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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第5章】聖女と英雄

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第86話 守るべきもの


 南門の外に広がる農地を、魔獣の群れが進んでいた。


 つい先ほどまで私たちが守っていた木柵は倒れ、土塁の一部も踏み崩されている。畑の間を通る農道には狼型や猪型の魔獣が次々と姿を現し、残された防衛設備を避けながら城壁へ近づいていた。外郭防衛線を失ったことで、魔獣たちは以前よりも自由に動けるようになっており、私たちが迎撃できる場所も城門周辺の限られた範囲へと狭められている。


 第二防衛線では衛兵たちが盾を並べ、城壁の上では弓兵が弦を引き絞っていた。外側の拠点を失ったとはいえ、南門そのものが突破されたわけではない。城壁も健在であり、ここで魔獣の勢いを止められれば、街への侵入は防げるはずだった。


「来るぞ! 前衛、構えろ!」


 指揮官の号令とともに、衛兵たちが槍を前へ突き出した。


 私はその少し後方で地面に手を向け、土魔法を発動した。農道の両側に残っていた土壁を補強し、魔獣が一度に押し寄せないよう通路を狭める。隣ではクルシュが蔦魔法を使い、石垣や建物の陰から回り込もうとする魔獣の動きを妨害していた。


 土壁の間へ殺到した魔獣たちに対し、衛兵たちが一斉に槍を突き出す。先頭の狼型が倒れ、その後ろから猪型の魔獣が突進してきた。盾を構えた衛兵たちが衝撃を受け止めようとしたところへ、フリーダが長槍を構えて踏み込んだ。


「おらぁ! そいつは俺に任せろ!」


 鋭い突きが猪型の魔獣の首元を捉え、巨体が横倒しになる。フリーダはすぐに槍を引き戻すと、倒れた魔獣を避けて飛び込んできた狼型へ穂先を向けた。長槍の間合いを巧みに使い、味方の盾列を崩さない位置で敵を仕留めていく。


 その隣では、タクマが剣を振るっていた。


 狼型の魔獣が飛びかかると、彼はわずかに体を傾けて攻撃をかわし、着地するより早く相手の胴へ刃を走らせる。続いて現れた魔獣には自分から踏み込み、相手が跳び上がる前に斬り伏せた。剣を振り抜いた勢いを無理に止めることなく、足の運びと体の向きを変えることで、次の敵へ自然に対応している。


 昨日の北門でも感じたことだけれど、タクマの動きは以前よりも明らかに洗練されていた。


 余計な力が入っていない。それでいて、一歩踏み込むときの速度や剣を振り抜く鋭さは、以前とは比べものにならないほど増している。相手の動きを見てから対応しているはずなのに、まるで次に何が起こるのか分かっているように、最も危険な場所へ迷わず剣を向けていた。


「タクマ、右だ!」


「ああ!」


 フリーダの声に応じ、タクマは振り返ることなく半歩横へ移動した。


 直後、背後から飛びかかってきた狼型の魔獣が空振りし、地面へ着地する。その瞬間を逃さず、タクマの剣が横薙ぎに振り抜かれた。さらに彼は倒れた魔獣を踏み越えるように前へ出て、別の衛兵へ襲いかかろうとしていた魔獣を斬り伏せる。


 私は思わず目を見張った。


 もちろん、タクマが強くなったことは知っている。ハーケンとの手合わせでも、その実力はすでに認められていたし、実戦経験も十分に積んできた。それでも、今の彼には、それまでとは違う何かがあった。


 戦いながら周囲の状況を把握し、自分の剣が届く範囲だけでなく、隣にいる衛兵たちが危険にさらされる場所まで意識している。自分が一体を倒すことで誰の負担が減るのか、どこへ踏み込めば味方が動きやすくなるのかを、ほとんど考える間もなく判断しているようだった。


