第88話 戦いのあとに
目を覚ましたとき、窓の外から聞こえてきたのは、荷車の車輪が石畳を転がる音だった。
遠くで誰かが声を張り上げ、それに応じるように別の声が聞こえてくる。木材を打ちつける乾いた音も混じっていたけれど、昨日まで何度も耳にした警鐘や魔獣の咆哮は、もう聞こえてこなかった。私はしばらく寝台に横たわったまま、窓の向こうに広がる街の気配へ耳を澄ませていた。
スタンピードが始まってからというもの、朝を迎えるたびに何かが起こっていた。東門への襲撃に始まり、北門での大型魔獣との戦闘、南門の防衛線の崩壊。そして昨日の夜明け前には、再び現れた母巣獣を相手に、ガルドとタクマが死闘を繰り広げた。あの戦いが終わった後も、私は救護所で負傷者の治療に当たり、最後にはマナポーションの反動で倒れてしまったのだから、振り返ってみれば随分と慌ただしい数日間だったと思う。
昨日は一度目を覚ましたものの、体が重くてまともに起き上がることもできず、マルタさんから休養を命じられたため、結局そのまま救護所で一日を過ごすことになった。魔力は少しずつ回復していたけれど、マナポーションによって消耗した体力までは簡単に戻らないらしい。食事を取って眠ることを繰り返し、ようやく今朝になって、体を動かそうという気力が戻ってきたところだった。
「……よいしょ」
毛布をめくって上半身を起こすと、全身の筋肉が鈍く痛んだ。寝台の縁へ腰を下ろし、足を床につけてみる。少しふらついたものの、昨日のように視界が暗くなることはなく、ゆっくり立ち上がれば歩くこともできそうだった。
私は小さく息を吐き、窓の外へ目を向けた。差し込んでくる朝日は穏やかで、そこに昨日までの戦いを思わせるものはない。もちろん、街のあちこちには被害が残っているのだろうけれど、少なくとも今朝は、誰もが魔獣の襲撃に怯えながら過ごさなくて済んでいるらしい。
「お、起きたか」
声のした方へ顔を向けると、タクマが扉の近くに立っていた。両手には湯気の立つ器を持っており、どうやら朝食を運んできてくれたらしい。
「おはよう、タクマ」
「おはよう。調子はどうだ?」
「うん。もう大丈夫そう」
私が笑って答えると、タクマは露骨に疑わしそうな顔をした。
「昨日もそれ言って倒れただろ」
「……反省してます」
「本当に?」
「本当だよ。だから今日は無茶しないってば」
タクマはまだ何か言いたそうだったけれど、最後には小さく笑い、寝台の横に置かれた机へ器を並べた。温かい野菜のスープと柔らかいパン。特別な料理ではないけれど、湯気と一緒に漂ってくる香りを嗅いだ途端、急にお腹が空いてきた。
「マルタさんからだ。食欲があるなら、ちゃんと食べさせろって」
「ふふっ。マルタさんらしいね」
「ああ。それと、今日は重いものを持たせるな、長時間歩かせるな、魔法もできるだけ使わせるな、だそうだ」
「……ずいぶん細かく言われたんだね」
「それだけ心配されてるってことだよ」
私は少しだけ肩をすくめ、差し出されたスープを受け取った。温かいスープが喉を通り、空っぽだった胃の中へ落ちていく。たったそれだけのことなのに、ひどく安心した。昨日までの食事は、次の戦闘へ向かうために急いで口へ運ぶものだった。食べ終えたら装備を整え、報告を受け、また危険な場所へ向かう。そんな時間を繰り返していたせいか、こうして椅子に座り、温かいものをゆっくり味わえることが、何よりも贅沢に感じられた。
窓の外では、相変わらず人々の声が聞こえている。戦いは終わったけれど、街の人たちはもう次の仕事を始めているらしい。私たちが命懸けで守ったノヴァグラードは、傷つきながらも、少しずつ元の姿を取り戻そうとしていた。
◇
朝食を終えた私たちは、マルタさんに診てもらってから救護所を出た。
まだ長時間歩き回ることは許されなかったけれど、休みながら移動する程度なら問題ないという。もっとも、タクマには何かあればすぐに連れ戻すよう念を押していたので、私としては少々複雑な気分だった。自分の体調管理が甘かったことは認めるけれど、まるで子供のように扱われるのは、さすがに少し恥ずかしい。
久しぶりに歩くノヴァグラードの街は、見慣れた景色とは随分と違っていた。
