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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第5章】聖女と英雄

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第85話 崩れる防衛線


 けたたましい鐘の音で、私は目を覚ました。


 ギルドの休憩場所はまだ薄暗く、窓の外にも夜の気配が残っている。周囲では毛布を跳ねのけて起き上がる冒険者たちの姿があり、廊下からは職員たちの慌ただしい足音が聞こえてきた。昨日から何度も耳にしている警鐘だったけれど、眠っていたところを突然起こされると、さすがに心臓が跳ね上がる。


「……南かな」


 私が呟くと、隣の椅子で休んでいたタクマも目を開けた。


「ああ。たぶんな」


 タクマはすぐに立ち上がり、壁際に置いていた剣を手に取った。私も毛布を畳んで椅子から立ち上がろうとしたけれど、体を動かした途端、全身に重い疲労が残っていることに気づいた。


 昨日は東門と北門で、ほとんど一日中魔法を使っていた。少し眠ったおかげで頭はすっきりしているものの、魔力はまだ十分に戻っていない。体力のほうも、横になっていた時間が短かったせいか、普段のようには動けそうになかった。


「……思ったより回復してないな」


「昨日、あれだけ使ったからな。動けそうか?」


「うん。戦えるよ。でも、今日は魔法の使い方を考えないとね」


 タクマは少し心配そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。私が無理をしがちなことは、彼もよく知っている。それでも、今は私の魔法が必要になる場面があることも理解しているのだろう。


 私たちは装備を整え、ギルドの受付へ向かった。


 そこではエリナが職員たちと一緒に報告書を整理していた。彼女は私たちの姿に気づくと、すぐに顔を上げた。


「リカ、タクマ! 起きたんだね!」


「うん。南側で何かあったの?」


「もう戦闘が始まってる。フリーダたちが迎撃してるけど、魔獣が予想より早く到着したみたい」


 エリナはそう言いながら、机の上に置かれた地図を示した。南門の外には畑や農道が広がっており、その先にある森から魔獣の群れが近づいている。昨夜の報告では、夜明け頃に先頭が到達すると予想されていたけれど、実際にはそれよりも早く戦闘が始まってしまったらしい。


「バルザックさんは?」


「執務室にいるよ。二人が起きたら来てほしいって」


 私たちは頷き、すぐに執務室へ向かった。


 バルザックは地図を広げ、各方面の報告を確認していた。昨日の戦闘で東門と北門の防衛設備が大きく損傷しているため、そちらにも警備を残さなければならない。南側へ増援を送るにしても、使える戦力には限りがあった。


「起きたか。南側ではすでに戦闘が始まっている」


 バルザックは私たちを見ると、地図の南側を指さした。


「フリーダとクルシュが現地で迎撃しているが、今回は魔獣の進路が広く分散しているらしい。東や北とは少し状況が違う」


「分散してる?」


「ああ。農道や畑の間を通って、複数の場所から防衛線へ近づいているそうだ。一か所へ戦力を集めても、別の場所から抜けられる可能性がある」


 私は地図を見つめた。南側には東門や北門よりも多くの農道があり、畑の間には小さな建物も点在している。住民はすでに避難しているはずだけれど、建物や石垣が残っている以上、魔獣の動きも複雑になるだろう。


「分かった。私たちも南へ行くね」


「ああ。ただし、無理はするな。昨日の疲労が残っていることは分かっている。現地の指揮官と相談して、必要な場所へ入ってくれ」


 私たちはバルザックへ頷き、ギルドを後にした。


     ◇


 南門へ近づくにつれて、戦闘の音がはっきりと聞こえるようになった。


 城壁の上からは弓兵たちが矢を放ち、魔法による爆発音も響いている。まだ夜明け前の薄暗い空の下、城壁の外には魔石灯の明かりが点々と並び、その向こうでは魔獣の影が動いていた。


 南門の外には畑や農道が広がり、その間には農家や資材置き場として使われていた小屋が点在している。住民はすでに避難していたけれど、建物や畑を区切る低い石垣はそのまま残されていた。


 魔獣たちは、その間を縫うように進んでいた。


 狼型の魔獣が農道を駆け抜けたかと思えば、別の畑から猪型の群れが飛び出してくる。小型の魔獣は石垣を飛び越え、建物の陰を回り込みながら、思い思いの経路で街へ近づいていた。


