【閑章1話】王太子なんて聞いてない
王弟の息子として生まれたことは、私の人生における最大の幸運だったと思っている。
何しろ、生まれながらにして相応の地位と財産が保証されている。父はローゼンハイム公爵として広大な領地を治め、国政にも深く関わる人物だ。その嫡男である私も、幼い頃から王族の血を引く者として何不自由なく育てられてきた。
もちろん、貴族としての義務がないわけではない。領地経営について学ばなければならないし、社交界での付き合いもある。父の代理として式典に出席することもあれば、領地から届く陳情書に目を通し、家臣たちと相談して対応を決めることだってある。
それでも、私にとっては十分に恵まれた生活だった。
必要な勉強をし、与えられた仕事をこなし、余計な敵を作らずに生きていけばいい。いずれ父から公爵位を継ぎ、領地を治めながら、それなりに優雅な人生を送ることができる。公爵家の当主ともなれば責任は増えるだろうが、父が築き上げた家臣団は優秀だし、領地の経営も安定している。私がよほど愚かな真似をしない限り、家を傾けるような事態にはならないはずだった。
そして何より素晴らしいのは、王位継承という厄介な問題から、ほぼ完全に切り離されていることだ。
伯父にあたるグスタフ国王陛下には、二人の王子がいる。
第一王位継承者のヴィルヘルム殿下は、真面目で優秀な人物だった。王太子としての教育も十分に受けており、いずれ立派な国王になるだろうと誰もが期待していた。私も幼い頃から何度か話をする機会があったが、年少の親族に対しても礼儀正しく、穏やかに接してくれる人だった。
その弟にはハインリヒ殿下がいる。
兄とは少々考え方が異なり、王国の改革について積極的に意見を述べる人物だと聞いている。貴族たちの間でも評価は分かれるらしいが、王族として相応の教育を受けていることに変わりはない。仮にヴィルヘルム殿下に何かあったとしても、王位を継ぐ人間はちゃんと用意されているわけだ。
つまり、私の出番などまず回ってこない。
これほど恵まれた立場があるだろうか。
王家の血筋として遇されながら、国王としての責任を背負わずに済む。公爵家の嫡男というだけで社交界でも相応に尊重されるし、将来の生活に困る心配もない。父のように毎日のように王宮へ登城し、国政に関する難しい問題を抱え込む必要もないのだ。
私は自分の人生設計に、かなり満足していた。
もっとも、そんな平穏な日々にも、最近は暗い影が差している。
第一王位継承者であるヴィルヘルム殿下が、何者かの手によって暗殺されたのだ。
最初にその報せを聞いたときは、さすがの私も耳を疑った。殿下とは幼い頃から面識があり、王宮の行事などで何度も言葉を交わしている。年齢は離れていたが、親族の年少者に対しても礼儀正しく接してくれる人だった。
その殿下が、突然この世を去った。
王都マリアベルクでは厳重な警備のもと国葬が執り行われ、私もローゼンハイム公爵家の一員として参列した。
そこで、思いがけない人物の姿を目にした。
リカルティール殿下である。
七年前に王宮を飛び出して以来、ほとんど消息を聞かなかった従妹だ。
もっとも、彼女とは同い年であり、魔法学院でも同輩だった。王族同士というだけでなく、幼い頃から顔を合わせる機会もそれなりにあったので、私にとっては昔馴染みと言ってもよい存在である。
久しぶりに見た彼女は、ずいぶんと大人になっていた。
学院時代から優秀な人物だったが、今では一人の冒険者として生きているらしい。王宮にいた頃とは雰囲気も変わり、以前よりもずっと自然な表情をしているように見えた。葬儀の場である以上、彼女も悲しみを隠してはいなかったが、それでも昔のように周囲の視線を気にしている様子はない。
七年ぶりに王宮へ戻ってきたというのに、彼女は王女としての生活に戻るつもりなどないのだろう。
自らの意思で王宮を去り、自らの力で生きる道を選んだ。そして今も、その道を歩み続けている。
……羨ましい限りである。
いや、別に私も今の生活に不満があるわけではない。むしろ、十分すぎるほど満足している。王宮の外で冒険者として暮らすなど、私には到底真似できそうもないし、わざわざ今の地位を捨てたいとも思わない。