南門へ続く通りでは、住民たちが協力して瓦礫を片づけている。壊れた荷車が道の脇へ寄せられ、傷ついた建物には応急的な補強が施されていた。職人たちは木材を運び込み、破損した扉や窓の修理に取りかかっている。石畳には魔獣の爪で削られた跡が残り、壁の一部が崩れた建物もあった。何かを引きずったような跡や、洗い流しきれていない汚れが残る場所もあり、つい先日までここが戦場だったことを思い出させる。
それでも、人々の表情は昨日までとは違っていた。
疲れ切った顔をしている人は多いし、家や店を傷つけられて途方に暮れている人もいる。けれど、荷物を運ぶ人々の間には時折笑い声が上がり、道端では久しぶりに顔を合わせた住民たちが互いの無事を喜んでいた。避難所から戻ってきた家族が家の状態を確かめ、近所の人々が手伝いを申し出る姿も見える。被害を受けた場所は決して少なくないけれど、街全体が少しずつ前へ進もうとしていることが、その光景から伝わってきた。
「……街が動き始めてるね」
「ああ。まだ片づけることは山ほどあるだろうけどな」
タクマはそう答え、道の脇で木材を運んでいる人々へ視線を向けた。
私も何か手伝えないだろうかと思ったけれど、すぐに彼から釘を刺された。
「今日は見て回るだけだぞ」
「……まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてある」
そんなに分かりやすいのだろうか。
私は少し不満だったけれど、確かに今の体調では大した手伝いもできない。ここで無理をして、またマルタさんのお世話になるようなことになれば、今度こそ本気で怒られそうだった。何より、タクマにこれ以上心配をかけたくないという気持ちもある。
私たちは無理のない速度で歩き、冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの中も、ようやく普段の雰囲気を取り戻しつつあった。
もちろん、依頼を探す冒険者たちで賑わっているわけではない。まだ負傷者の確認や戦闘報告の整理が続いており、受付では職員たちが忙しそうに働いている。それでも、昨日までの張り詰めた空気は薄れ、互いの無事を喜び合う声が聞こえていた。戦闘で傷ついた装備を見せ合いながら苦笑する冒険者や、久しぶりに顔を合わせた仲間の肩を叩く者もいる。
「あっ、リカ! タクマ!」
受付にいたエリナが、私たちを見つけて手を振った。
「もう動いて大丈夫なの?」
「うん。マルタさんにも診てもらったよ」
「本当に? 無理しちゃ駄目だからね。倒れたって聞いたとき、びっくりしたんだから」
「えへへ……ごめんね」
私が苦笑すると、エリナは呆れたように息を吐いた。けれど、その表情はすぐに柔らかくなり、私たちを見つめる目には安堵が浮かんでいた。
「でも、二人とも無事でよかった。本当に、お疲れさま」
「エリナもね。ずっとギルドで頑張ってたんでしょ?」
「私は受付で仕事してただけだよ。二人みたいに戦ってたわけじゃないし」
「そんなことないよ。エリナたちがいてくれたから、私たちも安心して動けたんだもん」
戦いの間、ギルドでは膨大な数の報告が飛び交っていた。負傷者の搬送先や冒険者の配置、物資の不足状況、各門の防衛状況。誰かが情報を整理し、必要な場所へ伝えなければ、街全体の防衛は成り立たなかっただろう。私たちが前線で戦っている間、エリナたちはその役割を休むことなく果たしてくれていたのだ。
剣や魔法を使うことだけが、戦いではない。
私がそう伝えると、エリナは少し照れくさそうに笑った。
「……ありがと、リカ。そう言ってもらえると、ちょっと嬉しい」
エリナと少し話した後、私たちはバルザックのいる執務室へ案内された。
◇
「おう、来たか」
執務室では、バルザックが机いっぱいに広げられた書類を整理していた。
以前は壁に貼られていた戦況図も、今は机の端へ寄せられている。代わりに積み上がっているのは、被害報告や物資の一覧、各部隊から提出された戦闘記録らしい。机の脇には新しい書類の束まで置かれており、どうやら戦いが終わったからといって、ギルド長の仕事が減ったわけではないようだった。
「リカ、体はもういいのか?」
「うん。まだちょっと疲れやすいけど、だいぶ回復したよ」
「そうか。ならいいが、あまり無茶はするなよ。マルタからも散々言われてるだろうしな」
「……みんな同じこと言う」
私が小さく呟くと、バルザックは豪快に笑った。
「そりゃあ、お前が無茶するからだろうが」
反論できなかった。
