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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第5章】聖女と英雄

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第90話 英雄のおごり


 タクマの一言をきっかけに、ギルドの酒場は大変な騒ぎになっていた。


「おい、こっちにも酒を追加してくれ!」


「タクマ! A級昇格おめでとう!」


「英雄様に乾杯だ!」


 あちこちから歓声が上がり、冒険者たちが次々と杯を掲げている。つい先ほどまで、それぞれの卓で静かに飲んでいた人たちまで席を立ち、タクマへ祝いの言葉をかけに来ていた。誰かが乾杯の音頭を取れば、それに応じて別の卓からも声が上がり、酒場全体が一つの大きな宴会場になったようだった。


 その中心にいるタクマは、少し照れくさそうに笑いながら、一人ひとりと杯を合わせている。普段なら、これほど大勢に囲まれれば遠慮がちな態度を取るところだけれど、今日は随分と楽しそうだった。もっとも、あれだけ堂々と「好きなだけ飲んでくれ」と宣言したのだから、今さら遠慮するわけにもいかないのだろう。


「いやあ、いいねえ! こういうのを待ってたんだよ!」


 フリーダはすっかり上機嫌だった。すでに何杯目なのか分からない酒杯を手に、周囲の冒険者たちへ声をかけている。


「ほら、タクマ! こっちにも来いよ! みんなお前に乾杯したがってるぞ!」


「分かった、分かったって!」


 タクマは苦笑しながらも、素直にフリーダの呼びかけに応じていた。


 私はそんな彼の姿を眺めながら、何だか嬉しくなってしまった。


 タクマがA級冒険者になった。


 ギルド長から正式に認められ、こうして多くの仲間たちから祝福されている。森で出会ったばかりの頃の彼を知っている私にとっては、まだ少し不思議な光景だった。


 もちろん、タクマが強くなったことはずっと前から分かっていた。けれど、それをこうして皆が喜んでくれているのを見ると、改めて彼がこの街の冒険者として認められたのだと実感できる。彼の努力が報われたことも嬉しかったけれど、それ以上に、彼の成長を一緒に喜んでくれる人たちがこれほど大勢いることが、私は何よりも嬉しかった。


「おう、随分と盛り上がってるじゃないか」


 聞き覚えのある声に振り返ると、酒場の入口にガルドが立っていた。その隣にはハーケンの姿もある。


「あっ、ガルド! ハーケンも!」


 私が手を振ると、二人は笑いながらこちらへ歩いてきた。


「タクマがA級になったって聞いてな。こりゃ顔を出さないわけにはいかんだろう」


 ガルドはそう言って、タクマの肩を叩いた。


「お前がA級か。まったく、随分と早く追いついてきたもんだ」


「まだまだですよ。ガルドさんには勝てる気がしません」


「ははっ! そいつはどうかな。次に一緒に戦うときが楽しみだ」


 ガルドは豪快に笑い、タクマと杯を合わせた。


 北門で母巣獣と戦ったとき、二人は互いの動きを見ながら連携していた。ガルドの剣技がどれほど優れているかは、私もよく知っている。その彼からこうして認められることは、タクマにとっても大きな意味があるのだろう。


 隣にいたハーケンも、満足そうに頷いた。


「しかし、まさかお前がこんなに早くA級になるとはな。最初に木剣を握らせた頃が懐かしいぜ」


「本当にお世話になりました、ハーケンさん」


「何だ、もう稽古を卒業したつもりか?」


「いえ、まだまだ教わりたいことはありますよ」


「だったら明日からでも来い。A級になったからって、手加減するつもりはねえぞ」


「……明日は、ちょっと勘弁してください」


 タクマが苦笑すると、ハーケンは声を上げて笑った。


 そのやり取りを見て、私も思わず笑みがこぼれた。タクマが初めてハーケンに稽古をつけてもらった頃は、木剣を振るだけでも苦労していたのに、今ではこうして冗談を言い合っている。もちろん、剣の腕前ではまだハーケンから学ぶことも多いだろうけれど、二人の間には師弟として積み重ねてきた時間があるのだと思う。