 ただ、その活躍を喜んでばかりもいられなかった。


 魔獣の群れは、まだ途切れていない。


     ◇


 戦闘が続くにつれ、第二防衛線にも限界が近づいていた。


 衛兵たちは交代しながら戦っていたけれど、負傷者が増えたことで前衛の人数が減り、交代できる者も少なくなっている。城壁上の弓兵も矢の補給を受けながら攻撃を続けていたものの、農道を進んでくる魔獣の数は一向に減らなかった。


 私も土壁の補修を繰り返していたけれど、魔力の消耗が激しく、次第に大きな魔法を使うことが難しくなっていた。昨日の東門と北門での戦闘に加え、今朝から続いている南門での迎撃が、確実に体へ負担をかけている。


「リカさん、無理をなさらないでください」


 隣にいたクルシュが声をかけてくる。


「うん。分かってる。でも、あそこだけは塞いでおかないと……」


 私は前方の土壁を指さした。


 魔獣の突進を何度も受けたせいで、壁の一部が大きく崩れかけている。あそこを突破されれば、魔獣が衛兵たちの側面へ回り込んでしまう。そうなれば、正面の敵を食い止めている盾列まで崩されかねなかった。


「では、私が補助します。蔦で支えられる部分は、こちらで対応しましょう」


「ありがとう!」


 クルシュが杖を掲げると、土壁の表面へ太い蔦が伸びていった。崩れかけた部分を絡め取るように支え、その隙間へ私が土を盛り上げる。完全に元どおりにすることはできなかったけれど、少なくとも小型の魔獣が簡単に飛び越えられない程度には補強できた。


 それでも、状況は好転しなかった。


 防衛線の西側で衛兵が倒れ、そこへ魔獣が殺到する。フリーダが駆けつけて何とか押し返したものの、その間に別の場所でも負傷者が出てしまった。倒れた衛兵を後方へ運ぼうとする者がいれば、その分だけ前衛の人数が減り、残された者たちへの負担がさらに大きくなる。


 指揮官は各所の報告を受けながら、厳しい表情で城門を振り返った。


「……これ以上、門外で戦力を失うわけにはいかん」


 彼はしばらく周囲の状況を確認した後、部下たちへ命じた。


「全員、城内へ撤退する! 負傷者と補給担当者を先に通せ。最後の部隊が戻り次第、南門を閉鎖する!」


 衛兵たちが一斉に動き始めた。


 城門の内側では、負傷者を乗せた荷車が次々と通されている。弓兵たちは城壁上から援護を続け、前衛も交代しながら後退を始めた。門を閉じれば、少なくとも大型の魔獣が簡単に街へ侵入することはできなくなる。しかし、そのためには外に残っている衛兵や冒険者を全員収容しなければならず、撤退中に隊列が崩れれば大きな被害につながる危険もあった。


 私たちも撤退する部隊の援護に回った。


 フリーダとタクマが最後尾で魔獣を食い止め、クルシュが蔦魔法で追撃を妨害する。私は城門へ続く道の両側へ低い土壁を作り、横から接近する魔獣が撤退中の衛兵たちへ襲いかからないようにした。


 だが、最後の荷車が城門へ近づいたところで、事態が急変した。


「右側から魔獣の群れ! 数が多いぞ!」


 見張りの声が響いた。


 農道の脇にある石垣の切れ目から、狼型の魔獣が次々と飛び出してきた。外郭防衛線を突破した群れの一部が、畑を回り込んで接近していたらしい。すでに撤退を始めていた衛兵たちは急いで隊列を組み直そうとしたものの、負傷者を乗せた荷車がまだ城門を通過しきっておらず、門を閉じることもできない。


「くそっ、ここで来やがるか!」


 フリーダが槍を構え直した。


「クルシュ! 荷車を通せ! こっちは俺たちで止める!」


「分かりました!」


 クルシュが蔦を伸ばし、魔獣の先頭集団を足止めする。私も残った魔力を使って土壁を補強したけれど、すべての進路を塞ぐには足りなかった。狼型の魔獣が蔦を引きちぎり、別の個体は土壁を飛び越えてくる。こちらが一体を止めている間にも、別の場所から新しい魔獣が現れていた。


