【閑章4話】父と息子、二人の王
戦争が始まる前には、最後に話し合いの機会が設けられることがある。
公爵家の嫡男として軍事や外交について学んでいた頃、私はそう教わった。互いに軍勢を集め、武器を構え、いつでも戦える状態になってから、なお使者を送り合う。最初に聞いたときは、随分と回りくどいことをするものだと思ったものだ。
戦いたくないのであれば、そもそも軍勢を集めなければよいのではないか。
そんな疑問を口にした私に、当時の教師は苦笑しながら答えた。
軍勢を集めなければ、相手が話し合いに応じないこともあるのです、と。
なるほど、と思った記憶がある。相手を説得するために武器を持ち、その武器を使わずに済ませるために交渉する。政治というものは、実に面倒な仕組みで動いているらしい。
もっとも、その教えがこれほど早く自分の身に降りかかるとは思っていなかった。
グラニスク近郊に到着した王軍は、反乱軍と向かい合う形で布陣を進めていた。
王軍六万に対し、ハインリヒ殿下が率いる軍勢は約四万。兵力ではこちらが優勢だが、だからといって戦いを簡単に終わらせられるわけではない。反乱軍もまた、王国西部の有力諸侯が兵を出し、十分な準備を整えている。こちらが一方的に攻撃すれば、相応の損害を受けることになるだろう。
宿営地では、兵士たちが翌日の戦闘に備えて装備を点検していた。野戦軍の将校たちは部隊の配置を確認し、魔導兵団も出撃準備を進めている。近衛兵団は国王陛下の警護に加え、王軍司令部の周囲を厳重に警戒していた。
陣地の外では、荷車が街道を行き交い、補給物資の搬入が続いている。馬のいななきや車輪の軋む音に混じって、兵士たちの掛け声が聞こえてきた。六万人もの軍勢が一か所に集まると、戦っていない時間でさえ、これほど騒がしいものなのかと感心してしまう。
私は王太子として、国王陛下に随行していた。
もちろん、軍の指揮を任されているわけではない。軍議に出席し、将軍たちの説明を聞き、必要に応じて陛下の指示を伝える。今のところ、私に与えられた仕事はそれくらいだった。
それでも、王都にいた頃とは比べものにならないほど緊張する。
軍議で地図を眺めているときには、兵士たちの配置は線や記号で示される。しかし、天幕の外へ出れば、その一つ一つが生身の人間なのだと分かる。彼らには故郷があり、家族があり、戦いが終われば帰りたい場所がある。
その人々が、明日には命を懸けて戦うことになる。
そんなことを考えていた折、反乱軍から使者が訪れた。
持参したのは、ハインリヒ殿下からグスタフ陛下への会談の申し入れだった。
「直接、話がしたいと?」
王軍司令部の天幕に集まった重臣たちを前に、陛下は書状を読み終えると、静かにそう尋ねた。
「はい。双方の護衛人数を制限し、両軍の中間地点に会談の場を設けたいとのことでございます」
使者は深く頭を下げた。
軍務卿は険しい表情を浮かべていた。敵軍が目前に迫る状況で国王が陣地を離れるのだから、当然の反応だろう。
「陛下。会談そのものを否定するつもりはございませんが、安全の確保が先決です。相手がどのような意図を持っているか、慎重に見極める必要がございます」
「分かっておる」
陛下は短く答え、再び書状へ目を落とした。
その横顔には、いつもの厳しさとは違うものがあった。
ハインリヒ殿下は、王国に反旗を翻した反逆者である。しかし同時に、陛下にとっては実の息子でもある。父親として、最後にもう一度話をしたい。そんな思いがあるのかもしれなかった。
「条件を確認せよ。双方の安全が保証されるのであれば、会談に応じる」
陛下はそう命じた。
軍務卿は一礼し、使者との調整に取りかかる。会談場所の選定、護衛人数、武器の携行、両軍が休戦を維持する時間など、確認すべき事項は多かった。互いに信用していない者同士が安全に顔を合わせるためには、随分と細かな取り決めが必要になるらしい。
その様子を眺めていた私に、陛下が視線を向けた。
「フェルディナント。お前も同行せよ」
「……私も、ですか?」
「お前は王太子だ。この戦いがなぜ避けられぬのか、その目で確かめておくがよい」
私は一瞬、返答に迷った。
正直なところ、できれば遠慮したかった。ただでさえ戦争を目前に控えて落ち着かないというのに、今度は反乱軍を率いる従兄弟との会談である。しかも、その従兄弟は自ら国王を名乗り、私が継ぐことになった王位を要求しているのだ。
