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脱走王女は自由でありたい  作者: 真部 朝樹
【第5章】聖女と英雄

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第84話 北門の攻防


 東門での戦闘を終えてギルドへ戻ったばかりだというのに、北側からは新しい報告が届き続けていた。


 バルザックの執務室には、ノヴァグラード周辺の防衛状況を書き込んだ地図が広げられている。午前中に魔獣の大群を迎え撃った東側には、戦闘地点や残存する群れの位置が記され、その周囲には防衛設備の損傷状況まで細かく書き加えられていた。一方、北側には新しい印が増えており、森から街へ向かって南下している魔獣の群れが、予想以上の速さで近づいていることが分かる。


 第一波を撃退できたのは確かだけれど、東門ではまだ負傷者の治療も防衛設備の修復も終わっていない。森には取り残された魔獣が散発的に確認されており、衛兵や冒険者たちは交代で警戒を続けている。午前中の戦闘で消耗した矢や魔石の補充も必要で、東側の防衛力が完全に回復するまでには、まだ相当な時間がかかるはずだった。


 そんな状況で、今度は北側から別の大群が迫っている。


「北の群れは、東側より大型の魔獣が多いらしい」


 バルザックはそう言って、地図の北側を指さした。


「先頭集団はすでに防衛線の近くまで来ている。ガルドからも報告が届いたが、木柵や土塁がどこまで持つか分からんそうだ」


「ガルドさんたちは、もう戦闘準備に入っているんですか?」


 タクマの質問に、バルザックは頷いた。


「ああ。北側の部隊は朝から配置についている。衛兵隊も冒険者も必要な人数を回しているし、防衛設備の準備も終わっている。ただ、大型の魔獣が多いとなると、予定していた戦い方だけでは対応しきれん可能性がある」


 バルザックは地図の上に置かれた駒を動かし、北門の後方へ予備戦力を配置する位置を示した。東側の防衛線を維持するための兵力は残し、南側で待機しているフリーダとクルシュの部隊も動かさない。北側へ増援を送るにしても、他の方面が手薄になってしまえば意味がないため、使える戦力は限られていた。


「東側の警備を削りすぎるわけにはいかんし、南側も空けられん。今のところ南の群れはまだ距離があるが、フリーダとクルシュにはそのまま待機してもらう」


「じゃあ、私たちが北へ行けばいいんだね?」


「そうだ。ただし、すぐに出発する必要はない。お前たちは朝から戦い続けているんだ。少し休んでから向かってくれ」


 私は頷いたものの、正直なところ、落ち着いて休める気分ではなかった。


 東門で使った魔力はかなりの量になる。土壁の構築や補強を繰り返したせいで、体の奥には重い疲労が残っていた。魔法を使えないほどではないけれど、今の状態で再び長時間の戦闘に入れば、途中で魔力が足りなくなるかもしれない。だからといって、北門の状況を考えれば、私の土魔法が役に立つ場面は多いはずだった。


「分かった。少しだけ休んでから向かうね」


「ああ。ガルドには増援を送ると伝えておく。向こうへ着いたら、現場の指示に従ってくれ」


 バルザックはそう言うと、すぐに次の報告書へ目を落とした。私たちが部屋を出る頃には、別の職員が新しい報告を持って入ってきており、ギルド全体が休む間もなく動き続けていることが分かった。


 私とタクマは休憩場所へ向かい、簡単な食事を取ることにした。


 そこには東門での戦闘を終えた冒険者たちが何人も座っており、装備を外して傷の手当てを受けたり、温かい食事を口に運んだりしている。椅子に腰を下ろしたまま眠っている者もいれば、武器の刃こぼれを確かめている者もいた。誰もが疲れた顔をしていたけれど、北側でも戦闘が始まろうとしていることを知っているためか、落ち着かない様子で出入り口へ視線を向ける者も多かった。


 私たちも水を飲み、少しでも体力を回復させようと努めた。


 けれど、休息を始めてからそれほど時間が経たないうちに、北門で戦闘が始まったという知らせが届いた。


     ◇


 北門へ到着したとき、すでに戦闘は激しさを増していた。


 東門と同じように土塁や木柵が設けられているものの、北側は森から開けた草地までの距離が短い。そのため、魔獣たちが森を抜けてから防衛線へ到達するまでの時間も短く、弓兵や魔法使いたちが攻撃できる機会は限られていた。城壁の上からは絶え間なく矢が放たれ、魔法による爆発や土煙も上がっているけれど、それでも魔獣たちは次々と防衛線へ押し寄せてくる。


