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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【閑章3】王冠の重さ

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【閑章2話】王国に二人の王


王太子という仕事には、どうやら休日という概念が存在しないらしい。


少なくとも、私が王宮に迎えられてからの数日間、一度たりとも自分の時間を満足に確保できたことはなかった。


朝は侍従に起こされ、食事を終えれば家庭教師たちが待ち構えている。王国史、法制度、外交、軍制、財政、貴族制度。公爵家の嫡男として一通り学んできた内容ばかりだが、王太子となれば求められる理解の深さがまるで違う。


例えば、領地の税収について尋ねられれば、私はこれまで領民の負担と公爵家の収支を考えればよかった。しかし王国全体の税制となると、話はそう簡単ではない。各地の領主が独自に定める税、王室直轄領からの収入、都市の商業税、国境を越える交易品に課される関税。それらが複雑に絡み合い、一つを変更すれば別の地域に影響が及ぶ。


軍制についても同じだった。


公爵家の兵力ならば、父の家臣たちが管理している。だが王国軍となれば、王室直属の常備兵だけでなく、諸侯が保有する兵力や徴募兵、さらには魔法兵団や近衛兵団まで関係してくる。指揮権も単純ではなく、戦時には各地の領主たちとの調整が必要になるという。


私は別に勉強が嫌いなわけではない。むしろ、学ぶこと自体は嫌いではなかった。魔法学院でも成績は悪くなかったし、公爵家の後継者として必要な教育も真面目に受けてきたつもりだ。


ただ、学ぶべきことが際限なく増えていくのは、どうにも困る。


「殿下、本日の午後は宰相閣下との面談がございます。その後、軍務卿より王国軍の編制についてご説明があり、夕刻には陛下の政務会議に陪席していただく予定です」


朝食を終えたところで、侍従が本日の予定を読み上げた。


私は手元の茶器を置き、思わず顔を上げた。


「……昼食は?」


「正午に三十分ほどお時間を確保しております」


「三十分?」


「はい。午後の予定に支障が出ないよう調整いたしました」


なるほど。実に行き届いた配慮である。


昨日までは、昼食をいつ取るかなど自分で決めていた。それが今では、食事の時間まで予定表に組み込まれているらしい。しかも侍従は、私のために十分な休憩時間を確保したとでも言いたげな顔をしている。


「ちなみに、夕食の後は?」


「本日ご説明を受ける資料の確認をお願いしております」


「……そうか」


私は静かに頷いた。


王太子というのは、随分と不自由な仕事なのだな。


今さらながら、ヴィルヘルム殿下が普段どれほど忙しい生活を送っていたのか、少しだけ理解できた気がした。


***


午前の講義を終え、ようやくアルフォンス卿の執務室へ案内されたときには、既に頭の中が王国の法律と財政制度でいっぱいになっていた。


宰相の執務室には、大小さまざまな書類が整然と積み上げられている。机の上には各地から届いた報告書が並び、壁には王国全土を描いた地図が掛けられていた。書類の量だけを見ても、私が午前中に学んだ内容など、彼が日々扱っている仕事のほんの一部に過ぎないのだろう。


「お待ちしておりました、フェルディナント殿下」


「よろしくお願いします、アルフォンス卿」


「本日は現在の王国情勢について、ご説明させていただきます」


そう言って宰相が広げたのは、王国西部の地図だった。キーリア、シェッチンを中心とする地域に、いくつもの印が付けられている。


「ハインリヒ殿下を支持する諸侯は、主にこの一帯に集中しております。以前から王国の制度改革を求めていた領主たちです」


「改革派、というわけですか」


「はい。ただし、彼らの主張がすべて誤っているわけではありません」


私は少し意外に思った。


ハインリヒ殿下は、ヴィルヘルム殿下の暗殺に関与した疑いがある人物だ。アルフォンス卿も、そのことを承知しているはずである。それでも、彼の支持者たちの主張には耳を傾ける必要があるというのだろうか。


