【閑章3話】六万の王軍
王太子になってからというもの、私の一日は以前よりも随分と早く始まるようになった。
公爵家の嫡男だった頃も、決して暇を持て余していたわけではない。領地経営について学び、父の代理で諸侯の集まりに顔を出し、王宮から呼び出されればそれに応じる。貴族として果たすべき務めは、それなりに多かったし、将来は父の跡を継ぐものとして、私自身も相応の覚悟を持っていたつもりだった。
しかし、王太子という立場は少々事情が違う。
朝から晩まで予定が詰まっているのはもちろん、その大半が私の意思とは無関係に決められている。しかも、予定表を確認するたびに、いつの間にか新しい仕事が増えているのだから始末が悪い。公爵家にいた頃なら、多少の余裕を見つけて街へ出かけることもできたのだが、今では庭園を散歩する時間を確保するだけでも侍従との相談が必要になってしまった。
今日もそうだった。
朝食を終えたところで侍従から渡された予定表には、見慣れない文字が記されていた。
『王軍動員に関する軍議への出席』
私はしばらくその文字を眺め、それから侍従に尋ねた。
「これは、私も出席する必要があるのかな?」
「国王陛下からのご指示でございます」
「そうか。陛下からか」
それなら仕方がない。もっとも、最近は何を尋ねても同じ答えが返ってくるので、そろそろ別の理由も聞いてみたいところだった。
ハインリヒ殿下が西部諸侯の支持を受け、自らをマリアベル王国の国王と宣言してから、数日が経っていた。
王都マリアベルクでは、表向き、普段と変わらない生活が続いている。市場には商人たちの声が響き、街道には荷車が行き交い、王宮の庭園では庭師たちがいつもどおり植木の手入れをしていた。街角では戦争の噂が交わされているものの、人々は今日の仕事を休むわけにもいかず、明日の暮らしを考えながら日々を過ごしている。
だが、その日常の裏側では、王国全土を巻き込む戦争の準備が進められていた。
グスタフ陛下はハインリヒ殿下の行為を反逆と断じ、討伐軍の編成を命じた。各地の諸侯には出兵を求める使者が送られ、王国の常備軍にも動員命令が下されている。西部から届く報告によれば、ハインリヒ殿下を支持する諸侯も既に軍勢の集結を始めているという。
王国が二つに割れたのである。
そして、その片方の王太子が私だった。
いまだに、その事実を考えると頭が痛くなる。
◇
軍議室に足を踏み入れた私は、思わず背筋を伸ばした。
長大な卓を囲むように、王国の重臣と軍高官たちが顔を揃えていた。中央にはグスタフ陛下、その傍らには宰相アルフォンス・ヴァルテンベルク。父ローゼンハイム公爵の姿もあり、さらに軍務卿をはじめ、野戦軍、魔導兵団、近衛兵団の高官たちが並んでいる。
顔と名前を知っている者は多い。しかし、これほどの人数が一堂に会する場に、当事者として参加した経験はなかった。公爵家の嫡男として軍事に関する会議へ同席したことはあるが、王国全土の軍勢を動かすための軍議となれば、当然ながら規模も緊張感もまるで違う。
「フェルディナント、こちらへ」
陛下に促され、私は用意された席に着いた。
卓上には王国西部の地図が広げられている。キーリア、シェッチン、グラニスク。これまで地理の授業や領地の報告書で目にしてきた地名が、今日は軍勢の移動を示す駒とともに並んでいた。地図の端には街道や河川、主要な都市の位置が細かく記され、各地から届いた報告書も積み重ねられている。
軍務卿が立ち上がり、一礼した。
「それでは、王軍の動員状況についてご報告いたします」
その声を合図に、会議室の空気が引き締まった。
「各地の諸侯より、出兵命令に対する回答が届いております。現時点で王家への忠誠を表明した諸侯軍と、王国の常備軍を合わせた野戦軍を主力として、魔導兵団および近衛兵団からも出征部隊を編成いたします」
軍務卿は手元の書類に目を落とし、集結予定の部隊について順に説明した。王都周辺に駐屯する常備軍は既に出征準備を進めており、各地の諸侯軍も指定された集結地へ向かっている。遠方の部隊については到着まで時間を要するものの、現時点ではおおむね計画どおりに動員が進んでいるらしい。
「最終的な出征兵力は、約六万を見込んでおります」
六万。
私は思わず顔を上げた。
マリアベル王国が相応の軍事力を持つ国家であることは知っている。公爵家の嫡男として、王国の軍制や諸侯の軍役についても一通り学んできたし、父の領地で行われる軍事訓練を視察した経験もあった。