 そんなことを考えていると、ふと隣から小さな声が聞こえた。


「……おめでとう」


「えっ?」


 振り返ると、いつの間にかシエラが座っていた。


「シエラ!? いつ来たの?」


「さっき」


 相変わらず短い返事だった。


 彼女は何食わぬ顔で酒杯を手にしている。いったいどこから現れたのだろう。少なくとも、私が気づいたときにはもう席についていた。


「タクマがA級になったから、お祝いに来てくれたの?」


「うん」


「ありがとう、シエラ!」


 私が笑いかけると、彼女は小さく頷いた。


 そういえば、今回のスタンピードではシエラも随分と働いてくれた。魔獣の群れの動きを調べ、防衛側へ情報を届けるために、何度も危険な場所へ足を運んでいたはずだ。


 前線で戦う冒険者たちが目立ちやすいけれど、敵の位置や数が分からなければ、そもそも防衛線を維持することさえ難しい。シエラが集めてくれた情報は、街を守るうえで欠かせないものだった。斥候の仕事は、無事に戻ってきたときほど、その危険が見えにくいものなのかもしれない。


「シエラもお疲れさま。今回、本当に大変だったでしょ?」


「私も頑張った」


「うん! すっごく頑張ってたよ!」


 私がそう答えると、シエラは少しだけ満足そうな顔をした。


「だったら、今日はシエラもいっぱい飲んでね!」


「……そうする」


 彼女はそう言って、静かに杯を持ち上げた。


 どうやら、タクマのおごりを遠慮するつもりはないらしい。


     ◇


 宴会が始まってから、どれくらい時間が経ったのだろう。


 気がつけば酒場の賑わいはさらに大きくなり、タクマの周りには次々と冒険者たちが集まっていた。誰もが今回の戦いについて話したがっているらしく、南門での出来事や北門での母巣獣討伐について、何度も質問が飛んでいる。


 タクマは最初こそ丁寧に答えていたけれど、何杯か酒を飲むうちに、いつもより随分と饒舌になっていた。


「いやあ、あのときは本当に必死だったんですよ。ガルドさんがいなかったら、どうなってたか分かりませんからね!」


「何を言ってる。お前だって十分に働いただろうが!」


「いやいや、ガルドさんの剣はやっぱりすごいですよ。あれは簡単に真似できませんって!」


 タクマは笑いながら杯を掲げた。


 その様子を見て、私は少し驚いていた。


 普段のタクマは、酒を飲んでもあまり変わらない。多少口数が増えることはあっても、酔っ払って騒いだりする姿はほとんど見たことがなかった。


 けれど、今日は違う。


 顔は少し赤くなり、笑い声もいつもより大きい。周囲から声をかけられるたびに嬉しそうに応じ、勧められた酒も断らずに飲んでいる。A級昇格がよほど嬉しかったのだろうし、何より、ようやくスタンピードが終わったという安心感があるのだと思う。


「……タクマ、ちょっと酔ってない?」


 私が尋ねると、彼はにこにこと笑った。


「そうかな? まあ、今日はめでたい日だしな!」


「ふふっ。そうだね!」


 私もつられて笑ってしまった。


 実を言うと、私も少し酔っている気がする。さっきから体がぽかぽかして、何だか楽しくて仕方がない。タクマが嬉しそうにしているのを見るだけで、私まで幸せな気持ちになってしまうのだ。


「なあ、リカ」


「ん?」


 タクマが突然、私の肩へ腕を回した。


「俺さ、本当にリカには感謝してるんだよ」


「……え?」


「森で助けてもらって、家に泊めてもらって、ギルドにも連れていってもらっただろ? あのときリカに会ってなかったら、俺、どうなってたんだろうな」


 いつもより少し大きな声で、タクマがそんなことを言い始めた。


 私は思わず目を丸くした。


「な、何言ってるの、急に」


「いや、ずっと思ってたんだよ。リカがいてくれたから、俺はここまで来られたんだって」


 タクマはそう言って、嬉しそうに笑った。


 普段の彼なら、こんなことを大勢の前で話したりしない。二人きりのときに感謝を伝えてくれることはあるけれど、こうして周囲の冒険者たちが聞いている場所で、堂々と口にするのは珍しかった。


 私たちが初めて出会った森のことを、彼も覚えていてくれたのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。あのときは、まさかこの人と一緒に暮らし、恋人になって、こんな日を迎えることになるなんて、想像もしていなかった。


