第91話 祭りのあと
あれほど楽しかった宴会にも、当然ながら代償というものがある。
私とタクマがそれを思い知ったのは、ギルドの酒場で目を覚まし、とんでもない金額の請求書を確認した直後のことだった。
何とか自宅まで帰り着いたものの、二人とも頭痛と気怠さがひどく、結局その日はほとんど寝室から出ることができなかった。お腹は空いているのに食欲がなく、水を飲むために起き上がるだけでも一苦労だった。普段なら多少の疲れなど気にせず動き回っているタクマまで、寝台に横になったまま天井を見つめているのだから、よほどひどい状態だったのだと思う。
途中で彼が何か食べるものを作ろうとしてくれたけれど、台所へ向かったきり、しばらく戻ってこなかった。心配になって様子を見に行くと、タクマは椅子に座り、両手で頭を抱えていた。
「……タクマ、大丈夫?」
「……駄目かもしれない」
「……私も」
結局、二人で水だけ飲んで寝室へ戻ることになった。
あの夜、私たちはいったいどれほど飲んだのだろう。途中から記憶が曖昧なので、正確なところは分からない。ただ、翌朝の酒場に転がっていた冒険者たちの姿を思い出す限り、私たちだけが特別に飲みすぎたわけではなさそうだった。
もっとも、それで頭痛が軽くなるわけではないのだけれど。
◇
翌朝、ようやく体調が戻った私たちは、久しぶりにまともな朝食を取っていた。
焼いたパンに卵料理、それから温かい野菜のスープ。特別な料理ではないけれど、昨日ほとんど何も食べられなかったせいか、いつも以上に美味しく感じられた。窓から差し込む朝日も、昨日は眩しくて仕方がなかったのに、今日は心地よく感じられる。
「……しばらくお酒はいいかな」
私がそう呟くと、向かいに座ったタクマが深く頷いた。
「俺もそう思う。少なくとも、あんな飲み方はもうしない」
「ふふっ。タクマ、すごかったもんね」
「……リカもな」
「えっ?」
「エリナに何をしたか、覚えてるか?」
私はパンを持ったまま固まった。
そういえば、宴会の途中でエリナが来て、それからフリーダが何か言っていたような気がする。エリナが怒っていたことも覚えているし、いつの間にか彼女まで酒を飲み始めていたことも、ぼんやりと記憶に残っている。
けれど、その理由となると、どうにも思い出せなかった。
「……何かしたっけ?」
「……いや、覚えてないなら、今はいい」
「ちょっと! 気になるじゃない!」
「俺も全部覚えてるわけじゃないんだよ。クルシュに聞いた方が早いかもしれない」
タクマは苦笑しながらスープを口に運んだ。
その様子を見ていると、何となく嫌な予感がしてくる。エリナが怒っていたということは、きっと私は何か余計なことをしたのだろう。しかも、タクマが詳しく話そうとしないところを見ると、あまり褒められた行動ではなかったらしい。
今度会ったら、ひとまず謝っておいた方がよさそうだった。
「……でも、楽しかったね」
私が話題を変えると、タクマの表情が柔らかくなった。
「ああ。楽しかったな」
「みんな、すごく喜んでくれてた」
「そうだな。あんなに大勢から祝ってもらえるとは思わなかったよ」
彼は少し照れくさそうに笑った。
正式にA級冒険者となったタクマは、今ではこの街でも指折りの実力者ということになる。
もちろん、冒険者の等級は単純な強さだけで決まるものではない。依頼の達成実績や信用、危険な状況での判断力なども評価されるし、同じA級でも得意とする分野は違う。それでも、ギルドが彼をA級に認めたという事実には、大きな意味があった。
森で初めて出会った頃のタクマは、この世界のことを何も知らなかった。冒険者という仕事についても、魔法についても、魔獣についても、最初は私が一つずつ説明していたのだ。ギルドで登録を済ませたあとも、依頼の選び方や報酬の受け取り方など、覚えなければならないことはいくらでもあった。
それが今では、私と肩を並べて依頼を受け、危険な戦いでは背中を預けられる相手になっている。
タクマが努力してきたことは、誰よりも近くで見てきたつもりだった。
ハーケンの稽古で何度も打ち倒され、それでも翌日にはまた木剣を握っていたこと。ボーマンの厳しい修行に苦しみながらも、少しずつ剣の腕を磨いていったこと。そして、実戦の中で何度も危険な目に遭いながら、決して諦めなかったこと。
その一つひとつが、今の彼につながっているのだと思う。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「改めて、A級昇格おめでとう」