 東門では大量の魔獣がまとまって押し寄せ、北門では大型の魔獣が防衛設備を破壊した。けれど、南門では群れがいくつもの経路に分かれており、一つの場所を守っているだけでは対応しきれない。


「右の農道から来るぞ! 盾を上げろ!」


 聞き慣れた声が、防衛線の向こうから響いた。


 フリーダだった。


 長槍を構えた彼女は、衛兵たちの少し前に立っている。いつもの豪快な笑みこそ浮かべていなかったけれど、その声には普段と変わらない力強さがあった。


 前方から駆け込んできた狼型の魔獣が飛びかかると、フリーダは半歩だけ身を引き、伸ばした槍の穂先を相手の胸元へ突き込んだ。魔獣が勢いを失って地面へ落ちると、彼女はすぐに槍を引き戻し、次の敵へ向き直る。


「そっちの狼は俺がやる! お前らは正面を見てろ!」


 その指示を受けた衛兵たちは盾を構え直し、農道を進んでくる猪型の魔獣へ槍を向けた。


 フリーダは彼らの動きを横目に確認しながら、石垣を飛び越えてきた別の魔獣を迎え撃つ。豪快な戦い方に見えるけれど、決して無闇に前へ出ているわけではない。自分が前へ出すぎれば後方に隙間が生まれるし、逆に下がりすぎれば衛兵たちが魔獣の突進を直接受けることになる。


 彼女は長槍の間合いを維持しながら、危険な個体だけを確実に仕留めていた。


「フリーダ、左側をお願いします」


 少し後方から、クルシュの声が聞こえた。


 彼が杖を掲げると、農道の脇に生えていた草の間から太い蔦が伸び、走り込んできた猪型の魔獣の脚へ絡みついた。突然足を取られた魔獣は前のめりに倒れ、後ろから続いていた個体も進路を変えようとして互いにぶつかり合う。


「こちらで足を止めます。今のうちに!」


「おう、任せろ!」


 フリーダは短く答え、動きを止めた魔獣へ槍を突き込んだ。


 二人の連携には、余計な言葉が必要なかった。クルシュが敵の動きを制限すれば、フリーダが確実に仕留める。フリーダが別の敵へ向かうときには、クルシュがその周囲を確認し、側面から接近する魔獣を蔦で牽制する。


 長年同じパーティで戦ってきた二人にとって、相手が何をしようとしているのかを理解することは、それほど難しいことではないのだろう。


「フリーダ! クルシュ!」


 私が声をかけると、フリーダが振り返った。


「おう、来たか! 昨日はずいぶん暴れたそうじゃねえか!」


「そっちこそ、もう戦ってるんでしょ!」


「見ての通りだ! 朝飯前に片づけたいところだが、そう簡単にはいかねえな!」


 フリーダは豪快に笑いながら槍を振るい、近づいてきた狼型の魔獣を追い払った。


 タクマは周囲の状況を確認し、すぐに剣を抜いた。


「俺たちは、どこに入ればいい?」


「まずはあそこの防衛線を手伝ってくれ。小型が次々と回り込んできやがる!」


 フリーダが示した先では、衛兵たちが畑の間に設けられた木柵を守っていた。正面から接近する魔獣は何とか食い止めているものの、石垣を越えて側面へ回り込む個体が多く、隊列を維持するのに苦労しているようだった。


「分かった!」


 タクマは頷き、衛兵たちのもとへ駆けていった。


 私はクルシュの隣へ移動し、周囲の地形を確認した。


     ◇


 南門の防衛線は、思っていた以上に複雑だった。


 畑と農道が入り組んでいるため、大きな土壁を作っても魔獣が別の道へ回り込むだけかもしれない。しかも、その先には別の衛兵たちが配置されているため、進路を変えた魔獣が予想外の方向から味方へ襲いかかる危険もあった。