タクマまで隣で笑っているのが少し悔しいけれど、彼も昨日は随分と無茶をしていたはずだ。南門で放ったあの魔法剣のことを思い出し、あとでその点を指摘してやろうと心に決めながら、私はバルザックの向かいに座った。
「それで、戦いの後はどうなったの?」
「ああ。ちょうど大公国軍から正式な報告が届いたところだ」
バルザックは机の上から一枚の書類を取り上げ、内容を確認するように目を走らせた。
「まず、ノヴァグラード周辺の掃討作戦だが、ほぼ完了したそうだ。昨日から軍が複数の部隊を展開して、残っていた魔獣を片づけていたらしい」
「じゃあ、もう近くに魔獣はいないの?」
「一匹残らず消えたとは言い切れねえが、まとまった群れは確認されていない。主要な街道についても安全確認を進めていて、順次通行を再開できる見込みだそうだ」
私は思わず息を吐いた。
街を守り抜いたとはいえ、周囲にまだ大量の魔獣が残っているのなら、いつ再び襲撃されるか分からない。防衛戦が終わっても、街の外へ出られない状態が続けば、物資の流通にも影響が出てしまうだろう。ノヴァグラードは多くの人や物資が行き交う街なのだから、街道の安全が確保されなければ、住民たちの生活も元には戻らない。
けれど、大公国軍による掃討が進み、周辺の脅威が取り除かれたのなら、ようやく安心して復旧作業に取りかかることができる。街の外へ出ていた商人たちも戻ってこられるだろうし、周辺の村々との行き来も少しずつ再開できるはずだった。
「それと、もう一つ報告がある」
バルザックは書類へ視線を落とした。
「掃討作戦の途中で、新たな母巣獣が確認されたそうだ」
「……えっ?」
私は思わず身を乗り出した。
「まだいたの!?」
「ああ。軍の部隊が発見して、そのまま討伐したらしい。周囲にはほかの魔獣もいたそうだが、そちらもほぼ掃討されたとのことだ」
私はタクマと顔を見合わせた。
以前、北方で討伐した母巣獣。そして今回、北門でガルドとタクマが倒した個体。それだけでも複数の母巣獣が存在していたことになるのに、さらに別の個体まで確認されたというのだ。
「……そんなにいたんだね」
「ああ。どこから現れたのか、どうしてこれほど集まったのかは、まだ分かっていない。軍も調査を続けるそうだ」
「母巣獣が、ほかの魔獣を集めていた可能性は?」
タクマが尋ねると、バルザックは首を横に振った。
「今のところ、はっきりしたことは分からん。母巣獣がいた場所の周囲に魔獣が集まっていたとしても、それだけで群れを操っていたとは言えねえからな」
確かに、北門で戦った母巣獣も、ほかの魔獣を指揮しているようには見えなかった。むしろ周囲の魔獣を押しのけながら進んでいたくらいだ。以前から母巣獣についてはいくつかの仮説があったけれど、どれも確かな証拠が得られているわけではない。今回のスタンピードとの関係についても、今後の調査を待つしかないのだろう。
バルザックは書類を机へ戻し、改めて私たちを見た。
「だが、今のところ新たな母巣獣は確認されていない。周辺の魔獣もほとんど残っていないそうだ。少なくとも、ノヴァグラードへ迫る差し迫った脅威は排除されたと考えていい」
「……じゃあ」
「ああ。今回のスタンピードは、これで終息したと判断していいだろう」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた緊張が、ようやくほどけていくのを感じた。
昨日、タクマから戦いが終わったと聞いたときも安心したけれど、あのときはまだ街の外に魔獣が残っていた。再び群れが押し寄せてくる可能性が完全になくなったわけではなく、心のどこかで警戒を解けずにいたのだと思う。
けれど、今は違う。
周辺の魔獣はほぼ掃討され、街道の安全確認も進んでいる。少なくとも、昨日までのような大規模な襲撃がすぐに起こる心配はなくなったのだ。
もう、警鐘が鳴るたびに飛び起きなくてもいい。城門が破られるのではないかと心配しながら、夜を過ごさなくてもいい。タクマと一緒に、いつもの生活へ戻れるのだ。
「……よかった」
私は小さく呟いた。
隣ではタクマも静かに頷いていた。彼もきっと、同じように安心しているのだろう。私たちはしばらく顔を見合わせ、それから自然と笑みを浮かべた。
バルザックはそんな私たちを見て、少しだけ表情を和らげた。
「本当によくやってくれた。お前たちがいなければ、被害はもっと大きくなっていただろう」
「でも、私たちだけじゃないよ」