彼は一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、リカ」
私は食卓越しに手を伸ばし、彼の手に触れた。タクマも自然に握り返してくれる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が温かくなった。
街を襲ったスタンピードは終わり、私たちはこうして同じ食卓を囲んでいる。命を落としていてもおかしくなかった戦いを乗り越えたあとだからこそ、こんな何気ない時間が、以前よりもずっと大切に感じられた。
◇
それから数日が経ち、ノヴァグラードは少しずつ普段の賑わいを取り戻していた。
もちろん、街のすべてが元通りになったわけではない。
城壁の一部にはまだ修復用の足場が組まれているし、門の外では職人たちが忙しそうに働いている。魔獣の襲撃で傷んだ街道の整備も続いていて、荷車の往来にはまだ多少の制限があるらしかった。
戦いで怪我をした人たちの中には、今も療養を続けている人がいる。そして、帰ってこなかった人たちもいた。
街のあちこちで見かける新しい花束や、喪服姿の人々を見るたびに、あの戦いが決して手放しで喜べるものではなかったことを思い知らされる。勝利を祝うことと、失われた命を悼むことは、どちらか一方だけを選べるものではないのだろう。
それでも、人々は暮らしていかなければならない。
市場には商人たちの声が戻り、パン屋の前には焼きたての香りが漂っている。子供たちは通りを走り回り、荷物を積んだ馬車が石畳の上をゆっくりと進んでいた。職人たちは壊れた建物を修理し、商人たちは不足している品物を仕入れ、街の人々はそれぞれの仕事へ戻っていく。
そうした一つひとつの営みが、ノヴァグラードを少しずつ元の姿へ戻しているのだと思う。
私とタクマは、そんな街を並んで歩いていた。
「今日は何を買うんだっけ?」
「野菜とお肉。それから、パンも買っておこうかな」
「分かった。じゃあ、先に市場へ行くか」
「うん!」
買い物籠を持ってくれているタクマの隣を歩きながら、私は周囲の景色を眺めた。
スタンピードが起きる前は、こうして二人で買い物をすることが当たり前だった。けれど、あの騒ぎの最中には、こんな日常が戻ってくることさえ、確かなことではなかったのだ。
「聖女様!」
突然、通りの向こうから声をかけられた。
振り返ると、若い女性がこちらへ駆け寄ってくる。その隣には、小さな男の子がいた。
「あっ、こんにちは!」
「この前は、本当にありがとうございました!」
女性は深々と頭を下げた。
私は少し考えてから、ようやく思い出した。
スタンピードのあと、治療を行った人たちの中に、この女性の息子さんがいたのだ。脚に大きな怪我を負っていたけれど、幸い、魔法で傷を塞ぐことができた。
「もう大丈夫なの?」
「はい! おかげさまで、すっかり元気になりました」
女性が微笑むと、男の子も元気よく頷いた。
「もう走れるよ!」
「そうなんだ! よかったね!」
私はしゃがみ込み、男の子と目線を合わせた。
彼は少し照れくさそうに笑ったあと、母親の後ろへ隠れてしまった。けれど、私が手を振ると、小さな手を伸ばして振り返してくれる。
その姿を見て、私も笑顔になった。
あのとき必死になって魔法を使ったことが、こうして誰かの日常につながっている。
傷を治す魔法は、私にとって研究を重ねてきた技術の一つだった。けれど、治療を受けた人にとっては、その後の暮らしを取り戻すための大切な助けになっているのだろう。
それが分かるだけで、十分だった。
「本当に、ありがとうございました。聖女様のおかげです」
「そんな、大げさだよ。元気になってくれてよかった」
女性と別れて歩き出すと、タクマが隣で微笑んでいた。
「すっかり聖女様だな」
「もう、タクマまで!」
「でも、嬉しいだろ?」
「……うん」
私は素直に頷いた。
聖女と呼ばれることには、まだ少し慣れない。私はただ、自分にできることをしただけなのだから。
それでも、助けた人が元気になって、こうして笑いかけてくれることは嬉しかった。
少し歩いたところで、今度はタクマが声をかけられた。
「おっ、英雄様じゃねえか!」
通りの脇にいた冒険者たちが、こちらへ手を振っている。
「よう、タクマ! A級昇格おめでとう!」
「ありがとう」