 タクマが一歩前へ出た。


「フリーダ、荷車のほうを頼む!」


「お前はどうする!」


「ここで止める!」


「馬鹿野郎! 一人で全部相手にする気か!」


「少しだけ時間を稼げればいい!」


 タクマはそう答えると、城門へ迫る魔獣の群れへ向き直った。


 私は彼の背中を見つめながら、何とか援護する方法を考えた。しかし、魔力はすでにかなり消耗している。大きな土壁を作ろうとしても、今の私では十分な強度を保てるか分からなかった。


「タクマ! 無茶しないで!」


「ああ、分かってる!」


 彼はそう答えたけれど、その視線は目の前の魔獣から離れなかった。


 城門の内側から、衛兵たちの叫び声が聞こえる。


「荷車、通過しました!」


「最後の部隊を急がせろ! もう門を閉めるぞ!」


 残された時間は、ほとんどなかった。


     ◇


 タクマは剣を両手で握り直した。


 目の前には、農道いっぱいに広がった魔獣の群れがいる。先頭の狼型を倒したところで、その後ろから次の魔獣が飛び込んでくるだろう。今までと同じように一体ずつ斬り伏せていては、城門を閉じるだけの時間を稼ぐことは難しい。


 私は彼の背後から援護しようとしたけれど、タクマはその場を動かなかった。


 彼の剣に、淡い光が集まり始めた。


「……タクマ?」


 最初は身体強化の魔力が剣へ流れているのだと思った。けれど、いつもとは様子が違う。魔力が刃の周囲へ集まり、薄い光の膜のように広がっていく。身体強化であれば、魔力は自分の肉体へ循環させるものだし、武器を強化する場合でも、通常は刃の表面に魔力を留める。


 ところが、今のタクマは、その魔力を剣の外側へ押し出そうとしているように見えた。


 私は思わず息を呑んだ。


 剣そのものを強化する魔法なら、私も知っている。けれど、今のタクマがしていることは、それとは少し違っていた。魔力が刃の外側へ溢れ、まるで剣の輪郭が大きくなっていくように見えたのだ。


 タクマは一度だけ深く息を吸い、前方へ踏み込んだ。


「うおおおおっ!」


 気合いとともに、剣が横薙ぎに振り抜かれる。


 次の瞬間、刃から放たれた光が扇状に広がった。


 それは剣の届く範囲をはるかに越え、農道へ押し寄せていた魔獣の群れへ襲いかかった。先頭の狼型が吹き飛ばされ、その後ろにいた猪型の魔獣も巻き込まれる。地面を削るような衝撃が走り、舞い上がった土煙が一瞬だけ視界を覆った。


 私は反射的に腕を上げ、顔を庇った。


 風圧が収まり、土煙の向こうが見えるようになったとき、そこには信じられない光景が広がっていた。


 農道の中央には大きく抉られた跡が残り、先ほどまで押し寄せていた魔獣の先頭集団が倒れている。後続の魔獣たちも突然の衝撃に動きを止め、すぐには前へ進んでこなかった。


「…………え?」


 思わず声が漏れた。


 剣に集めた魔力を、斬撃として遠くまで飛ばした。目の前で起きたことを言葉にするなら、そういうことになるのだろう。けれど、それがどれほど難しいことなのかを知っている私には、すぐに理解できるような光景ではなかった。