「ああ。もちろんだ」
バルザックは深く頷いた。
「衛兵も冒険者も、街の住民も、みんなよくやってくれた。誰か一人でも欠けていたら、どうなっていたか分からん」
その言葉に、私は心から同意した。
戦いの最中、何度も限界だと思う場面があった。それでも持ちこたえられたのは、誰かが必ず自分の役割を果たしてくれていたからだ。衛兵たちは城壁を守り、冒険者たちは危険な場所へ駆けつけ、住民たちは食事や物資を届けてくれた。そして救護所では、マルタさんたちが昼夜を問わず負傷者の治療を続けていた。
誰か一人の力で守れた街ではない。
ノヴァグラードに暮らす人々が、それぞれの場所で必死に戦った結果なのだ。
「もっとも、被害が小さかったわけじゃねえ」
バルザックは再び書類へ視線を落とした。
「死傷者の数はまだ集計中だが、衛兵にも冒険者にも犠牲が出ている。家や店を失った住民もいるし、城門や防衛設備の修復にも時間がかかるだろう」
私は黙って頷いた。
戦いに勝ったからといって、失われた命が戻ってくるわけではない。傷ついた人々がすぐに元の生活へ戻れるわけでもないし、家を失った住民たちには、これから新しい住まいを探す必要もあるだろう。
勝利の喜びだけでは片づけられないものが、確かに残っている。
「今後は負傷者への補償や、戦闘に参加した冒険者たちの功績評価も進める予定だ。ギルドとしても、きちんと仕事をしねえとな」
「大変そうですね」
タクマがそう言うと、バルザックは苦笑した。
「まったくだ。戦ってる方がまだ気楽だったかもしれねえ」
そう言いながらも、彼の表情にはどこか安堵が浮かんでいた。膨大な書類を前にしているというのに、昨日までのような険しさはない。きっと、こうして戦後処理に追われていること自体が、街を守り抜いた証なのだろう。
私たちはしばらく今後の復旧作業について話を聞いた後、執務室を後にした。
◇
ギルドを出た私たちは、再び救護所へ向かった。
マルタさんは相変わらず忙しそうに働いていたけれど、昨日までと比べると、室内には少し落ち着いた空気が流れていた。新たな負傷者が次々と運び込まれてくることもなくなり、治療師たちは患者の経過観察や包帯の交換に集中できるようになっているらしい。寝台の間を行き来する足音も、戦闘中のような慌ただしいものではなくなっていた。
「マルタさん、ただいま」
私が声をかけると、彼女は手元の記録から顔を上げた。
「おや、戻ったのかい。ちゃんと休みながら歩いてきたんだろうね?」
「うん。タクマがずっと見張ってたから」
「見張ってたって言い方はないだろ」
タクマが苦笑する。
マルタさんはそんな私たちを見て笑った後、救護所の奥へ視線を向けた。
「そうだ、リカ。あんたに会いたがってる患者がいるよ」
「私に?」
「ああ。昨日、北門から運ばれてきた衛兵さ」
私はすぐに思い当たった。
マナポーションを使い、最後の魔力を振り絞って治療した衛兵だ。
「……目が覚めたの?」
「ああ。まだ安静が必要だけどね。命の危険はひとまず脱したよ」
私は胸を撫で下ろした。
マルタさんに案内されて寝台へ向かうと、そこには見覚えのある男性が横たわっていた。胸元には包帯が巻かれており、顔色もまだ良いとは言えない。それでも、昨日のように意識が薄れている様子はなく、私たちの姿に気づくと、ゆっくりと顔を向けた。
「……あなたが、リカさんですか」
「うん。体の調子はどう?」
「まだ、あまり動けませんが……命を助けていただいたと聞きました」
男性はそう言って、頭を下げようとした。
私は慌てて止めた。
「駄目だよ、まだ動いちゃ! 傷が塞がったばかりなんだから」
「……すみません」
「謝らなくていいから、今はゆっくり休んでね」
男性は小さく笑い、それから改めて私を見つめた。
「本当に、ありがとうございました。あのときは、もう駄目だと思っていました」
私は何と答えればいいのか分からず、少しだけ視線を落とした。
あのとき、私自身も助けられるかどうか分からなかった。魔力はほとんど残っておらず、マナポーションを飲んだ後も、意識を保つだけで精一杯だった。もしマルタさんが適切な処置を指示してくれなければ、傷口を塞ぐことさえできなかったかもしれない。
「私だけじゃないよ。マルタさんも、ほかの治療師さんたちも、みんなで治療したんだから」
「それでも……あなたが魔法を使ってくれたおかげで、今こうして話ができています」