「おうおう、何だ何だ!」


 当然、フリーダが黙っているはずもなかった。


「タクマ! 今日は随分と素直じゃねえか!」


「だって、本当のことだからな!」


「はははっ! いいぞ、その調子だ!」


 フリーダは大笑いしながら、タクマの背中を叩いた。


 私は恥ずかしくなってしまったけれど、それ以上に嬉しかった。


「……私だって、タクマに感謝してるもん」


「そうなのか?」


「そうだよ! タクマが来てくれてから、毎日すっごく楽しいんだから!」


 気がつくと、私まで大きな声で答えていた。


 周囲から笑い声が上がる。


 けれど、今はそんなことも気にならなかった。


「タクマはね、すっごく頑張り屋さんなんだよ! ハーケンの稽古だって、ボーマンの修行だって、あんなに大変だったのに、全然諦めなかったんだから!」


「おいおい、リカまで始まったぞ!」


 フリーダが嬉しそうに声を上げる。


 私は胸を張って頷いた。


「そうだよ! タクマはすごいんだから! 私のタクマなんだからね!」


 その瞬間、周囲から大きな笑い声が上がった。


「聞いたか! 聖女様のお墨付きだぞ!」


「おい、タクマ! 愛されてるじゃねえか!」


 誰かがそんなことを言い、タクマは嬉しそうに笑った。


「リカだってすごいんだぞ! 魔法は強いし、頭はいいし、何より優しいんだ!」


「えへへ、もっと言って!」


「まだあるぞ!」


 タクマは妙に真剣な顔になった。


「まず、笑った顔がかわいいだろ。それから、いつも俺のことを心配してくれるし、料理も美味しいし……」


「えへへへ……」


 私は嬉しくなって、彼の腕にぎゅっと抱きついた。


 何だか、今日はとても幸せだ。


 周囲で誰かが笑っている気がするけれど、そんなことはどうでもよかった。いつもなら恥ずかしくて隠してしまうような気持ちまで、今夜は素直に言葉にできる。タクマも同じなのだと思うと、ますます嬉しくなってしまうのだった。


     ◇


「よし、タクマ! せっかくだ、リカのどこが一番好きか言ってみろ!」


 フリーダがにやりと笑いながら、そんなことを言い出した。


「一番?」


 タクマは少し考え込んだ。


「……難しいな」


「真面目に考えるんですね……」


 クルシュが苦笑する。


 けれど、タクマは構わず指を折って数え始めた。


「優しいところだろ。頭がいいところも好きだし、魔法がすごいところも尊敬してる。あと、笑った顔がかわいい」


「えへへ……」


「それから、家に帰るとすっごく甘えてくるところとか」


「タクマ!? それは言わなくていいから!」


 私は慌てて彼の口を塞ごうとした。


 けれど、タクマは楽しそうに笑っている。


「何だよ。本当のことだろ?」


「……うん!」


「認めるのかよ!」


 フリーダが腹を抱えて笑った。


 私も何だかおかしくなってしまい、一緒になって笑ってしまう。タクマが私の頭を撫でてくれると、その手が気持ちよくて、ますます嬉しくなった。


「じゃあ、リカさんはタクマさんのどこが一番好きなんですか?」


 クルシュが穏やかに尋ねてきた。


「全部!」


 私は迷わず答えた。


「全部かよ!」


 フリーダがまた笑う。


「だって、全部好きなんだもん!」


 私はそう言って、タクマへ抱きついた。


 タクマも笑いながら私を抱きしめてくれる。何だか、いつもよりずっと素直になれている気がした。


 そのとき、近くを通りかかったガルドが、私たちを見て呆れたように呟いた。


「……こいつら、戦ってるときの方がまともだったな」


 ハーケンが深く頷く。


「まったくだ」


 周囲から、また大きな笑い声が上がった。


 私たちの卓は、いつの間にか酒場で一番賑やかな場所になっていた。誰かがタクマの武勇伝を語り始めれば、別の誰かがそこへ話を重ね、気がつけば何度目か分からない乾杯が始まる。フリーダはそのたびに声を張り上げ、クルシュは彼女の杯が空になるたび、少し困ったような顔をしていた。