 タクマ自身も、剣を振り抜いた姿勢のまま固まっていた。彼はしばらく自分の剣を見つめ、それから目の前の光景へ視線を向ける。


「……え?」


 まったく同じ声が、彼の口から漏れた。


 その表情は、何が起きたのか分からないというよりも、自分がやろうとしたことが本当にできてしまったのが信じられない、といった様子だった。


 私は一瞬だけ笑いそうになったけれど、すぐに状況を思い出した。


「タクマ! 今のうちに戻って!」


 私が叫ぶより早く、フリーダが怒鳴った。


「何ぼさっとしてやがる! 今のうちに戻るぞ!」


「……あ、ああ!」


 タクマは慌てて剣を構え直し、こちらへ駆けてきた。


 フリーダとクルシュも後退し、私たちは最後の衛兵たちと一緒に城門をくぐった。


「閉めろ!」


 指揮官の号令とともに、重い城門が動き始める。


 左右から扉が閉じられ、その隙間が少しずつ狭まっていく。城壁の上では弓兵たちが矢を放ち、再び動き始めた魔獣の接近を妨害していた。門の内側では衛兵たちが力を合わせて扉を引き、最後の隙間を閉じようとしている。


 だが、完全に閉じきる直前、城門の脇から小型の魔獣が数体飛び込んできた。


「魔獣が入ったぞ!」


 衛兵の叫び声が響く。


 タクマがすぐに剣を向けたけれど、魔獣たちは人々の間をすり抜け、城内へ続く街路へ散っていった。城門を閉じようとしている衛兵たちは持ち場を離れることができず、追撃に向かえる者も限られていた。


 タクマが追いかけようとしたところで、指揮官が制止した。


「城門の閉鎖が先だ! 中の魔獣は別の部隊に任せろ!」


 重い扉が最後まで閉じられ、閂が下ろされた。


 南門は閉鎖された。


 けれど、街の中へ魔獣の侵入を許してしまった。


     ◇


 城内では、すでに避難を知らせる鐘が鳴っていた。


 南門周辺の住民は事前に避難していたものの、物資の運搬や負傷者の搬送に従事していた人々はまだ残っている。街路へ侵入した魔獣が彼らを襲えば、被害はさらに広がってしまうだろう。


 私たちは指揮官の許可を得て、すぐに市街地へ向かった。


 タクマは先ほどの一撃で魔力を大きく消耗したらしく、走りながら何度か呼吸を整えていた。それでも足取りはしっかりしており、剣を握る手にも力が残っているようだった。


「タクマ、さっきの……」


「俺にも、ちょっと驚いてる」


 私が尋ねると、彼は困ったように笑った。


「でも、何となくやりたいことのイメージはあったんだ。あんなふうにできるとは思わなかったけど」


「イメージがあったの?」


「ああ。詳しい話は後でするよ。今はこっちが先だろ?」


「……そうだね」


 私は頷き、前方へ視線を戻した。


 魔力を剣へ集中させ、刃の届かない場所まで攻撃する。理屈としては考えられなくもないけれど、あれほど広い範囲へ魔力を放出するには、相当高度な制御が必要になるはずだった。少なくとも、魔法を専門的に学んでいないタクマが、簡単にできるようなことではない。


 けれど、実際に彼はやってのけた。


 しかも、何となくイメージがあったという。


 ……後で詳しく聞いてみる必要がありそうだ。


 そんなことを考えていると、前方の街路から悲鳴が聞こえてきた。


「魔獣だ! こっちへ来るぞ!」


 私たちはすぐに走り出した。


 角を曲がると、荷物を積んだ手押し車が横倒しになっており、その向こうで数人の住民が狼型の魔獣から逃げようとしていた。護衛の衛兵が一人、剣を構えているものの、すでに腕を負傷しているらしい。


 タクマは状況を確認すると、迷わず前へ飛び出した。


「リカ、住民を頼む!」


「分かった!」


 私は住民たちの前へ低い土壁を作り、魔獣が直接飛びかかれないようにした。


 その間にタクマが一気に間合いを詰め、先頭の魔獣を斬り伏せる。続いて飛びかかってきた二体目の攻撃を身を屈めてかわし、立ち上がる動きに合わせて剣を振り上げた。魔獣が倒れるより早く、彼は次の敵へ向き直っている。


 その動きには、ほとんど迷いがなかった。


 相手の攻撃を受け止めるのではなく、わずかな体の動きでかわし、空いた場所へ踏み込む。狭い街路では大きく剣を振り回すことができないため、必要な角度だけ刃を動かし、確実に急所を捉えていく。相手の勢いを利用して体勢を崩させる動きもあり、魔獣たちは自分の攻撃が届かないまま次々と倒されていた。