それでも、六万という数字を実際の軍議で耳にすると、教科書で読むのとは違う重みがあった。
「随分と大きな軍勢になるのですね」
私がそう口にすると、軍務卿は頷いた。
「王国の存亡に関わる戦いでございますからな。ただし、殿下。六万の兵を集めることと、六万の兵を一つの軍として動かすことは、まったく別の問題でございます」
「と、おっしゃいますと?」
「野戦軍には各地の諸侯軍が加わります。装備も訓練も、指揮官の経験も一様ではありません。常備軍を中核として編制を整えますが、集結したその日から全軍が同じように動けるわけではないのです」
なるほど。
私も父の領地で兵士たちの訓練を見たことがある。よく鍛えられた常備兵と、必要に応じて召集される領民兵では、習熟度に違いがあることくらいは理解していた。同じ歩兵であっても、普段から隊列を組んで訓練している兵士と、農作業の合間に武具を手にする兵士とでは、戦場で求められる動きを身につけるまでに差が生じる。
まして、それが王国全土から集まる軍勢となれば、話はさらに複雑になるだろう。諸侯ごとに異なる装備や慣習を持つ部隊を、一つの軍として動かすには、指揮官同士の連携も欠かせない。
「加えて、野戦軍だけで戦うわけではありません」
軍務卿は卓上の駒を動かした。
「我が国の軍事力は、大きく野戦軍、魔導兵団、近衛兵団の三つを柱としております。それぞれの能力を十分に発揮させるには、綿密な連携が必要となります」
魔導兵団。
その名が出たところで、私は卓の向こうに座る軍人たちへ視線を向けた。
魔導兵団は、王国が保有する独立した常備軍である。野戦軍とは異なり、魔法を用いた戦闘や支援を専門とする組織で、その内部には魔導士団と魔導騎士団が存在する。
魔導士団は、高度な魔法技術と専門知識を必要とする任務を担う。大規模な魔法攻撃や防御、特殊な術式を用いた支援など、専門性の高い分野を受け持つ組織だ。一方、魔導騎士団は魔法と武技を併用し、幅広い状況に対応することを得意としている。単独での戦闘能力だけでなく、状況に応じて柔軟に動けることが強みとされていた。
私自身、魔法学院に通っていた頃には、両者の違いを授業で学んでいる。もっとも、学院で扱うのは主として理論や過去の戦例であり、実際の軍事運用を詳しく知る機会は限られていた。魔法の適性や術式の構造を理解することと、それを数万人規模の戦場で運用することは、まったく別の話なのだろう。
「魔導兵団の準備については?」
軍務卿の問いに、魔導兵団の高官が応じた。
「常備軍としての動員準備は整いつつあります。魔導士団の専門装備についても、必要な物資の確保を進めております。ただし、野戦軍との合同行動については、出征までに調整すべき事項が残っております」
続いて、魔導騎士団の代表者が発言した。
年配の騎士だった。
私は式典などで何度か顔を合わせている。魔導騎士団を率いる団長であり、長年にわたって王国に仕えてきた人物だ。華やかな装飾を好む様子はなく、身につけた軍装も実用性を重んじたものだったが、立ち居振る舞いには長年の経験に裏打ちされた落ち着きがあった。
「我が団は先行偵察、戦線の補強、重要拠点への機動的な対応など、状況に応じて運用できます。ただし、各部隊の配置と連絡手段については、野戦軍との調整が必要です」
その傍らで、一人の女性騎士が資料を確認していた。
ユリアナ・シュタイナー。
魔導騎士団副団長である。
後ろでまとめた髪に、隙のない軍装。私が学院に通っていた頃から、王宮で何度も顔を合わせてきた人物だった。
リカルティールとも親しく、彼女の魔法の才能を正当に評価していた数少ない大人の一人だったと記憶している。王女だからと無条件に持ち上げるのではなく、魔法の技術については厳しい意見も述べる人物で、リカルティールも彼女の助言には素直に耳を傾けていた。
団長の説明が終わると、ユリアナ副団長が補足した。
「出征に先立ち、野戦軍各部隊との連絡担当を定めております。戦場では命令の伝達が遅れるだけで、対応可能な事態が手遅れになることもあります。特に部隊間の連携については、十分に確認を進める必要があると考えております」
その口調は落ち着いていたが、言葉には軍人らしい確信があった。団長が全体の運用方針を示し、ユリアナ副団長が具体的な調整を補足する。そのやり取りを見るだけでも、魔導騎士団が組織として機能していることが伝わってくる。
最後に近衛兵団の代表者から、国王の警護と王軍司令部の防衛について報告が行われた。