 けれど、今日は誰も本気で止めようとはしなかった。


 街を守り抜いたことも、タクマがA級になったことも、こうして皆で喜べることが何より嬉しかったのだろう。


     ◇


 それからも宴会は続いた。


 フリーダは次々と酒を注文し、タクマは嬉しそうに冒険者たちと杯を合わせている。私も一緒になって笑い、飲み、時にはタクマの腕へ抱きついていた。


 どれくらい時間が経ったのか、もうよく分からない。ただ、酒場がとても賑やかで、みんなが楽しそうにしていることだけは分かった。


 そんなときだった。


「ちょっと、みんな!」


 聞き覚えのある声が響いた。


 振り返ると、エリナが立っていた。いつもの受付の制服姿で、何やら困ったような顔をしている。


「厨房から苦情が来てるんだけど! 注文が多すぎて、もう対応しきれないって!」


 エリナはそう言って、周囲を見回した。


 けれど、誰も話を聞いていない。冒険者たちは相変わらず酒を飲み、笑い、追加の注文をしている。エリナの声が聞こえていないわけではないのだろうけれど、今夜の酒場はあまりにも騒がしく、誰も真面目に取り合おうとしなかった。


「ちょっと! 聞いてる!?」


 エリナが声を張り上げた。


 すると、フリーダが豪快に笑いながら近づいていった。


「まあまあエリナ! 今日は堅いこと言いっこなしだぜ! なんならお前も飲め!」


「私、まだ勤務中なんですけど!」


「細けえこと気にすんなって!」


「細かくないから!」


 エリナは真っ赤になって怒っていたけれど、フリーダはまったく気にしていない。むしろ、ようやく面白い相手が現れたと言わんばかりに、酒杯を差し出している。


 その様子を見ていた私は、何だか嬉しくなってしまった。


「あっ! エリナだー!」


 私は思わず駆け寄った。


「リカ!? ちょっと、あなたまで何杯飲んだの!?」


「えへへ、分かんなーい!」


「分からないって……もう!」


 エリナは呆れたようにため息をついた。


 そこへ、フリーダが楽しそうに声を上げる。


「おう、リカ! エリナが飲まないとか言うんだよ!」


「だから! 私はまだ仕事が……!」


「じゃあ私が飲ませてあげる!」


 私はそう言って、手にしていた杯を持ち上げた。


 どうしてそんなことを思いついたのか、今となっては自分でもよく分からない。ただ、そのときの私は、エリナにも一緒に楽しんでほしいという気持ちでいっぱいだった。


 杯に残っていた酒をひと口含み、何か言おうとしているエリナへ顔を近づける。


「……んっ!?」


 唇が触れた途端、エリナが驚いて身を引いた。酒が少しこぼれ、私は思わず瞬きをする。


 目の前では、エリナが顔を真っ赤にして固まっていた。


「な、な、な……何してるのよ、リカぁっ!!」


 その声に、周囲から大きな笑い声が上がった。


 フリーダは腹を抱えて笑い、クルシュは思わず額へ手を当てている。


「リカ、さすがにそれは駄目だろ!」


 タクマが慌てて私を引き寄せた。


「えー? だってエリナも一緒に飲みたいんだもん」


「そういう問題じゃないって!」


 タクマは困ったように笑っていたけれど、その手はしっかりと私の肩を抱いていた。


 エリナはしばらく口元を押さえたまま、真っ赤な顔で立ち尽くしていた。怒っているのか、恥ずかしがっているのか、私にはよく分からない。ただ、いつものエリナとは随分と違う表情だった。


 やがて彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「…………」


 何だか、少し怖い。


 エリナは目の前の卓に置かれていた酒杯を勢いよく掴んだ。


「……あったまきた!」


 そう叫ぶと、彼女は杯を一気にあおった。


 そして、空になった杯を卓へ叩きつける。


「もう私も飲む!!」


「おおおおっ! いいぞエリナ!」


 フリーダが大喜びで歓声を上げた。


 私も嬉しくなって、エリナへ抱きついた。


「やったー! エリナも一緒だね!」


「もう! リカの馬鹿!」


 エリナはそう言いながらも、私を振りほどこうとはしなかった。まだ顔は真っ赤だったけれど、さっきまでの怒った表情とは少し違って見えた。


 そこへ、給仕の女性が恐る恐る声をかけてきた。


「エ、エリナさん……?」


 エリナは勢いよく振り返った。


「もう、あなたたちも飲めばいいのよ! どうせ英雄様のおごりよ!!」


「えええっ!?」


 給仕の女性は目を丸くした。


「でも、まだ仕事が……」


「知らないわよ! もう!」


 エリナはそう言って、次の杯を手に取った。


 クルシュが慌てて止めに入る。


「エリナさん、落ち着いてください! お仕事が終わってからにしましょう!」


「クルシュさんまで真面目なこと言わないでください!」


「いえ、これは普通のことだと思うのですが……」


 クルシュは困ったように笑っていた。


 給仕の女性もどうしていいか分からない様子で立ち尽くしていたけれど、やがて厨房から呼ばれ、慌てて仕事へ戻っていった。エリナはその後ろ姿を見送りながら、何やらぶつぶつと文句を言っている。