どう考えても、穏やかな話し合いになるとは思えなかった。
しかし、陛下の命令を断るわけにもいかない。
「承知いたしました」
私は姿勢を正し、頭を下げた。
◇
会談の場は、両軍の陣地から離れた街道沿いに設けられた。
周囲には緩やかな丘陵と農地が広がり、少し離れた場所には小さな林が見える。普段であれば、農民が畑仕事をし、商人の荷車が街道を行き交っているような場所なのだろう。しかし今は、両軍の兵士たちが遠巻きに警戒し、街道を通る者の姿もない。
会談用の天幕は、街道から少し離れた平坦な場所に設けられていた。双方の護衛は取り決められた人数に制限され、互いに距離を置いて待機している。会談の間は攻撃を行わないことが約束され、安全通行についても使者を通じて確認されていた。
私は陛下に従って天幕へ入った。
内部には卓と椅子が用意されている。豪華な調度品などはなく、必要最低限のものだけが置かれた簡素な空間だった。卓の上には水差しと杯が並べられていたが、果たして誰かが口をつけるのだろうかと、そんな場違いなことを考えてしまう。
ほどなくして、ハインリヒ殿下が姿を現した。
私は思わず息を呑んだ。
久しぶりに見る従兄弟は、記憶の中の姿とほとんど変わっていなかった。
整えられた髪に、落ち着いた表情。身につけている軍装は上質なものだったが、華美な装飾は控えられている。四万の軍勢を率いる反乱の首謀者というより、王宮で政務に携わっていた頃の彼を思い出させる姿だった。
ハインリヒ殿下は天幕へ入ると、まず陛下に向かって一礼した。
「お久しぶりです、父上」
「……ハインリヒ」
陛下の声は低かった。
しかし、ハインリヒ殿下は気にした様子もなく、今度は私へ視線を向けた。
「久しいな、フェルディナント。まさかお前が王太子になるとは思わなかった」
「私自身、まったく予想していませんでした」
正直に答えると、ハインリヒ殿下は小さく笑った。
「相変わらずだな。昔から、お前はそういうところがある」
その表情を見て、私は一瞬だけ懐かしさを覚えた。
王宮で顔を合わせていた頃、彼は私にとって少し年上の従兄弟だった。政治の話になると難しいことを言い始める人物ではあったが、私個人に対して厳しく当たることはなかった。
ヴィルヘルム殿下とは性格が違い、何事にも明確な考えを持っている。そんな印象を抱いていた。
しかし今、私たちは王国を二つに分けて対立する立場にある。
ハインリヒ殿下は自らを国王と宣言し、陛下はその行為を反逆と断じた。かつての親しみだけで埋められる隔たりではなかった。
三人が席に着くと、陛下が口を開いた。
「ハインリヒ。単刀直入に言おう。軍を解散し、王都へ戻れ」
ハインリヒ殿下は黙って父を見つめた。
「お前が王位を僭称した責任は免れぬ。しかし、今ならば、これ以上の流血を避ける道を探ることができる。お前に従った諸侯についても、事情を確認したうえで処遇を判断するつもりだ」
「つまり、私に降伏せよと?」
「そうだ」
陛下は迷いなく答えた。
「王国を二つに割ってまで、争う必要はない」
ハインリヒ殿下は小さく息を吐いた。
「父上。私が軍を解散したところで、王国の問題が解決するわけではありません」
「問題があるならば、王都で話し合えばよい」
「それを何年続けてきたと思っておられるのです?」
穏やかな声だった。
しかし、その言葉には明確な不満が込められていた。
◇
「父上は、王国が抱える問題をご存じのはずです」
ハインリヒ殿下は卓上に置かれた地図へ視線を落とした。
「地方の諸侯は、それぞれの領地で大きな権限を持っています。王都が政策を定めても、実際に地方へ浸透させるには時間がかかる。財政制度を改めようとすれば反対が起こり、軍制を統一しようとすれば諸侯の利害が衝突する。王国は一つでありながら、その内部ではいくつもの異なる意思が動いているのです」
私は黙って耳を傾けた。
彼の指摘には、理解できる部分があった。
公爵家の嫡男として、諸侯の権限が王国の行政に大きな影響を与えていることは知っている。父が出兵命令への対応を巡って各地の領主と調整を重ねていたことも、つい先日の話だ。
王国の政策を実行するには、地方の事情を無視できない。それは王国の安定を支える仕組みであると同時に、迅速な改革を難しくする要因でもあった。
「私は、王国をより強固な国家にしたいと考えています」
ハインリヒ殿下は言葉を続けた。