「例えば、どのような改革を求めているのでしょうか」


「税制の整理、軍制の統一、商業活動に対する規制の緩和、そして諸侯が保有する権限の再編です。特に西部の領主たちは、隣国との交易を活発にするため、従来の制度を改める必要があると考えています」


アルフォンス卿は地図上の街道を指でなぞった。


「現在、王国内では領地をまたぐたびに通行税が課される地域もあります。商人にとっては大きな負担ですし、物資の流通を妨げる要因にもなっています。これを整理すべきだという主張には、一定の合理性があります」


「それならば、王国として改革を進めればよいのでは?」


「もちろん、そのような議論は以前からございます。しかし、通行税を廃止すれば収入を失う領主もいます。代替財源を用意せずに制度だけを変更すれば、領地経営そのものが成り立たなくなる場合もあるのです」


なるほど。改革を進める側にも理由があり、慎重になる側にも理由があるということか。


公爵家の領地経営について学んでいた頃も、似たような話を聞いた覚えがある。ある地域の税負担を軽くすれば、別の収入源を確保しなければならない。商人にとって都合のよい制度が、必ずしも農村にとってよいとは限らない。王国全体ともなれば、利害関係はさらに複雑になるのだろう。


「軍制についても同様です。ハインリヒ殿下は王国軍の指揮系統を統一し、王室直属の常備軍を拡充する構想をお持ちでした。諸侯ごとに兵を集める現行制度よりも、迅速な動員が可能になるでしょう」


「それは、悪い話ではなさそうですね」


「軍事的には利点があります。ただし、常備軍を維持するには莫大な費用が必要です。また、各領主から兵権を取り上げることにもなりますので、反発は避けられません」


アルフォンス卿は淡々と説明を続けた。


ハインリヒ殿下は、単に王位を欲しがっているだけの人物ではないらしい。少なくとも、彼を支持する領主たちには、それぞれの事情と政治的な目的がある。


私はこれまで、王国の政治というものを父や宰相たちに任せておけばよいと考えていた。しかし、こうして説明を受けると、王国の制度が決して単純なものではないことがわかる。


「では、陛下は改革そのものに反対されているのですか?」


「いいえ。陛下も制度の見直しは必要だとお考えです。ただし、急激な変更によって王国が混乱することを警戒されています。特に諸侯の権限を一度に制限すれば、反発が各地へ広がる恐れがありますので」


「つまり、改革の進め方を巡る対立なのですね」


「それも一因です」


アルフォンス卿はそこで言葉を区切った。


「ですが、今回の問題はそれだけではありません。政治的な意見の相違と、王位継承の正統性は別の問題です」


私は頷いた。


改革を求めることと、国王に逆らって王位を奪おうとすることは、確かに同じではない。政治的な主張にどれほど合理性があったとしても、それを実現するために王国の秩序を破壊してよいという話にはならないだろう。


「ハインリヒ殿下は、今回の王太子指名を受け入れないでしょう」


「……やはり、そうですか」


「既に西部の諸侯との接触を強めているとの報告があります。殿下にも、今後は十分にご注意いただく必要がございます」


その言葉を聞いて、私は少しだけ背筋が寒くなった。


今までの私は、王国の政治的な争いを遠くから眺めていればよかった。誰がどのような政策を主張し、どの領主が誰を支持しているのか。知識として理解する必要はあっても、自分自身がその争いの中心に立つことなど考えたこともなかった。


