第89話 新たなA級冒険者
翌朝、私は久しぶりに目覚まし代わりの物音に起こされることなく、ゆっくりと目を覚ました。
窓の外では鳥が鳴き、通りを行き交う人々の話し声が聞こえている。昨日までのような緊張感はなく、街は少しずつ普段の生活を取り戻しつつあった。寝台の中で大きく伸びをすると、まだ体のあちこちに疲労が残っているのを感じたけれど、少なくとも昨日よりはずっと楽になっている。
隣を見ると、タクマはすでに起きていた。
「おはよう、リカ。よく眠れたか?」
「うん。久しぶりにぐっすり眠れた気がする」
「そりゃよかった。朝飯はもうできてるぞ」
「ふふっ。ありがとう」
私は寝台から起き上がり、身支度を整えた。
スタンピードの間は、朝を迎えるたびに何かしらの報告が届き、慌ただしく動き回っていた。こうして落ち着いて着替え、朝食を取る時間があるだけでも、随分と気持ちが違う。何より、今日の予定はギルドへ顔を出すことだけなのだから、急いで支度をする必要もなかった。
食卓には温かいスープとパン、それに簡単な卵料理が並んでいた。
「そういえば、今日はバルザックさんに呼ばれてるんだったね」
「ああ。昨日の話だと、戦闘報告の確認でもあるんじゃないかと思うけど」
「それなら、私も一緒に行こうかな」
「もちろん。どうせ帰りに買い物もしたいしな」
私たちはそんな話をしながら朝食を済ませ、しばらく家でのんびり過ごしてからギルドへ向かった。
◇
冒険者ギルドでは、昨日に引き続き戦後処理が進められていた。
受付には報告書を提出する冒険者たちが並び、職員たちが忙しそうに書類を確認している。通常の依頼も少しずつ再開されているらしく、掲示板には街道の安全確認や物資の運搬、周辺地域の調査といった仕事が貼り出されていた。
まだ大規模な討伐依頼は少ないものの、街が普段の姿へ戻ろうとしていることが分かる。
「おはよう、リカ、タクマ!」
受付にいたエリナが、私たちを見つけて手を振った。
「おはよう、エリナ。バルザックさんに呼ばれてるんだけど」
「うん、聞いてるよ。ちょうど時間も空いてるみたいだから、案内するね」
エリナに連れられて執務室へ向かうと、バルザックは相変わらず大量の書類に囲まれていた。
「おう、来たか。まあ座れ」
私たちが向かいの椅子へ腰を下ろすと、バルザックは手元の書類をまとめ、机の上へ置いた。
「まず、今回のスタンピードに関する報奨の話だ」
「報奨ですか?」
タクマが尋ねる。
「ああ。今回は通常の討伐依頼とは規模が違うからな。参加した冒険者の人数も多いし、戦闘だけじゃなく、救護や物資輸送、指揮に当たった連中の働きも評価しなきゃならねえ」
バルザックは机の上に積まれた書類へ視線を向けた。
「各門からの報告はだいたい揃ってきたが、貢献度の確認と報奨金の計算には、もう数日かかる。悪いが、少し待ってくれ」
「それは構いません。急いでいるわけでもありませんし」
タクマがそう答えると、バルザックは頷いた。
「助かる。まあ、今回ばかりはそれなりの額になると思っておけ。特にお前ら二人は、かなり働いてもらったからな」
「……そんなに?」
私が思わず尋ねると、バルザックは笑った。
「当たり前だろうが。リカは救護所で何人治療したと思ってる。タクマだって南門と北門で相当な働きをしてるんだ。きちんと評価しなきゃ、ギルドの信用に関わる」
私は少し照れくさくなってしまった。
もちろん、報奨金をもらえるのは嬉しい。けれど、あのときは目の前の人たちを助けることに必死で、報酬のことなど考えている余裕はなかった。タクマも同じだったのだろう。彼は小さく頷いただけで、それ以上金額について尋ねようとはしなかった。
バルザックはそんな私たちを見て、少しだけ表情を改めた。
「それとな、タクマ。今日はもう一つ話がある」
「俺に、ですか?」
「ああ。お前をA級冒険者に推薦しようと思っている」
「……え?」
タクマが目を丸くした。
私も思わず彼の顔を見た。
「A級って……本当!?」
「まだ正式決定じゃねえぞ。これから審査を通す必要がある。ただ、俺としては十分に推薦できる実績があると判断している」
バルザックは落ち着いた口調でそう説明した。
