諸王国の反発を招くかもしれぬ」


 私は、軍議で聞いた説明を思い出した。


 神聖ゲルマニア帝国が崩壊したあとも、諸王国は完全に独立したまま、緩やかな連合を維持してきた。その秩序を守るための取り決めが、今は王国の行動を制約している。


「それに、援軍を送る以上、向こうも何らかの見返りを求めるだろう。それが何になるのか、今は分からぬ」


 陛下は静かに続けた。


「王国を守るために援軍を求めた結果、王国の独立を損なうことになっては本末転倒だ」


 私は黙って話を聞いていた。


 ハインリヒ殿下は、ザクセンブルク軍を王国内へ招き入れた。


 その行為を私は許せないと思っている。


 しかし、王軍もまた、外国の援軍を必要としている。


 もちろん、事情は同じではない。ハインリヒ殿下は王位を奪うために外国軍を利用したが、陛下は王国を守るために援軍を求めようとしている。


 それでも、外国の力を借りることに危険があるという点では変わらない。援軍を受け入れたあと、その軍勢がいつまで王国内に留まるのか、どのような条件で撤退するのか。そうした問題を考えれば、単に兵力が増えるからといって喜んでよい話ではなかった。


「それに……」


 陛下は言葉を切った。


 私は顔を上げた。


「リカルティールが、あの国にいる」


 その声には、国王としてではなく、父親としての感情が滲んでいた。


「七年前、あの子は王宮を飛び出した。私は長い間、あの子が無事でいることだけを願っていた。そして、ようやく自分の望む暮らしを手に入れたのだ」


 陛下は、静かに息を吐いた。


「その国を、我々の戦争に巻き込むことになる」


 私は、何と答えればよいのか分からなかった。


 フロンティア大公国が援軍を派遣すれば、当然、戦争へ関与することになる。大公国の兵士たちが王国へ送られ、戦場で命を落とす可能性もある。


 そして、その国にはリカルティールが暮らしている。


 彼女は王族としての義務を離れ、自分の意思で冒険者として生きている。七年前に王宮を飛び出した彼女は、今では大公国の冒険者都市で、自分の居場所を見つけているのだという。


 そんな彼女が、再び王国の戦争に関わることになったら、どう思うだろうか。


「陛下は、リカルティールを心配しておられるのですね」


「……ああ」


 陛下は、少しだけ苦笑した。


「国王としては、情けないことなのかもしれぬな」


「そんなことはありません」


 私は、思わず答えていた。


 グラニスクでの会談で、ハインリヒ殿下はリカルティールの自由を認めたことを国王としての過ちだと批判していた。


 しかし、私はそうは思わない。


 陛下は国王であると同時に、父親でもある。娘の幸せを願うことが、どうして間違いだと言えるのだろう。


「私は、陛下がリカルティールを大切に思っておられることを、間違いだとは思いません」


 陛下は、しばらく私を見つめていた。


「……そうか」


 そして、再び地図へ目を向けた。


「だが、王国を守らねばならぬことも事実だ。いつまでも迷っているわけにはいかぬ」


「はい」


「もう少し、考えさせてくれ」


 私は頷いた。


 簡単に答えを出せる問題ではないことは、私にも分かっていた。


 陛下は国王として王国を守らなければならない。しかし、父親として娘の自由も守りたい。さらに、王国の独立とゲルマニア諸王国連合の秩序を守る責任もある。


 そのすべてが、必ずしも同じ方向を向いているわけではないのだ。


     ◇


 翌朝、敵軍は再び攻撃を開始した。


 主要街道の渡河地点へ反乱軍が押し寄せ、王軍の防御陣地へ魔法攻撃を加える。王軍は防御魔法を展開し、敵の進撃を食い止めた。別の地点ではザクセンブルク軍が渡河を試みたが、湿地帯に足を取られて進撃が遅れ、王軍の反撃を受けて後退した。


 私は王軍本営から、その光景を見守っていた。


 グラニスクで敗北した四万の王軍は、今も戦っている。


 兵力では劣り、補給にも限界がある。それでも、王国を守るために踏みとどまっている。敵軍が攻撃を繰り返すたびに負傷者は増え、兵士たちの疲労も蓄積していくが、王軍は防衛線を維持していた。


 港では海軍の輸送船が物資を運び込み、後方では負傷者の治療が続いている。補充兵が到着し、各部隊は損耗した戦力を少しずつ回復させていた。王軍の将校たちは部隊の配置を調整し、補給担当者たちは必要な物資を前線へ送り届けている。


 私は、ようやく理解し始めていた。


 王国を守るというのは、必ずしも敵を倒して勝利することだけではない。今ここで敵を食い止め、後方の街や村に暮らす人々を守ることにも意味がある。


 そして、その戦いを支えているのは、前線の兵士たちだけではない。


 海軍の船員、港で働く人々、補給担当者、軍医、各地から物資を集める役人たち。彼らの働きがあって初めて、王軍は戦い続けることができる。


 王国とは、国王と軍隊だけで成り立っているものではないのだ。


 私は、目の前に広がる防衛線を見つめた。


 王軍は勝利していない。しかし、敗北もしていない。グラニスクで敗れた軍勢は、プラネヴィアで再び立ち上がり、六万五千の敵軍を相手に戦線を維持していた。


 その背後では、王国海軍が海を守り、必要な物資を届け続けている。


 陸では劣勢に立たされても、王国の力が失われたわけではない。


 私は、そう信じたかった。


 だが、戦いがいつまで続くのかは分からない。


 敵軍は依然として大きな戦力を保有しており、王軍が攻勢に転じられる見込みも立っていなかった。さらに、フロンティア大公国への援軍要請という問題も、結論が出ないまま残されている。


 それでも、プラネヴィアの防衛線は今日も維持されている。


 王国を守る盾は、まだ砕けていなかった。


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