ただ、自分の進む道を自分で決められるというのは、それだけで随分と贅沢なことなのだと思う。
もっとも、私には王宮を飛び出すほどの理由もなければ、彼女のような行動力もない。公爵家の嫡男として平穏に暮らしていけるのなら、それに越したことはないだろう。
そう考えていた。
国葬が終わってからも、父は連日のように王宮へ登城していた。王都では犯人の捜索が続いているというが、詳しいことは私の耳には入ってこない。父も帰宅すれば書斎に籠もっていることが多く、以前にも増して忙しそうにしていた。
当然だろう。父は国王陛下の弟であり、国政の中枢を担う人物でもある。王太子が暗殺されたとなれば、対応に追われるのも無理はない。
私も何か手伝えることはないかと尋ねたが、父からは領地の仕事を滞りなく進めておくようにと言われただけだった。それならば、言われた仕事をきちんとこなすまでだ。王宮の問題については、父や宰相をはじめとする方々が対応してくれるだろう。
王位継承についても、特に心配はしていなかった。
ヴィルヘルム殿下が亡くなった以上、次の王太子にはハインリヒ殿下が指名されるはずである。多少の混乱はあるだろうが、王国の仕組みそのものが変わるわけではない。
少なくとも、私はそう考えていた。
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「フェルディナント。明日は私と一緒に王宮へ来なさい」
夕食を終え、食後の茶を楽しんでいたところで、父がそう告げた。
「王宮ですか?」
「ああ。陛下からお話があるそうだ」
私は少し考えた。
ヴィルヘルム殿下の国葬は既に終わっている。となれば、今後の王位継承に関する話だろうか。ハインリヒ殿下の王太子指名に伴い、親族として何らかの役割を求められるのかもしれない。
いずれにしても、王家の一員として顔を出さなければならない場面はある。
「承知しました。何時に出発すればよろしいですか?」
「朝食を済ませたら出る。正装しておきなさい」
「わかりました」
それだけの会話だった。
父はいつもどおり落ち着いており、特に変わった様子もない。私は明日の予定を頭の中で組み直し、食後の茶を飲み干した。
翌朝、指定された時刻に玄関へ向かうと、父は既に馬車の前で待っていた。
「おはようございます、父上」
「おはよう。準備はできているな?」
「はい」
馬車に乗り込むと、父は持参した書類に目を通し始めた。私は向かいの座席に腰を下ろし、窓の外へ視線を向ける。
王都マリアベルクの街並みは、普段よりも幾分静かだった。
ヴィルヘルム殿下の死を悼み、店先に黒い布を掲げている商家も多い。街角では兵士の姿が目立ち、王宮へ続く大通りにも警備が増えていた。国葬が終わったとはいえ、王都にはまだ事件の影が色濃く残っている。
「父上」
「何だ?」
「今日のお話というのは、やはり王位継承に関することでしょうか」
父は書類から目を上げた。
「そうだな。お前にも関係のある話だ」
「私にも、ですか?」
「当然だろう。お前も王家の血を引いているのだから」
なるほど。王族の一員として、何らかの儀礼に参加する必要があるのだろう。私は納得して頷いた。
「ハインリヒ殿下の王太子指名も、そろそろ正式に発表されるのでしょうね」
そう口にすると、父は一瞬だけ私を見た。
「……お前は、そう考えているのか」
「ええ。ほかに候補はいらっしゃいませんし」
「ふむ」
父はそれ以上何も言わず、再び書類へ視線を戻した。
何だろう。妙な間があった気もするが、父はもともと口数の多い人ではない。国政に関する話であれば、正式な発表前に軽々しく口にできない事情もあるのだろう。
私は特に気にすることなく、窓の外へ視線を戻した。
このとき、もう少し父の反応を気にしておけばよかったのかもしれない。
いや、仮に気づいたところで、どうにかなったとは思えないのだが。
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王宮に到着すると、私たちは侍従に案内されて奥の執務室へ向かった。
