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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章5話】グラニスク会戦


 戦争が始まる日の朝というものは、もっと騒々しいものだと思っていた。


 怒号が飛び交い、兵士たちが慌ただしく走り回り、誰もが緊張した面持ちで武器を握りしめている。少なくとも、軍事について学んでいた頃の私は、そのような光景を想像していた。しかし、実際に目にした王軍の宿営地は、拍子抜けするほど普段と変わらなかった。


 夜明け前に目を覚ました私は、寝台から身を起こすと、しばらく天幕の天井を眺めていた。昨夜はほとんど眠れなかったはずなのに、不思議と眠気は感じない。昨日の会談で聞いたハインリヒ殿下の言葉や、父上との会話が、頭の中で何度も繰り返されていた。


 王族としての義務。国王としての責任。そして、父親としての愛情。


 どれも大切なものなのだろう。しかし、それらが必ずしも同じ方向を向いているわけではないことを、私は昨日初めて理解したように思う。


 天幕の外へ出ると、冷たい朝の空気が頬に触れた。


 東の空はまだ薄暗く、宿営地のあちこちでは篝火が燃えている。兵士たちは火を囲んで朝食を取り、装備を点検し、馬の世話をしていた。鎧の留め具を確かめる者もいれば、隣の兵士と他愛のない話をして笑っている者もいる。これから命を懸けて戦うというのに、随分と落ち着いているものだと感心してしまった。


 もっとも、彼らにとっては、戦いの前に食事を取り、装備を整えることも仕事の一部なのだろう。普段と変わらない動作を繰り返すことで、余計な緊張を抑えているのかもしれない。実際、よく見れば、冗談を交わしている兵士の手元にも、どこか落ち着かない様子がうかがえた。


 私は兵士たちの間を歩きながら、出征前に出会った一人の青年を思い出していた。


 故郷には両親と弟がいると話していた、あの若い兵士である。戦いが終わったら帰郷し、弟に剣を教えるのだと笑っていた彼も、今頃はどこかで戦闘の準備をしているはずだった。


 しかし、私は彼の名前を知らない。所属する部隊さえ聞いていなかった。


 六万人もの軍勢の中から一人の兵士を探し出すことなど、できるはずもない。私はしばらく周囲を見渡したあと、王軍本営へと足を向けた。


 グスタフ陛下は、既に軍装を整えていた。


 軍務卿や諸将が集まった卓上には、グラニスク周辺の地図が広げられている。伝令が持ち込んだ報告をもとに、各部隊の配置や敵軍の動向を最終確認しているところだった。


「南方の状況は?」


「国境付近に展開するザクセンブルク軍に、大きな動きは確認されておりません。引き続き警戒を継続しております」


「うむ。予定どおり、南方の予備兵力は維持せよ」


 陛下の指示を受け、軍務卿が頷いた。


 私は地図へ目を向けた。


 王軍の主力は、グラニスクの平野を挟んで反乱軍と向かい合っている。中央に正規軍、左右に諸侯軍を配置し、魔導兵団がそれぞれの部隊を支援する構成だ。近衛兵団は国王本営の警護に加え、緊急時の予備戦力として控えている。


 一方、南方には相応の予備兵力が残されていた。


 ザクセンブルク王国は中立を宣言しているものの、国境付近に軍勢を集めているという報告が届いていたためである。王国同士の関係を考えれば、軽々しく敵と決めつけるわけにはいかない。しかし、万一の事態に備えておく必要はあった。


 陛下も軍務卿も、その点を十分に理解しているらしい。南方へ配置された部隊は、反乱軍との決戦に加わらず、国境方面の監視と不測の事態への対応を任されていた。


「フェルディナント。来たか」


「おはようございます、陛下」


「今日は私の側を離れるな。戦況を見て学ぶことも大切だが、勝手な行動は慎むように」


「承知いたしました」


 私は素直に頭を下げた。


 戦場で活躍したいなどという気持ちは、少しもない。むしろ、できることなら安全な場所で戦いが終わるのを待っていたかった。しかし、王太子という立場になった以上、そうもいかない。


 陛下は私の返事を聞くと、再び地図へ視線を戻した。その横顔には、昨日の会談で見せた父親としての苦悩はなかった。


 今の陛下は、六万の軍勢を率いる国王だった。


     ◇


 夜が明けると、王軍は各部隊の配置を終えた。


 緩やかな丘陵に囲まれたグラニスクの平野には、整然と並ぶ兵士たちの姿が広がっている。槍を携えた歩兵、騎乗した将校、部隊ごとに掲げられた軍旗。その向こうには、反乱軍の陣地が見えた。