だが、これからは違う。


私はハインリヒ殿下に代わって王太子に指名された人間なのだ。


本人にそのつもりがなくとも、相手から見れば立派な政敵ということになる。


……何とも迷惑な話である。


***


その日の夕刻、私は父と顔を合わせる機会を得た。


父は王宮での会議を終えたところらしく、私を見つけると軽く手を上げた。


「どうだ、王宮での生活には慣れたか?」


「まったく慣れません」


即答すると、父は珍しく笑った。


「そうか。まあ、最初はそんなものだろう」


「父上は簡単におっしゃいますが、こちらは朝から晩まで予定が詰まっているのですよ。昨日など、夕食を終えた後まで資料を読まされました」


「王太子なのだから当然だ」


「私はまだ指名されたばかりなのですが」


「だからこそ、学ぶことが多いのだろう」


実にもっともな意見だった。


反論できないのが腹立たしい。


私たちは王宮の小さな談話室へ入り、人払いをして向かい合った。窓の外には夕暮れの庭園が広がり、遠くで衛兵の交代を告げる声が聞こえている。王宮に移ってから、こうして父と落ち着いて話す機会はほとんどなかった。


父は侍従が運んできた茶を一口飲むと、改めて私の顔を見た。


「それで、何か話があるのだろう?」


「……ええ」


私は少し迷ってから口を開いた。


「なぜ、私には事前に何も知らせてくださらなかったのですか?」


父は静かに茶器を置いた。


「王太子指名のことか」


「もちろんです。私の人生が変わるような話だったのですよ。せめて一言くらい、相談してくださってもよかったのではありませんか」


父はしばらく考え込んだ。


「正式な決定が下されるまでは、情報を限られた者だけで共有する必要があった。王位継承に関わる問題だからな」


「それは理解できます。ですが、私は当事者でしょう?」


「そうだな」


「それなのに、王宮へ行って初めて聞かされたのです。しかも、書類まで用意されていました」


「手続きが滞らぬよう、アルフォンス卿が準備してくださったのだろう」


「そこを感心している場合ではありません!」


思わず声が大きくなった。


父は少し驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。


「……なるほど。お前は随分と戸惑っていたのだな」


「今さらですか?」


「私には、当然のことだと思えたのでな」


父は窓の外へ視線を向けた。


「兄上はヴィルヘルムを失い、ハインリヒを後継者にすることもできなくなった。王家の血を引き、年齢も相応で、王族としての教育を受けた者となれば、お前が候補に挙がるのは自然なことだ」


「それは、そうかもしれませんが……」


「私は兄上を信頼している。兄上が王国のために必要だと判断されたのなら、弟として支えるつもりだ。そして、その役目をお前が担うことになったのなら、父としても誇らしく思う」


私は黙って父の言葉を聞いた。


父は決して、私の人生を軽く考えていたわけではないのだろう。ただ、父にとっては王国に対する責任が何よりも優先される。それは長年、国王の弟として生きてきた人間の考え方なのかもしれない。


私にとって王太子指名は、突然降って湧いた災難だった。しかし父にとっては、王家の血を引く者が当然果たすべき務めなのだ。その認識の違いは、簡単には埋まりそうになかった。


「……父上は、私が王太子に向いていると思われますか?」


「向いているかどうかは、これから決まることだ」


「随分と無責任なお答えですね」


「最初から王太子に向いている人間など、そうそうおるまい。ヴィルヘルムとて、幼い頃から努力を重ねてきたのだ」


父の表情が、わずかに曇った。


私はそれ以上、軽口を続けることができなかった。


「お前には学ぶ時間が必要だ。だが、幸いにも周囲には優秀な者が揃っている。わからぬことがあれば尋ねればよいし、失敗したならば改めればよい」


「……そうですね」


「少なくとも、何もせずに逃げ出すような息子に育てた覚えはないぞ」


私は苦笑した。


確かに、父の言うとおりだった。


王太子になりたいと思ったことはないが、だからといって与えられた仕事を投げ出すつもりもない。何より、伯父上が私を頼ってくれたことは事実なのだ。その期待に応えられるかどうかはともかく、最初から背を向けるわけにはいかなかった。