 私はそんなやり取りを見ながら、ますます楽しくなってしまった。


 今日は本当に、最高の日だ。


     ◇


「おい! いったい何の騒ぎだ!」


 突然、酒場の入口から大きな声が響いた。


 振り返ると、バルザックが立っていた。いつものように腕を組み、眉間にしわを寄せている。


 どうやら、騒ぎを聞きつけて様子を見に来たらしい。酒場の惨状を見回した彼は、呆れたように大きなため息をついた。


「バルザックぅ!」


 エリナが嬉しそうに駆け寄っていった。


「聞いてくださいよぉ! みんな全然言うこと聞いてくれないんですよ!」


「……エリナ?」


 バルザックは目を丸くした。


「お前、仕事はどうした?」


「仕事ですよ! 仕事してたんですよ! なのにみんな全然言うこと聞かないんです!」


「だからって酒を飲んでいい理由になるか!」


「もう知りません!」


 エリナはそう言って、また酒杯を持ち上げた。


 バルザックは頭を抱えている。


 その様子を見ていたフリーダが、にやりと笑った。


「まあまあ、バルザック! あんたも一杯どうだ?」


「馬鹿野郎! 俺まで飲んでどうする!」


「何だよ、せっかくタクマがA級になったってのに、祝ってやらねえのか?」


「祝うに決まってんだろうが! だがな!」


 バルザックが何か言いかけたところで、ガルドが近づいてきた。


「まあ、ギルド長。今日くらいはいいんじゃないか? 街を守った連中の祝勝会だ」


「……ガルド、お前まで」


 さらにハーケンも杯を掲げる。


「俺の教え子がA級になったんだ。一杯くらい付き合ってやれよ」


 バルザックは大きなため息をついた。


 彼の視線が、タクマへ向けられる。


 タクマはすっかり上機嫌で、周囲の冒険者たちと笑いながら酒を飲んでいた。普段の落ち着いた様子とは随分と違うけれど、あれほど嬉しそうにしている姿を見ると、私まで笑顔になってしまう。


「……一杯だけだぞ」


「おう! そうこなくっちゃな!」


 フリーダが嬉しそうに酒を注いだ。


 バルザックは渋々といった様子で杯を受け取り、ひと口飲んだ。


 最初のうちは、まだ周囲を注意深く見回していた。騒ぎすぎている冒険者に声をかけたり、給仕の女性へ何か指示を出したりしている姿は、いつものギルド長そのものだった。


 けれど、ガルドが隣へ座り、ハーケンが昔の稽古の話を始めると、少しずつ表情が緩んでいった。


 タクマが初めてギルドに登録した頃の話になり、バルザックは懐かしそうに笑った。あの頃のタクマは、この世界の常識も冒険者の仕事も何も知らず、何かあるたびに私やエリナへ質問していたものだ。