「軍制を統一し、財政を整え、王都の決定が王国全土へ届く仕組みを作る。各地の諸侯がそれぞれの都合で動くのではなく、王国全体の利益を優先できる体制が必要なのです」
「改革の必要性は、私も否定しておらぬ」
陛下が答えた。
「だが、王国は長い年月をかけて築かれてきた。諸侯との信頼関係を無視して制度を変えれば、かえって国を不安定にする。領地を治める者たちにも、それぞれ守るべき民がおるのだ」
「だから、時期尚早だと?」
「急ぐべきことと、時間をかけるべきことがある」
「父上はいつもそうおっしゃる」
ハインリヒ殿下の声が、わずかに強くなった。
「では、いつになれば王国は変わるのです? 十年後ですか。二十年後ですか。それとも、次の世代にすべてを委ねるおつもりですか?」
陛下は眉を寄せた。
「お前の考えが分からぬわけではない。だが、改革を進めるために王国を戦場にすることが正しいと、本気で思っているのか」
「私が軍を挙げなければ、何も変わらなかったでしょう」
「それは、お前がそう決めつけているだけではないのか」
「いいえ。私は何年も、王宮で改革を訴えてまいりました。そのたびに慎重な議論が必要だと言われ、諸侯との調整を理由に先送りされてきたのです」
二人の言葉は、次第に鋭さを増していった。しかし、どちらも声を荒らげてはいない。父と息子が互いの考えを知り尽くしているからこそ、どの言葉が相手に届き、どの言葉が反発を招くのかも理解しているように見えた。
グスタフ陛下は、王国の安定を重んじている。急激な改革が内乱を招く危険を理解しているからこそ、慎重に進めようとしてきたのだろう。
一方のハインリヒ殿下は、その慎重さこそが王国の停滞を招いていると考えている。
どちらの主張にも、一定の道理はあるように思えた。
もっとも、それで戦争を始めてよいことになるのかと問われれば、私は頷けない。
今、両軍の陣地には十万もの兵士が集まっている。彼らの多くは、王国の制度をどのように改革するべきかなど、考える機会もなかっただろう。それでも明日になれば、互いに武器を向け合うことになるのだ。
政治の議論がどれほど正しくても、その結果として兵士たちが命を落とすのなら、簡単に納得できるものではない。
「そもそも、父上は王位継承についても、王家の秩序を軽んじられました」
ハインリヒ殿下は話題を変えた。
「ヴィルヘルム兄上が亡くなられたあと、次の王位継承者となるべきは私だったはずです」
「……お前を王太子に指名することはできなかった」
「だから、フェルディナントを養子に迎えたのですか」
ハインリヒ殿下は私を見た。
私は思わず姿勢を正した。
「王位継承権を持つ実の息子を退け、弟の息子を王太子に据える。父上は、その決定が王家の秩序にどれほど大きな影響を与えるか、理解しておられたはずです」
「王位継承権を持つことと、国王として信任できることは同じではない」
陛下は静かに答えた。
ハインリヒ殿下は、その言葉を聞いてしばらく沈黙した。怒りを露わにすることも、声を荒らげることもない。ただ、父の言葉を確かめるように見つめている。
やがて、何かを思いついたように口を開いた。
「……なるほど。では、父上に一つお尋ねしたい」
「何だ」
「リカルティールのことです」
私は思わず顔を上げた。
◇
「父上は、リカルティールの自由を認められた」
ハインリヒ殿下は、先ほどまでと変わらない落ち着いた口調で言った。
「正直に申し上げます。それは国王として、あってはならない判断でした」
「……何が言いたい」
「王族には、生まれながらに果たすべき務めがあります。私も、ヴィルヘルム兄上も、その務めを果たすために育てられてきました」
ハインリヒ殿下は父を正面から見据えた。
「自らの望みより王国の利益を優先し、必要とあれば人生を捧げる。それが王族というものでしょう。父上は、私たちにそう教えてこられたはずです」
「そのとおりだ」
「ならば、なぜリカルティールだけが例外なのです?」
陛下は答えなかった。
私もまた、言葉を失っていた。
リカルティールが七年前に王宮を去ったことは、王家にとって大きな出来事だった。彼女は第三王女であり、王位継承権を持つ人物でもある。しかも、魔法学院では歴代首席という優秀な成績を収めていた。
本来ならば、その才能は王国のために用いられるはずだった。魔導兵団に所属する道もあれば、王族として外交や政治に関わる道もあっただろう。王家にとって、彼女の存在は決して小さなものではなかった。