 しかも、今回は大型の魔獣が目立っていた。


 狼型や猪型の魔獣も混じっているけれど、その後ろには熊に似た大きな魔獣が何体も続いている。中には肩の高さが人間の背丈を超えるものまでいて、木柵へ体当たりするたびに太い木材が軋み、固定された杭が地面から浮き上がっていた。


「大型が来るぞ! 前衛、備えろ!」


 衛兵隊の指揮官が声を張り上げた。


 その直後、熊型の魔獣が防衛線へ突進した。


 木柵が大きく揺れ、支柱の一部が折れる。盾を構えた衛兵たちが槍を突き出したものの、魔獣の勢いは止まらず、そのまま防衛線の内側へ踏み込もうとした。


 そこへ、ガルドが飛び込んだ。


「下がれ!」


 彼は大剣を両手で構えると、魔獣の前脚へ向けて鋭く振り下ろした。重い一撃を受けた魔獣が体勢を崩し、前方へ倒れ込む。ガルドはその動きを見逃さず、踏み込みながら大剣を振り上げた。刃が魔獣の首元へ深く食い込み、巨体が地面へ崩れ落ちる。


 周囲の衛兵たちから歓声が上がったけれど、ガルドは倒れた魔獣を確認すると、すぐに次の指示を出した。


「ここはもう持たん! 前衛は後ろの防衛線まで下がれ! 無理に踏みとどまるな!」


 衛兵たちはその言葉に従い、隊列を崩さないよう後退を始めた。


 ガルド自身は最後まで前方に残り、追ってくる魔獣を牽制しながら、味方が安全に下がれる時間を稼いでいる。大剣の一撃は強力だけれど、彼は決して無理な攻撃を繰り返しているわけではなかった。相手の動きを見極め、確実に倒せる場面で踏み込み、危険なときには距離を取る。長年の実戦経験が、その動きの一つひとつに表れているようだった。


 私のように広い範囲へ魔法を使えるわけではないけれど、ガルドは自分の立つ場所を確実に守っていた。しかも、自分一人が生き残ればいいという戦い方ではない。周囲の衛兵や冒険者たちが安全に動けるよう、敵の注意を引きつけ、必要なときには撤退の時間まで作っている。


 同じA級冒険者でも、得意なことはまるで違うのだと思う。


「ガルドさん!」


 タクマが声をかけると、ガルドはこちらへ振り返った。


「おう、来たか!」


 彼は大剣を構えたまま、私たちの姿を確認した。


「東は片づいたのか?」


「第一波はね。でも、まだ後続が残ってる」


「そうか。なら、こっちも手早く片づけたいところだな」


 ガルドはそう言って笑ったけれど、その額には汗が浮かび、鎧にもいくつもの傷が付いていた。戦闘が始まってからそれほど長い時間が経っているわけではないはずなのに、すでに相当な数の魔獣を相手にしていることが分かる。


「リカ、土魔法であの壊れた木柵の前を塞げるか?」


「うん。できるよ。ただ、大型が多いから、普通の壁じゃすぐ壊されると思う」


「だったら、少しでも足を止められれば十分だ。俺たちがその間に仕留める」


「分かった!」


 私は頷き、壊れた木柵の前へ視線を向けた。


 そこでは大型の魔獣が次々と押し寄せ、後方の衛兵たちが槍を構えて迎撃している。けれど、木柵が破壊されたことで進路が広がり、魔獣が一度に侵入できる範囲も大きくなっていた。ここを放置すれば、後続の魔獣まで同じ場所へ集中してしまうかもしれない。


 私は魔法を発動し、地面を隆起させた。


 壊れた木柵の前に厚い土壁が立ち上がり、その両端から斜めに伸びる壁が魔獣の進路を狭めていく。東門では群れを左右へ分けることを重視したけれど、今回は大型の魔獣が多いため、壁そのものの強度も必要だった。私は土を圧縮し、表面をできるだけ硬くするとともに、魔獣が正面から突進しにくい角度へ調整した。