 六万という数字は、書類の上ではそれほど実感の湧くものではなかった。しかし、実際に軍勢を目の前にすると、その規模に圧倒される。


 見渡す限り兵士が並び、遠くの部隊などは人の顔を見分けることもできない。軍旗の位置や伝令の報告がなければ、どこに何の部隊がいるのかさえ分からなくなりそうだった。王都で閲兵式を見たことは何度もあるが、実際の戦場に並ぶ軍勢は、それとはまったく違う迫力を持っていた。


 王軍本営は、戦場を見渡せる小高い場所に設けられている。


 私は陛下の少し後ろに立ち、軍務卿と諸将が交わす言葉に耳を傾けていた。


「魔導士団の配置、完了しております」


「魔導騎士団も所定の位置に展開しました。団長より、いつでも行動可能との報告です」


 伝令の言葉に、軍務卿が頷く。


 魔導兵団は、王軍の中でも特に重要な戦力だった。


 魔導士団は広域攻撃や防御魔法によって前線を支援し、魔導騎士団は武器と魔法を組み合わせた戦闘能力を生かして、敵軍の突破や味方部隊の援護を担う。魔法の存在によって戦場の様相は大きく変わるが、それだけで勝敗が決まるわけではない。


 どれほど優秀な魔導士であっても、無制限に魔法を使えるわけではない。魔核の出力や魔力の消耗には限界があり、広い戦場のすべてを一度に守ることもできない。だからこそ、通常の軍勢との連携が重要になるのだという。


 ほどなくして、魔導騎士団長が本営へ姿を現した。


 長年王軍に仕えてきたというその人物は、年齢を重ねた落ち着きと、歴戦の軍人らしい厳しさを備えていた。傍らには、副団長のユリアナ・シュタイナーが控えている。


「陛下。魔導騎士団、配置を完了いたしました」


「うむ。必要に応じて軍務卿の指示に従え。敵の突破を許すな」


「はっ」


 団長は力強く答え、ユリアナとともに本営を後にした。


 彼女は私に気づくと、軽く会釈をしていった。


 リカルティールが幼い頃から親しくしていた人物であり、七年前には王宮で彼女の護衛にも携わっていたという。そんなユリアナが、今は王軍の一員として戦場に立っている。


 リカルティールがこの光景を見たら、何と言うだろうか。


 彼女は王族としての義務を離れ、遠いフロンティア大公国で冒険者として暮らしている。王宮へ戻ってきたときの生き生きとした表情を思い出すと、今の私たちの姿がひどく遠いものに感じられた。


 そんなことを考えているうちに、軍務卿が陛下へ向き直った。


「陛下。全部隊、準備が整いました」


 陛下は平野の向こうに広がる反乱軍を見つめた。


 その軍勢のどこかに、ハインリヒ殿下がいる。


 昨日まで同じ天幕で言葉を交わしていた父と息子が、今日は互いに軍勢を率いて向かい合っているのだ。


「……始めよ」


 陛下が命じた。


 伝令が走り、王軍の各所で軍旗が動く。やがて、前進を告げる角笛が平野に響き渡った。


 グラニスク会戦が始まった。


     ◇


 戦いは、遠距離からの攻撃によって始まった。


 両軍の弓兵が矢を放ち、魔導士たちが攻撃魔法を撃ち込む。平野のあちこちで土煙が上がり、魔法による閃光が走った。遠くで轟音が響くたびに、兵士たちの隊列がわずかに乱れるのが見える。


 防御魔法が展開された場所では、飛来した攻撃が光の壁に阻まれる。しかし、すべての攻撃を防げるわけではない。防御の及ばない場所では兵士たちが倒れ、後方から負傷者を運び出す者の姿が見えた。


 やがて、両軍の歩兵が接触した。


 遠くから聞こえていた金属音や叫び声が、少しずつ大きくなる。槍を構えた兵士たちが密集し、互いの隊列を押し合っていた。そこへ魔法による攻撃が加わり、戦線の一部が崩れたかと思えば、後方から新たな部隊が進み出て穴を埋める。


 私は本営から戦場を眺めていたが、何が起きているのか、ほとんど分からなかった。


 軍旗が前進したかと思えば、別の場所では後退している。兵士たちが密集している場所では、どちらが優勢なのかさえ判然としない。戦場全体を見渡せる場所にいるはずなのに、目の前で起きている出来事の意味を理解できないことが、ひどくもどかしかった。