「……これ、全部塞いだら逆にまずいね」


 私が呟くと、クルシュも頷いた。


「はい。魔獣の進路が予測できなくなります。あえて通す場所を決めたほうがよいでしょう」


「じゃあ、あの農道を使おうか。両側を少し狭くすれば、衛兵さんたちも迎撃しやすくなると思う」


「よい考えだと思います。私は横から回り込む個体を止めますので、リカさんは通路の形を整えていただけますか?」


「うん。任せて!」


 私は地面へ手を向け、土魔法を発動した。


 農道の両側で土が盛り上がり、低い壁が斜めに伸びていく。完全に通路を塞ぐのではなく、魔獣が進める場所を少しずつ狭め、衛兵たちの正面へ誘導する形だった。石垣を飛び越えようとする小型の魔獣に対しては、クルシュが蔦を伸ばして足を絡め取り、別の方向へ逃れようとする個体も進路を妨害する。


 やがて、魔獣たちの動きが一か所へ集まり始めた。


「今です! 前衛、お願いします!」


 クルシュの声に、衛兵たちが一斉に槍を突き出した。


 タクマもその中へ加わり、土壁の隙間から飛び込んできた狼型の魔獣を斬り伏せる。続いて現れた猪型の魔獣には、衛兵たちが盾を合わせて突進を受け止め、その側面へタクマが踏み込んだ。


 戦い方そのものは、これまでの二度の防衛戦と大きく変わらない。しかし、今回は一つの場所で敵を食い止めても、別の場所で新しい問題が起きていた。


 少し離れた農道からは、別の魔獣の群れが現れている。畑の向こうでは衛兵たちが応戦していたが、そのさらに奥からも新しい影が近づいていた。


「……こっちだけ守ってても、足りないね」


「ええ。南側の防衛線は広いですから」


 クルシュは落ち着いた声で答えたものの、その額には汗が浮かんでいた。


「ただ、すべての場所を同じように守る必要はありません。魔獣が集中する場所を見極め、危険なところへ戦力を回せば、まだ持ちこたえられるはずです」


 私は頷き、再び魔法を使った。


 土壁の高さを調整し、魔獣が飛び越えにくい場所を作る。クルシュはその隙間へ蔦を伸ばし、通路を抜けようとする魔獣の足を止めていた。二人で魔法を使えば、私一人で広い範囲を守るよりも効率がよい。


 ただし、魔力の消耗は避けられなかった。


 昨日からの疲労が残っているせいか、普段ならそれほど負担にならない規模の魔法でも、使うたびに体の奥が重くなる。私は無理に大きな土壁を作ることを避け、必要な場所だけを補強するようにしていた。


 しばらくの間、その戦術はうまく機能した。


 だが、魔獣の群れはまだ途切れなかった。


     ◇


 夜が明け、南門の周囲がすっかり明るくなった頃、各所から増援を求める声が上がり始めた。


 農道の一つでは木柵が破損し、別の場所では負傷者が増えている。さらに、畑の外れに配置されていた魔法使いたちからは、魔力の消耗が激しいため交代要員を送ってほしいという要請が届いていた。


 私たちのところにも伝令がやって来て、後方の防衛指揮所へ集まるよう告げた。フリーダとクルシュ、タクマと私は、近くの衛兵たちへ持ち場を引き継いでから指揮所へ向かった。


 そこでは衛兵隊の指揮官が地図を広げ、各方面の状況を確認していた。


「東側の農道は木柵が破損しています。西側では負傷者が増え、交代要員も不足しています」


 報告を聞いた指揮官は、地図の上に置かれた駒を動かした。


「東側へ三名回せ。負傷者の搬送が終わったら、そこの部隊は一度下がらせろ」


「承知しました!」


「西側の木柵は?」


「修復が間に合っていません。次に大型が来れば、持ちこたえられない可能性があります」


「……分かった。あそこは無理に維持するな。後方の防衛線へ下がる準備をさせろ」


 私は地図を見つめながら、南側の防衛設備の配置を確認した。


 外側には木柵や土塁が設けられ、その後方にもいくつかの防衛拠点が用意されている。最初から一つの場所だけで守りきるつもりではなく、突破された場合には後方へ下がって迎撃する計画だったのだろう。


 ただし、外側の防衛線を失えば、魔獣を遠くで食い止めるための余裕も失われる。弓兵や魔法使いたちが攻撃できる距離は短くなり、前衛が後退できる場所も少なくなる。何より、一度放棄した防衛設備を戦闘中に取り戻すことは難しい。