 突然現れた土壁に、先頭の魔獣が衝突した。


 鈍い音が響き、壁の表面に亀裂が走る。


 けれど、魔獣の勢いは確かに弱まった。


「今だ! 前衛、迎撃!」


 ガルドの声が響き、衛兵たちが一斉に槍を突き出した。


 タクマもその中へ加わり、土壁の隙間から侵入してくる魔獣を迎え撃つ。ガルドが大型の魔獣を相手にしている間、タクマはその周囲へ回り込もうとする狼型や猪型を処理していた。互いに細かな指示を出さなくても、どちらが何を担当するべきかを理解しているようだった。


 ガルドの大剣は一撃の威力が大きい分、振り抜いた直後に隙が生まれることもある。けれど、タクマがその周囲を守っているため、ガルドは大型の魔獣へ集中できていた。逆に、タクマが複数の魔獣に囲まれそうになると、ガルドが大剣を振るって敵の動きを牽制する。


 それぞれの得意な戦い方が、うまく噛み合っていた。


 私は二人の動きを確認しながら、土壁の補強を続けた。大型の魔獣が衝突するたびに亀裂が広がり、壁の一部が崩れ落ちるけれど、そのたびに土を隆起させて補修する。壁そのものを完全に守る必要はない。魔獣の勢いを削ぎ、味方が迎撃できる場所へ誘導できれば、それだけで十分な効果があった。


 それでも、魔獣の数はなかなか減らなかった。


     ◇


 北門の戦闘は、東門以上に激しいものになった。


 大型の魔獣が多いため、土壁や木柵が何度も破壊され、そのたびに防衛線を修復しなければならない。私も魔法を使って補強を続けていたけれど、次々と押し寄せる魔獣を相手にしていると、どうしても対応が遅れる場所が出てくる。


 しかも、戦闘が長引くにつれて、衛兵たちの動きにも疲労が見え始めていた。


 盾を構える腕が下がり、槍を突き出す動きが少しずつ鈍くなる。交代要員はいるものの、すでに何度も前衛へ出ている者も多く、休息を取ったからといって疲労が完全に抜けるわけではない。冒険者たちも同じで、魔獣を倒すことには慣れていても、これほど長時間にわたって集団戦を続ける経験は少ないのだろう。


 防衛線の一角では、盾を構えた衛兵たちが熊型の魔獣を食い止めようとしていた。


 けれど、魔獣の体格が大きすぎた。


 前脚を振り下ろされた衛兵が盾ごと吹き飛ばされ、地面へ倒れる。隣にいた衛兵が慌てて駆け寄ろうとしたが、その瞬間、別の魔獣が木柵の隙間から飛び込んできた。


「危ない!」


 私は思わず声を上げた。


 土魔法で救出経路を確保しようとしたけれど、倒れた衛兵と魔獣の距離が近すぎる。無理に土壁を作れば、かえって負傷者を巻き込んでしまう可能性があった。


 そのとき、タクマが近くの衛兵隊の指揮官へ声をかけた。


「負傷者のところへ行きます! ここを引き継げる人はいますか?」


「分かった! 予備の二人を回す! 行ってくれ!」


 指揮官の指示で衛兵が配置につくと、タクマはすぐに負傷者のもとへ駆け出した。


 私は彼の進路を確認し、魔獣が横から入り込まないよう土壁を形成する。タクマはその隙に倒れた衛兵へ近づき、襲いかかろうとしていた狼型の魔獣を斬り伏せた。


「動けますか!」


「……足が、動かん」


「分かりました。無理しないでください」


 タクマは衛兵の腕を肩へ回し、後方へ運び始めた。


 私は周囲の魔獣の動きを見ながら、救出経路を確保するための土壁を維持した。ガルドもこちらの状況に気づいたらしく、大剣を振るって近づいてきた大型の魔獣を牽制している。


 やがて、タクマは負傷した衛兵を後方の救護担当者へ引き渡した。


「助かった……ありがとう」


 衛兵がそう言うと、タクマは小さく頷いた。


「まだ戦闘中です。後は任せてください」


 彼はすぐに防衛線へ戻っていった。


 私はその姿を見ながら、胸の奥に小さな安堵を感じた。負傷者を救出できたことはよかったけれど、その間にも別の場所では戦闘が続き、誰かが傷ついているかもしれない。私がすべての負傷者を救えるわけではないし、タクマも一人で防衛線全体を守れるわけではない。