タクマはしばらく黙っていたけれど、やがて少し困ったように笑った。
「……俺が、A級ですか」
「何だ、不満か?」
「いえ、そういうわけじゃありません。ただ、正直なところ、まだ自分がそこまで来たって実感がなくて」
その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなった。
タクマはいつもそうだ。
どれだけ強くなっても、自分の力を必要以上に大きく見せようとはしない。今回の戦いでも、南門で多くの魔獣を倒し、北門ではガルドと協力して母巣獣を討伐した。それでも、本人はまだ自分に足りないものがあると考えているのだろう。
バルザックはそんなタクマを見て、口元を緩めた。
「A級ってのは、ただ剣が強けりゃいいってもんじゃねえ。危険な状況で何ができるか、仲間とどう連携できるか、そういうところまで評価されるんだ」
彼は机の上の報告書を指で叩いた。
「お前は南門で防衛線の維持に貢献し、北門ではガルドと一緒に母巣獣を討伐した。それ以前にも、商隊護衛や各種の討伐依頼で実績を積んできた。今回だけの話じゃねえんだよ」
「……なるほど」
「それに、ハーケンもガルドも、お前の実力については以前から高く評価していた。今回の戦いで、それがはっきりしたってことだ」
タクマはしばらく考え込んでいたけれど、やがて背筋を伸ばした。
「分かりました。推薦を受けさせてください」
「ああ。正式に決まったら知らせる。それまでは、ゆっくり休んでおけ」
「ありがとうございます」
タクマは深く頭を下げた。
私は隣で、嬉しくて仕方がなかった。
森で出会ったばかりの頃、タクマはこの世界のことを何も知らなかった。剣の扱い方も分からず、魔法を使うことさえできなかった彼が、今ではA級冒険者への推薦を受けるまでになったのだ。
もちろん、まだ正式に決まったわけではない。
それでも、彼が積み重ねてきた努力が認められたことが、私は自分のことのように嬉しかった。
◇
ギルドを出た後、私たちは市場へ立ち寄ってから家へ戻った。
街では復旧作業が続いていたけれど、営業を再開する店も少しずつ増えていた。食料品を扱う店の前には久しぶりに買い物客の列ができ、商人たちもようやく普段の仕事へ戻り始めているらしい。
必要なものを買い揃えて帰宅すると、私たちは予定どおり、午後をゆっくり過ごすことにした。
タクマは簡単な家事を済ませ、私は居間で本を読む。しばらくすると彼も隣へ座り、二人で温かいお茶を飲みながら、何をするでもなく時間を過ごした。
こうして何もしないでいると、つい先日までの慌ただしさが嘘のようだった。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「A級になったら、何か変わるのかな?」
私が尋ねると、タクマは少し考えた。
「さあな。受けられる依頼の種類は増えるだろうけど、俺自身が急に強くなるわけじゃないし」
「それはそうだけど……でも、私と同じA級になるんだよ?」
「……そうだな」
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「それは、ちょっと嬉しいな」
「ふふっ。私も嬉しい」
私は本を閉じ、彼の肩へ寄りかかった。
初めて出会ったときのタクマは、剣を持つことさえ不慣れだった。それでも、ハーケンのもとで何度も木剣を振り、依頼を通して経験を積み、少しずつ強くなっていった。
初めて魔獣を討伐した日のことも、商隊護衛で危険な目に遭ったことも覚えている。ボーマンとの修行が始まってからは、それまで以上に厳しい稽古が続き、何度も打ち倒されながら、それでも諦めずに立ち上がっていた。
そんな日々を重ねた末に、今のタクマがいる。
私は彼の成長をずっと近くで見てきたつもりだったけれど、こうして改めて振り返ると、随分と遠くまで来たものだと思う。
「……すごいね、タクマ」
「何が?」
「だって、最初はF級だったんだよ? それが、もうA級になるかもしれないんだから」
「リカに拾ってもらったおかげだよ」
「そんなことないよ。頑張ったのはタクマでしょ?」
私がそう言うと、彼は少し考えてから頷いた。