しかし彼女は、王族として生きることを望まなかった。
そして、王宮を去った。
グスタフ陛下は、最終的に娘を連れ戻さなかった。その決断について、王宮の中でもさまざまな意見があったことは知っている。
「リカルティールを即刻連れ戻し、王女としての立場をわきまえさせていたならば、私は今も第二王子として、ヴィルヘルム兄上の補佐を務めていたでしょう」
ハインリヒ殿下は続けた。
「しかし父上は、あろうことか、あの娘の出奔を黙認された。その一方で、我々兄弟には変わらず王族としての務めを説き続けられた」
「それと、お前が軍を挙げたことに何の関係がある」
陛下の声が低くなった。
「私にも、目指したいものがあるのです」
ハインリヒ殿下は、迷いなく答えた。
「私は王国を変えたい。古い制度を改め、より強固な国家を築きたい。そのために必要な権限を求めることが、なぜ許されないのでしょうか」
「リカルティールは王位を求めたわけではない。むしろ、王族としての立場を捨てて、自らの人生を選んだのだ」
「結果として、王家の義務を放棄したことに変わりはありません」
「それと、軍を挙げて王位を奪おうとすることを同列に語るつもりか」
「同じだとは申しません。ただ、父上が王族の務めより個人の望みを優先することを認められた以上、その判断が王家に与える影響を無視することはできないと申し上げているのです」
私は二人の言葉を聞きながら、複雑な思いを抱いていた。
ハインリヒ殿下の指摘には、確かに理解できる部分がある。王族には義務があり、その義務を果たすことを求められる。それは私自身、幼い頃から教えられてきたことだった。
しかし、リカルティールが望んだのは、王位でも権力でもない。自分の人生を自分で決めることだった。
ハインリヒ殿下が求めているのは、王国を変えるための権力である。
二人の望みは、似ているようでまったく違う。
リカルティールは王宮を去り、自分の力で生きる道を選んだ。ハインリヒ殿下は、王国そのものを自分の望む形へ変えようとしている。そのために王位を求め、軍を挙げた。
自由を求めることと、他者を従わせる権力を求めることは、果たして同じなのだろうか。
「……しかし、お前はリカルティールを自由にさせてやれと言ったではないか」
陛下が口を開いた。
ハインリヒ殿下は、わずかに首を傾げた。
「ええ。申し上げました」
「それを今になって、私の過ちだと言うのか」
「当然でしょう」
ハインリヒ殿下は、何でもないことのように答えた。
「私の政敵が一人減るのですから」
「……貴様」
陛下の声が、初めて明確な怒りを帯びた。
しかし、ハインリヒ殿下は動じなかった。
「リカルティールは魔法学院の歴代首席です。あの才能を持つ王女が王宮に残れば、いずれ魔導兵団でも相応の地位を得たでしょう。しかも、王位継承権まで持っている」
彼は淡々と言葉を続けた。
「王族としての地位、魔法の才能、そして軍事的な影響力。将来的に、あれほど厄介な存在になる可能性を持つ人物は、そう多くありません」
「お前は……妹を、そのように見ていたのか」
「王族として、当然の評価をしたまでです」
私は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
リカルティールが王宮を去ったとき、ハインリヒ殿下は彼女の自由を認めるよう進言していたという。私は、その話を聞いて、妹思いの兄なのだと思っていた。
しかし、彼にとっては違ったらしい。
妹が自由になることは、自分の政敵が一人減ることでもあった。
そして、その事実を今、父親の前で隠そうともしない。
私には、ハインリヒ殿下の考えが理解できなかった。王族として政治的な利害を考えることは必要なのだろう。だが、妹が何を望み、どのような人生を歩もうとしているのかよりも、王位継承争いへの影響を優先するというのは、あまりにも冷たいように思えた。
「……ハインリヒ」
陛下は、怒りを抑えるようにゆっくりと口を開いた。
「お前は、リカルティールが何を望んでいたのか、考えたことがあるのか」
「もちろんです。王族としての義務から解放され、自由に生きることを望んでいたのでしょう」
「それだけか」
「それ以上に、何を考える必要があるのです?」
陛下は黙り込んだ。
その表情を見て、私は胸が痛んだ。