男性は静かにそう言った。
私は少し照れくさくなりながらも、頷いた。
「……うん。助かって、本当によかった」
男性はもう一度礼を言い、私は無理をしないよう伝えてから寝台を離れた。
救護所の奥へ戻る途中、マルタさんが隣へ並んだ。
「……よかったね」
「うん」
「でも、ああいう無茶は二度としないでおくれよ」
「……はい」
私は素直に頷いた。
マルタさんはしばらく黙って歩いていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「今回の戦いじゃ、助けられなかった患者もいた。治療師たちも、みんな必死だったけどね」
私は足を止めた。
救護所へ運ばれてきた負傷者の中には、治療が間に合わなかった人もいる。傷が深すぎた人もいれば、出血が多く、魔法で傷を塞いでも助からなかった人もいたのだろう。治癒魔法が使えるからといって、どんな怪我でも治せるわけではないことは、私自身も何度も経験していた。
もし、もっと魔力があったなら。もっと早く治療できていたなら。
そんな考えが頭をよぎった。
「……私、もっと上手く治療できるようになりたい」
私は小さな声で言った。
「今よりもっと魔法を細かく使えるようになれば、助けられる人も増えると思うんだ。傷を治すだけじゃなくて、どこを優先して治療すればいいのか、もっとちゃんと判断できるようになりたい」
マルタさんは私を見つめ、静かに頷いた。
「そうだね。あんたの魔法は、最初の頃よりずっと上手くなってるよ。傷の状態を見て、必要な場所だけ治すこともできるようになった。あれは簡単なことじゃないんだ」
「……うん」
「でもね、リカ。どれだけ腕が良くなっても、助けられない命はあるんだよ」
私は黙って彼女の言葉を聞いた。
「だからって、諦めろって話じゃない。助けられなかった人のことを忘れる必要もない。でも、そのたびに自分を責めて、倒れるまで魔法を使っていたら、いつかあんた自身が助けられる側になっちまう」
マルタさんはそこで一度言葉を切り、私の肩へ手を置いた。
「長く人を助けたいなら、自分の体も大事にしな。治療師ってのは、そういう仕事なんだよ」
私はゆっくりと頷いた。
目の前の命を助けたいという気持ちは、これからも変わらないと思う。けれど、そのために自分が倒れてしまえば、次に助けを必要とする人へ手を差し伸べることができなくなる。それは、私が目指したい治療のあり方ではない。
マルタさんが教えてくれたのは、魔法の使い方だけではなかった。傷口の洗浄や包帯の巻き方、患者の状態を観察することの大切さ。そして、治療師自身が無理をしすぎないことも、患者を守るために必要なのだということ。
今回の戦いを通して、私はその意味を少しだけ理解できたような気がした。
「……ありがとう、マルタさん」
「礼なんかいいから、今日はもう休みな」
「ふふっ。分かった」
私は笑って答えた。
◇
午後になってから、私たちは街の様子を少しだけ見て回った。
南門の近くでは、壊れた建物の修理が進められていた。住民たちは協力して瓦礫を片づけ、職人たちが木材を組み上げている。商人たちも店の前を掃除し、無事だった商品を運び出していた。まだ営業を再開できる店は少ないけれど、それでも街には少しずつ活気が戻り始めている。
通りの脇では、避難所から戻ってきた家族が荷物を運び込んでいた。隣家の男性が手伝いを申し出ると、女性が何度も頭を下げている。少し離れたところでは、子供たちが瓦礫の片づけをしている大人たちの邪魔にならないよう、道の端で遊んでいた。
その姿を見ていると、街が少しずつ日常を取り戻していることを実感する。
「あっ、冒険者のお兄ちゃん!」
突然、子供の声が聞こえた。
振り返ると、小さな男の子がこちらへ駆け寄ってきていた。その後ろから母親らしい女性も歩いてくる。
「こら、急に走っちゃ駄目でしょう!」
女性はそう言いながらも、私たちの姿を見ると深く頭を下げた。
「先日は本当にありがとうございました。おかげで、家族みんな無事でした」
どうやら南門での戦闘中、避難を手伝った住民の一人らしい。あのときは混乱していて、一人ひとりの顔まで覚えている余裕はなかったけれど、こうして無事な姿を見られると嬉しくなる。
タクマは少し照れくさそうに笑った。
「無事でよかったです。もう家には戻れたんですか?」