 それでも、伝令たちは次々と本営へ駆け込んできた。


「中央第二陣、敵前衛と交戦を開始!」


「右翼の諸侯軍より報告! 敵の魔導士部隊による攻撃を受け、前進が遅れております!」


「魔導士団、中央への支援を開始しました!」


 軍務卿は報告を受けるたびに地図へ視線を落とし、部隊の配置を確認する。必要に応じて予備兵力の移動や魔導兵団の支援を命じ、伝令を送り出していた。


 私は、その様子を見ながらようやく理解した。


 戦場で国王や将軍が行うのは、目の前の敵を倒すことではない。どこで何が起きているのかを把握し、限られた兵力を適切な場所へ動かすことなのだ。


 しかも、報告が届くまでには時間がかかる。


 軍務卿が地図を見て判断を下しても、その命令が現場へ届く頃には、状況が変わっている可能性もある。伝令が途中で敵の攻撃を受けることもあれば、部隊が既に移動していて命令を届けられないこともあるだろう。


 六万の軍勢を動かすというのは、私が想像していた以上に難しい仕事だった。


「中央の進撃が鈍いな」


 陛下が口を開いた。


「はい。敵の抵抗が予想以上に激しく、前衛の一部が足止めされております」


「ハインリヒめ。よく鍛えておる」


 陛下の声には、わずかな苦々しさが混じっていた。


 反乱軍は、兵力で劣っているにもかかわらず、容易には後退しなかった。中央部では部隊を交代させながら王軍の攻撃を受け止め、左右では局所的な反撃を繰り返している。魔導士の支援も的確で、王軍が突破しかけた場所へ素早く戦力を集中させていた。


 ハインリヒ殿下は、決して無謀な戦いを仕掛けているわけではなかった。


 自らの軍勢をよく把握し、王軍の攻撃を食い止めるために必要な手を打っている。反乱軍の指揮官たちも、彼の命令に従って整然と動いているようだった。


 昨日の会談で語っていた、軍制の改革や国家の統一。


 その言葉が、単なる理想論ではないことを、私は目の前の戦場で思い知らされていた。


     ◇


 戦闘が始まってから、かなりの時間が経過した。


 王軍は兵力で優勢に立っているものの、反乱軍の抵抗は依然として激しい。中央では幾度も攻撃を繰り返し、ようやく敵の前衛を押し込んだところだった。


 軍務卿は、地図の上に置かれた駒を動かしながら説明した。


「敵中央は、かなりの損害を受けております。もう一押しできれば、防御線を崩せる可能性がございます」


「だが、こちらの損害も増えておる」


「はい。このまま戦闘が長引けば、双方とも消耗が激しくなるでしょう」


 陛下は腕を組み、しばらく地図を見つめていた。


 そこへ、南方の警戒部隊から報告が届いた。


「ザクセンブルク軍に大きな動きはありません。国境付近での展開を継続しております」


 軍務卿は報告を確認し、陛下へ向き直った。


「陛下。南方に配置した予備兵力の一部を中央へ投入することを進言いたします」


 私は思わず顔を上げた。


「南方の兵を動かすのですか?」


 口を挟むつもりはなかったのだが、つい声が出てしまった。


 軍務卿は私を見たあと、陛下の許しを得て説明を続けた。


「すべてを引き抜くわけではございません。警戒に必要な兵力は残します。しかし、現状では南方の部隊を待機させたまま、中央の戦闘が長引いております」


「ザクセンブルクが動く可能性は?」


「否定はできません。ただ、現時点で越境の兆候は確認されておりません。また、敵中央を突破できれば、反乱軍全体の戦線を崩すことが可能です」


 軍務卿は地図上の反乱軍中央を指した。


「ここを突破すれば、敵は左右の部隊を維持できなくなります。そうなれば、ハインリヒ軍は撤退を余儀なくされるでしょう。戦いを早期に終わらせることができれば、南方の情勢が悪化する前に主力を再配置することも可能です」


 私は黙って地図を見つめた。


 確かに、説明には筋が通っている。


 南方への警戒を完全に解くわけではない。必要な兵力を残しつつ、中央の戦闘へ増援を送る。それによって戦いを早く終わらせられるのであれば、双方の損害も抑えられるかもしれない。


 しかし、ザクセンブルク軍が本当に動かないという保証はない。


 陛下も同じことを考えているのだろう。しばらく地図を見つめたあと、南方の部隊配置を改めて確認した。


「中央へ転用した場合、南方にはどれほど残る」


「監視と初動の防御に必要な兵力は確保できます。ただし、三万規模の軍勢が本格的に進攻してきた場合、長時間の防御は困難です」


「……そうか」


 陛下は短く答えた。


 反乱軍の抵抗は予想以上に強い。このまま消耗戦を続ければ、王軍の損害も増えていく。南方への警戒を維持することは重要だが、そのために目の前の勝機を逃せば、戦争そのものが長引く可能性もあった。