国王としてではなく、父親として傷ついている。そんな姿に見えた。
◇
「フェルディナント」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
ハインリヒ殿下が、こちらを見ていた。
「お前はどうなのだ?」
「……私、ですか?」
「お前は望んで王太子になったのか?」
私は返答に詰まった。
望んでいたわけではない。むしろ、突然の指名に困惑し、できれば以前の生活へ戻りたいと考えたことさえある。
公爵家の嫡男としての生活にも、それなりに満足していた。将来は父の跡を継ぎ、領地を治めることになるのだろうと考えていたし、そのための勉強もしてきた。王太子になるなど、想像したこともなかった。
「……正直に申し上げれば、望んでいたわけではありません」
私が答えると、ハインリヒ殿下は頷いた。
「だろうな。お前は昔から、権力に執着する性格ではなかった」
彼は少しだけ表情を和らげた。
「ならば、降りればよい」
「……はい?」
「王太子の地位を放棄しろ。お前が私と争う理由などないはずだ」
私は言葉を失った。
「ローゼンハイム公爵家の所領と権利は保証する。お前も、以前の生活へ戻ればよい。わざわざ王位継承争いに巻き込まれる必要はないだろう」
確かに、そうかもしれない。
私は王位を望んでいなかった。ハインリヒ殿下と個人的な恨みがあるわけでもない。
むしろ、王太子になってからというもの、仕事は増える一方で、自由な時間は減るばかりだった。以前の生活へ戻れるのであれば、それはそれで魅力的な話に思える。
しかし、私はすぐに答えることができなかった。
王太子に指名されてから、まだそれほど時間は経っていない。それでも、私は王宮で多くの人々と関わってきた。
アルフォンス宰相が王国の行政を支える姿を見た。父が諸侯との調整に奔走する姿も見た。そして、六万の王軍が出征する光景を目にした。
その中には、故郷に家族を残して戦場へ向かう若い兵士もいた。
彼らは、王国のために働き、戦おうとしている。王太子である私が何を考えていようと、彼らにとっては国王と王太子が王国を守ってくれることが前提なのだろう。
そんな人々を前にして、自分だけが責任から逃げ出してよいのだろうか。
私は、膝の上に置いた手を握り直した。
「……私が王太子を望んだわけではないことは、確かです」
私はゆっくりと口を開いた。
「ならば、降りればよい」
「ですが、既に引き受けた責任があります」
ハインリヒ殿下は、黙って私を見つめた。
「私の都合だけで、簡単に放り出すわけにはいきません」
「……本気で言っているのか?」
「ええ。少なくとも、今はそう考えています」
私は、できる限り落ち着いた声で答えた。
ハインリヒ殿下はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そうか。お前も、随分と王族らしくなったものだな」
私は内心で苦笑した。
できれば、そんな評価を受ける前に王太子の仕事から解放されたかった。しかし、今さら口にするわけにもいかない。
私は姿勢を正し、ハインリヒ殿下の視線を受け止めた。
少なくとも、ここで自分の責任から逃げるつもりはなかった。
◇
会談は、長い沈黙を挟んで再開された。
グスタフ陛下は、改めてハインリヒ殿下に軍を解散するよう求めた。しかし、ハインリヒ殿下は首を横に振る。
「父上が退位し、私の王位を認めてくださるのであれば、これ以上の戦いは必要ありません」
「それはできぬ」
「では、交渉は平行線のままです」
ハインリヒ殿下は静かに答えた。
私は、これ以上話し合っても結論が変わらないことを感じていた。
グスタフ陛下は、王国の秩序を守るためにハインリヒ殿下の王位を認めることができない。一方のハインリヒ殿下も、自らの理想を実現するために王位を要求している。
どちらも譲るつもりはない。
そのとき、陛下が口を開いた。
「ハインリヒ。お前に一つだけ聞きたいことがある」
「何でしょう、父上」
陛下は、しばらく息子の顔を見つめていた。
そして、低い声で尋ねた。
「……ヴィルヘルムを殺したのは、お前か」
私は息を呑んだ。
天幕の中が静まり返った。
ヴィルヘルム殿下。
第一王子であり、王太子として王国の将来を担うはずだった人物。その死によって、王位継承を巡る問題は大きく動き始めた。