「はい。少し壊れたところはありますけど、何とか住めそうです。近所の人たちも手伝ってくださっているので、思っていたより早く片づきそうなんですよ」
女性はそう答え、男の子の肩へ手を置いた。
男の子はタクマを見上げ、目を輝かせている。
「お兄ちゃん、すっごい魔法使ったんでしょ!」
「……え?」
「大きな剣の魔法で、魔獣をいっぱい倒したって!」
タクマは困ったように笑った。
どうやら南門で放った魔法剣の話が、すでに街の中へ広まっているらしい。あのときの一撃は、私自身も驚くほど強力だった。広い範囲へ放たれた斬撃が魔獣の群れを薙ぎ払い、撤退する人々のために道を開いたのだから、目撃した人たちの記憶に残っていても不思議ではない。
「いや、あれは……まあ、たまたま上手くいっただけだから」
「でも、すごかったんでしょ!」
「……そうだな。頑張ったよ」
タクマがそう答えると、男の子は嬉しそうに笑った。
私はその様子を見ながら、何だか誇らしい気持ちになった。
あの魔法剣を放ったとき、タクマ自身も驚いていた。まだ自由に使える技ではないし、再現できるかどうかも分からない。それでも、あの一撃が多くの人を救ったことは間違いなかった。森の中で初めて出会った頃には、剣の扱い方さえ分からなかった彼が、今では街の人々から感謝されるほどの冒険者になっている。
その成長を一番近くで見てきたつもりだったけれど、こうしてほかの人から話を聞くと、改めて嬉しくなってしまう。
男の子と別れ、少し歩いたところで、今度は年配の女性から声をかけられた。
「あら、あなたがリカさん?」
「え? うん、そうだけど……」
女性は私の手を両手で包み込み、深く頭を下げた。
「救護所で息子がお世話になったそうで。本当にありがとうございました」
「息子さん?」
「ええ。北門で怪我をして、もう助からないかもしれないと言われていたんです。でも、あなたが治療してくださったおかげで、命を取り留めたと聞きました」
私はすぐに、先ほど会った衛兵のことだと気づいた。
「……あの人のお母さん?」
「はい。息子はまだ動けませんけど、今朝、少しだけ話ができたんです」
女性の目には涙が浮かんでいた。
「本当に……何とお礼を申し上げればいいのか」
私は慌てて首を横に振った。
「そんな、私は自分にできることをしただけだよ。それに、マルタさんやほかの治療師さんたちも一緒だったし……」
「それでも、あなたが助けてくださったことに変わりはありません」
女性はそう言って、私の手を強く握った。
その手は少し震えていた。
きっと、息子さんが重傷を負ったと聞いたときには、どれほど不安だったことだろう。救護所で治療を受けている間も、無事に目を覚ますかどうか分からず、眠れない時間を過ごしていたのかもしれない。
私はその気持ちを想像し、胸が少し苦しくなった。
「本当にありがとうございます。聖女様」
「……えっ?」
私は思わず聞き返した。
「せ、聖女って……私、そんな大した人じゃないよ?」
女性は優しく微笑んだ。
「命を救ってくださった方を、そう呼びたくなるのはおかしいでしょうか」
「いや、でも……」
私は何と答えればいいのか分からなくなってしまった。
聖女なんて、教会で人々を導くような立派な人のことだと思っていた。私はただの冒険者だし、治癒魔法だってまだ勉強中だ。マルタさんに叱られてばかりいるし、昨日は無茶をして倒れてしまった。そんな私が聖女と呼ばれるなんて、何だか落ち着かない。
けれど、女性は私の戸惑いを気にする様子もなく、何度も礼を言ってから去っていった。
その背中を見送りながら、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
すると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「……何笑ってるの、タクマ」
「いや、似合ってると思ってさ」
「タクマまで!」
「だって、あの人にとっては本当にそうなんだろ。自分の息子を助けてくれたんだから」
私は少しだけ頬を膨らませた。
「……私は、ただのリカでいいのに」
「俺にとっては、ずっとそうだよ」
タクマはそう言って笑った。
私はその言葉に少し安心し、彼の手を握った。
聖女と呼ばれることには、まだ慣れそうにない。けれど、誰かが私の治療を喜んでくれるのなら、それは素直に嬉しいことだった。自分が特別な存在になりたいわけではないけれど、助けられた人々がそう感じてくれるのなら、その気持ちまで否定する必要はないのかもしれない。