 だからこそ、今はそれぞれが自分の役割を果たす必要があるのだろう。


 私は魔法を使って崩れた土壁を補強し、次の魔獣が侵入してくる場所へ視線を向けた。壁の向こうでは大型の魔獣が低い唸り声を上げ、後続の群れが土煙を巻き上げながら迫っている。


 戦闘が始まってから、すでに何時間も経っていた。


 東門では午前中に第一波を撃退できたけれど、北門ではまだ終わりが見えない。空は少しずつ夕暮れの色へ変わり始め、森の影も長く伸びている。魔獣たちの姿が見えにくくなれば、弓兵や魔法使いたちの攻撃精度にも影響が出るだろう。


 私は残った魔力を確かめながら、土壁の維持に必要な分だけを使うよう意識した。これ以上大きな魔法を繰り返せば、戦闘が終わる前に魔力が尽きてしまうかもしれない。


 それでも、今は壁を維持しなければならなかった。


     ◇


 夕方になって、ようやく北側の群れの勢いが弱まり始めた。


 森から現れる魔獣の数は少なくなり、後続の群れも散発的になっている。けれど、防衛線の前には大型の魔獣が何体も残っており、最後まで気を抜くことはできなかった。


 ガルドは大剣を構え、最後まで防衛線へ向かっていた熊型の魔獣へ踏み込んだ。


 魔獣が前脚を振り下ろすと、彼はその攻撃を横へかわし、体勢を崩したところへ大剣を振るう。重い一撃が魔獣の肩口へ食い込み、巨体が大きく揺れた。そこへタクマが側面から踏み込み、後脚を斬りつける。


 魔獣が倒れ込んだ瞬間、ガルドは大剣を振り上げ、最後の一撃を加えた。


 巨体が地面へ崩れ落ちる。


 周囲の衛兵たちは、しばらくその場を動かなかった。


 誰もが次の魔獣が現れるのを警戒していたけれど、森の外縁にはもう大きな群れの姿は見えなかった。斥候たちが周囲を確認し、後続の魔獣が近づいていないことを報告する。


「……第二波の主力、撃退!」


 衛兵隊の指揮官が声を上げた。


 その言葉を聞いて、周囲から安堵の声が広がった。武器を下ろした冒険者たちが互いの無事を確かめ、衛兵たちも傷ついた仲間へ駆け寄っている。歓声を上げる者もいたけれど、その多くはすぐに座り込み、荒い息を整えることに精一杯だった。


 ガルドは大剣を地面へ立て、深く息を吐いた。


「……さすがに、骨が折れるな」


 私は彼の姿を見ながら、思わず苦笑した。


「ガルドでも疲れるんだね」


「当たり前だろう。俺だって人間だからな」


 ガルドはそう言って笑ったけれど、その表情には確かな疲労が浮かんでいた。鎧には新しい傷がいくつも増え、腕にも小さな切り傷ができている。大きな怪我ではなさそうだけれど、長時間にわたって大型の魔獣を相手にしていたのだから、疲れていないはずがなかった。


「リカ、お前も顔色がよくないぞ。無理するなよ」


「うん。ちょっと魔力を使いすぎたかも」


「なら、早めに休め。ここは俺たちで何とかする」


 私は頷いた。


 北門の防衛線では、すでに修復作業が始まっていた。東門と同じように木柵や土塁が損傷しているけれど、こちらは大型の魔獣による破壊が多く、修復にはさらに時間がかかりそうだった。職人たちは破損した木材を取り外し、使えるものを選別しながら新しい柵を組み立てている。衛兵隊も警戒を続けており、森の奥から別の魔獣が現れないか監視していた。


 それでも、北門そのものは守りきった。


 街の中へ魔獣が侵入することもなく、第二波の主力を撃退できたのだ。


 ただし、その代償は小さくなかった。負傷者は東門よりも多く、防衛設備の損傷も大きい。矢や魔石の消費も激しく、補給担当者たちは不足分を確認するために走り回っている。衛兵隊の交代要員にも余裕がなくなり始めており、明日以降の戦闘を考えれば、今のうちに少しでも戦力を回復させておく必要があった。