「いやあ、この前の酒は美味かったぜ! 次はいつおごってくれるんだ?」
タクマの顔が、何とも言えないものになった。
「……勘弁してくれ。もうしばらく宴会はごめんだ」
「はははっ! そりゃそうだ!」
冒険者たちは大笑いしていた。
私もつられて笑ってしまう。
どうやら、あの宴会はしばらく語り草になりそうだった。もっとも、タクマが払った金額を考えれば、そう簡単に忘れられても困るのだけれど。
「……もう二度と、酒場全員におごるなんて言わない」
冒険者たちと別れたあと、タクマが小さく呟いた。
「ふふっ。でも、みんな喜んでたよ?」
「それはそうなんだけどな……」
彼は苦笑しながら買い物籠を持ち直した。
私はその横顔を見上げ、何だか嬉しくなった。
この街に来たばかりの頃、タクマは知り合いさえほとんどいなかった。けれど今では、歩いているだけで大勢の人たちから声をかけられる。
私が長い時間をかけて築いてきた居場所の中に、いつの間にかタクマも自然に溶け込んでいた。
いや、それだけではない。
彼は彼自身の力で、多くの人たちから信頼されるようになったのだ。
それが、私はとても誇らしかった。
◇
その日の夕方、買い物を終えた私たちは、自宅でのんびりと過ごしていた。
タクマは居間の椅子に座って剣の手入れをしている。私はその近くで、読みかけだった魔法の研究書を開いていた。
窓から差し込む夕方の光が床を照らし、開け放した窓からは、遠くの通りを行き交う人々の声が聞こえてくる。時折、風がページを揺らすので、私は片手で本を押さえながら、気になる記述を読み返していた。
静かで、穏やかな時間だった。
こうして何も予定のない夕方を過ごすのは、随分と久しぶりな気がする。
スタンピードの前から、私たちは慌ただしい日々を送っていた。王都への旅もあったし、帰ってきてからはタクマの修行や私の魔法研究もあった。二人で同じ家に暮らしていても、落ち着いて過ごせる時間は意外と少なかったのだ。
ようやく、少し落ち着けるようになったのだと思う。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「今度、久しぶりに遠出しない?」
「遠出?」
「うん。依頼じゃなくて、普通に遊びに行くの」
タクマは少し考えてから笑った。
「いいな。どこか行きたいところがあるのか?」
「まだ決めてないけど……湖とか、森とか」
「森は普段から行ってるだろ」
「そうだけど! 魔獣を倒しに行くんじゃなくて、のんびりしたいの!」
「ああ、なるほど」
彼は納得したように頷いた。
「じゃあ、弁当でも持って行くか」
「いいね!」
私は嬉しくなって、本を閉じた。
タクマと一緒なら、どこへ行っても楽しいと思う。遠くの街へ旅をするのもいいし、近くの湖で一日過ごすのもいい。何なら、何もせずに家でのんびりしているだけでも構わない。
ただ、せっかくスタンピードも終わったのだから、今度くらいは危険な依頼のことを忘れて、二人でゆっくり過ごしてみたかった。
そんなことを考えていたときだった。
玄関の扉が、控えめに叩かれた。
「……誰だろう?」
私は立ち上がり、玄関へ向かった。
扉を開けると、そこにはシエラが立っていた。
「あっ、シエラ!」
「……リカ」
「どうしたの? 今日は一人?」
「うん」
いつものように短い返事だった。
けれど、何となく様子が違う。
普段のシエラは、何を考えているのか分かりにくいほど表情を変えない。今日もそれは同じなのだけれど、その目には、いつもより少し硬いものが宿っている気がした。
「……話がある」
その一言で、私は何となく察した。
シエラがこういう顔をして訪ねてくるときは、決まって普通の冒険者としての用事ではない。
彼女が本来、誰の命令でこの街にいるのか。それを知っている私には、思い当たることがあった。
「……分かった。入って」
私はシエラを居間へ案内した。
タクマも彼女の様子を見て、すぐに剣を片づけた。
「シエラ、何かあったのか?」
「……うん」
私はお茶を用意し、三人で卓を囲んだ。
普段なら、シエラは私たちの家に来ても、特に遠慮することなくくつろいでいく。何も言わずにお茶を飲み、気が向けば少し話をして帰る。
けれど、今日は違った。
彼女は出されたお茶にも手をつけず、私の顔をじっと見つめていた。
「……リカ」
「うん」
「……マリアベルクが陥落した」
その言葉を聞いた瞬間、私は何も答えられなかった。
マリアベルク。
マリアベル王国の王都。