 私はその姿を見ながら、先ほどの魔法剣とは別の意味で驚いていた。


 これは偶然発動した魔法ではない。


 タクマがこれまで積み重ねてきた剣技そのものだった。


     ◇


 街路の先では、ハーケンが若手冒険者たちを率いて戦っていた。


 彼らは南門周辺の避難誘導と街路封鎖を担当していたらしく、建物の間へ入り込んだ魔獣を追い払っている。ハーケン自身も剣を振るっていたけれど、それ以上に若手たちの動きを注意深く見ているようだった。


「前に出すぎるな! そいつを追う必要はねえ!」


 ハーケンが怒鳴る。


「倒すことばかり考えるな! まず住民の逃げ道を確保しろ!」


 若手冒険者たちは慌てて隊列を組み直し、街路の中央へ盾を並べた。彼らの中にはまだ実戦経験の浅い者も多く、魔獣が建物の陰から飛び出してくるたびに隊列が乱れそうになっている。それでも、ハーケンの指示を受けることで、何とか互いを援護できる位置を保っていた。


 そこへ別の魔獣が飛び込んでくる。


 ハーケンが援護に向かおうとした瞬間、タクマが横から駆け抜けた。


 彼は建物の壁際を走り、魔獣の側面へ回り込む。相手が振り向こうとしたところへ踏み込み、鋭い一撃で斬り伏せた。


「タクマか!」


「ハーケンさん! こっちは任せてください!」


「おう! 若い連中を頼む!」


 タクマは頷くと、すぐに次の魔獣へ向かった。


 私はハーケンたちと協力し、街路の一部を土壁で塞いだ。魔獣が入り込める道を減らし、若手冒険者たちが一度に複数の方向を警戒しなくても済むようにするためだった。残された魔力は少なかったけれど、通路を狭める程度の魔法なら、まだ何とか使うことができる。


 その間にも、タクマは次々と魔獣を倒していた。


 狭い路地から飛び出してきた狼型の魔獣をかわし、建物の角へ追い込んで斬り伏せる。別の魔獣が背後から襲いかかると、振り返るより早く横へ踏み出し、相手の突進を空振りさせた。着地した魔獣が体勢を立て直す前に踏み込み、最小限の動きで剣を振り抜く。


 動きに無駄がない。


 しかも、ただ敵を倒しているだけではなかった。


 若手冒険者が危険な位置へ踏み込めば、すぐにその前へ出て魔獣の攻撃を引き受ける。負傷した衛兵が後退するときには、追撃してくる魔獣を先回りして仕留める。自分の戦いだけでなく、周囲の人々が安全に動けるよう、常に位置を変えていた。


 私はその姿を見ながら、以前のタクマとの違いを改めて感じていた。


 かつての彼は、目の前の敵を倒すことだけで精一杯だった。もちろん、それでも十分に努力していたし、実戦経験を重ねるたびに少しずつ強くなっていた。けれど今は、自分の周囲で起きていることを把握し、誰を助けるべきか、どこへ動くべきかを瞬時に判断している。


 剣の腕前だけではない。


 戦場そのものを見る力が、明らかに成長していた。


 やがて、街路へ入り込んだ魔獣の一群が片づいた。


 ハーケンは剣についた血を払いながら、タクマへ近づいた。


「……おい、タクマ」


「何ですか、ハーケンさん?」


「お前、さらに強くなってるじゃねえか。どうなってんだ、お前……」


 タクマは少し困ったような顔をした。


「自分でも分かりません。とにかく、無我夢中で」


「……俺はそこまで教えた覚えはねえぞ」


 ハーケンは呆れたように頭をかいた。


「ったく、とんでもねえ奴だな……」


 そう言いながらも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。


 私は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ嬉しくなった。


 ハーケンは、タクマがこの街で冒険者として歩き始めた頃から剣を教えてくれている。何度も厳しい稽古をつけ、ときには容赦なく叩きのめしながら、実戦で生き残るための技術を身につけさせてくれた。以前の手合わせでは、タクマの実力がすでに相当な水準へ達していることも認めていた。