 そんな彼が、今ではA級冒険者になっている。


 バルザックにとっても、きっと感慨深いものがあるのだろう。


「がっはっは! タクマ! お前が初めてギルドに来た日のこと、覚えてるか!」


「覚えてますよぉ! バルザックさん!」


「まさかこんなに早くA級になるとはなぁ!」


「ありがとうございます!」


「よし! 飲め!」


「はい!」


 気がつけば、バルザックまで豪快に笑いながら酒を飲んでいた。


 さっきまで怒っていたのは、いったい何だったのだろう。


 エリナもすっかり上機嫌になり、バルザックの隣で杯を掲げている。


「そうですよぉ! ギルド長も飲めばいいんですよぉ!」


「お前は明日説教だからな!」


「明日のことは明日考えまーす!」


 周囲から大きな笑い声が上がった。


 私はその光景を眺めながら、何だかおかしくなってしまった。


 普段は厳しい顔をしているバルザックも、いつも真面目に仕事をしているエリナも、今日はすっかり酔っ払っている。こんな姿を見るのは、初めてかもしれない。


「……賑やか」


 隣でシエラがぽつりと呟いた。


「うん! すっごく楽しいね!」


 私が笑いかけると、シエラは小さく頷いた。


 その隣では、クルシュが静かにため息をついている。


「……これは、明日が大変そうですね」


「えー? なんで?」


 私が尋ねると、クルシュは何とも言えない顔で笑った。


「……いえ。何でもありません」


 その後も宴会は続いた。


 フリーダはますます上機嫌になり、ガルドとハーケンも楽しそうに酒を飲んでいる。バルザックはタクマの肩を叩きながら昔話を始め、エリナはいつの間にかフリーダと肩を組んで笑っていた。


 私もタクマと一緒に杯を掲げ、何度も乾杯した。


 やがて、酒場の灯りが少しずつ落とされ、夜が更けていく。給仕の女性たちは忙しそうに行き来していたけれど、注文の勢いも少しずつ落ち着いてきたらしい。冒険者たちの中には、すでに卓へ突っ伏して眠っている者もいた。


 それでも、私たちの周りではまだ笑い声が続いていた。


 タクマが何か面白いことを言い、フリーダが大笑いする。バルザックもそれにつられて笑い、エリナが何か言い返している。


 私も笑いながら杯を持ち上げた。


 楽しい。


 こんなに楽しい夜は、久しぶりだった。


 街を襲ったスタンピードが終わり、大切な人たちが無事にここにいる。そして、タクマがA級冒険者になった。


 これ以上、何を望むことがあるだろう。


 私は隣にいるタクマの腕へ抱きつき、彼の肩へ頭を預けた。


 タクマが何か言って、私の頭を撫でてくれる。


 その手の温かさを感じながら、私は幸せな気持ちで目を閉じた。


 そして、いつの間にか。


 私の記憶は、そこで途切れていた。


     ◇


 頭が痛い。


 それも、ただ痛いのではない。頭の中で誰かが鐘を鳴らしているのではないかと思うほど、ずきずきと痛む。


 私はゆっくりと目を開けた。


 見慣れた寝室ではなかった。


 目の前には、卓に突っ伏したタクマの背中がある。


「……あれ?」


 私はしばらく考えた。


 昨日は確か、タクマのA級昇格を祝って、それからフリーダが酒を注文して、ガルドとハーケンが来て、シエラもいて……。


 そこまでは覚えている。


 けれど、その先の記憶がどうにも曖昧だった。


「……タクマ?」


「……ん」


「……頭、痛い」


「……俺も」


 どうやら、タクマも目を覚ましたらしい。


 彼はゆっくりと顔を上げ、私の方を見た。いつもは落ち着いているその顔も、今朝ばかりは随分と情けない表情になっている。


 私たちは顔を見合わせ、しばらく黙っていた。


 そして、周囲の惨状に気づいた。


 卓の上には空になった酒杯が並び、椅子はあちこちに移動され、床には冒険者たちが転がっていた。誰かが毛布をかけてくれたらしく、寝息を立てている者もいる。昨夜まであれほど賑やかだった酒場は、今では嘘のように静まり返っていた。


 フリーダは椅子を二脚占領して大の字になり、ガルドは壁際で腕を組んだまま眠っている。ハーケンは卓に突っ伏し、まったく動く気配がない。


 そして、酒場の中央では。


「……ぐごおおお……」


 バルザックが床で大いびきをかいていた。


 その近くでは、エリナがバルザックの上着を毛布代わりにして眠っている。いつもきちんと整えている髪は少し乱れ、幸せそうな寝顔を浮かべていた。


 私はしばらく、その光景を眺めていた。


 昨日は確か、バルザックがエリナを叱っていたはずなのに、どうして二人ともこんなことになっているのだろう。


 いや、そういえば、バルザックも途中から随分と楽しそうに飲んでいたような気がする。


「……タクマ」


「……何だ?」


「……すごいことになってるね」


「……そうだな」


 私たちはもう一度周囲を見回し、揃ってため息をついた。


 タクマは額を押さえながら、何とか記憶を辿ろうとしているようだった。


「……俺、何やったんだっけ」


 私は少し考えたけれど、途中から記憶が曖昧だった。


「……おごるって、言ってた」


「……そうだったな」


 そのとき、二人の前に一枚の帳面が差し出された。


 顔を上げると、クルシュが立っていた。


「おはようございます、お二人とも」


「……おはよう、クルシュ」


 彼は少し疲れたような顔をしていたけれど、少なくとも私たちよりはずっとまともに見えた。手には水の入った杯も持っていて、私たちの様子を見ると、そっと卓の上へ置いてくれた。