 どちらを選んでも危険は残る。


 陛下は、しばらく考え込んでいたが、やがて頷いた。


「よかろう。ただし、南方の監視は続けよ。異変があれば、直ちに報告させるのだ」


「はっ!」


 命令が伝えられ、南方の予備兵力の一部が中央へ移動を始めた。


 しばらくすると、王軍の攻勢が目に見えて強まった。


 中央の前衛が再び前進し、魔導士団の支援を受けた部隊が反乱軍の陣地へ迫る。敵も必死に抵抗していたが、増援を受けた王軍の勢いを止めることはできなかった。


「敵中央、後退を開始!」


「中央第三陣、敵陣地の一部を制圧しました!」


 相次ぐ報告に、本営の空気が変わった。


 軍務卿は慎重な表情を崩さなかったものの、戦況が好転していることは明らかだった。


「陛下。敵中央の防御線が崩れ始めております」


「追撃を急がせるな。隊列を維持したまま前進せよ」


「承知いたしました」


 陛下は、勝利を確信した様子を見せなかった。


 しかし、私は胸の奥に安堵が広がるのを感じていた。


 このまま反乱軍を押し切ることができれば、戦いは終わる。ハインリヒ殿下を捕らえ、王国を再び一つに戻せるかもしれない。


 もちろん、多くの犠牲が出ていることは分かっている。それでも、これ以上戦いが長引くよりはよいはずだった。


 私は、平野の向こうで後退を始めた反乱軍の軍旗を見つめた。


 勝てる。


 そう思った。


 その直後だった。


     ◇


「南方より急報!」


 伝令が本営へ駆け込んできた。


 その声には、先ほどまでの報告とは明らかに異なる緊迫感があった。


「ザクセンブルク軍、国境を越えて進軍を開始! 我が軍の南方警戒部隊へ接近しております!」


 軍務卿が顔を上げた。


「規模は?」


「現在確認できているだけでも二万を超えます! 後続を含めれば、三万に達する見込みです!」


 私は耳を疑った。


 三万。


 反乱軍とは別に、それほどの軍勢がこちらへ向かっているというのか。


「……やはり動いたか」


 陛下は低く呟いた。


 軍務卿は即座に地図へ視線を落とし、南方に残した警戒部隊の配置を確認した。


「南方部隊へ、防御態勢を取るよう命じよ。中央へ移動中の予備兵力にも、可能な限り転進を指示する!」


「はっ!」


 伝令が走り去る。


 しかし、続いて届いた報告は、さらに悪いものだった。


「敵中央、反撃を開始!」


「反乱軍の予備兵力が前進しております! 我が軍中央部隊、激しい攻撃を受けています!」


 軍務卿の表情が険しくなった。


 中央へ投入した予備兵力は、既に反乱軍との戦闘に加わっている。そこから部隊を引き抜けば、今度は中央の戦線が危うくなる。しかし、南方から迫るザクセンブルク軍を放置するわけにもいかない。


「……ハインリヒめ」


 陛下が、噛みしめるように言った。


 私はその言葉を聞いて、ようやく気づいた。


 反乱軍は、王軍の攻撃を必死に食い止めていた。


 中央の戦線が崩れそうになっても、予備兵力を投入して抵抗を続けた。その結果、王軍は勝機をつかむために、南方へ備えていた兵力の一部を中央へ回した。


 そして、その瞬間を待っていたかのように、ザクセンブルク軍が動いた。


 偶然ではない。


 ハインリヒ殿下は、最初からこの展開を狙っていたのだ。


 もっとも、反乱軍の後退がすべて偽装だったわけではないだろう。実際に多くの兵士が倒れ、陣地の一部を失っている。王軍の攻勢があと少し強ければ、ザクセンブルク軍が到着する前に戦線が崩壊していた可能性もある。


 ハインリヒ殿下は、その危険を承知のうえで戦っていたのだ。


 自軍に損害を出しながら王軍を引きつけ、南方の警戒兵力を減らさせる。そして、あらかじめ手を結んでいた外国軍を投入する。


 それが、彼の用意していた勝利への道筋だった。


「陛下。南方の防御線を構築します。魔導騎士団にも増援を要請いたします」


「許す。だが、中央を崩されてはならぬ。各部隊へ、現在の戦線を維持するよう伝えよ」


「はっ!」


 命令が次々と発せられた。


 王軍は、まだ戦っていた。


 しかし、先ほどまで感じていた勝利への期待は、いつの間にか消え失せていた。


     ◇


 ザクセンブルク軍の攻撃が始まると、戦場の様相は一変した。


 南方の警戒部隊は、敵軍の接近を察知して防御態勢を整えていた。しかし、相手は三万もの大軍である。中央へ兵力を転用したあとの部隊だけでは、すべての進撃を食い止めることはできなかった。


 最初に崩れたのは、南方の防御線の一部だった。


 敵の攻撃を受けた部隊が後退し、その隣にいた部隊は側面を守るために配置を変えなければならなくなる。そこへ新たな敵軍が押し寄せ、王軍の防御線は徐々に押し込まれていった。