普段ならば儀礼用の広間へ通されることが多いのだが、今日は違うらしい。廊下には近衛兵が一定の間隔で配置され、執務室の前にも二人の兵士が立っていた。
「ローゼンハイム公爵閣下、フェルディナント様。陛下がお待ちです」
扉が開かれ、父に続いて室内へ入る。
そこにはグスタフ国王陛下と、宰相アルフォンス・ヴァルテンベルク卿が待っていた。
思っていたよりも、ずいぶん重々しい顔ぶれである。
「よく来たな、フェルディナント」
「お招きいただき、光栄に存じます。陛下」
私は礼を取った。
伯父上とは幼い頃から面識があるが、公の場では当然ながら国王として接する。もっとも、今日は身内だけの会談らしく、伯父上は私の様子を見てわずかに表情を和らげた。
「そう堅くならなくてよい。座りなさい」
「ありがとうございます」
勧められた椅子に腰を下ろすと、父も隣に座った。アルフォンス卿は国王の傍らに立ち、何枚かの書類を手にしている。
私は少しだけ居心地の悪さを覚えた。
王国の頂点に立つ人物が三人も揃っているのだ。国王陛下、国政に深く関わるローゼンハイム公爵、そして宰相。普段ならば重要な国政会議でもなければ揃わない顔ぶれである。
こんな場所に私が呼ばれる理由が、どうにもわからない。
「フェルディナント」
「はい」
「ヴィルヘルムの件については、お前も聞いているな」
「はい。心よりお悔やみ申し上げます」
伯父上は静かに頷いた。
その表情には、深い疲労が滲んでいるように見えた。国葬の際にも感じたことだが、伯父上はこの短い間に随分と老け込んでしまったように思える。
「……あれは、よい息子だった」
私は返す言葉を見つけられなかった。
伯父上はしばらく沈黙した後、ゆっくりと息を吐いた。
「だが、国王としては悲しんでばかりもいられぬ。王国には次の世代が必要だ」
「おっしゃるとおりかと存じます」
やはり王位継承の話だった。
私は姿勢を正した。
「そこで、私なりに考えた」
「はい」
「フェルディナント。お前を私の養子に迎え、次の王太子に指名することにした」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
国王陛下の御前で、これほど失礼な返事をしたのは生まれて初めてかもしれない。しかし、仕方がない。あまりにも予想外の言葉だったのだ。
今、何と言われた?
養子?
王太子?
誰が?
「……恐れながら、陛下」
「何だ?」
「今、私を養子に迎えるとおっしゃいましたか?」
「そうだ」
「そして、王太子に?」
「うむ」
伯父上は当然のように頷いた。
私は隣の父を見た。
父は落ち着き払った表情で座っている。驚いている様子もなければ、何かを確認しようとする素振りすらない。
「父上?」
「何だ?」
「いえ、その……」
何か言ってほしい。
いや、むしろ止めてほしい。
しかし父は、私の視線に気づいているはずなのに、まるで問題がないという顔をしていた。
「弟よ、お前にも異存はないな?」
伯父上が尋ねる。
「無論です、兄上。フェルディナントにとっても、この上ない名誉でしょう」
父は迷うことなく答えた。
いや、ある。
異存ならある。
少なくとも当事者である私には、山ほどある。
「父上、少しお待ちください。私はまだ何も……」
「フェルディナント」
父が穏やかな声で私を制した。
「陛下から直々にお声がけいただいたのだ。光栄なことではないか」
「それは、もちろんそうですが……」
「ならば何も問題はあるまい」
ある。
ものすごくある。
私は助けを求めるようにアルフォンス卿へ視線を向けた。しかし宰相は、私の心情など知る由もないといった様子で、手元の書類を整えている。
「それでは陛下、養子縁組および王太子指名に関する手続きを進めさせていただきます」
「うむ。頼む」
「既に必要な文書の草案は整えております。正式な布告については、関係諸侯への通知と合わせて調整いたします」
「よろしい」
ちょっと待ってほしい。
なぜ書類がもうできている?
なぜ誰も驚いていない?
なぜ私だけが、この話を今初めて聞いている?