私が生まれ、十五歳まで暮らしていた街。
七年前に逃げ出してから、ずっと遠ざけてきた場所だった。
「……陥落?」
ようやく、それだけを口にした。
シエラは静かに頷く。
「ハインリヒ殿下の軍が、王都を制圧した」
私は思わず、膝の上で手を握りしめた。
ハインリヒお兄様が、王都を。
頭では、いつかこうなる可能性があると分かっていた。ヴィルヘルムお兄様が亡くなり、王位継承を巡って王国が分裂した。父がハインリヒお兄様を王太子に指名しないと決めた以上、対立が深まることは避けられなかったのだろう。
それでも、実際に王都が陥落したと聞かされると、簡単には受け止められなかった。
あの街には、私が知っている人たちが大勢いる。王宮で働いていた人たちも、城下町で暮らしていた人たちもいる。
そして、何より。
「……お父様は?」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
シエラはすぐに答えてくれた。
「……グスタフ陛下は無事。王国軍の残存部隊とともに、メルキアへ撤退した」
「……そう」
私は大きく息を吐いた。
胸の奥に詰まっていたものが、少しだけ軽くなる。
「……お父様は、無事なのね」
「うん」
シエラがもう一度頷いた。
私は卓の上に置かれたお茶へ視線を落とした。
父が無事だった。
そのことに安堵している自分がいた。
七年前、私は父の決めた道を拒み、王宮を逃げ出した。私の魔法の力を王国のために使わせようとした父に、反発したこともある。王族として生まれたのだから当然だと言われることが、どうしても受け入れられなかった。
けれど、だからといって父のことを嫌いになったわけではない。
厳しい人だったけれど、優しかった思い出だってある。幼い頃、魔法の勉強で褒めてもらったこともあれば、王宮の庭を一緒に歩いたこともあった。
もちろん、そうした思い出があるからといって、父の決めた道を受け入れられるわけではない。王女としての私に求められていた役割と、娘として父を慕う気持ちは、私の中でずっと折り合いがつかないままだった。
それでも、父が生きていると聞いて安心した。
その気持ちだけは、間違いなく本物だった。
しかも、今の父は王都を追われている。
ヴィルヘルムお兄様を失い、ハインリヒお兄様と敵対し、ついには長く治めてきた王都まで失った。
王としてどれほど厳しい状況に置かれているのか、私には想像することしかできない。けれど、父親としてどれほどつらい思いをしているのかは、少しだけ分かるような気がした。
「……お父様、つらいだろうな」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
タクマが隣からそっと手を伸ばし、私の手を握ってくれた。
私はその温かさに少しだけ救われながら、シエラへ視線を戻した。
「……王都の人たちは?」
「まだ、詳しいことは分からない」
「そう……」
「王国軍は戦力を残すために撤退した。王都に残った人たちの状況は、確認中」
シエラの報告は簡潔だった。
けれど、彼女が今知っていることを、できるだけ正確に伝えようとしてくれているのは分かった。
王都が陥落したからといって、街に暮らす人々が全員危険な目に遭ったとは限らない。新しい支配者のもとで、これまでと同じ生活を続けられる人もいるだろう。
ただ、それが本当に平穏なものになるかどうかは、まだ誰にも分からない。
私は、かつて暮らしていた王都の風景を思い浮かべた。
王宮へ続く大通り。石造りの建物が並ぶ街並み。魔法学院へ通うために何度も通った道。
七年前に逃げ出した場所だというのに、思い出そうとすれば、その景色は今でもはっきりと浮かんでくる。学院へ向かう馬車の窓から見た朝の街並みも、王宮の庭から眺めた夕暮れの空も、私の記憶の中では何一つ変わっていなかった。
そこに、今は反乱軍の旗が掲げられているのだろうか。
そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。
◇
シエラから一通りの報告を聞いたあと、私はしばらく黙っていた。
タクマもシエラも、急かすことなく待ってくれている。
王都が陥落した。父はメルキアへ撤退した。そして、ハインリヒお兄様は王都を手に入れた。
たったそれだけの言葉で片づけられる出来事ではなかった。
王国の中では、今も大勢の人々が戦っているのだろう。王都を守ろうとした兵士たちもいれば、反乱軍に加わった兵士たちもいる。そのどちらにも家族がいて、帰る場所がある。