 私は負傷者の治療を手伝いたかったけれど、魔力の残量を考えると、これ以上無理をするわけにはいかなかった。


 タクマも同じことを考えていたらしく、私の肩へそっと手を置いた。


「リカ、戻ろう。ここは任せて大丈夫だ」


「……うん」


 私はガルドへ礼を言い、タクマと一緒にギルドへ戻ることにした。


     ◇


 夜になっても、ギルドの慌ただしさは変わらなかった。


 東門と北門で続けて大群を撃退したものの、各方面の警戒は続いている。街の中では負傷者の治療や補給物資の運搬が行われ、城壁の外では防衛設備の修復作業が進められていた。街灯や魔石灯の明かりに照らされた通りには、資材を積んだ荷車が行き交い、交代要員の衛兵たちが各方面へ向かっている。


 私とタクマがギルドへ戻ると、エリナがすぐに声をかけてきた。


「二人とも、お疲れさま! 北側も何とか守れたんだね」


「うん。でも、かなり大変だったよ」


「報告は届いてる。負傷者も多いみたいだし、修復にも時間がかかりそうだって」


 エリナはそう言って、心配そうに私の顔を見た。


「リカ、ちょっと顔色悪くない?」


「魔力を使いすぎたみたい。少し休めば大丈夫だと思う」


「だったら、早く休んで! 報告はバルザックさんがまとめてるから、二人は無理しなくていいよ」


 私は頷き、タクマと一緒に会議室へ向かった。


 そこではバルザックが、衛兵隊長やギルド職員たちと各方面の状況を確認していた。


「東と北は何とか守りきった。だが、防衛設備の損傷は予想以上に大きい」


 バルザックは地図を見ながら説明した。


「特に北側は大型の魔獣が多かったせいで、外側の木柵が何か所も破壊されている。修復は進めているが、完全に元通りにするには時間が足りん」


「南側はどうなっていますか?」


 タクマが尋ねると、バルザックは地図の南側を指さした。


「フリーダとクルシュが監視を続けている。今のところ戦闘は始まっていないが、群れは夜間も移動を続けているらしい」


「じゃあ、明日には……」


「ああ。南側でも戦闘になる可能性が高い」


 バルザックは静かに頷いた。


 私は地図を見つめながら、東門と北門の戦闘を思い返していた。どちらも何とか守りきったけれど、負傷者は増え、防衛設備も損傷している。戦える人数が減っているだけでなく、疲労も確実に蓄積していた。今日の戦闘で使った矢や魔石を補充する必要もあり、明日になればすべて元通りというわけにはいかない。


 バルザックは私たちの様子を見て、少しだけ眉を寄せた。


「お前たちは、今日はもう休め。明日は今日より厳しくなるかもしれん。今夜は少しでも寝ておけ」


「でも、まだ負傷者が……」


「治療担当者は確保している。お前が無理をして倒れたら、明日困ることになる」


 私は反論しかけたけれど、バルザックの言うことも分かっていた。今の私は魔力をかなり消耗している。無理をすれば簡単な治療魔法くらいは使えるかもしれないけれど、明日また大規模な戦闘が始まったとき、魔力が足りなくなってしまえば、もっと多くの人を危険にさらすことになる。


「……分かった。今日は休むね」


「ああ。それでいい」


 バルザックは頷き、再び地図へ視線を戻した。


 私たちは会議室を出て、ギルドの休憩場所へ向かった。


     ◇


 休憩場所には、すでに何人もの冒険者が横になっていた。


 椅子に座ったまま眠っている者もいれば、床に敷かれた毛布へ体を預けている者もいる。誰もが朝からの戦闘で疲れ切っているのだろう。普段なら賑やかなギルドの一角も、今は静かな寝息と、時折聞こえる小さな話し声だけが響いていた。