 そんなハーケンが、今のタクマを見て驚いている。


 それは、タクマが本当に強くなったという何よりの証拠だった。


 しかし、感慨に浸っている時間はなかった。別の街路から、再び魔獣の鳴き声が聞こえてきたのだ。


「……まだいやがるか」


 ハーケンが剣を構え直す。


 タクマもすぐに表情を引き締め、前方へ視線を向けた。


「行きましょう、ハーケンさん」


「おう。今度は俺にも少し残しとけよ」


 タクマは笑って頷き、再び走り出した。


     ◇


 市街地での戦闘が続く中、南門近くの救護所にも危険が迫っていた。


 街路へ侵入した魔獣の一部が、負傷者を搬送する通路の近くまで接近したらしい。救護所から応援を求める声が届き、私たちは急いでそちらへ向かった。


 救護所では、マルタさんが治療師たちへ指示を出していた。


「歩ける者は奥へ移動させな! 担架が必要な患者は、そっちの通路から運ぶんだよ! 慌てるんじゃない、順番に動きな!」


 負傷者たちはすでに移動を始めており、治療師たちも必要な道具をまとめている。マルタさんは患者の状態を確認しながら、誰を先に移動させるべきかを判断していた。外では魔獣が暴れているというのに、その声には少しも迷いがない。


「マルタさん!」


 私が声をかけると、彼女はすぐに振り返った。


「リカ! ちょうどいいところに来たね! 外の魔獣を何とかできるかい?」


「うん。入口のほうを塞げば、少しは時間を稼げると思う!」


「だったら頼むよ! こっちは患者を移動させる!」


 私は頷き、救護所の外へ向かった。


 通路の向こうには、狼型の魔獣が数体見えていた。護衛の衛兵たちが応戦しているものの、狭い街路では十分な間合いを取れず、苦戦しているようだった。


 私は地面へ手を向け、土魔法を発動した。


 通路の途中に低い壁が立ち上がり、魔獣の進路を遮る。完全に塞いでしまうと衛兵たちの退路まで失われるため、壁の一部には人が通れる隙間を残しておいた。


「衛兵さんたち! こっちへ下がって!」


 私の声に、衛兵たちが後退を始める。


 魔獣が追いかけようとしたところへ、タクマが飛び込んだ。


 彼は先頭の魔獣を斬り伏せると、続いて現れた二体目の攻撃をかわし、そのまま剣を振り抜いた。狭い通路の中でも動きは鈍らず、魔獣がこちらへ近づく前に次々と倒していく。


 私はその間に土壁を補強し、残った魔獣が救護所へ回り込めないよう進路を塞いだ。魔力はほとんど残っていなかったけれど、ここで魔獣を通してしまえば、動けない負傷者たちが危険にさらされる。今の私にできることは限られているからこそ、必要な場所を見極めて魔法を使わなければならなかった。


 やがて、最後の魔獣が倒れた。


「……よし。これで大丈夫かな」


 私が息をつくと、タクマも剣を下ろした。


「ひとまずはな。でも、また来るかもしれない」


「うん。マルタさんにも伝えておこう」


 私たちは救護所へ戻り、マルタさんへ状況を報告した。


「外の魔獣は片づけたよ。でも、また来るかもしれないから、患者さんたちは移動させたほうがいいと思う」


「分かってるよ。もう準備は進めてある。あんたたちは、ほかに危ない場所がないか見てきな」


 マルタさんはそう答えると、すぐに治療師たちへ新しい指示を出し始めた。


 私はその姿を見ながら、改めて彼女の頼もしさを感じていた。


 私たちが魔獣を倒している間にも、マルタさんは患者の状態を確認し、移動先を決め、治療師たちへ役割を割り振っている。戦闘ができなくても、彼女は自分の持ち場で多くの命を守っていた。もし彼女がいなければ、負傷者の移動はもっと混乱していただろうし、治療を続けることさえ難しくなっていたかもしれない。