私は王宮を離れて七年になる。
今の王国がどんな状態なのか、すべてを知っているわけではない。王都で暮らす人々が今回の内戦をどう受け止めているのかも、父を支持する人とハインリヒお兄様を支持する人が、それぞれ何を考えているのかも分からなかった。
それでも、そこで起きていることが、決して他人事ではないということだけは分かった。
「……リカ」
タクマが静かに声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「……うん」
私は頷いた。
少し考えてから、もう一度口を開く。
「……私は、王宮には戻らないよ」
タクマは何も言わず、私の言葉を聞いていた。
シエラも静かに頷く。
「分かってる」
その返事に、私は少しだけ笑った。
シエラは、私がどうして王宮を逃げ出したのかを知っている。私が自由を求めていたことも、王族としての暮らしに戻るつもりがないことも。
だから、今さら王国のために戻れとは言わないのだろう。
「でもね、お父様のことが心配じゃないわけじゃないんだ」
私はゆっくりと言葉を続けた。
「王都にいる人たちだって、無事でいてほしいと思ってる。あそこには、私が知っている人もたくさんいるから」
「……うん」
「ただ、私が王宮に戻ったところで、何かが解決するわけじゃないと思うの」
王族として戻れば、私にも何らかの役割を求められるだろう。
魔法の力を使うように言われるかもしれないし、王家の一員として政治的な立場を取るように求められるかもしれない。
私が姿を現すことで、誰かが希望を抱くこともあるだろう。けれど、その希望が必ずしも私自身の望みと同じ方向を向いているとは限らない。
王家の血を引く者として何かを期待され、その期待に応えるために自分の生き方を変える。
それは、私が七年前に拒んだ生き方だった。
父を心配する気持ちと、自分の人生を王家に差し出すことは、同じではない。
私は、ようやくその二つを別々に考えられるようになっていた。
「……でも、もし本当に助けが必要な人がいたら、そのときは考えたい」
私はシエラを見つめた。
「王女としてじゃなくて、冒険者として。私にできることがあるなら、何もしないでいるつもりはないよ」
シエラは少しだけ目を細めた。
「……それでいい」
いつもと変わらない短い言葉だった。
けれど、その声は少しだけ優しく聞こえた。
タクマも隣で頷いた。
「俺も、リカがそうしたいなら力になるよ」
「……ありがとう、タクマ」
「ただ、無理はするなよ。俺たちだけで何でもできるわけじゃないんだから」
「うん。分かってる」
私は彼の手を握り返した。
昔の私なら、きっと一人で何とかしようとしたかもしれない。自分には強い魔法があるのだから、困っている人を助けなければならない。そんなふうに考えて、無茶をしてしまったこともある。
けれど、今は違う。
タクマがいる。フリーダも、クルシュも、シエラもいる。
頼れる人たちがいて、私が困ったときには手を差し伸べてくれる。
そのことを、私はこの街で学んだのだと思う。
◇
シエラが帰ったあと、私とタクマは夕食の支度を始めた。
外はすっかり夕暮れになり、窓の向こうには家々の明かりが灯り始めている。通りからは仕事を終えて帰宅する人々の声が聞こえ、どこかの家からは夕食を作る香りが漂ってきた。
台所に立つと、いつものようにタクマが野菜を切り、私は鍋の準備をした。
包丁がまな板を叩く音と、鍋の中で水が温まる音が、静かな家の中に響いている。
ほんの少し前まで、私たちは王都陥落という大きな出来事について話していた。
けれど、今はこうして夕食を作っている。
遠く離れた王国で戦争が続いていても、ノヴァグラードの人々の生活が止まるわけではない。私たちだって、食事をして、眠って、明日を迎えなければならない。
それは、何も考えていないということではなかった。
ただ、自分たちが今いる場所で、生きていくということなのだと思う。
「……リカ」
野菜を切っていたタクマが、ふと手を止めた。
「ん?」
「本当に大丈夫か?」
私は少し考えた。
大丈夫かと聞かれれば、何も気にならないわけではない。父のことも心配だし、王都に残っている人たちのことも気になる。これから王国がどうなってしまうのか、分からないことも多かった。
それでも、今すぐ何かを決めなければならないわけではない。