 軍務卿は予備兵力の再配置を命じ、魔導兵団も南方への支援を開始する。


 それでも、状況は好転しなかった。


「南方第二陣、敵の攻撃を受け後退!」


「右翼の諸侯軍より救援要請! 側面から敵部隊が接近しております!」


「中央第一陣、反乱軍の反撃を受け、損害拡大!」


 伝令たちが次々と本営へ駆け込んでくる。


 報告を受けるたびに、軍務卿は地図上の駒を動かしていった。先ほどまで前進していた王軍の部隊が、今度は後退を始めている。しかも、後退する方向が部隊ごとに異なっていた。


 中央では反乱軍が押し返し、南方ではザクセンブルク軍が進撃している。両軍の攻撃が重なった場所では、王軍の部隊が孤立しかけていた。


「第三諸侯軍との連絡が途絶えました!」


「南方の防御線、維持困難との報告です!」


 軍務卿は、額に汗を浮かべながら命令を出し続けた。


 陛下も戦況を見極め、必要な判断を下している。


 しかし、どれほど的確に命令を出しても、六万の軍勢を瞬時に動かすことはできない。


 ある部隊へ増援を送れば、別の場所が手薄になる。後退を命じても、既に敵軍と交戦している部隊は簡単には離脱できない。さらに、伝令が報告を持ち帰るまでの間にも戦況は変化し、先ほどまで有効だった命令が、現場へ届く頃には意味を失っていることさえあった。


 私は、戦場というものが、これほど残酷な仕組みで動いていることを知らなかった。


 地図の上では、部隊を示す駒を動かすだけでよい。しかし実際には、その駒の一つ一つに何百、何千という兵士がいる。彼らは走り、戦い、負傷し、ときには命を落としながら命令に従っているのだ。


 やがて、南方へ向かった魔導騎士団から報告が届いた。


「魔導騎士団、敵軍の進撃を阻止するため交戦を開始!」


 軍務卿は頷いた。


「団長には、可能な限り戦線を維持するよう伝えよ。ただし、無理な突出は避けさせるのだ」


 伝令が走り去った。


 私は、今朝本営で見た魔導騎士団長とユリアナの姿を思い出した。


 あの二人も今、激しい戦闘の中にいるのだ。


 王軍の精鋭である魔導騎士団が投入されれば、状況を立て直せるかもしれない。少なくとも、南方の進撃を食い止めることができれば、王軍には戦線を再編成する時間が生まれるはずだった。


 私はそう願った。


 しかし、その願いは長くは続かなかった。


     ◇


 南方の戦線では、魔導騎士団が奮戦していた。


 あとになって聞いた話によれば、団長は配下の部隊を率いてザクセンブルク軍の進撃を食い止め、孤立しかけていた王軍部隊の撤退路を確保しようとしていたという。


 魔導騎士たちは魔法によって身体能力を高め、敵軍の前進を阻止した。通常の兵士では突破することが難しい場所にも踏み込み、敵の隊列を乱して味方の後退を助けていたらしい。ユリアナも別の部隊を指揮し、撤退する味方の側面を守っていた。


 しかし、敵軍の数はあまりにも多かった。


 前方の敵を退けても、後方から新たな部隊が進んでくる。魔導騎士たちも無限に戦えるわけではなく、魔力を消耗し、負傷者が増えていった。味方の撤退が進むにつれて、前線に残る騎士たちの負担はさらに大きくなっていったという。


 やがて、団長は部隊を後退させる決断を下した。


 ただし、撤退路を確保するためには、誰かが敵軍を食い止めなければならない。


 団長は自らその役割を引き受けた。


 そして、戦死した。


 その報告が王軍本営へ届いたとき、私はすぐには意味を理解できなかった。


「……魔導騎士団長、戦死?」


 軍務卿が、伝令の言葉を繰り返した。


「はい。南方戦線にて、撤退する味方部隊を援護中に戦死されたとのことです」


 私は言葉を失った。


 今朝、確かに会った人物だった。


 陛下へ敬礼し、落ち着いた声で任務の準備が整ったことを報告していた。あのとき、私は彼のことを、経験豊富で頼もしい指揮官だと思った。


 その人物が、もうこの世にはいない。


 あまりにも突然のことで、実感が湧かなかった。


「魔導騎士団の指揮は?」


「現在、副団長のユリアナ・シュタイナー殿が引き継いでおります。残存部隊をまとめ、撤退路の確保を続けているとのことです」


 軍務卿は短く頷いた。


「よい。ユリアナ副団長へ伝えよ。無理に敵を押し返す必要はない。味方の撤退を優先し、部隊の損耗を抑えよ」


「はっ!」


 伝令が走り去る。


 私は、しばらく何も言えなかった。


 ユリアナは、どんな思いで指揮を引き継いだのだろうか。


 長年仕えてきた上官が戦死したと聞かされ、それでも部下たちへ命令を出し続けなければならない。悲しむことも、立ち止まることも許されない。


 それが、戦場で指揮を執るということなのかもしれなかった。


     ◇


 午後も深まる頃、王軍は明らかに劣勢へ追い込まれていた。


 中央では反乱軍の反撃を受け、南方ではザクセンブルク軍の進撃を食い止められない。各部隊は必死に戦っていたが、戦線を維持するために必要な兵力が足りなくなりつつあった。