「……まあ、頑張ったのは確かかな」
「うん。すっごく頑張ってた」
私は笑って彼の腕へ抱きついた。
タクマは少し驚いたようだったけれど、すぐに私の頭へ手を置いた。
「でも、まだまだだよ。今回の戦いでも、ガルドさんに助けられたし、あの魔法剣だって狙って出せたわけじゃない」
「それは、これから練習すればいいんじゃない?」
「そうだな。使いこなせるようになれば、もっと戦い方の幅が広がると思う」
タクマはそう言って、少し楽しそうに笑った。
私はその横顔を見つめながら、これからも彼と一緒に冒険を続けていきたいと改めて思った。
A級になったからといって、私たちの関係が変わるわけではない。依頼を受け、時には危険な場所へ向かい、帰ってきたら一緒に食事をする。そんな日々を、これからも重ねていけたらいい。
私は彼の肩へ頭を預け、そのまましばらく目を閉じた。
◇
それから数日間、私たちは久しぶりにのんびりとした時間を過ごした。
ノヴァグラードの復旧は着実に進み、破損した城門や建物の修理も少しずつ形になっていった。主要街道の通行が再開されると、街の外に足止めされていた商人たちが戻り始め、市場にも以前のような活気が戻ってきた。
冒険者ギルドでも通常の依頼が増え始めていたけれど、私たちはしばらく休養に専念することにした。今回の戦いで消耗した体力を戻す必要もあったし、何より、タクマも私も少し休みたいという気持ちが強かったのだ。
朝はゆっくり起きて、一緒に食事をする。昼間は街へ買い物に出かけたり、近くを散歩したり、家で本を読んだりして過ごした。時にはタクマが剣の手入れをしている横で、私は治癒魔法について書かれた資料を読み返し、マルタさんから教わったことを整理することもあった。
ただ、街を歩いていると、以前とは少し違うことが起こるようになった。
「あっ、聖女様!」
ある日、市場で買い物をしていると、突然そんな声をかけられた。
振り返ると、以前救護所で治療したことのある住民が、嬉しそうに手を振っていた。私は慌てて笑顔を返したけれど、周囲の人々までこちらへ視線を向け始めたので、何だか落ち着かなくなってしまった。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「なんか、最近こういうこと増えてない?」
「そうだな。リカのことを知ってる人が増えたんじゃないか?」
「うう……普通にリカって呼んでくれればいいのに」
私がそう言うと、タクマは楽しそうに笑った。
もっとも、彼だって人のことを言えない。
南門での戦いを見ていたという冒険者から声をかけられたり、北門でガルドと母巣獣を倒した話を聞かれたりすることが増えていた。中には、あの広範囲の魔法剣をもう一度見せてほしいと言い出す者までいたけれど、タクマはまだ再現できる自信がないと苦笑していた。
私たちは相変わらず、普通の冒険者として暮らしているつもりだった。
けれど、街の人々にとっては、今回のスタンピードを生き延びるうえで、私たちの働きが少なからず印象に残っていたのだろう。そう考えると、少し照れくさくはあるけれど、悪い気はしなかった。
そんな穏やかな日々が続いたある日のこと。
フリーダから、久しぶりに一緒に飲まないかと誘いがあった。
「そろそろ街も落ち着いてきたしな。四人で一杯やろうぜ。せっかく生き残ったんだ、少しくらい景気よく飲んだって罰は当たらねえだろ?」
その言葉に、私もタクマも喜んで頷いた。
大勢を集めて騒ぐのではなく、まずはいつもの四人でささやかな祝勝会を開こうという話になり、その日の夕方、私たちはギルドの酒場へ向かった。
◇
ギルドの酒場には、久しぶりに賑やかな声が戻っていた。
まだ復旧作業の途中ということもあり、以前ほどの混雑ではないものの、戦いを生き延びた冒険者たちがあちこちで酒を酌み交わしている。傷ついた装備を見せ合いながら笑っている者もいれば、今回の戦いについて熱心に語り合っている者もいた。
私たちがいつもの席へ向かうと、すでにフリーダとクルシュが待っていた。
「おう、来たな!」
フリーダが豪快に手を上げた。
「遅かったじゃねえか。こっちはもう喉がからっからだぞ」