「アルフォンス卿」
「はい、フェルディナント様」
「確認したいのですが、その書類というのは……」
「養子縁組に関するものです。王太子殿下としての待遇についても、既に宮内府と調整を始めております」
「……もう?」
「はい」
実に爽やかな返事だった。
「王宮内の居室についても準備を進めております。今後は王太子としての教育が必要になりますので、日程については後ほどご相談を」
「いや、その前にですね」
「何かご不明な点がございますか?」
不明な点しかない。
そもそも私は、今朝まで普通の公爵家の嫡男だったのだ。王位継承など自分には関係のない話だと思っていたし、将来は父の領地を継いで平穏に暮らすつもりだった。
それが王宮に来てみれば、養子縁組だの王太子指名だの、聞いたこともない話が次々と進んでいる。しかも当事者である私の意思を確認する前に、必要な書類まで用意されているらしい。
まるで、私が最初から了承していたかのようではないか。
「陛下」
私は意を決して口を開いた。
「大変光栄なお話ではございますが、私には王太子などという大役は……」
「フェルディナントも、陛下のお役に立てることを光栄に思っております」
父が言った。
私は思わず隣を見た。
父は実に満足そうな表情をしている。
いや、待って。
私はまだ最後まで言っていない。
「そうか。期待しているぞ、フェルディナント」
伯父上も満足そうに頷いた。
「……はい」
返事をしてしまった。
いや、違う。今のは了承の返事ではなく、単なる相槌だ。そう説明しようとしたときには、アルフォンス卿が次の書類を差し出していた。
「では、こちらをご確認ください」
私は差し出された書類を受け取り、しばらく文字を眺めた。
そこには、私の名前と、新たに与えられる地位について記されている。
フェルディナント・マリアベルク。
見慣れたローゼンハイムの家名が、そこにはなかった。
……本当に、私が王太子になるのか?
私は改めて三人の顔を見渡した。
伯父上は真剣な表情でこちらを見ている。父は誇らしげに頷いている。アルフォンス卿は次の手続きを説明する準備をしている。
誰一人として、この状況をおかしいと思っていないらしい。
もしかして、おかしいのは私の方なのだろうか。
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「ですが、陛下」
私はどうにか気持ちを立て直し、もう一度口を開いた。
「ハインリヒ殿下は、どうなさるおつもりなのでしょうか」
その名前を出した途端、室内の空気が変わった。
伯父上の表情から、先ほどまでの穏やかさが消える。父も口を閉ざし、アルフォンス卿は手元の書類を置いた。
「……ハインリヒを、王太子にするつもりはない」
伯父上は静かに言った。
「それは、なぜでしょうか」
私には理解できなかった。
ヴィルヘルム殿下が亡くなった以上、次の王位継承者はハインリヒ殿下になるはずだ。それが自然な流れではないのか。
伯父上はすぐには答えなかった。
代わりに、父へ視線を向ける。
父は小さく頷いた。
「フェルディナント。お前にも、そろそろ知っておいてもらわねばならん」
「何を、でしょうか」
「ヴィルヘルム殿下の暗殺についてだ」
私は背筋を伸ばした。
父は普段よりも低い声で続けた。
「我々は、あの事件にハインリヒ殿下が関与していると考えている」
「……え?」
今度は、先ほどとは違う意味で言葉を失った。
ハインリヒ殿下が?
実の兄を?
「まさか……」
「確かな証拠はない」
伯父上が口を開いた。
「だが、私にはわかる。あれが何を望み、何を考えているのか」
その声には、怒りよりも深い悲しみがあった。
「ヴィルヘルムが生きている限り、ハインリヒが王位を継ぐことは難しかった。だが、兄が死ねば状況は変わる」
「しかし、それだけで……」
「もちろん、それだけではない」
アルフォンス卿が静かに言葉を継いだ。
「事件の前後におけるハインリヒ殿下の動向、関係する貴族たちの動き、そして王位継承を巡る情勢。複数の事情を総合したうえで、陛下はご判断されています」
「では、証拠は……」
「残念ながら、公式に罪を問えるだけのものはありません」
私は黙り込んだ。
ヴィルヘルム殿下の暗殺は、王国中を震撼させた事件だ。その黒幕が、実の弟かもしれない。しかも、父も伯父上も、宰相までもがその可能性を深刻に受け止めている。
そんな話を、私は今まで何も知らなかった。
考えてみれば、父が連日のように王宮へ登城していたのも、単に暗殺事件の対応に追われていたからではなかったのだろう。王国の後継者をどうするのか、誰を信じ、誰に国の未来を託すのか。私が領地の書類に目を通している間に、彼らはそんな問題について話し合っていたのだ。
そして、その結論が私だった。
「……だから、私なのですか」