近衛兵団は王室直属の最精鋭である。
王族の警護を主な任務とする一方、必要に応じて重要な戦闘にも投入される。単なる儀仗兵や護衛兵の集まりではなく、王国の軍事力を構成する独立した精鋭部隊だった。王宮で見かける近衛兵たちは整った軍装で儀礼をこなしていることが多いが、その本分が戦うことにあるのは言うまでもない。
三つの軍組織。
それぞれに役割があり、指揮系統があり、得意とする戦い方がある。野戦軍が戦場の主力となり、魔導兵団が魔法戦力を提供し、近衛兵団が王家と司令部を守る。そのすべてが適切に連携して、初めて王軍としての力を発揮できるのだ。
私は、六万という数字の意味を少しずつ理解し始めていた。
兵士を六万人並べれば、それで軍隊になるわけではない。六万人を一つの目的に向けて動かすためには、想像以上に多くの準備が必要なのだ。
◇
「では、次に兵站についてご説明いたします」
アルフォンスが立ち上がった。
私は、嫌な予感を覚えた。
彼がこのように静かな声で話し始めるときは、大抵、こちらが考えていた以上に面倒な問題が待っている。
王太子への指名が決まった際にも、彼は既に必要な書類を一式揃えていた。あのときほど、仕事の早い人間を恐ろしく思ったことはない。もっとも、本人にしてみれば、必要な準備を整えていただけなのだろうが。
「王軍六万の出征にあたり、まず確保しなければならないのは食料です」
アルフォンスは、卓上に新しい資料を広げた。
「兵士一人あたり、一日に必要となる食料を仮に一・五キログラムと見積もりますと、六万人で一日九十トン。十日分で九百トンとなります」
「……九百トン?」
思わず聞き返してしまった。
「はい。ただし、これは兵士の食料のみを単純計算した数字です。実際には馬匹の飼料、医薬品、予備の武具、輸送用の資材なども必要になります」
九百トン。
数字を聞いても、すぐには実感が湧かなかった。
公爵家の領地でも穀物の備蓄や輸送について報告を受けることはある。しかし、それはあくまで領地の行政としての話である。収穫された穀物を倉庫へ運び、必要に応じて各地へ分配する。その過程にも多くの人手が必要になることは知っていたが、軍隊の場合は消費する側が移動し続けるのだ。
六万人が毎日食事をする。
それだけなら、王国全体で見れば決して珍しいことではない。王都だけでも、それ以上の人々が日々の食料を消費している。しかし、王都には市場があり、商人がいて、長い年月をかけて整えられた流通の仕組みがある。
一方、出征する軍隊には、そのような仕組みを自分たちで用意しなければならない。
「それほどの物資を、すべて王都から運ぶのですか?」
「いいえ。それでは輸送が追いつきません。街道沿いの主要都市に補給拠点を設け、各地の備蓄を活用いたします。軍の進軍速度と輸送能力を照らし合わせ、必要な量を必要な場所へ届ける計画です」
アルフォンスは地図上の街道を指でなぞった。
王都から西へ延びる主要街道。その沿道には、いくつもの都市や宿場がある。
これまで私にとって、それらは旅の途中に立ち寄る場所でしかなかった。どの街の宿が快適か、どの地方の料理が美味しいかといったことなら、それなりに知っているつもりだった。
しかし、軍隊を動かすとなれば、街道の幅や橋の強度、荷車が通れる道の状態まで重要になるらしい。兵士たちが歩く速度だけでなく、荷車の進み具合や馬の疲労まで考慮しなければ、予定どおりに進軍することはできない。
「雨が続けば街道の状態も悪くなります。橋が損傷すれば輸送が滞りますし、馬の飼料が不足すれば騎兵だけでなく補給そのものにも支障が出ます」
「なるほど……」
「加えて、魔導兵団の装備や専門物資については、野戦軍とは異なる補給計画が必要です。魔導士団と魔導騎士団でも、使用する装備は同じではありませんから」
私は頷いた。
魔法を用いる兵士であっても、食事をせずに戦えるわけではない。高度な魔法技術を持つ者であっても、必要な装備が届かなければ能力を十分に発揮できない。
結局のところ、軍隊を支えるのは、兵士たちの背後で働く無数の人々なのだ。
「ただし、物資を確保すればよいというものでもありません」
アルフォンスは言葉を続けた。
「各地から過剰に食料を徴発すれば、農村の生活が立ち行かなくなります。馬を集めすぎれば農耕や商業輸送に影響が出るでしょう。戦費を賄うために税を増やせば、今度は王家に対する不満が高まります」
「戦争をするために国民の生活を壊してしまっては、意味がありませんね」
「そのとおりです、殿下」