 軍務卿は、地図の上に置かれた駒を見つめていた。


「……陛下。このまま戦闘を継続すれば、王軍主力が包囲される危険がございます」


 陛下は答えなかった。


「ここで撤退を開始すれば、まだ軍としての統制を維持できます。しかし、判断が遅れれば、各部隊が分断され、組織的な撤退そのものが困難になります」


「分かっておる」


 陛下は、静かに言葉を遮った。


 そして、しばらく戦場を見つめていた。


 平野の向こうでは、王軍の軍旗がいくつも後退している。魔導士団の防御魔法が展開され、その陰を兵士たちが移動していた。反乱軍の攻撃を受けながらも、隊列を維持しようとしている部隊の姿が見える。


 今朝、六万の軍勢を率いて前進を命じた国王が、今度はその軍勢を退かせなければならない。


 私は、陛下の横顔を見つめた。


 そこには悔しさがあった。しかし、それ以上に、残された兵士たちを守らなければならないという決意が感じられた。


「……全軍、撤退を開始せよ」


 軍務卿が深く頭を下げた。


「承知いたしました」


「ただし、無秩序に退かせるな。各部隊の指揮官へ撤退順序を伝え、後衛を配置せよ。負傷者の収容も可能な限り続けるのだ」


「はっ!」


 命令が伝えられ、王軍は組織的な撤退を開始した。


 しかし、六万の軍勢が一斉に後退することなどできない。


 前線で敵軍を食い止める部隊が必要であり、撤退路を確保する部隊も必要だった。負傷兵を運ぶ荷車や補給物資の移動もあり、街道の各所では混雑が生じている。撤退の命令が届かなかった部隊や、敵軍に進路を遮られた部隊もあるという。


 近衛兵団は王軍本営の警護を固め、魔導士団は防御魔法によって後退する部隊を支援した。


 ユリアナが率いる魔導騎士団も、南方から迫る敵軍を食い止めながら、味方の撤退を援護しているという。


 私は陛下とともに、本営を離れた。


 撤退路へ向かう途中、負傷兵を乗せた荷車が街道に並んでいるのが見えた。


 荷車の上には、血の滲んだ包帯を巻いた兵士たちが横たわっている。肩を押さえてうめく者、足を負傷して動けない者、意識を失ったまま運ばれている者もいた。荷車に乗せる余裕がないのか、仲間の肩を借りながら歩いている兵士の姿もある。


 軍医や衛生兵たちは、次々と運び込まれる負傷者の手当てに追われている。包帯や水が足りないと叫ぶ声が聞こえ、別の場所では、運ばれてきた兵士の名前を確認しようとする将校の姿が見えた。


 私は思わず足を止めた。


 これまで、戦場で多くの兵士が負傷しているという報告は何度も聞いていた。しかし、実際に目の前で見る光景は、数字や言葉から想像していたものとはまったく違っていた。


 地図の上で一つの部隊が後退する。


 その意味を、私はようやく理解し始めていた。


「殿下、こちらへ!」


 近衛兵の声で、私は我に返った。


 前方では、負傷兵を乗せた荷車が立ち往生していた。別の部隊が街道へ合流しようとしており、通行が滞っているらしい。


 私は近衛兵に声をかけた。


「負傷兵の荷車を先に通せないだろうか」


「はっ。確認いたします」


 近衛兵はすぐに周囲の兵士たちと連絡を取り、街道の整理を始めた。将校の指示によって後続の部隊が道を空け、負傷兵を乗せた荷車がゆっくりと動き出す。


 私は荷車の移動を妨げない場所へ退き、兵士たちが通り過ぎるのを見守った。


 自分にできることなど、ほとんどない。


 負傷者を治療することも、失われた命を取り戻すこともできない。今、目の前にいる兵士たちを助けるために、わずかな指示を出すことしかできなかった。


 それでも、何もしないで立っているよりはましだと思いたかった。


     ◇


 王軍が後方の集結地点へ到着した頃には、既に日が傾き始めていた。


 各部隊は残存兵力の確認を進め、負傷者の収容と補給の再編成に取りかかっている。野戦病院として使われる天幕には、次々と兵士たちが運び込まれ、軍医たちは休む間もなく治療を続けていた。