 指揮官も、そのことは十分に理解しているようだった。


「外側の拠点を全部守る必要はない。持ちこたえられない場所は放棄しろ。人員を残すな」


 彼は周囲の部下たちへそう告げた。


「城壁に近い防衛線へ戦力を集める。撤退する部隊は互いに援護し、負傷者を置いていくな。退路の確保を最優先にしろ」


 その言葉に、フリーダが腕を組んで頷いた。


「妥当な判断だな。ここで無理して全滅するより、後ろで立て直したほうがいい」


「ええ。防衛線を維持するためにも、戦える方を残す必要があります」


 クルシュも静かに同意した。


 私も二人の言葉を聞きながら、地図の上に示された撤退経路を確認した。外側の拠点を放棄するのは悔しいけれど、ここで戦力を失ってしまえば、次の襲撃を食い止めることができなくなる。


 指揮官は私たちへ視線を向けた。


「フリーダ殿たちには、撤退する部隊の援護をお願いしたい。特に東側の農道は魔獣の接近が激しい。最後の部隊が下がるまで、退路を確保してもらえるか」


「おう、任せろ!」


 フリーダが力強く答えた。


 私たちも頷き、すぐに防衛線へ戻ることにした。


     ◇


 撤退は、思っていた以上に難しい作業だった。


 敵に背中を向ければ追撃を受けるし、全員が一度に下がれば防衛線に大きな隙間ができる。まず負傷者と補給担当者を後退させ、その後に前衛が交代で下がる必要があった。


 私たちは東側の農道へ戻り、撤退する衛兵たちの援護を始めた。


 フリーダとタクマが前方で魔獣を迎撃し、クルシュが蔦魔法で追撃を妨害する。その間に私は土壁を補強し、魔獣が一度に押し寄せないよう進路を制限していた。


 最初のうちは、撤退は順調に進んでいた。


 負傷者を乗せた荷車が後方へ向かい、弓兵たちも順番に持ち場を離れていく。衛兵たちは互いに声を掛け合いながら後退し、最後まで残る前衛も交代しながら魔獣を食い止めていた。


 ところが、隣の農道で木柵が大きく崩れた。


 そこを守っていた衛兵たちは、すでに撤退を始めていたらしい。破損した木柵の隙間から狼型の魔獣が飛び込み、その後ろから別の群れが続いてくる。


 さらに、畑の反対側を進んでいた魔獣たちも、石垣の切れ目を通って同じ場所へ流れ込んできた。


 魔獣たちが連携しているわけではなかった。ただ、それぞれが進みやすい場所を選んだ結果、偶然にも一か所へ集まってしまったのだ。


 だが、守る側にとっては十分な脅威だった。


「まずい! 右側からも来やがった!」


 フリーダが声を上げる。


 クルシュはすぐに杖を向け、農道の脇から蔦を伸ばした。先頭の魔獣が足を取られ、後続も進路を変えようとする。しかし、数が多すぎた。蔦を引きちぎる個体も現れ、別の魔獣は倒れた仲間を飛び越えて進んでくる。


「フリーダ! これ以上は危険です! 後退してください!」


「分かってる! だが、後ろの連中がまだ下がりきってねえ!」


 フリーダはそう叫び、槍を振るって接近してきた魔獣を追い払った。


 その後方では、負傷者を乗せた荷車がまだ農道を進んでいた。車輪が荒れた地面に取られ、思うように速度が上がらない。護衛の衛兵たちが荷車を押しているが、魔獣が追いつくまでに後方の防衛線へ到達できるかは分からなかった。


 タクマがフリーダの隣へ駆け寄った。


「俺も残る! 荷車が下がるまで、ここを守ろう!」


「おう! ただし、無茶はするなよ!」


「分かってる!」


 二人は並んで武器を構え、農道へ押し寄せる魔獣を迎え撃った。


 私はその様子を見ながら、土魔法を使う場所を考えていた。


 破損した木柵の隙間を塞げば、魔獣の侵入を止められるかもしれない。けれど、その向こうにはまだ撤退中の衛兵たちがいる。今ここで土壁を作れば、彼らまで外側へ取り残してしまう可能性があった。