陛下がハインリヒ殿下を疑っていることは知っていた。しかし、本人を前にして直接問いかけるとは思っていなかった。
ハインリヒ殿下は、しばらく父を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「証拠がおありなのですか、父上」
「私は証拠の話をしているのではない」
「ならば、何をお聞きになりたいのです?」
「父として、お前に尋ねている」
ハインリヒ殿下は、その言葉を聞いてわずかに目を細めた。
「……父として」
彼は、確かめるように繰り返した。
「では、私も息子として申し上げましょう。父上は、私が何と答えれば信じてくださるのですか?」
陛下は答えなかった。
ハインリヒ殿下も、それ以上何も言わなかった。
私は二人の顔を交互に見つめた。
ハインリヒ殿下は、兄を殺したと認めていない。しかし、明確に否定したわけでもない。その態度が何を意味するのか、私には判断できなかった。
ただ一つ分かったのは、グスタフ陛下が、息子の言葉を信じられなくなっているということだった。
国王として、証拠のない罪で息子を断罪することはできない。しかし、父親としては、息子を疑わなければならないことそのものが苦痛なのだろう。
陛下はゆっくりと目を閉じ、しばらくしてから再び口を開いた。
「……そうか」
それだけだった。
ハインリヒ殿下は、何も答えなかった。
◇
「では、これ以上の話し合いは無意味なようですね」
ハインリヒ殿下が立ち上がった。
グスタフ陛下も、ゆっくりと席を立つ。
「ハインリヒ。今からでも遅くはない。軍を解散せよ」
「父上が退位されるのであれば、私も兵を退きましょう」
「それはできぬ」
「ならば、答えは出ています」
ハインリヒ殿下は、父に向かって一礼した。
その所作は、王宮で見慣れたものと変わらなかった。しかし、そこには以前のような親しみは感じられなかった。
「では、失礼いたします。父上」
彼はそう告げると、私へ視線を向けた。
「フェルディナント」
「……はい」
「次に会うときは、戦場だな」
私は、何と答えるべきか分からなかった。
ハインリヒ殿下は、それ以上何も言わずに天幕を去っていった。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に重いものを感じていた。
会談は終わった。
グスタフ陛下とハインリヒ殿下は、最後まで互いの要求を受け入れなかった。どちらかが一歩譲れば戦いを避けられたのかもしれない。しかし、その一歩が何を意味するのかを考えれば、簡単に譲れるものではなかったのだろう。
明日、両軍は戦うことになる。
私は陛下に従い、王軍陣地へ戻った。
◇
王軍司令部へ戻ると、グスタフ陛下は軍務卿と諸将を集め、会談の結果を伝えた。
ハインリヒ殿下は降伏を拒否した。交渉は決裂し、予定どおり翌日の会戦に臨む。
軍務卿は各部隊の最終配置を確認し、魔導兵団と近衛兵団にも命令が伝えられた。将軍たちはそれぞれの持ち場へ戻り、宿営地では翌日の戦闘に備えた準備が続いている。
私はその様子を眺めながら、会談でのやり取りを思い返していた。
ハインリヒ殿下の主張には、理解できる部分があった。
王族には果たすべき義務がある。グスタフ陛下がリカルティールの出奔を黙認したことは、その規律から見れば例外的な判断だったのだろう。
しかし、だからといって、兄を殺し、軍を挙げてよいことにはならない。
私は、リカルティールが王宮へ戻ってきたときの姿を思い出した。
彼女は、以前よりもずっと生き生きとしていた。
自分の人生を自分で選び、冒険者として暮らしている。その姿を見たとき、私は少しだけ羨ましいと思ったものだ。
王族としての義務を捨てることが、必ずしも正しいとは思わない。しかし、彼女が自分の人生を選んだことを、私は責める気にはなれなかった。
ハインリヒ殿下は違う。
彼は自分の理想を実現するために、王位を求めている。そのためには、家族でさえ政治的な障害として扱う。
私は、その考え方を理解することができなかった。
もっとも、王族としての務めを果たすことと、家族を大切にすることが、必ずしも両立するとは限らないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、宿営地の一角で父の姿を見つけた。
ローゼンハイム公爵は、数名の将校と話をしていた。翌日の戦いに備えて、諸侯軍の配置や連絡体制を確認しているらしい。