 しかし、すべての部隊が戻ってきたわけではなかった。


 戦場で指揮官を失った部隊もあれば、敵軍に進路を遮られて別方向へ後退した部隊もある。負傷して動けなくなった兵士や、捕虜となった者も少なくないという。伝令たちは各部隊の所在を確認するために走り回っていたが、報告の届かない部隊も多かった。


 王軍本営では、軍務卿が暫定的な兵力の集計を報告していた。


「現時点で再集結を確認できた兵力は、およそ四万でございます」


 私は耳を疑った。


 四万。


 今朝、六万の軍勢を率いて戦場へ向かったはずだった。


 それが、たった一日の戦いで二万も減ってしまったというのか。


「……二万が、戻っておらぬのか」


 陛下が低い声で尋ねた。


「はい。ただし、すべてが戦死者というわけではございません。負傷による戦列離脱、捕虜、行方不明者、別方向へ撤退した部隊なども含まれております。今後、再集結する兵もいるものと思われます」


 軍務卿は慎重に説明した。


 しかし、その言葉を聞いても、私の胸の重さは変わらなかった。


 二万という数字の中には、今朝まで元気に食事をしていた兵士たちがいる。家族と再会することを楽しみにしていた者もいるだろう。故郷に帰れば、弟に剣を教えるのだと話していた、あの若い兵士も。


 私は彼の顔を思い出そうとした。


 だが、名前も所属部隊も知らない以上、無事を確かめる方法はなかった。


 もっと話をしておけばよかった。


 そんな後悔が胸をよぎる。しかし、今さらどうすることもできなかった。


 そのとき、本営の外から新たな報告が届いた。


「魔導騎士団副団長、ユリアナ・シュタイナー殿、帰還されました!」


 陛下は顔を上げた。


「通せ」


 ほどなくして、ユリアナが天幕へ入ってきた。


 その軍装には土埃が付着し、袖の一部には血が滲んでいた。顔にも疲労の色が浮かんでいるが、その姿勢は崩れていない。今朝、本営で見たときとは明らかに違う姿だった。


 彼女は陛下の前へ進み、敬礼した。


「魔導騎士団副団長、ユリアナ・シュタイナー。残存部隊の再集結を終えました」


「ご苦労だった。団長のことは聞いておる」


「……はい」


 ユリアナは、わずかに目を伏せた。


 しかし、すぐに顔を上げる。


「団長は、味方部隊の撤退を援護するため、最後まで前線に残られました。おかげで、多くの兵を救うことができました」


 陛下は静かに頷いた。


「立派な最期であった。だが、惜しい者を失った」


「……はい」


 短い返事だった。


 その声に込められた感情を、私はうまく言葉にできなかった。


 ユリアナは、長年仕えてきた上官を失ったのだ。悲しみも、悔しさもあるに違いない。しかし、彼女はその感情を表に出さず、今は残された部下たちのことを考えているのだろう。


 陛下はしばらくユリアナを見つめたあと、口を開いた。


「ユリアナ。魔導騎士団の指揮は、当面お前に任せる。残存部隊をまとめ、次の戦いに備えよ」


「承知いたしました」


 ユリアナは深く頭を下げた。


 その姿を見ながら、私は思った。


 彼女は今日、大切な上官を失った。


 それでも、明日になれば再び部下たちを率いて戦わなければならない。悲しむ時間さえ十分に与えられないまま、次の戦いに備えることを求められている。


 王国を守るということは、こういうことなのだろうか。


     ◇


 夜になっても、王軍の宿営地は静かにならなかった。


 負傷兵の収容は続き、各部隊では行方不明者の確認が行われている。伝令たちは休む間もなく走り回り、将校たちは翌日の配置について協議していた。


 私は本営の外に立ち、暗くなった宿営地を眺めていた。


 あちこちに篝火が灯り、その周囲では兵士たちが疲れ切った表情で座り込んでいる。食事を取る者もいれば、仲間の帰還を待ちながら、街道の方を見つめ続けている者もいた。


 今朝まで隣にいた仲間が、もう戻ってこない。


 そんな兵士も少なくないのだろう。


 遠くから、負傷者のうめき声が聞こえてきた。


 私は拳を握りしめた。


 昨日、ハインリヒ殿下は王国を変えたいと語っていた。


 古い制度を改め、軍制を統一し、王国をより強固な国家にしたい。その主張には、確かに理解できる部分があった。父上でさえ、彼の言葉をすべて否定することはできなかったのだ。