 かといって、何もしなければ魔獣が後方へ流れ込んでしまう。


 私は一瞬だけ迷った。


 けれど、すぐに決断した。


「クルシュ! あの荷車が通る道を空けて!」


「分かりました!」


 クルシュが蔦を伸ばし、荷車の進路へ入り込もうとしていた魔獣の足を止める。


 その間に私は土魔法を発動し、農道の両側へ低い壁を作った。魔獣の侵入経路を完全に塞ぐのではなく、撤退する衛兵たちの側面を守るための壁だった。


 土壁が立ち上がると、横から接近していた魔獣たちは進路を変えざるを得なくなった。荷車を押していた衛兵たちも、その隙に速度を上げる。


「今のうちに! 急いで!」


 私の声に、衛兵たちが力を振り絞った。


 荷車が後方の防衛線へ向かって進み、最後の護衛もその後を追う。


 フリーダは槍を振るいながら、タクマへ声をかけた。


「よし! 俺たちも下がるぞ!」


「はい!」


 二人は互いの動きを確認しながら、少しずつ後退を始めた。


 クルシュは最後まで蔦魔法で追撃を妨害し、私も土壁の一部を崩して魔獣の進路を変えた。すべての魔獣を倒す必要はない。今は、味方が無事に後退するための時間を稼ぐことが最優先だった。


 やがて、最後の衛兵が後方の防衛線へ到達した。


 その直後、破損していた木柵が大きな音を立てて崩れ落ちた。


 支えを失った木材が地面へ倒れ、そこへ後続の魔獣たちが一斉に流れ込んでくる。土塁の一部も踏み崩され、先ほどまで衛兵たちが守っていた場所が、次々と魔獣に占められていった。


 フリーダは後退しながら、その光景を見つめた。


「……くそっ」


 小さく吐き捨てた言葉は、周囲の喧騒に紛れて消えた。


 南側の外郭防衛線が、ついに破られた。


     ◇


 南門の城壁付近では、後退してきた衛兵や冒険者たちが次々と集まっていた。


 負傷者は城門近くに設けられた臨時救護所へ運ばれ、戦える者は第二防衛線へ配置される。城壁の上では弓兵たちが射線を確認し、魔法使いたちも残った魔力を確かめながら、次の襲撃に備えていた。


 外郭防衛線を失ったことで、魔獣たちは以前よりも城壁に近い場所まで進めるようになっている。もちろん、城門そのものが破られたわけではない。城壁も健在であり、街の中へ魔獣が侵入したわけでもなかった。


 けれど、守る側の余裕は確実に失われていた。


 これまでは外側の土塁や木柵で魔獣の勢いを削ぎ、遠距離攻撃で数を減らしてから前衛が迎撃することができた。しかし、外郭防衛線が破られた今は、城壁のすぐ近くで魔獣を食い止めなければならない。防衛設備を修復するための時間も十分にはなく、次に同じ場所へ大群が押し寄せれば、城門そのものが危険にさらされる可能性があった。


 フリーダは第二防衛線へ到着すると、槍を地面へ立てて息を整えた。


「……まったく。こんなところまで下がる羽目になるとはな」


 クルシュは彼女の腕にできた傷へ視線を向けた。


「怪我をしていますね。手当てを受けてください」


「このくらい、どうってことねえよ」


「そういう問題ではありません。まだ戦闘が続くのですから、動けるうちに処置しておくべきです」


「……分かった分かった。お前は相変わらず細けえな」


 フリーダは苦笑し、近くの衛兵へ包帯を分けてもらった。


 クルシュはその様子を確認すると、改めて外郭防衛線の方角へ視線を向けた。


「全員が戻れたわけではありませんが、撤退できた方は多いです。判断は間違っていなかったと思います」


「分かってる。だが、悔しいもんは悔しいんだよ」


 フリーダは包帯を巻きながら、静かに答えた。


 外郭防衛線での戦闘では、何人もの衛兵や冒険者が命を落としていた。負傷者の中にも重傷者が多く、救護所では治療担当者たちが休む間もなく働いている。誰もが最善を尽くしていたけれど、それでも守りきれない場所があり、救えなかった命があった。