私に気づくと、父は将校たちへ指示を出し、こちらへ歩いてきた。
「フェルディナント。会談は終わったのか」
「はい。残念ながら、交渉は決裂しました」
「そうか」
父は短く答えた。
その表情に、驚きはなかった。おそらく、こうなることを予想していたのだろう。
「父上。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「構わん」
私たちは、宿営地の端に設けられた小さな天幕へ入った。
父は椅子に腰を下ろし、私にも座るよう促した。卓の上には翌日の部隊配置を示した書類が置かれており、父がどれほど忙しくしているのかがうかがえた。
私はしばらく言葉を探していたが、やがて口を開いた。
「父上。ハインリヒ殿下の言葉は、間違っていたのでしょうか」
父は、すぐには答えなかった。
「何を言われた」
私は会談でのやり取りを説明した。
王国の改革についての主張。王位継承を巡る問題。そして、リカルティールの出奔を黙認したグスタフ陛下への批判。
父は黙って聞いていた。
すべてを話し終えると、父はしばらく考え込んだ。
「……いや」
やがて、静かに口を開いた。
「あやつの言っていることは、おそらく間違っておらん」
「……そうなのですか」
「王族には果たすべき務めがある。陛下がリカルティールの出奔を黙認されたことは、王家の規律からすれば、確かに例外的な判断だった」
父はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
「だがな、フェルディナント。私は、そんな陛下だからこそ支えようと思っている」
「……なぜです?」
「国王である前に、あの方も一人の父親だからだ」
父は、天幕の外へ視線を向けた。
「王として正しい判断が、父親としても正しいとは限らん。逆もまた然りだ。あの方は国王としての務めを理解したうえで、それでも娘の幸福を選ばれた。私は、その決断を責める気にはなれん」
「しかし、それでは王家の規律が……」
「ああ。だからこそ、国王という仕事は難しいのだろうな」
父は小さく笑った。
「兄上は昔から、王としては少々甘いところがあった」
私は驚いて父を見た。
父がグスタフ陛下を兄上と呼ぶことは、珍しかった。
普段は王弟として、陛下への敬意を崩さない人物である。しかし今は、国王ではなく、自分の兄について語っているようだった。
「ハインリヒも、親となれば分かる日が来るかもしれん」
父は続けた。
「自分の子供に、ただ義務を果たせと命じることが、どれほど難しいことなのかを」
「……父上も、そうなのですか?」
「無論だ」
父は私を見た。
「お前が王太子に指名されたとき、私が何も思わなかったとでも?」
私は驚いて父を見返した。
「……てっきり、当然のことだとお考えなのかと」
「当然だとは思っている。だが、それと心配しないことは別だ」
父はそう言うと、いつもの厳しい表情に戻った。
「もっとも、お前にはまだ覚えることが山ほどある。明日も陛下のお側で、しっかり学んでこい」
「……はい、父上」
私は姿勢を正し、頷いた。
父は立ち上がり、再び仕事へ戻っていった。
その背中を見送りながら、私はしばらく考えていた。
王族とは、国のために生きる存在なのだと教えられてきた。
自らの望みより王国の利益を優先し、必要とあれば人生を捧げる。それは、決して間違った教えではないのだろう。
しかし、王族である前に、人間であり、誰かの親であり、誰かの子でもある。
その当たり前のことを、王族という立場は時として忘れさせてしまうのかもしれない。
グスタフ陛下は、娘の自由を認めた。
父は、私が王太子になることを受け入れた。
異なる決断ではあるが、どちらも父親としての愛情と責任に根ざしているのだろう。
私は、天幕の外へ出た。
王軍の宿営地には、無数の灯火が揺れている。兵士たちは明日の戦闘に備え、装備を整え、食事を取り、束の間の休息を過ごしていた。
彼らの多くにも、家族がいる。
故郷で帰りを待つ妻や子供、両親や兄弟がいるのだろう。
そして明日、彼らは王国のために戦う。
グスタフ陛下とハインリヒ殿下。
父と息子が、それぞれの軍勢を率いて戦うことになる。
その事実を思うと、胸の奥に重いものが残った。
私はしばらく夜の宿営地を眺め、それから自分の天幕へ戻った。
明日は、グラニスク会戦である。