「まだ約束の時間前だよ?」
「細けえことはいいんだよ。さっさと座れって!」
私が笑いながら答えると、フリーダは上機嫌で杯を掲げた。
クルシュはその隣で苦笑している。
「すみません。フリーダがずっと飲みたがっていたものですから」
「おいおい、あたしだけみたいに言うなよ。お前だって楽しみにしてただろ?」
「それはもちろんですけどね」
クルシュは穏やかに笑った。
私たちも席へ着き、注文した酒と料理が運ばれてくるのを待った。
久しぶりに四人で顔を合わせると、何だかそれだけで嬉しくなる。スタンピードの間も互いの姿を見る機会はあったけれど、落ち着いて話をする余裕などほとんどなかった。こうして同じ卓を囲み、何の心配もなく酒を飲めることが、今はとてもありがたかった。
やがて杯が揃うと、フリーダが立ち上がった。
「よし、それじゃあ改めて! 全員無事に帰ってきたことと、ノヴァグラードを守り抜いたことを祝って!」
彼女は大きく杯を掲げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
私たちも声を合わせ、杯を打ち合わせた。
久しぶりに飲む酒は、驚くほど美味しかった。
「くぅーっ! やっぱ戦いの後の一杯は最高だな!」
フリーダは勢いよく杯を空け、満足そうに息を吐いた。
「フリーダ、最初からそんなに飲んだら、また酔い潰れますよ」
「何言ってんだ。今日は祝勝会だぞ? 飲まねえでどうすんだよ!」
「ほどほどにしてくださいね」
「分かってるって!」
どう見ても分かっていない返事だったけれど、クルシュはそれ以上何も言わず、苦笑しながら自分の杯へ口をつけた。
私たちは料理をつまみながら、今回の戦いについて話した。
フリーダは前線での出来事を豪快に語り、クルシュはその隣で細かいところを補足している。私は救護所での出来事を話し、タクマは南門や北門での戦闘について聞かれるたびに、少し照れくさそうに答えていた。
「それにしても、タクマ。お前、随分と派手なことやったらしいじゃねえか」
フリーダがにやりと笑った。
「南門で魔獣をまとめて吹っ飛ばしたって話、もうあちこちで聞くぞ」
「いや、あれは本当に偶然というか……」
「偶然であんな真似ができるかよ。お前、いつの間にそんな技を覚えたんだ?」
「だから、俺もよく分かってないんですって」
タクマが困ったように笑う。
フリーダはそんな彼の肩を豪快に叩いた。
「ははっ! 相変わらず変なところで謙虚だな、お前は!」
その様子を見ていたクルシュが、穏やかな口調で言った。
「ですが、実際にあの戦いで多くの方が助かったのは事実です。タクマさんの働きは、きちんと評価されるべきだと思いますよ」
「そうそう。それで思い出した!」
私は思わず身を乗り出した。
「タクマ、A級に推薦されたんだよ!」
「……おい、リカ」
タクマが少し慌てたように私を見たけれど、もう遅かった。
「何だって!?」
フリーダが勢いよく身を乗り出した。
「A級だと!? おいおい、本当かよ!」
「まだ推薦の段階ですけどね」
タクマが苦笑しながら答える。
「バルザックさんから、正式な審査にかけるって話をもらいました」
「へえ……とうとうそこまで来たか!」
フリーダは嬉しそうに笑い、タクマの背中を叩いた。
「最初はひょろっとした新人だったのになあ。今じゃA級候補かよ。大したもんじゃねえか!」
「ひょろっとしてましたか、俺?」
「細けえことは気にすんな! 褒めてんだよ!」
タクマは苦笑したけれど、どこか嬉しそうだった。
クルシュも杯を置き、穏やかに微笑んだ。
「おめでとうございます、タクマさん。まだ正式決定ではないとのことですが、これまでの努力が認められたのは素晴らしいことだと思います」
「ありがとうございます」
「それに、今回の戦いでは私たちも何度も助けられましたからね。A級への推薦は、十分納得できるものだと思います」
私は嬉しくなって頷いた。
「でしょ? 私もそう思う!」
タクマは少し照れくさそうに笑い、杯へ口をつけた。
こうして仲間たちから祝福されている姿を見ると、私まで誇らしくなってしまう。彼がどれだけ努力してきたのかを知っているからこそ、その成果が認められることが嬉しいのだ。