 そして、そのすぐ隣にはタクマが立っている。


 私は彼の横顔を見つめながら、ふと、初めて出会った頃のことを思い出した。


 森の中で倒れていた、見慣れない服を着た青年。


 剣も魔法も使えず、この世界のことを何も知らなかった彼を、私は自分の家へ連れて帰った。最初は、しばらく面倒を見てあげるつもりだったし、冒険者になると言い出したときも、本当に大丈夫なのかと心配していた。


 それが今では、こうして私と並んで戦っている。


 それどころか、私が守れない場所を彼が守り、私が助けられない人を彼が助けている。かつては魔獣を一体倒すだけでも苦労していたのに、今では複数の魔獣を相手にしても落ち着いて戦い、周囲の人々を守る余裕まで見せるようになっていた。


 いつの間にか、タクマはこんなにも頼もしい剣士になっていた。


「……リカ?」


 タクマが不思議そうにこちらを見る。


「どうした?」


「ううん。何でもない」


 私は小さく笑い、首を横に振った。


「ただ、タクマって本当に強くなったなって思って」


 彼は少し照れくさそうに笑った。


「まだまだだよ。今日だって、分からないことばかりだしな」


「それでも、すごいよ」


 私はそう答え、彼の手を軽く握った。


 今はそれ以上、言葉にする必要はなかった。


     ◇


 夕方になり、ようやく市街地へ侵入した魔獣の掃討が完了した。


 南門は閉鎖され、城壁の上からは弓兵や魔法使いたちが外側の魔獣を警戒している。城門周辺の防衛設備は大きく損傷していたものの、街の中へ新たな魔獣が侵入する事態は、ひとまず防ぐことができていた。


 ただし、被害は決して小さくなかった。


 衛兵や冒険者の中には命を落とした者もおり、負傷者の数も増えている。救護所ではマルタさんたちが治療を続け、街の各所では住民たちが物資の運搬や避難所の準備に追われていた。街路には戦闘の痕跡が残り、壊れた荷車や散乱した荷物を片づける人々の姿も見える。


 バルザックからの連絡によれば、フロンティア大公国軍の増援はまだ到着していないという。東門と北門でも警戒が続いており、南門だけに戦力を集中させることはできない。街を守るためには、今いる衛兵や冒険者たちで、もうしばらく持ちこたえる必要があった。


 私たちは南門の近くで、ようやく短い休息を取ることができた。


 タクマは壁際に腰を下ろし、剣を膝の上へ置いている。先ほどまでの鋭い動きが嘘のように、今は疲れ切った表情をしていた。身体強化を長時間使い続けたうえ、あの大きな魔法剣まで放ったのだから、相当な負担がかかっているのだろう。