遠く離れた故郷のことを心配しながら、目の前の暮らしを大切にすることだってできるはずだった。
「……うん。ちょっと驚いたけどね」
「そうか」
「でも、心配はしてるよ。お父様のことも、王都のみんなのことも」
私は鍋をかき混ぜながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「ただね、タクマ。私、あそこへ帰りたいとは思わないんだ」
彼は静かに私を見つめていた。
「王都には、懐かしい思い出もあるよ。嫌なことばっかりだったわけじゃないし、会いたい人だっている」
幼い頃の私にとって、王宮は世界のすべてだった。
広い庭も、魔法学院も、王宮の図書室も。
そこで過ごした時間まで、すべて否定するつもりはない。私が魔法を学ぶ楽しさを知ったのも、今の私につながる知識を身につけたのも、あの場所だった。
けれど、あの場所で私は、いつも誰かが決めた役割を果たすことを求められていた。
王女として振る舞い、王家のために学び、王国のために魔法を使う。
それが当たり前だと言われるたびに、私は自分が何をしたいのか分からなくなっていった。
どれほど魔法が上達しても、どれほど知識を身につけても、その力をどう使うかを決めるのは自分ではない。
そんな生き方を、私は受け入れることができなかった。
だから、逃げ出した。
そして、この街へ来た。
「……今の私が帰る場所は、ここだから」
私はタクマを見上げた。
彼は少しだけ目を細め、優しく頷いた。
「そうだな」
「それに、タクマもいるし」
「俺も、ここが好きだよ」
そう言って笑う彼を見て、私も自然に笑顔になった。
タクマだって、最初からこの街の人間だったわけではない。
彼は私よりもずっと遠い場所から、突然この世界へやって来たのだ。
家族も、友人も、慣れ親しんだ暮らしも、何もかもが違う世界に置いてきてしまった。
それでも、彼はこの世界で生きていくことを選び、努力を重ねてきた。
今ではA級冒険者となり、大勢の仲間たちに囲まれている。
私がこの街に居場所を見つけたように、タクマもまた、自分の居場所を作り上げたのだ。
もちろん、彼にとって元の世界が大切でなくなったわけではないだろう。いつか日本へ戻り、自分が無事でいることを伝えたいという気持ちも、私は知っている。
それでも、今こうして私の隣にいてくれる。
それが、何よりも嬉しかった。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「これからも、よろしくね」
彼は少し驚いたような顔をしたあと、笑った。
「こちらこそ」
私は嬉しくなって、彼の腕へそっと抱きついた。
「……料理、途中だけど?」
「ちょっとだけ!」
「分かった、分かった」
タクマは苦笑しながら、空いている方の手で私の頭を撫でてくれた。
その手が温かくて、私はしばらく離れたくなくなってしまった。こうして甘えていられる時間があることも、私にとっては大切な幸せの一つだった。
けれど、鍋から湯気が上がり始めたところで、仕方なく彼から離れる。
「……続き、作ろっか」
「ああ。腹も減ったしな」
私たちは顔を見合わせて笑い、再び夕食の支度に戻った。
◇
夕食を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
窓から見えるノヴァグラードの街には、家々の明かりが点々と灯っている。遠くからは、まだ営業している酒場の賑やかな声が聞こえてきた。
私は食器を片づけたあと、窓辺に立ってその景色を眺めていた。
七年前、王宮を逃げ出したとき。
私には、自分がどこへ向かえばいいのかさえ分からなかった。
ただ、あの場所にいたくなかった。王女としての役割を押しつけられ、私の人生が私のものではなくなっていくことが、どうしても耐えられなかった。
だから、自由になりたかった。
誰にも命令されず、自分の好きなように生きていける場所が欲しかった。
そうして辿り着いたのが、この街だった。
冒険者として登録し、依頼を受け、少しずつ暮らしを整えていった。
最初の頃は、何もかもが新鮮だった。
自分で仕事を選べることも、自分で稼いだお金を使えることも、好きなものを食べて、好きな時間に眠れることも。
王宮では当たり前に与えられていたものを失った代わりに、私は自分で選ぶという喜びを知った。
けれど、自由な暮らしは、決して楽なことばかりではなかった。