アルフォンスは静かに頷いた。
「王国の軍事力は、王国の経済と民の生活によって支えられております。その基盤を損なわずに軍を動かすことが、我々の仕事です」
私は、改めて卓上の資料を見つめた。
軍隊の話をしているはずなのに、そこに並んでいるのは食料の備蓄量や輸送経路、財政支出の数字ばかりだった。
戦争とは、剣と魔法で敵を打ち倒すことだけではないらしい。むしろ、その前段階にこそ膨大な仕事が存在し、戦場での勝敗さえも、こうした準備の積み重ねによって左右されるのだろう。
私はアルフォンスに視線を向けた。
「宰相閣下は、これらをすべて把握しておられるのですか?」
「すべてを私一人で管理しているわけではございません。各部署の担当者が、それぞれの職務を果たしております」
「それでも、全体を取りまとめるのは大変でしょう」
「王国の行政とは、そういうものでございます」
何でもないことのように言われてしまった。
私は内心で苦笑する。
王太子になる前から、彼が有能な人物であることは知っていた。しかし、こうして実際の仕事ぶりを見ると、少々恐ろしくなる。軍の動員だけでもこれほどの仕事があるというのに、王国の行政そのものが止まっているわけではないのだ。
もし彼が突然倒れたりしたら、王国の行政はどうなってしまうのだろう。
……いや、考えるのはやめておこう。
きっと本人は、自分が倒れた場合の引き継ぎ書類まで用意しているに違いない。
◇
軍議が終わったあと、私は父とともに王宮の執務室へ向かった。
父の机には、各地の諸侯から届いた書簡が積み上げられている。どれも今回の動員に関するものらしく、封蝋には見覚えのある紋章がいくつも並んでいた。
「ずいぶんと多いですね」
「当然だ。王国全土に出兵を命じているのだからな」
父は書簡を一通手に取り、封を切った。
私は向かいの椅子に腰を下ろし、その様子を眺める。父が王宮で執務を行う姿を見ること自体は珍しくないが、今日はいつにも増して忙しそうだった。
「陛下の命令であれば、諸侯は兵を出すものだと思っていました」
「基本的にはそうだ。しかし、兵を出すということは、領地から人を失うということでもある」
父は書簡を読みながら答えた。
「領主には領地を守る責任がある。兵をすべて差し出せば、今度は自領の防衛が手薄になる。農村から働き手を集めれば、収穫にも影響が出るだろう」
「ですが、王国が敗れれば領地どころではありません」
「そのとおりだ。だからこそ、各領主も可能な限り協力しようとしている。だが、可能な限りという言葉の意味は、領地によって異なる」
父は別の書簡を私の前に置いた。
そこには、出兵可能な兵力とともに、領内の事情が細かく記されていた。
国境に近い領地では、守備兵を一定数残す必要がある。収穫期を迎えている地域では、農村からの動員を抑えたい。軍馬の不足を訴える領主もいれば、兵糧の負担について相談してくる領主もいる。
中には、予定された兵力を出す代わりに、出征中の領地防衛について王国から保証を得たいと申し出ている者もいた。
なるほど。
確かに、王国の命令だからといって、すべての事情を無視するわけにはいかない。
「では、父上はこれらを調整されているのですね」
「私だけではない。軍務卿や宰相も動いている。諸侯との関係は一朝一夕に築けるものではないからな」
父は書簡を机に戻した。
「フェルディナント。国王の命令には大きな力がある。しかし、命令を出すだけで人が動くと思ってはならん」
「……はい」
「人にはそれぞれ守るべきものがある。それを理解せずに命令だけを重ねれば、いずれ誰も従わなくなる」
私は父の言葉を胸に刻んだ。
普段の父は口数が少ない。
私が王太子に指名されたときでさえ、当然のことのように受け止め、「慣れるしかあるまい」と言い放った人物である。息子としては、もう少し同情してくれてもよかったのではないかと思わないでもない。
しかし、各地の諸侯が抱える事情を説明する父の姿には、長年王国を支えてきた領主としての経験が滲んでいた。
私は父の仕事を知っているつもりでいた。だが、実際には知らないことのほうが多かったのだろう。
「父上」
「なんだ」
「王太子というのは、思っていた以上に大変な仕事ですね」
父は私を見た。
「今頃気づいたのか」
「できれば、もう少し早く教えていただきたかったです」
「教えたところで、お前が逃げるだけだろう」
否定できなかった。
父は小さく息を吐き、再び書簡に目を落とした。