「……さすがに疲れた」


「そりゃそうでしょ。今日だけで何体倒したと思ってるの?」


「数えてないな」


「私も数えてないけど、すごい数だったよ」


 タクマは困ったように笑った。


 その少し離れたところでは、衛兵や若手冒険者たちが今日の戦闘について話していた。


「南門の前で、魔獣をまとめて吹き飛ばしたのを見たか?」


「ああ。剣を振っただけで、あんなことになるなんてな……」


「俺は街路で戦ってるところを見た。あんな動きができる剣士、初めて見たぞ」


「タクマさんが来てくれなかったら、俺たちは危なかった」


 タクマはその声が聞こえたのか、少し居心地が悪そうに視線を逸らした。


「……大げさだな」


「そんなことないよ」


 私は隣へ腰を下ろし、彼の顔を覗き込んだ。


「今日のタクマは、本当にすごかったんだから」


「そう言われてもな……」


「じゃあ、さっきの魔法の剣、もう一回できる?」


 私が尋ねると、タクマは真剣な顔で少し考えた。


「……いや、今は無理だと思う」


「どうして? あんなに綺麗に魔力を飛ばしてたのに」


「どうやって魔力を放出したのか、自分でもよく分かってないんだ。ただ、やりたいことのイメージはあったんだよ」


「イメージ?」


「ああ。日本の男はさ、剣を持つと一回は夢見る技があるんだよ」


「……何それ?」


 タクマは少し楽しそうに笑った。


「剣を振ったら、斬撃が飛んでいって、離れた敵をまとめて倒すんだ。そういう技を使う主人公を、子供の頃から見てたからな」


 私は思わず彼の顔を見つめた。


「……私はもう、日本という国が何なのか分からないわ……」


「ははっ。まあ、そういう国なんだよ」


 タクマは楽しそうに笑ったけれど、私はますます分からなくなってしまった。


 どうやら日本という国では、剣を持った男性が遠くの敵を斬りつけることを夢見るらしい。以前からタクマの故郷には不思議な文化が多いと思っていたけれど、今度ばかりは理解が追いつかなかった。


 ……本当に、どんな国なのだろう。


「でもさ、タクマ。イメージがあっただけで、あんな魔法が使えるものなの?」


「いや、そこは俺にも分からない。身体強化を使うときの感覚で、剣に魔力を集中させてみたんだけど……あんなふうに飛んでいくとは思わなかった」


「なるほどね……」


 私は彼の説明を聞きながら、先ほどの光景を思い返した。


 剣の周囲へ魔力が集まり、刃の外側へ溢れるように広がっていた。あれは単に武器を強化する魔法ではなく、剣へ集中させた魔力を斬撃の形にして放出したものなのだろう。


 ただし、それを実現するには魔力の流れを細かく制御する必要がある。身体強化で魔力を扱うことに慣れているとはいえ、タクマが意識的に同じことを再現できるようになるには、まだ練習が必要なはずだった。


「……後でちゃんと調べようね」


「ああ。俺も気になるしな」


「でも、無理はしないでよ。あんな魔法、何度も使ったら倒れちゃうかもしれないんだから」


「分かってる。今日の一回だけでも、かなり疲れたしな」


 タクマはそう答えると、少しだけ笑った。


 私はその横顔を見つめながら、今日一日の出来事を思い返していた。


 南門の防衛線が崩れ、魔獣が街の中へ侵入したときは、どうなることかと思った。けれど、衛兵や冒険者たちは最後まで諦めずに戦い、住民たちも互いに助け合いながら避難を続けていた。


 マルタさんは救護所で負傷者を守り、ハーケンは若手冒険者たちを率いて街路を守った。フリーダとクルシュも、城門の前で最後まで戦い続けていた。それぞれが自分にできることを考え、誰かのために動いていたからこそ、街への被害を最小限に抑えることができたのだと思う。


 そして、タクマも。


 彼がいなければ、南門を閉じることはもっと難しかったかもしれない。街路で助けられた人々も、今よりずっと少なかっただろう。今日の彼は、ただ強い剣士として戦ったのではなく、周囲の人々を守るために、その力を使っていた。


 私はそっと彼の手を握った。


「……ありがとう、タクマ」


「ん?」


「今日も、一緒に戦ってくれて」


 タクマは少し驚いたように私を見た後、穏やかに笑った。


「こちらこそ。リカがいてくれたから、俺も戦えたんだ」


 私はその言葉に頷き、彼の肩へ少しだけ寄りかかった。


 街の外には、まだ魔獣の群れが残っている。戦いがいつ終わるのかも分からず、明日になれば、また新しい危機が訪れるかもしれない。実際、南門の外からは時折魔獣の鳴き声が聞こえており、城壁の上では今も衛兵たちが警戒を続けている。


 それでも、私たちは今日、この街を守り抜いた。


 守るべきものは、城壁でも、城門でもない。その向こうで暮らしている人々であり、こうして隣にいてくれる大切な人たちなのだと、私は改めて感じていた。


 夕暮れの空の下、ノヴァグラードの鐘が静かに鳴っていた。


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