フリーダはそんな私たちを見比べ、にやりと笑った。
「こりゃ正式に決まったら、盛大に祝わねえとな!」
「まだ決まってませんから」
「分かってるって! でも、決まったら覚悟しとけよ。あたしがとことん付き合ってやるからな!」
「……それは、ちょっと怖いですね」
タクマがそう言うと、私たちは声を上げて笑った。
酒場の中には、久しぶりの穏やかな時間が流れていた。
◇
それからしばらく、私たちは料理を食べながら他愛のない話を続けていた。
フリーダが次の依頼はどうするかと話し始め、クルシュがもう少し休養してからでも遅くないと答える。タクマはそろそろ剣の稽古を再開したいと言い、私は治癒魔法の研究を進めたいと話した。
そんな会話をしていると、ふいに背後から声がかかった。
「タクマ、ちょっといい?」
振り返ると、エリナが立っていた。
「ん? どうした?」
「バルザックさんが呼んでるんだけど、少し時間ある?」
「今ですか?」
「うん。そんなに長くはかからないと思うから」
タクマは不思議そうな顔をしたけれど、すぐに頷いた。
「分かった。ちょっと行ってくる」
「私も行こうか?」
私が尋ねると、エリナは小さく首を横に振った。
「大丈夫だよ。すぐ戻れると思うから、リカはここで待ってて」
「そっか。分かった」
タクマは席を立ち、エリナと一緒に酒場を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は首を傾げた。
「……何だろう?」
「さあな。何か追加の報告でもあるんじゃねえか?」
フリーダはそう言いながら、杯へ口をつけた。
クルシュは少し考えるような表情を浮かべた。
「もしかすると、昇格の件かもしれませんね」
「えっ、もう?」
私は思わず聞き返した。
「だって、まだ数日しか経ってないよ?」
「推薦を受けてから何日か経っていますし、今回の功績はかなり大きいですから。審査が早く進んでも不思議ではないと思いますよ」
「なるほどな。だったら面白えじゃねえか!」
フリーダはにやりと笑った。
「ま、戻ってくりゃ分かるだろ。ほら、リカ。そんな顔してねえで飲め飲め!」
「もう、フリーダったら」
私は苦笑しながら杯を持ち上げた。
とはいえ、タクマが何を言われているのか気にならないわけではない。もし本当にA級昇格が決まったのなら、これほど嬉しいことはないだろう。
私は酒場の入口へ何度か視線を向けながら、タクマが戻ってくるのを待った。
やがて、しばらくしてからタクマが姿を現した。
「あ、タクマ!」
私は思わず手を振った。けれど、こちらへ歩いてくる彼の様子を見て、少しだけ首を傾げた。驚いているような、呆然としているような、それでいて何かを思いついて笑いを堪えているようにも見える。怒られたわけではなさそうだけれど、いったい何があったのだろう。
「タクマ? どうしたの?」
私が尋ねると、彼は一度こちらを見て、それから酒場の中をゆっくりと見回した。
周囲には、スタンピードをともに戦い抜いた冒険者たちがいる。酒を酌み交わしながら笑っている者もいれば、仲間と肩を組んで歌っている者もいた。傷ついた装備を身につけたまま飲んでいる冒険者もいるし、包帯を巻いた腕で杯を掲げている者もいる。
タクマはそんな光景を眺めながら、何やら一人で納得したように頷いた。
「……なあ、リカ。俺、ちょっとやりたかったことがあるんだ」
「何が?」
「男の夢みたいなもんでさ。いいだろ?」
「だから何が?」
質問に答える気があるのだろうか。私が困惑していると、タクマは妙に楽しそうな笑みを浮かべ、こちらへ向き直った。
そして、私がもう一度問いかけるよりも早く、酒場全体へ響く声を張り上げた。
「なあ! 酒場のみんな!! 聞いてくれ!!」
突然の大声に、それまで騒がしかった酒場が次第に静まり返った。近くの卓から順に会話が途切れ、何事かと振り返った冒険者たちの視線が、一斉にタクマへ集まっていく。
杯を持ち上げたまま動きを止める者もいれば、何か面白いことでも始まるのかと、身を乗り出す者もいる。フリーダまで酒杯を片手に目を丸くしており、クルシュは不思議そうにタクマを見つめていた。