「まずはお水をどうぞ。お二人とも、随分と飲んでいましたからね」


「……ありがとう」


 私はありがたく水を受け取り、ゆっくりと口をつけた。冷たい水が喉を通ると、少しだけ頭がはっきりした気がする。


 タクマも隣で水を飲み、ようやく人心地ついたようだった。


「……クルシュは、大丈夫なのか?」


「ええ。私は途中から控えていましたので」


 クルシュは穏やかに答えた。


「もっとも、皆さんがあまりにも楽しそうでしたから、帰るに帰れなくなってしまいましたけどね」


 その言葉に、私は少し申し訳なくなった。


 昨夜の記憶を辿ってみても、クルシュはずっと周囲の様子を気にかけていたように思う。フリーダが飲みすぎないよう声をかけ、エリナが騒ぎ始めれば止めようとし、バルザックが加わってからは、もう何とも言えない顔で見守っていた。


 きっと、私たちが眠ってしまった後も、いろいろと面倒を見てくれたのだろう。


「……ごめんね、クルシュ」


「いえいえ。昨夜は、とても楽しかったですから」


 クルシュはそう言って、にっこりと笑った。


 そして、手にしていた帳面をタクマへ差し出した。


「それでは、こちらをご確認ください」


「……ん?」


 タクマは不思議そうに帳面を受け取り、ゆっくりと目を落とした。


 しばらく沈黙が続く。


「…………」


「……タクマ?」


 私が声をかけると、彼は何とも言えない顔で帳面を見つめていた。


「……どうしたの?」


 私も隣から覗き込む。


 そこには、昨夜の酒場で使った金額が記されていた。


 私は思わず目を丸くした。


「……えっ」


 確かに、あれだけ大勢の冒険者たちが飲んでいたのだから、相当な金額になるとは思っていた。けれど、実際に数字を目にすると、なかなかの迫力がある。


 普通の依頼を何度もこなして、ようやく稼げるような額だ。少なくとも、ちょっとした宴会の勘定としては、かなり大きい。


 タクマはしばらく帳面を見つめていたけれど、やがて深く息を吐いた。


「……まだ許せる」


「……タクマ、今回の報奨金っていくらだっけ?」


 私が尋ねると、タクマは少し考え込んだ。


「ええと……」


 彼は額を押さえながら記憶を辿り、やがて何かを思い出したように頷いた。


 それから、私の耳元へ顔を寄せ、小さな声で金額を教えてくれた。


「……ああ、そうだったね」


 私は改めて帳面へ目を落とした。


 確かに、普通に考えれば相当な金額だ。けれど、今回のスタンピードで受け取る報奨金を思えば、払えないほどではない。


 それに、あれだけ大勢の仲間たちが喜んでくれたのだから、無駄遣いだったとは思わなかった。戦いを生き延びた人たちが笑い合い、タクマのA級昇格を祝ってくれたのだ。あの時間をお金に換えることはできないし、私たちにとっても忘れられない夜になったと思う。


「……まあ、良いか」


 私はそう言って頷いた。


 すると、目の前に立っていたクルシュが、何故か目を丸くした。


「……え?」


 彼は帳面を見て、それから私たちの顔を交互に見つめた。


「ちょ、ちょっと待ってください! その金額を見て、そんな反応なんですか!?」


 タクマはまだ頭が痛むのか、額を押さえながら頷いた。


「……まあ、何とかなるだろ」


「うん。何とかなるよね」


 私も同意する。


 クルシュはしばらく口を開けたまま固まっていたけれど、やがて思いきり声を上げた。


「A級ってそんなに稼げるんですか!?」


 その叫び声に、酒場のあちこちからうめき声が上がった


「……うるせえ……」


「……頭に響く……」


 フリーダやバルザックたちが寝返りを打つ中、私とタクマは顔を見合わせた。


 そして、どちらからともなく苦笑する。


 こうして私たちの祝勝会は、最後まで賑やかに、そして少しだけ高くついた思い出として幕を閉じたのだった。

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