依頼を失敗すれば報酬は得られないし、怪我をすれば自分で治療しなければならない。危険な魔獣と戦うこともあれば、思い通りにならないことだっていくらでもあった。
それでも、自分で選んだ道だからこそ、私は納得して前へ進むことができた。
誰かに決められた人生を歩むより、ずっとよかった。
そして、タクマと出会った。
あの日、森で彼を助けたときには、まさかこんな未来が待っているなんて思いもしなかった。
彼を家へ連れて帰り、冒険者としての暮らしを教え、一緒に依頼を受けるようになった。
気がつけば、隣にいることが当たり前になっていた。
楽しいことも、怖いことも、悲しいことも、二人で分け合うようになった。
タクマが傷つけば心配になったし、彼が努力して強くなっていく姿を見るのは嬉しかった。彼が笑えば私も嬉しくなり、彼が悩んでいれば、一緒に考えたいと思うようになった。
そうして過ごすうちに、私が求めていた自由の意味も、少しずつ変わっていったのだと思う。
自由とは、誰とも関わらず、一人で好き勝手に生きることではなかった。
自分が大切にしたいものを、自分の意志で選ぶこと。そして、その選択に責任を持ちながら、誰かと一緒に生きていくこと。
私にとっては、それが何よりも大切な自由だった。
「……リカ?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、タクマが居間の入口に立っていた。
「どうした? 何か考え事か?」
「うん。ちょっとだけ」
「そうか」
彼は私の隣へ来て、同じように窓の外を眺めた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
街の明かりが、夜の中で静かに揺れている。
遠く離れたマリアベル王国では、今も戦いが続いているのだろう。
父が無事にメルキアへ撤退できたことは分かったけれど、これからどうなるのかは分からない。
いつか、私にも何かを選ばなければならない日が来るのかもしれなかった。
そのとき、どんな答えを出すことになるのかは、今の私にも分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
私はもう、誰かに自分の生き方を決めてもらうつもりはない。
王女として生まれたことも、魔法の力を持っていることも、変えられない事実だった。けれど、その力を何のために使い、誰と一緒に生きていくのかは、私自身が決めたい。
そして今の私には、守りたい暮らしがある。
この街で出会った人たちがいて、帰る家があって、隣にはタクマがいる。
それは、七年前の私が何よりも欲しかったものだった。
「……タクマ」
「ん?」
「明日、何しようか?」
彼は少し考えてから、笑った。
「そうだな。特に依頼も入ってないし、のんびりするか」
「うん!」
「それとも、どこか出かける?」
「……じゃあ、二人で散歩しようよ」
「いいな」
私は彼の腕にそっと寄り添った。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
冒険者として依頼を受けることもあるだろうし、魔法の研究を進めることもあるだろう。時には危険な場所へ向かい、思いがけない出来事に巻き込まれることだってあるかもしれない。
それでも、私たちはきっと大丈夫だと思えた。
何が起きても、必ずうまくいくという意味ではない。
失敗することも、悩むことも、傷つくこともあるだろう。
けれど、そんなときには一緒に考え、支え合いながら前へ進んでいけばいい。
もう、一人ですべてを抱え込む必要はないのだから。
私は王女として生まれた。
けれど、王女として生きることを選ばなかった。
その代わりに、冒険者として生きる道を選び、大切な人と出会い、この街に自分の居場所を見つけた。
王都が陥落したという報せは、私の心に小さくない波紋を残していた。故郷の人々のことも、父のことも、これから先、何も気にせずに過ごせるわけではないだろう。
それでも、今夜の食卓には温かな料理が並び、向かいにはタクマが座っていた。
明日も、きっと同じように朝を迎える。
私が望んだ自由は、何もかもから逃げ続けることではなかった。
自分の意志で行き先を決め、大切な人と一緒に生きていくこと。
その当たり前の幸せを、私はこれからも守っていきたい。
だって私は、もう王宮に帰るつもりなんてないのだから。
第五章「聖女と英雄編」完