ただ、タクマの前では、これからもいつもの私でいたかった。
◇
夕方、街の広場には多くの人々が集まっていた。
スタンピードで命を落とした人々を悼むため、住民たちが花を持ち寄り、簡素な追悼の場を設けていたのだ。広場の一角には、亡くなった衛兵や冒険者たちの名前が記された板が置かれている。まだ全員の確認が終わっているわけではないらしく、いくつかの名前は後から書き加えられたようだった。
私たちも花を手に取り、その前へ進んだ。
バルザックやハーケン、ガルドの姿も見える。少し離れたところには、フリーダとクルシュ、エリナも立っていた。普段なら誰よりも賑やかなフリーダも、今日は静かに花を手向けている。クルシュはその隣で目を閉じ、祈りを捧げていた。
私は板に記された名前へ目を向けた。
知っている名前が、いくつかあった。
ギルドで何度か顔を合わせた冒険者。戦いの前に言葉を交わした衛兵。名前までは覚えていなくても、見覚えのある人もいた。つい数日前までは同じ街で暮らし、同じように朝を迎えていた人たちが、今はもういない。
その事実を前にすると、胸の奥が痛んだ。
スタンピードの最中、私は目の前のことに必死だった。負傷者を治療し、魔獣を退け、タクマや仲間たちが無事でいることを願いながら、ただ戦い続けていた。誰かが倒れれば助けに向かい、次の負傷者が運ばれてくれば治療に当たる。立ち止まって考える余裕など、ほとんどなかった。
けれど、こうして戦いが終わってみると、助けられなかった人たちの存在が、改めて胸に迫ってくる。
もし、あのとき違う場所にいたら。
もう少し早く駆けつけられていたら。
そんな考えが浮かびかけたところで、私は昼間のマルタさんの言葉を思い出した。
どれだけ腕が良くなっても、助けられない命はある。
だからといって、諦めていいわけではない。けれど、救えなかった人々のことをすべて自分の責任だと思い込んでしまえば、いつか前へ進めなくなってしまうのだろう。
私は静かに花を手向け、目を閉じた。
隣では、タクマも深く頭を下げていた。
彼が何を考えているのかは分からない。けれど、きっと私と同じように、戦いの中で失われた命を思っているのだろう。タクマもまた、何度も危険な場所へ飛び込み、仲間たちと協力して魔獣を退けてきた。その中で、助けられなかった人々の姿を目にしているはずだった。
しばらくして目を開けると、広場には静かな祈りの時間が流れていた。
誰かが大きな声で演説するわけでもない。人々はそれぞれの思いを胸に、花を手向け、亡くなった人たちへ別れを告げている。小さな子供の手を引いた母親が静かに頭を下げ、年配の男性が名前の刻まれた板を長い時間見つめていた。肩を寄せ合いながら涙を流す人々もいれば、何も言わずに祈り続けている人もいる。
私はその光景を見つめながら、改めて思った。
私たちは、確かに街を守り抜いた。
けれど、それは誰も失わずに済んだという意味ではない。
多くの人が傷つき、命を落とした人もいる。家や店を失った住民もいるし、これから先、元の生活へ戻るまでには長い時間が必要な人もいるだろう。戦いが終わったからといって、すべての苦しみが消えるわけではないのだ。
それでも、街は残った。
生き残った人たちは、明日を迎えることができる。傷ついた建物を直し、失われたものを少しずつ取り戻しながら、再び日常を築いていくことができる。
亡くなった人々のことを忘れずに、残された私たちが生きていく。
それが、今できることなのだと思った。
私は隣に立つタクマの手をそっと握った。彼も何も言わずに握り返してくれたので、私たちはしばらくそのまま、静かに広場の光景を見つめていた。
◇
夜になり、私たちは久しぶりに自宅へ戻った。
扉を開けると、見慣れた室内が私たちを迎えてくれた。家具も食器も、出かける前と変わらない場所にある。窓から差し込む夜の光が床へ落ち、部屋の中には静かな空気が流れていた。何日も家を空けていたわけではないのに、こうして帰ってくると、随分と久しぶりのような気がした。
「……帰ってきたね」
「ああ。やっと帰ってこられたな」
タクマはそう答え、荷物を床へ下ろした。
私は部屋を見回しながら、何だか不思議な気持ちになっていた。