どうやら、この話は終わりらしい。
◇
数日後、私は王都郊外に設けられた軍の集結地を訪れた。
軍務卿の案内を受けながら、まず野戦軍の集結地へ向かう。
王都の城壁を離れると、街道の先に無数の天幕が見えてきた。その周囲には各地の諸侯の旗が掲げられ、兵士たちが慌ただしく行き交っている。遠くからでも、人の声や馬のいななき、荷車の軋む音が絶え間なく聞こえてきた。
装備を点検する歩兵。馬の世話をする騎兵。荷車に食料を積み込む補給兵。
鍛冶職人が武具の修理を行い、書記官たちは物資の受け渡しを記録していた。兵士たちの食事を用意するために大きな鍋が並べられ、少し離れた場所では、荷車から降ろされた穀物袋が倉庫代わりの天幕へ運び込まれている。
私は馬上から、その光景を見渡した。
「これほどの人数が集まっているとは……」
「まだ全軍ではございません。各地の部隊は順次集結しておりますし、補給の都合もございますので、すべてを一か所に集めるわけにはまいりません」
軍務卿が説明した。
確かに、これだけの人数が一度に集まれば、宿営地の確保だけでも大変だろう。水や食料の供給、衛生管理、馬の世話など、考えなければならないことはいくらでもある。軍議室で聞いた兵站の話が、ようやく目の前の光景と結びついた気がした。
天幕の間を進むうちに、兵士たちが私たちの姿に気づいた。
「王太子殿下!」
誰かが声を上げた。
周囲の兵士たちが立ち止まり、次々と敬礼する。
私は少々戸惑いながら、それに応えた。
王太子としての礼儀作法は教わっている。しかし、これほど多くの兵士たちから一斉に敬意を示される経験は、さすがになかった。
軍務卿は、その様子を見て小さく頷いた。
「殿下のお姿を拝見できたことは、兵たちにとって励みになるでしょう」
「私はまだ、何もしていませんよ」
「王家が自分たちと共にある。それを知るだけでも、兵たちにとっては意味があるのです」
私は返す言葉を探した。
軍を率いた経験もなければ、戦場で功績を立てたこともない。そんな私が、ただ王太子というだけで兵士たちから敬礼を受けている。
少しばかり、居心地が悪かった。
だが、軍務卿の言うことも理解できる。彼らは王国のために戦う。その王国を象徴する存在が、自分たちの前に姿を見せることには意味があるのだろう。
私たちはさらに集結地の奥へ進んだ。
そこで、出征準備をしている若い兵士の姿が目に留まった。
まだ二十歳にもなっていないように見える。彼は革製の鞄を何度も開け閉めし、中身を確かめていた。傍らには手入れされた剣と、まだ新しい革の防具が置かれている。
「準備は順調かな?」
私が声をかけると、兵士は慌てて立ち上がった。
「で、殿下!」
「楽にしてくれ。少し話を聞きたいだけだよ」
兵士は緊張した様子で頷いた。
「今回が初めての出征かい?」
「はい。領主様の召集で参りました」
「そうか。故郷は遠いのかな?」
「王都から西へ二日ほどの村です。父と母、それから弟がおります」
彼はそう答え、少しだけ表情を和らげた。
「弟が、帰ったら剣の使い方を教えてくれと言っておりまして」
「それは楽しみにしているだろうね」
「はい。ですから、必ず帰るつもりです」
私は頷いた。
何か励ましの言葉をかけようとしたが、うまく思いつかなかった。
必ず帰れると約束することはできない。かといって、無事を祈るという言葉だけでは、あまりにも頼りない気がした。
彼はきっと、家族の前でも同じことを言ったのだろう。必ず帰ると約束し、心配する両親を安心させ、弟には剣の稽古をつけると約束してきたのかもしれない。
それがどれほど切実な願いなのか、私は今になってようやく理解し始めていた。
「……君が故郷へ帰って、弟さんに剣を教えられることを願っているよ」
結局、口にできたのはそれだけだった。
兵士は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下!」
その声を聞きながら、私は馬へ戻った。
六万。
軍議室で聞いたときには、頼もしい数字だと思った。王国がこれほどの兵力を集められるのなら、反乱軍を打ち破ることも難しくないのではないかと、心のどこかで考えていた。
しかし、その六万の中には、今の若者のような兵士が大勢いる。
故郷に家族がいて、帰るべき場所があり、戦争が終わったあとの生活を思い描いている人々だ。彼らは王国のために武器を取ったが、だからといって戦うことだけを望んでいるわけではない。
私は、これまで軍隊というものを少しばかり単純に考えていたのかもしれない。