 私もそのことを理解していた。だからこそ、後退の判断が正しかったと分かっていても、簡単に納得できるわけではなかった。


 私はフリーダたちに一声かけ、救護所へ向かった。


     ◇


 城門近くに設けられた臨時救護所では、負傷者を乗せた担架が次々と運び込まれていた。


 入口の周囲には衛兵や冒険者たちが集まり、治療を待つ者もいれば、仲間の安否を尋ねる者もいる。建物の中からは治療師たちの声が聞こえ、血のついた包帯や水の入った桶が忙しなく運ばれていた。


 私が中へ入ると、そこには見慣れた姿があった。


「マルタさん!」


 治療所でいつも私を指導してくれているマルタさんが、数人の治療師と衛兵たちへ指示を出していた。


「そっちの重傷者を先に運びな! 歩ける者は奥へ回して、入口を塞がないようにするんだよ! 包帯と清潔な水が足りなくなりそうだから、補充も頼む!」


 普段の治療所でも厳しい人だけれど、今のマルタさんには、いつも以上に近寄りがたい迫力があった。次々と運ばれてくる負傷者の状態を確かめながら、治療師たちの手が止まらないよう指示を飛ばしている。


 私の声に気づいたマルタさんは、こちらを振り返った。


「リカじゃないか。あんたも南門に来てたのかい」


「うん。さっきまで外で戦ってたんだけど、負傷者が多いみたいだから手伝おうと思って」


「そりゃ助かるね。……けど、顔色がよくないじゃないか。魔力はどのくらい残ってる?」


「昨日からかなり使ってるから、あんまり余裕はないかな。でも、治療魔法ならまだ使えるよ」


 私がそう答えると、マルタさんは少しだけ眉を寄せた。


「だったら、なおさら無駄遣いするんじゃないよ。今はあんた一人が頑張ったところで、全員を治せる状況じゃないんだからね」


「……うん」


「分かってるならいい。あんたには、こっちの重傷者を診てもらうよ。止血や洗浄で対応できる者は、ほかの治療師に任せな」


 マルタさんが示した先には、深い傷を負った衛兵が横たわっていた。すでに応急処置は施されているものの、出血が多く、顔色も悪い。


「まず傷を確認するんだよ。魔法を使うのは、その後だ」


「分かった」


 私は衛兵の傍らへ膝をつき、傷の状態を確かめた。


 以前の私なら、負傷者を見つければすぐに治療魔法を使っていたかもしれない。けれど、マルタさんのもとで治療を学ぶようになってからは、魔法を使う前に確認しなければならないことがたくさんあると知った。


 傷の深さや出血の程度、汚れの有無、負傷者の意識や呼吸の状態。魔法で傷口を塞ぐことができても、それだけですべてが解決するわけではない。必要な処置を見極めずに魔法を使えば、かえって状態を悪くしてしまうこともある。


 私は衛兵の状態を確認し、近くにいた治療師と協力して傷の処置を進めた。そのうえで必要な部分へ治療魔法を使い、出血を抑えていく。


 処置を終えたところで、マルタさんが様子を見に来た。


「どうだい?」


「出血は落ち着いたよ。でも、かなり血を失ってるから、しばらく注意して見てあげないと」


「そうだね。そこのあんた、この人は奥へ運んで、呼吸と意識の状態を確認し続けるんだよ」


 マルタさんは治療師へ指示を出すと、再び私へ向き直った。


「リカ、次の患者を診る前に、自分の魔力を確認しな」


「……まだ大丈夫だよ?」


「大丈夫かどうかを聞いてるんじゃない。あと何人診られるか、自分で判断できる状態なのかって聞いてるんだよ」


 私は思わず口を閉じた。


 マルタさんは私の返事を待ちながら、静かに腕を組んでいる。


 その姿を見て、以前にも似たようなことを叱られたのを思い出した。患者を助けたいという気持ちだけで動いても、適切な治療ができるとは限らない。治療師には、自分が何をできて、何をできないのかを判断する責任がある。