「一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」


「何だ?」


「王太子というのは、慣れるものなのでしょうか」


父は少し考え、それから平然と答えた。


「慣れるしかあるまい」


……やはり、そうなるのか。


***


ハインリヒ殿下から正式な抗議が届いたのは、それから間もなくのことだった。


その日の政務会議には、私も王太子として陪席していた。会議室にはグスタフ陛下をはじめ、アルフォンス卿、父、そして軍務を担当する重臣たちが集まっている。


アルフォンス卿が読み上げた文書には、私の王太子指名を認めないというハインリヒ殿下の意思が、明確に記されていた。


「……王位継承の正統な順位を無視し、傍系の者を後継者に据えることは、王国の伝統と秩序を損なう行為である、か」


私は思わず呟いた。


傍系の者。


つまり、私のことだ。


ハインリヒ殿下の立場からすれば、当然の主張なのかもしれない。実の王子である自分を差し置いて、従弟が王太子に指名されたのだから。


だが、こちらとしても好きでその立場になったわけではない。


「陛下、ハインリヒ殿下は王太子指名の撤回を求めております。また、西部の諸侯からも同様の意見が寄せられております」


アルフォンス卿の報告に、会議室がざわめいた。


「指名は国王の権限に基づく正当な措置だ。異議があるならば、正式な手続きを通じて申し立てるべきではないか」


軍務卿がそう述べると、別の重臣が首を振った。


「問題は、ハインリヒ殿下が既に西部諸侯の支持を得ていることです。単なる抗議で終わるとは限りません」


「王国の西部が、王太子指名を認めないというのか?」


「少なくとも、その兆候はございます」


私は黙って議論を聞いていた。


自分の名前が何度も口にされるたびに、妙な居心地の悪さを覚える。フェルディナント・マリアベルク。その名前は、今や王国の政治的な対立を象徴するものになりつつあるらしい。


つい先日まで、私はローゼンハイム公爵家の嫡男として平穏に暮らしていたというのに。


「アルフォンス」


グスタフ陛下が口を開いた。


「ハインリヒには、改めて王都への帰還を命じよ。話し合う余地があるのなら、私はそれを拒まぬ」


「承知いたしました」


「ただし、王太子指名を撤回するつもりはない」


陛下の声は静かだったが、その意思は明確だった。


私はその横顔を見つめた。


実の息子を相手に、これほど厳しい判断を下さなければならない。伯父上がどのような思いでいるのか、私には想像することしかできなかった。


***


その後も、西部から届く報告は日に日に深刻さを増していった。


キーリア、シェッチンを中心とする有力領主たちが、次々とハインリヒ殿下への支持を表明したのである。


最初は政治的な声明に過ぎなかったものが、やがて王都への納税の停止や、王室からの軍役要請に応じないという動きへ変わっていった。さらに、一部の領主は独自に兵力を集め始めたという。


「これは、事実上の反乱準備と見てよろしいでしょう」


アルフォンス卿は、王宮の会議室でそう報告した。


壁に掛けられた地図には、西部の各地に新たな印が付けられている。以前の説明で見たときよりも、その数は明らかに増えていた。


「王都への納税を停止した領主は、既に十家を超えております。軍役の履行を拒む者も増えており、ハインリヒ殿下の周辺には相当数の兵が集まりつつあります」


「王国の軍勢を、王国の内側で相手にすることになるのか」


父が低い声で呟いた。


「その可能性は高いかと存じます」


私は地図を見つめた。


キーリアもシェッチンも、王国にとって重要な都市である。商業が盛んで、人口も多く、周辺には豊かな農地が広がっている。その地域が王都の命令に従わなくなるということは、単に一部の貴族が反抗しているという話ではない。


王国の財政にも、軍事にも、そして人々の暮らしにも影響が及ぶ。


もし王都と西部諸侯の対立が長引けば、街道を行き交う商人たちは通行をためらうだろう。税収は減り、物資の流通も滞る。軍を動員することになれば、農村から働き手が失われ、次の収穫にも影響が出るかもしれない。