兵士とは、王国を守るために戦う人間である。
もちろん、それは間違いではない。
だが、彼らは兵士である前に、それぞれの人生を持つ一人の人間なのだ。
その後、私たちは魔導兵団の集結地も訪れた。
こちらでは、野戦軍とは異なる装備を身につけた兵士たちが出征準備を進めていた。魔導士団の一角では、専門器具や術式に関する装備の確認が行われている。術式の調整に必要な器具を慎重に梱包する者もいれば、書類を広げて装備の数量を確認している者もいた。
魔導騎士団の部隊では、武具の点検に加え、部隊ごとの行動手順について打ち合わせが進められていた。騎士たちは剣や防具だけでなく、魔法の運用に必要な装備も確認しており、通常の騎兵とは異なる準備の様子が見て取れる。
その中心にいたのが、ユリアナ副団長だった。
彼女は数名の騎士から報告を受け、手元の資料を確認しながら指示を出している。団長が全体の出征準備を統括する一方、彼女は各部隊の具体的な調整を担当しているようだった。
私たちに気づくと、彼女は近づいて一礼した。
「フェルディナント殿下。視察にお越しでしたか」
「ええ。軍務卿に案内していただいています。準備は順調ですか?」
「大きな問題はございません。ただ、野戦軍との連絡体制については、出征前にもう一度確認する予定です」
「軍議でもお話しされていましたね」
「はい。魔導騎士団だけで戦うのであれば、我々の判断で対応できることも多いのですが、今回は大規模な会戦が想定されます。各部隊が勝手に動いてしまっては、かえって混乱を招きますので」
彼女は簡潔に説明した。
私は頷く。
学院で学んだ魔法の知識が、実際の戦場でどのように用いられるのか。以前なら純粋な興味から尋ねていただろう。
しかし今は、その力が人を傷つけ、あるいは守るために使われるのだと理解している。
「ユリアナ副団長も、今回の戦いに参加されるのですね」
「もちろんです。魔導騎士団の一員として、務めを果たします」
彼女は迷いなく答えた。
その姿を見て、私は少しだけ安心した。
彼女のような経験豊富な軍人が王国を支えている。それは、王太子になったばかりの私にとって、何より心強いことだった。
◇
出征の日が近づくにつれ、王宮の空気はさらに慌ただしくなった。
西部からは連日のように報告が届いている。ハインリヒ殿下を支持するキーリア、シェッチンの諸侯は、既に軍勢の集結を進めていた。
その兵力は、およそ四万。
王軍六万に対して、反乱軍四万。
単純な兵力では王軍が優勢である。
だが、軍議に出席するようになった私は、数字だけで安心できるほど楽観的ではなくなっていた。
「反乱軍はグラニスク方面への集結を進めております」
軍務卿が地図上の駒を動かした。
「我が軍は西へ進軍し、敵主力との決戦を目指します。野戦軍を中心に戦線を構築し、魔導兵団がこれを支援。近衛兵団は陛下と司令部の防衛を担当いたします」
地図上では、王都から西へ延びる街道がいくつもの支流へ分かれ、やがてグラニスク周辺の平野へと続いている。大軍を動かすには補給路の確保が不可欠であり、進軍の順序や各部隊の配置についても慎重な検討が重ねられていた。
王軍は野戦軍の兵力を中心に、魔導兵団の専門戦力を組み合わせて戦う。魔導士団による支援と、魔導騎士団の柔軟な運用が加われば、戦場で取り得る選択肢は多い。近衛兵団が国王と司令部を守ることで、指揮系統の安定も図られる。
少なくとも、準備不足のまま戦場へ向かうわけではなかった。
グスタフ陛下は静かに頷いた。
「長引かせるわけにはいかぬ」
その声には、疲労が滲んでいた。
ヴィルヘルム殿下を失ってから、まだそれほど時間が経っていない。そして今度は、もう一人の息子と戦わなければならないのだ。
陛下がどのような思いでこの軍議に臨んでいるのか、私には想像することしかできなかった。
「西部の反乱が長期化すれば、王国全土に影響が及ぶ。可能な限り早く、事態を収拾したい」
「承知しております」
軍務卿が応じた。
アルフォンスが別の資料を差し出す。
「なお、ザクセンブルク王国については、現時点で中立の立場を維持しております」
ザクセンブルク。
王国南方に位置する国家であり、周辺諸国の中でも相応の軍事力を持つ。国境を接する以上、その動向を無視するわけにはいかない。
「介入の可能性は?」
陛下が尋ねた。
「現時点では、明確な軍事行動は確認されておりません。ただし、国境方面の監視は継続しております」