「……大きな治療魔法は、あと何回も使えないと思う」


「なら、その分は本当に必要な患者のために残しておきな。軽い傷なら、あんたが魔法を使わなくても処置できる」


「うん。分かった」


「よし。それじゃあ、次の患者を診ようか」


 マルタさんは短く頷くと、再び救護所全体へ目を向けた。


 負傷者はまだ次々と運ばれてきている。治療師たちは休む間もなく動き回り、衛兵たちも負傷した仲間を担いで救護所へ駆け込んでいた。


 私はその光景を見ながら、改めて自分にできることを考えた。


 魔法が使えるからといって、すべての負傷者を治せるわけではない。今の私に必要なのは、目の前の患者を片っ端から治療することではなく、限られた魔力を本当に必要な人のために使うことだった。


 マルタさんの指示に従い、私は次の負傷者のもとへ向かった。


 そのとき、救護所の入口からタクマが顔を出した。


「リカ、大丈夫か?」


「うん。マルタさんと一緒に治療してるよ」


 タクマは私の隣に立つマルタさんを見ると、軽く頭を下げた。


「リカをよろしくお願いします」


「任せときな。この子に無茶させないのも、あたしの仕事だからね」


 マルタさんがそう答えると、タクマは安心したように笑った。


「それなら心強いです」


「タクマも気をつけてね」


「ああ。外は俺たちが守るから」


 タクマは私の肩へ軽く手を置くと、再び防衛線へ戻っていった。


 私はその背中を見送り、もう一度救護所へ向き直った。


 外ではタクマたちが戦っている。そして、ここにも私たちが守らなければならない命がある。


 私はマルタさんに呼ばれ、次の患者のもとへ向かった。


     ◇


 午前中、南門の防衛指揮所へ新しい伝令が到着した。


 私も治療を一区切りつけ、マルタさんに断ってからフリーダたちのもとへ戻った。


 バルザックからの連絡によれば、東門と北門でも散発的な襲撃が続いており、南側へ大規模な増援を送る余裕はないという。ただし、北側のガルドが部隊の一部を再編し、可能な範囲で増援を準備しているらしい。


 衛兵隊の指揮官は報告を読み終えると、周囲の者たちへ内容を伝えた。


「北側から少数だが増援が来る。それまで、この防衛線を維持するぞ」


 フリーダはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


「ガルドも大変だな。昨日あれだけ暴れたってのに、まだ働かされるのかよ」


「私たちも同じですよ」


 クルシュが穏やかに答える。


「ははっ、違いねえ!」


 フリーダは肩をすくめ、槍を持ち直した。


 短いやり取りだったけれど、周囲の衛兵たちの表情も少しだけ緩んだ。二人が普段と変わらない調子で話していることが、疲れ切った彼らにとっては小さな安心材料になっていたのかもしれない。


 しかし、その空気は長く続かなかった。


「南側、魔獣の接近を確認!」


 城壁の上から、見張りの声が響いた。


「外郭防衛線を越えてきます! 数、増加中!」


 衛兵たちが一斉に持ち場へ戻り、盾を構え直した。


 フリーダも槍を構え、クルシュは杖を握り直す。タクマは前衛の配置を確認しながら剣を抜き、私も残された魔力を確かめながら、城壁の向こうへ視線を向けた。


 朝日が昇り、畑や農道が明るく照らされている。


 その中を、魔獣たちが進んでいた。


 破損した木柵の隙間を抜け、踏み崩された土塁を越えながら、狼型や猪型の魔獣が次々と姿を現している。後方にはまだ別の群れが続いており、外郭防衛線を失ったことで、彼らを遠くで食い止める手段は限られていた。


 衛兵隊の指揮官が剣を抜き、前方へ掲げた。


「全員、配置につけ! ここから先へは通すな!」


 盾が並び、槍の穂先が朝日を受けて輝いた。


 フリーダは隣に立つタクマへ視線を向け、少しだけ笑った。


「さて、もうひと暴れといくか!」


「ああ!いこう!」


 タクマは短く答え、剣を構え直した。


 少し後方では、クルシュが魔法の準備を進めている。私も残された魔力で何ができるかを考えながら、土壁を作るべき場所を探していた。


 昨日までは、魔獣を街へ近づけないために戦っていた。


 けれど今は、街へ入れないために戦わなければならない。


 南門の前で、三度目の防衛戦が新たな局面を迎えようとしていた。


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