王国が分裂するというのは、地図の上に線を引くような単純な話ではないのだ。


「隣国の動向はどうなっている?」


グスタフ陛下が尋ねた。


「ザクセンブルク王国は、現時点では中立の立場を示しております。国境付近で大規模な軍の移動は確認されておりません」


「そうか」


陛下は短く頷いた。


「ただし、王国内の混乱が長引けば、隣国が何らかの行動を起こす可能性はございます」


アルフォンス卿の言葉に、父も同意した。


「王国が内側から割れれば、周辺諸国にとっては好機となる。警戒を怠るべきではありますまい」


私はそこで初めて、今回の問題が王国内だけでは収まらないかもしれないことに気づいた。


王国の内紛は、隣国にとっても無関係ではない。もし戦争になれば、国境を接する国々も動く可能性があるのだ。


王太子になってから、まだ幾日も経っていない。それなのに、私が学ばなければならない問題は、日に日に増えていくばかりだった。


***


決定的な報告が届いたのは、それから数日後のことだった。


私はその日、王国軍の編制について説明を受けていた。諸侯が保有する兵力と王室直属軍の違いについて、ようやく理解が追いついてきたところだった。


そこへ、侍従が慌ただしく入室してきた。


「フェルディナント殿下。陛下より、至急会議室へお越しになるようにとのお達しです」


私は講義を中断し、急いで王宮の奥へ向かった。


会議室には、既に重臣たちが集まっていた。誰もが険しい表情をしており、普段ならば落ち着き払っているアルフォンス卿でさえ、いつも以上に厳しい顔をしている。


「何があったのですか?」


私が尋ねると、アルフォンス卿が一通の文書を差し出した。


「西部より、正式な宣言が届きました」


私は文書を受け取り、目を通した。


そこには、ハインリヒ殿下が自らをマリアベル王国の正統な国王と宣言したことが記されていた。


「……国王?」


思わず声が漏れた。


グスタフ陛下は健在である。王位を譲ったわけでも、退位したわけでもない。それなのに、ハインリヒ殿下は自分こそが正統な国王であると宣言したのだ。


「キーリア、シェッチンを中心とする西部諸侯が、この宣言を支持しております。既に複数の領主がハインリヒ殿下に忠誠を誓ったとの報告もございます」


アルフォンス卿の声は、いつもどおり落ち着いていた。しかし、その内容はあまりにも重大だった。


王国に、二人の国王が存在する。


そんな事態が、本当に起こり得るのか。


私は改めて文書へ目を落とした。そこには、ハインリヒ殿下が自らの王位継承権を主張し、グスタフ陛下による王太子指名を不当なものとして非難する言葉が並んでいる。


その主張を支持する領主たちがいる以上、これは単なる言葉の争いでは済まないだろう。


「陛下」


軍務卿が口を開いた。


「もはや、これ以上の猶予はございません。ハインリヒ殿下は王位を僭称し、王国の秩序を乱しております。王軍を動員すべきかと存じます」


グスタフ陛下は、しばらく沈黙していた。


その表情からは、何を考えているのか読み取れない。私は隣に座る父へ視線を向けたが、父もまた、黙って陛下の判断を待っていた。


やがて、陛下はゆっくりと口を開いた。


「……ハインリヒは、ついにそこまでしたか」


その声には、怒りよりも深い疲労が滲んでいた。


「私は、あれに何度も機会を与えた。王都へ戻り、話し合うよう命じた。だが、あれは自ら王を名乗り、兵を集めた」


陛下は目を閉じ、しばらく沈黙した。


誰も口を挟まなかった。


私には、その沈黙がひどく長く感じられた。


ヴィルヘルム殿下を失ったばかりの父親が、今度は残された息子を反逆者として討伐しなければならない。国王としての責任と、父親としての感情。その二つが、陛下の中でどれほど激しくぶつかり合っているのか、私には想像することしかできなかった。