アルフォンスの答えに、陛下は頷いた。
「警戒を怠るな」
「はっ」
私は地図を見つめた。
西には反乱軍。南にはザクセンブルク王国。そして東には、フロンティア大公国がある。
リカルティールが暮らしている国だ。
彼女は今頃、何をしているのだろう。
王宮へ戻ってきたとき、彼女は七年前と変わらない、いや、以前よりもずっと生き生きとした表情をしていた。自分の人生を、自分の意思で選んでいる人間の顔だった。
そんな彼女が、この戦争のことを知ったらどう思うだろうか。
私は一瞬そんなことを考えたが、すぐに意識を軍議へ戻した。
今は余計なことを考えている場合ではない。
王国の命運を左右する戦いが、目前に迫っているのだから。
◇
軍議が終わったあと、私はグスタフ陛下から呼び止められた。
「フェルディナント。少しよいか」
「はい、陛下」
ほかの出席者たちが退出したあと、私は陛下と二人で軍議室に残った。
広い部屋には、先ほどまで多くの軍高官が集まっていたとは思えないほどの静けさが戻っていた。卓上の地図には、王軍と反乱軍の位置を示す駒がそのまま残されている。
陛下はしばらく地図を眺めていたが、やがて私へ向き直った。
「今回の出征には、お前にも同行してもらう」
「……はい?」
思わず間の抜けた声が出た。
陛下は気にした様子もなく言葉を続ける。
「王軍司令部に同行し、軍の運用を学ぶのだ。無論、前線で兵を指揮させるつもりはない」
「それは、つまり……私も戦場へ向かうということでしょうか」
「そうだ」
あっさりと答えられてしまった。
私は思わず天井を仰ぎたくなった。
王太子に指名されてから、まだ日が浅い。王宮での仕事にも慣れていないというのに、今度は戦場へ同行することになるらしい。
どうやら、王太子という仕事には研修期間というものが存在しないようだ。
「陛下。私はまだ、軍を指揮した経験がありません」
「だからこそ、学ぶ必要がある」
陛下は静かに答えた。
「国王が戦争を命じるということは、兵士たちの命を預かるということだ。勝利すればよいというものではない。戦争によって失われるものを知り、その責任を理解しなければならぬ」
私は黙って耳を傾けた。
「お前はいずれ、この国を背負うことになる。そのとき、軍を動かすという言葉の意味を知らぬままでいてほしくはない」
陛下の言葉には、これまでの軍議とは違う重みがあった。
王国を統治する者としての覚悟。そして、これから自らの息子と戦わなければならない父親の苦悩。その両方が、静かな声の奥に隠れているように思えた。
「陛下も、出征されるのですね」
「無論だ。これは王国の内乱であり、私自身が収拾すべき問題でもある」
陛下は地図へ視線を戻した。
「できることなら、別の形で終わらせたかった」
その言葉は、ほとんど独り言のようだった。
私は何も言えなかった。
ヴィルヘルム殿下の死。ハインリヒ殿下の国王宣言。そして、王国を二つに割る戦争。
陛下が望んだ未来ではないことくらい、私にも分かる。
だが、今さら時間を巻き戻すことはできない。
私自身、ハインリヒ殿下の行動を理解できないわけではなかった。王位継承を巡る問題があり、西部諸侯には長年の不満がある。王国の制度を改めるべきだという主張にも、耳を傾ける価値のある部分は存在するだろう。
しかし、それらが武力による王位の奪取を正当化するわけではない。
そして何より、戦争が始まれば、その結果を引き受けるのは王族だけではないのだ。
私は、先日集結地で言葉を交わした若い兵士の顔を思い浮かべた。
彼のような人々が、これから戦場へ向かう。
「承知いたしました」
私は姿勢を正し、頭を下げた。
「王太子として、陛下に同行いたします」
陛下は静かに頷いた。
「頼むぞ、フェルディナント」
その言葉を聞いたとき、私は初めて、自分が本当に王太子になったのだと実感した気がした。
◇
出征の日。
王都マリアベルクの城門周辺には、多くの人々が集まっていた。
街道には王軍の長い隊列が続いている。野戦軍の兵士たちが整然と進み、各地の諸侯の旗が風にはためいていた。騎兵の馬蹄が地面を打ち、荷車の車輪が石畳を軋ませる。兵士たちの足音と号令が重なり合い、普段は商人や旅人で賑わう街道が、今日ばかりは軍勢のための道となっていた。
魔導兵団の部隊も、定められた順序に従って進軍を開始していた。魔導士団の専門装備を積んだ荷車が続き、魔導騎士団の騎士たちがその周囲を進む。近衛兵団は国王と王軍司令部の周囲を固め、警戒を怠らない。
六万の王軍。