 私も、昨日の会談ではそう思っていた。


 ハインリヒ殿下には、ハインリヒ殿下なりの正しさがあるのかもしれない。彼が目指す王国の姿にも、実現する価値があるのかもしれない。


 しかし、今、私の目の前にあるものは何だ。


 血に染まった軍服。痛みにうめく兵士たち。二度と帰ってこない者の名前が記された報告書。


 王国を強くするためだと言いながら、外国の軍勢を引き入れ、同じ王国の民を殺し合わせる。


 これが、ハインリヒのやり方なのか。


 私は握りしめた拳に力を込めた。


 こんなものを、認めてたまるか。


 王位が欲しいのなら、政治で争えばよかった。改革を進めたいのなら、時間をかけて人々を説得する道もあったはずだ。


 もちろん、そんなことが簡単にできるとは思わない。


 王国の制度を変えるには、多くの人々の利害を調整しなければならない。反対する諸侯もいるだろうし、何年もの時間が必要になるかもしれない。王国の歴史や慣習を考えれば、改革が一代で終わる保証さえない。


 それでも、だからといって戦争を起こしてよい理由にはならない。


 まして、外国の軍勢を王国へ招き入れ、同じ国の民を殺し合わせるなど。


 私は、絶対に認めない。


 昨日までの私は、ハインリヒ殿下を少し年上の従兄弟として見ていた。政治に詳しく、明確な考えを持ち、王国の将来について真剣に考えている人物なのだと思っていた。


 しかし、今日の戦いで分かった。


 彼は、自らの理想を実現するためなら、多くの人々を犠牲にすることをためらわない。


 そして、その犠牲の中には、私が守るべき王国の民がいる。


 王太子に指名されたとき、私はその責任を引き受けるべきかどうか、随分と悩んだ。できれば以前の生活へ戻りたいと思ったこともあるし、今でも王太子という立場に十分な自信があるわけではない。


 だが、今は違う。


 少なくとも、ハインリヒ殿下のやり方で王国が支配されることだけは、認めるわけにはいかない。


 私は、自分の意思でそう思った。


「フェルディナント」


 背後から声をかけられ、私は振り返った。


 そこには、グスタフ陛下が立っていた。


「陛下」


「軍務卿と協議を終えた。王軍は後方で再編成し、プラネヴィア方面に防衛線を築く」


「……はい」


「敵は追撃してくるだろう。反乱軍だけでなく、ザクセンブルク軍も相手にせねばならぬ。厳しい戦いになる」


 陛下は、疲れた表情で宿営地を見渡した。


 その姿は、今朝見た国王とは少し違っていた。


 六万の軍勢を率いていたときの威厳は変わらない。しかし、その肩には、今日失われた多くの命の重さがのしかかっているように見えた。


「……陛下」


「何だ」


「私は、まだ何もできません」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


 しかし、一度口にすると、止めることができなかった。


「今日も、ただ戦場を見ていることしかできませんでした。負傷した兵士たちを助けることも、戦いを止めることもできませんでした」


 陛下は黙って私の言葉を聞いていた。


「ですが、私は……」


 私は一度言葉を切った。


 そして、陛下の顔を見た。


「私は、ハインリヒ殿下のやり方を認めることができません」


 陛下は、わずかに目を細めた。


「……そうか」


「王国を変えたいという気持ちは、理解できるつもりです。しかし、そのために王国の民を犠牲にすることが正しいとは思えません。まして、外国の軍勢を招き入れてまで王位を奪おうとすることなど、私には到底受け入れられません」


 私は、できる限り落ち着いた声で続けた。


「私に何ができるのか、まだ分かりません。軍の指揮も、政治の判断も、学ばなければならないことばかりです。それでも、王太子として、できることをしていきたいと思います」


 陛下は、しばらく私を見つめていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……よく言った」


 それだけだった。


 しかし、その言葉を聞いて、私は胸の奥にあった重さが少しだけ和らぐのを感じた。


 陛下は再び宿営地へ視線を向けた。


「今日は敗れた。だが、王国が敗れたわけではない」


「はい」


「王軍を立て直す。まだ守るべきものが残っておる」


 私は陛下の隣に立ち、篝火の揺れる宿営地を見つめた。


 今朝、六万の王軍は勝利を目指して進軍した。


 しかし、グラニスクでの戦いは敗北に終わり、多くの兵士が戻ってこなかった。明日になれば、さらに詳しい損害が明らかになるだろう。誰が戦死し、誰が負傷し、どの部隊が失われたのか。その報告を受けるたびに、今日の敗北がどれほど大きなものだったのかを思い知らされるに違いない。


 それでも、王国を守るための戦いは終わっていない。


 私は、今日見た光景を忘れないだろう。


 そして、二度と同じ思いをしたくないと願いながらも、明日からまた戦いが続くことを理解していた。


 王軍は、プラネヴィアへ向かう。


 そこが、次の戦場になるのだった。


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