「……やむを得まい」


陛下が顔を上げた。


「ハインリヒを反逆者と認定する。王国軍を動員し、反乱を鎮圧せよ」


会議室の空気が、一段と重くなった。


アルフォンス卿が深く頭を下げる。


「承知いたしました。直ちに諸侯への動員命令を発します」


「軍の集結地点については、軍務卿と協議のうえ決定いたします」


「兵站の準備も急がねばなりません。長期戦となる可能性を考慮し、各地の備蓄状況を確認いたします」


次々と指示が飛び交い始めた。


軍の動員、兵糧の確保、武具の調達、諸侯への通達、財政措置。王国の中枢が、一斉に動き出したのだ。


私はその光景を、ただ見つめていた。


アルフォンス卿は複数の重臣に指示を出しながら、各地の報告を確認している。父も軍務卿と何やら相談を始めていた。彼らは既に、王軍を動員するために何が必要なのかを理解しているのだろう。


誰もが、自分の役割を理解して動いている。


それに比べて、私はどうだろう。


王太子という肩書きを与えられたものの、今の私には何をすべきなのかさえわからない。軍を動かすために必要な兵糧の量も、諸侯の兵を集結させるまでに要する日数も、資料を見なければ判断できない。


もちろん、ここで不用意に口を挟めば、かえって邪魔になるだけだろう。


だから私は、まず彼らの仕事を見て学ぶことにした。


少なくとも、今の自分にできることはそれくらいだった。


***


その夜、私は王宮の居室で一人、机に向かっていた。


目の前には、今日の会議で配られた資料が広げられている。


王国軍の編制、諸侯の動員可能兵力、各地の備蓄状況、主要街道の輸送能力。つい数日前までなら、父や家臣たちが扱うものだと思っていた書類ばかりだ。


だが、今は違う。


私は王太子なのだ。


ハインリヒ殿下が自らを国王と宣言した以上、私の存在は彼にとって邪魔なものになる。たとえ私自身が王位を望んでいなくとも、その事実は変わらない。


数日前までは、王太子になったこと自体が人生最大の災難だと思っていた。それが今では、王国が内戦に突入しようとしている。


私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


リカルティール殿下は、自分の意思で王宮を飛び出し、冒険者としての人生を選んだ。


私は、そんな彼女を羨ましく思ったことがある。


だが、今になって考えると、彼女が自分の道を選ぶために払った代償も、決して小さなものではなかったのだろう。


王族としての地位も、財産も、将来の保証も捨てて、自分の力で生きていく。私には、そんな覚悟はなかった。だからこそ、公爵家の嫡男という恵まれた立場に満足していたのだ。


しかし、今はその立場さえ失ってしまった。


フェルディナント・フォン・ローゼンハイム。


昨日まで当たり前のように名乗っていた名前は、もう公的な文書には記されない。


私はフェルディナント・マリアベルク。


マリアベル王国の王太子であり、将来の国王として期待される人間だ。


そして、その王国は今、二つに割れようとしている。


伯父上のことを考えると、胸が重くなった。


ヴィルヘルム殿下を失ったばかりだというのに、今度はハインリヒ殿下を反逆者として討伐しなければならない。父親として、これほどつらい決断があるだろうか。


私には、その苦しみを理解しきることなどできない。


だが、伯父上が私を頼ってくれたことだけは確かだった。


私はもう一度、机の上の資料へ視線を落とした。


王太子として何ができるのか、今はまだわからない。それでも、少しずつ学んでいくしかないのだろう。父も、アルフォンス卿も、今の私にすべてを理解することなど求めていないはずだ。


まずは、彼らが何を考え、どのように王国を動かしているのかを知ることだ。そして、いつか自分にも判断を求められる日が来たとき、何も知らないまま周囲に迷惑をかけるようなことだけは避けたい。


私は小さく息を吐き、資料の続きを読み始めた。


それにしても。


王太子になって、まだ数日しか経っていない。それなのに、もう内戦が始まろうとしている。


……これが王太子の仕事だというのなら、せめて最初の一週間くらいは研修期間にしてほしかった。


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