私も隣から彼を見上げたけれど、当の本人は少しも気にしていない。
むしろ、これだけの人々が自分に注目している状況を、どこか楽しんでいるようにさえ見えた。
タクマは一度大きく息を吸い込み、満面の笑みを浮かべた。
「お前ら!!今日は俺のおごりだー!!好きなだけ飲んでくれ!!!」
一瞬、酒場が静まり返った。
そして次の瞬間、建物が揺れるのではないかと思うほどの大歓声が巻き起こった。
「うおおおおおっ!?」
「マジかよ、タクマ!」
「おい、聞いたか!? 今日はタクマのおごりだってよ!」
あちこちで杯が掲げられ、机を叩く音と歓声が重なり合う。つい先ほどまでそれぞれの卓で飲んでいた冒険者たちが、一斉に立ち上がり、タクマへ向かって祝福とも歓喜ともつかない声を浴びせ始めた。
「はははっ! いいじゃねえか、タクマ!」
真っ先に反応したのは、やっぱりフリーダだった。
「おい、店主! こっちに酒を追加だ! 今日は遠慮しなくていいんだろ!?」
「ちょっと、フリーダ! まだ事情も聞いていませんよ!」
クルシュが慌てて止めようとしたけれど、フリーダはまったく気にしていない。むしろ、これからが本番だと言わんばかりに追加の酒を注文し始めている。
私はそんな光景を呆然と眺め、それから隣で満足そうに笑っているタクマへ視線を戻した。
「……タクマ。男の夢って、これ?」
「ああ。一度やってみたかったんだよな」
「……もう!」
私は思わず笑ってしまった。
まったく、この人は。
いつもは落ち着いているくせに、時々こうして子供みたいなことを言い出すのだから、困ってしまう。
「……それで、いったい何があったの?」
改めて尋ねると、タクマはようやく事情を説明してくれた。
「A級になったんだ。正式に承認されたって、バルザックさんから聞いてきた」
「……えっ?」
「それと、報奨金の計算も終わったらしくてさ。エリナに帳面を見せてもらったんだけど……思ってたより、ずっと多かった」
タクマはそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「せっかくだし、みんなで飲もうと思ってな。今回の戦いは、俺一人で勝ったわけじゃないし」
私は一瞬、言葉を失った。
けれど、その意味を理解した途端、胸の奥から嬉しさが込み上げてきた。
「……本当に!? A級になったの!?」
「ああ。今日から俺もA級冒険者だ」
「すごい! タクマ、おめでとう!」
私は思わず彼に抱きついた。タクマは少し驚いたようだったけれど、すぐに笑って私を抱きとめてくれた。
森で出会ったばかりの頃は、この世界のことを何も知らなかった彼が、今ではA級冒険者になったのだ。ハーケンとの稽古も、ボーマンとの厳しい修行も、これまで受けてきた数々の依頼も、すべてが今日につながっている。
その努力をずっと近くで見てきた私にとって、これほど嬉しい知らせはなかった。
もっとも、感動に浸っていられたのは、ほんの短い間だけだった。
「おーい、タクマ! 何やってんだ! 主役がいねえと始まらねえだろ!」
酒場の奥から、フリーダの大きな声が響いてきた。
振り返ると、彼女はすでに新しい酒杯を手にしていた。クルシュはその隣で苦笑しているけれど、どうやら止めるのは諦めたらしい。周囲の冒険者たちも次々と杯を掲げ、タクマの名前を呼び始めている。
そして、カウンターの向こうではエリナが楽しそうに笑っていた。
「……何だか、大変なことになりそうだね」
私が小さく呟くと、タクマは酒場を見回しながら笑った。
「まあ、今日くらいはいいだろ」
その言葉に、私も笑って頷いた。
ノヴァグラードを襲ったスタンピードは終わり、街には少しずつ日常が戻ってきている。そして今日、タクマは正式にA級冒険者となった。
こんなに嬉しい日なのだから、少しくらい羽目を外してもいいのかもしれない。
もっとも、フリーダが次々と追加注文を始めている様子を見る限り、少しくらいでは済まなさそうだったけれど。
私はタクマと顔を見合わせ、思わず声を上げて笑った。
こうして、ささやかな祝勝会として始まったはずの宴会は、いつの間にかギルド中を巻き込む大騒ぎへと変わっていったのだった。