ほんの数日前までは、ここで暮らすことが当たり前だった。朝になればギルドへ行き、依頼を受け、帰ってきたらタクマと食事をする。時にはフリーダたちと飲みに行き、休日には街を歩いたり、家でのんびり過ごしたりしていた。
そんな日常が、突然失われるかもしれなかったのだ。
南門の防衛線が崩れたとき、私は本当に怖かった。魔獣が街の中へ入り込めば、多くの住民が危険にさらされる。私たちの家だって無事では済まなかったかもしれないし、何より、タクマや仲間たちが命を落とす可能性もあった。
けれど、こうして無事に帰ってこられた。
私は改めて、この家が残っていることに感謝した。
夕食は簡単なものにした。
タクマが保存してあった食材を使って温かい料理を用意し、私は食器を並べる。まだ体力が完全に戻っていないため、料理の大半は彼に任せてしまったけれど、こうして一緒に食卓を囲めるだけで十分だった。
「……美味しい」
私がそう言うと、タクマは嬉しそうに笑った。
「そりゃよかった」
「なんか、久しぶりにちゃんとご飯食べてる気がする」
「実際、ここ数日は落ち着いて食べる暇もなかったからな」
私は頷き、もう一口料理を口へ運んだ。
温かい食事をゆっくり味わいながら、今日一日の出来事を思い返す。
大公国軍による掃討作戦が終わり、周辺の脅威は取り除かれた。救護所では助かった人々が少しずつ回復し、街では復旧作業が始まっている。亡くなった人々を悼む時間もあり、改めて戦いの大きさを実感した。
それでも、今こうしてタクマと一緒に食事をしている。
当たり前だと思っていた時間が、これほど大切なものだったなんて。
「……ねえ、タクマ」
「ん?」
「明日は、何もしない日にしない?」
タクマは少し驚いたように私を見た。
「珍しいな。リカの方からそんなこと言うなんて」
「だって、しばらくずっと忙しかったでしょ? たまには一日中のんびりしてもいいと思うんだ」
「……そうだな」
タクマは笑って頷いた。
「じゃあ、明日はゆっくり休もうか。朝も遅くまで寝て、昼飯も適当に済ませてさ」
「ふふっ。いいね、それ」
私は嬉しくなって笑った。
何もしない一日。
少し前までなら、退屈だと思っていたかもしれない。けれど今は、タクマと一緒にのんびり過ごせる時間が、何よりも楽しみに感じられた。朝は目覚まし代わりの物音に起こされることもなく、好きな時間に起きて、温かいものを食べる。気が向けば少し散歩をして、疲れたら家へ戻って休む。そんな何でもない一日を過ごせることが、今はとても嬉しかった。
ところが、タクマはそこで何かを思い出したように顔を上げた。
「……あ、そういえば」
「どうしたの?」
「明日、ギルドへ来いって言われてたんだった」
「え? 誰に?」
「バルザックさん。今日の帰り際に伝言をもらってさ」
私は首を傾げた。
「何かあったのかな?」
「さあ。今回の戦闘について、詳しい報告でも聞かれるんじゃないか?」
「そっか。じゃあ、午前中だけギルドに行って、午後からのんびりしようよ」
「そうだな。それくらいならいいか」
私たちはそう話しながら、夕食を続けた。
窓の外では、ノヴァグラードの街に夜の静けさが戻りつつあった。遠くから聞こえるのは、人々の話し声や荷車の音ばかりで、警鐘が鳴る気配はない。昼間は修復作業に追われていた人々も、今頃はそれぞれの家や避難所で休んでいるのだろう。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
私たちは依頼を受け、街を歩き、時には仲間たちと笑い合いながら暮らしていくのだろう。もちろん、今回の戦いで失われたものを忘れることはない。助けられなかった人々のことも、街を守るために戦った人々のことも、これからずっと覚えていると思う。
けれど、悲しみだけを抱えて生きていくわけではない。
街の人々が瓦礫を片づけ、壊れた家を直し、互いに助け合いながら日常を取り戻そうとしているように、私たちもまた、自分たちの生活へ戻っていくのだ。
私は食事を終え、隣に座るタクマへ微笑みかけた。
「……お疲れさま、タクマ」
「リカもな。本当にお疲れさま」
タクマはそう言って、私の手を握った。
私はその温もりを感じながら、静かに目を細めた。
長かった戦いは終わった。多くの傷跡を残しながらも、ノヴァグラードは再び歩き始めている。
そして私たちも、ようやくいつもの日常へ帰ってきたのだった。