もっとも、その全員が一度に城門を通るわけではない。各部隊は集結地ごとに出発し、補給計画に従って順次西へ向かうことになっている。軍勢が一か所に集中すれば街道が塞がり、補給にも支障が出るためだ。
それでも、私の目の前に広がる光景は、これまで見たことのない規模だった。
私は白と深紅を基調とした軍装に身を包み、馬上から隊列を眺めていた。
金色の髪が風に揺れる。王太子としての装いは立派なものだったが、正直なところ、まだ着慣れた気がしない。胸元の装飾も肩にかかる外套も、公爵家の嫡男として身につけていたものより一段と格式が高く、少々窮屈に感じられた。
もっとも、そんなことを口にすれば、侍従たちから王太子としての自覚が足りないと叱られるに違いない。
近くを通りかかった兵士たちが、私に気づいて敬礼した。
私は姿勢を正し、それに応える。
王都の人々も、城門の周囲から軍勢を見送っていた。兵士たちに声援を送る者もいれば、家族の姿を探している者もいる。子供を抱き上げ、隊列の中にいる誰かへ手を振る女性の姿が見えた。その隣では、年老いた男性が帽子を胸に当て、黙って軍勢を見つめている。
勝利を信じて送り出す人々。
無事の帰還を願う人々。
その表情はさまざまだったが、誰もがこの出征を自分たちの生活に関わる出来事として受け止めていることは、私にも分かった。
そのとき、隊列の中に見覚えのある顔を見つけた。
先日、集結地で言葉を交わした若い兵士だった。
彼は私に気づくと、驚いたように目を見開き、それから背筋を伸ばして敬礼した。
私は小さく頷き、敬礼を返した。
彼には故郷がある。
父と母がいて、帰りを待つ弟がいる。そして、戦争が終われば、その弟に剣の使い方を教えるつもりなのだ。
あの日、彼は必ず帰ると言った。
その言葉を思い出した私は、胸の奥に小さな重みを感じた。
六万という数字の中には、そうした人々が大勢いる。
軍議室で聞いたときには、王国の力強さを示す数字だと思っていた。六万もの兵士が集まれば、どれほどの軍勢になるのだろうと、純粋に感心さえしていた。
だが、今は違う。
六万人が戦場へ向かうということは、六万人の人生が戦争に関わるということでもある。その背後には、彼らの帰りを待つ家族や友人がいて、彼らが戻ることを前提に続いていくはずだった暮らしがある。
もちろん、戦争に勝つことは重要だ。
王国を守り、反乱を鎮め、これ以上の混乱を防ぐためには、王軍が勝利しなければならない。
しかし、勝利という言葉だけでは語れないものが、そこにはあるのだろう。
私は、王軍の隊列を見つめながら、グスタフ陛下の言葉を思い返した。
『国王が戦争を命じるということは、兵士たちの命を預かるということだ』
あの言葉の意味を、今なら少しだけ理解できる気がした。
軍勢の先頭が街道の彼方へと進んでいく。
王国の力が、一つの目的に向かって動き始めた。
この戦いがどのような結末を迎えるのか、今の私には分からない。王軍は兵力で優勢に立ち、十分な準備を整えている。経験豊富な将軍たちが指揮を執り、野戦軍、魔導兵団、近衛兵団がそれぞれの役割を果たすことになっている。
それでも、戦争には何が起こるか分からない。
私はまだ、戦場を知らない。
だからこそ、これから自分の目で見て、学ばなければならないのだろう。
王太子になる前の私は、自由に生きているリカルティールを少しばかり羨ましく思っていた。彼女は自分の意思で王宮を離れ、冒険者として暮らしている。王族としての地位も、用意されていた将来も手放し、自分が望む人生を選んだのだ。
一方、私は父に連れられて王宮へ向かったと思ったら、いつの間にか王太子になっていた。そして今度は、六万の王軍とともに戦場へ向かおうとしている。
どうやら、私の人生は自分で思っていた以上に、私の意思とは無関係に進んでいくらしい。
もっとも、だからといって、何もかもを他人任せにしてよいわけではない。
王太子という地位を引き受けた以上、私にも果たすべき責任がある。
それがどのようなものなのか、今はまだ十分に理解できていない。それでも、少なくとも今日見た兵士たちの姿を忘れずにいることくらいは、できるはずだった。
私は小さく息を吐き、馬の手綱を握り直した。
六万の王軍が、西へ向けて進軍を開始した。
私もその一員として、王都を後にする。
もっとも、王太子になってからというもの、私の意思で決まったことなど一つもない。
……せめて、行き先くらいは自分で決めさせてもらえないものだろうか。