ようやく、それだけを口にした。
伯父上は静かに頷いた。
「ハインリヒに王位を継がせるわけにはいかぬ。だが、王国には正統な後継者が必要だ」
私は膝の上に置いた書類へ目を落とした。
そこには、フェルディナント・マリアベルクという名前が記されている。
先ほどまでは、まるで現実味のない文字だった。だが今は、その意味が少しだけわかる気がした。
私は単に、王太子として選ばれたわけではない。
ハインリヒ殿下に代わる王位継承者として、指名されたのだ。
つまり、ハインリヒ殿下から見れば、私は自分の王位継承を妨げる人間ということになる。
それは単に、面倒な仕事が増えるという話ではない。
王国の政治に深く関わり、時には他者の反感を買い、場合によっては命を狙われることさえあるかもしれない。父が日頃から背負っている責任よりも、さらに重いものが私の肩に乗せられようとしているのだ。
……いや、待ってほしい。
そんなもの、私は一度だって欲しいと言っていない。
「フェルディナント」
伯父上が私の名を呼んだ。
「突然のことで、戸惑っているだろう」
「……はい」
「だが、私にはお前の力が必要なのだ」
私は顔を上げた。
伯父上はまっすぐにこちらを見ていた。
その表情には、国王としての威厳だけでなく、身内を頼る一人の男の苦悩も浮かんでいた。
私は何も言えなかった。
ヴィルヘルム殿下を失い、残された息子にも疑念を抱かなければならない。王国の未来を守るために、実の息子ではなく甥を後継者に選ばなければならない。
そんな伯父上が、私を頼っている。
それがわかってしまった以上、先ほどまでのように、ただ嫌だと駄々をこねることもできなかった。
「……私に、務まるでしょうか」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
伯父上はわずかに表情を和らげた。
「最初から何もかもできる者などおらぬ。アルフォンスも、お前の父もいる。学びながら務めればよい」
「……承知しました」
私は深く頭を下げた。
もちろん、すべてに納得したわけではない。
王太子になりたいと思ったことなど、一度もないのだから。
それでも、伯父上の願いを拒むことはできなかった。
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会談が終わり、執務室を出たときには、すっかり昼が近づいていた。
私はアルフォンス卿に案内されながら、王宮の廊下を歩いていた。
「まずは王太子殿下のお住まいになる居室をご案内いたします。その後、今後の教育日程についてご相談させてください」
「……もう、そこまで決まっているのですか」
「はい。宮内府には既に準備を指示しております」
「そうですか……」
何という手際の良さだろう。
さすがは王国の宰相である。国政の中枢を担う人物というのは、やはり仕事が早い。
できれば、その有能さを私の人生をひっくり返すこと以外に使ってほしかった。
父は先ほど、別の公務があると言って先に帰ってしまった。去り際には私の肩を叩き、「しっかり励みなさい」と、実に満足そうな顔で言い残していった。
励むも何も、私はまだ状況を飲み込めていない。
それでも王宮の侍従たちは、既に私を新たな王太子として扱い始めている。廊下ですれ違うたびに深く頭を下げられ、そのたびに居心地の悪さが増していく。
これまでだって、公爵家の嫡男として相応の礼遇を受けてきた。だが、王太子に対する態度は明らかに違う。彼らは私個人ではなく、将来の国王となる人物に頭を下げているのだ。
その違いを意識した途端、急に背筋が重くなったような気がした。
「王太子殿下、こちらでございます」
案内役の侍従が、恭しく扉を開いた。
私は思わず足を止めた。
王太子殿下。
その呼び方が、自分に向けられている。
どうやら、本当に後戻りできないらしい。
私は静かに息を吐き、開かれた扉の向こうへ足を踏み入れた。
今朝までの私は、自分の人生にかなり満足していた。王弟の息子として生まれ、十分な財産と地位があり、将来の心配もほとんどない。王位継承という厄介な問題からは距離を置き、いずれ公爵家を継いで、ほどほどに働きながら平穏な人生を送る。
そんな未来を疑ったことは、一度もなかった。
国葬で久しぶりに見かけたリカルティール殿下のことが、ふと頭をよぎる。
彼女は自ら王宮を飛び出し、自分の人生を選んだ。私はそんな彼女を少し羨ましく思いながらも、自分には自分の恵まれた人生があるのだからと納得していた。
まさか、その数日後に、こんなことになるとは思いもしなかった。
私はまだ二十三歳だ。人生はこれからだというのに、王国の未来だの王位継承だの、そんな大それたものを背負うことになるなんて。
……誰か教えてほしい。
王太子というのは、辞表を出せる仕事なのだろうか。