 私も空いている椅子へ腰を下ろし、深く息を吐いた。


「……さすがに疲れたなぁ」


 タクマが水の入った杯を差し出してくれる。


「今日はずっと魔法を使ってたからな。少しでも休んだほうがいい」


「うん。そうする」


 私は水を飲みながら、椅子の背もたれに体を預けた。魔力を使いすぎたせいか、体の奥が重い。頭の中も少しぼんやりしていて、今すぐにでも眠ってしまいそうだった。


 タクマはそんな私をしばらく眺めていたけれど、ふと思いついたように口を開いた。


「そういえばさ。俺の知ってるファンタジーだと、マナポーションとか飲めば魔力が回復するんだけどな」


「あるよ?」


「……あるのか!」


 タクマが驚いた顔でこちらを見た。


「だったら使わないのか? こういうときこそ必要なんじゃないか?」


「うーん。使えなくはないけど、今はやめておいたほうがいいかな」


「なんで?」


「魔力は回復するんだけど、その代わりに体力をごっそり持っていかれるんだよね。今飲んだら、魔法は使えても体が動かなくなっちゃうかも」


「……そういう仕組みなのか」


「そう。ちなみに、普通のポーションもあるよ。こっちは体力を回復させたり、傷の治りを助けたりできるけど、代わりに魔力を消費するの」


「マジか」


 タクマは少し考え込んだ後、納得したように頷いた。


「つまり、どっちも飲めば無条件で元気になるってわけじゃないんだな」


「うん。どちらかを回復させる代わりに、もう片方を使っちゃうからね。だから使いどころが難しくて、あんまり普及してないんだよ」


「なるほどなぁ。便利そうに見えて、意外と扱いにくいんだな」


「そういうこと。だから、疲れてるときはちゃんと寝るのが一番。魔力も体力も、自然に回復するのを待つほうがいい場合が多いんだよ」


「じゃあ、今のリカには睡眠が一番の回復薬ってことか」


「うん。だから、ちゃんと寝かせてね?」


「はいはい。分かってるよ」


 タクマは苦笑しながら私の頭を軽く撫でた。


 私はその手に少しだけ頭を預け、目を閉じる。外ではまだ修復作業の音が続いていたけれど、今は少しでも体を休めておかなければならない。


 明日もまた、魔法を使うことになるのだから。


     ◇


 どれほど眠っていたのだろう。


 私は、廊下から聞こえてきた慌ただしい足音で目を覚ました。


 休憩場所の明かりは少し落とされており、周囲の冒険者たちはまだ眠っている。隣ではタクマも椅子に腰を下ろしたまま目を閉じていたけれど、私が身じろぎすると、すぐに目を開けた。


「……どうした?」


「誰か来たみたい」


 私がそう答えると、廊下の向こうからエリナの声が聞こえてきた。


「分かった! すぐにバルザックさんへ伝える!」


 何か新しい報告が届いたらしい。


 私は立ち上がろうとしたけれど、タクマがそっと肩を押さえた。


「待って。まずは何があったのか確認しよう」


「……うん」


 私たちが休憩場所の入り口へ向かうと、ちょうどエリナが廊下を走っていくところだった。彼女は私たちの姿に気づくと、一瞬だけ足を止めた。


「リカ、タクマ。起こしちゃった?」


「ううん。大丈夫。何かあったの?」


 エリナは少し迷ったように私たちを見た後、手に持っていた報告書へ視線を落とした。


「南側から新しい報告が来たの。群れの移動速度が上がってるって」


「南の群れが?」


「うん。先頭はもう、街道沿いの監視地点を通過したらしいよ」


 私は思わずタクマと顔を見合わせた。


 東と北の大群を撃退してから、まだ十分な時間も経っていない。負傷者の治療も防衛設備の修復も続いているのに、今度は南側の群れが街へ迫っているのだ。


「ごめんね。二人はもう少し休んでて。バルザックさんには私から報告するから」


 エリナはそう言うと、再び廊下を駆けていった。


 私たちはしばらくその場に立ち尽くしていたけれど、やがてタクマが小さく息を吐いた。


「……二回も撃退したのに、まだ終わらないんだな」


「うん。でも、ちゃんと守れてるよ」


「ああ。そうだな」


 タクマは頷き、廊下の向こうへ視線を向けた。


「明日も守らないとな」


「うん」


 私はそう答え、休憩場所へ戻ることにした。


 窓の外では、街灯と魔石灯の明かりが夜の通りを照らしている。遠くからは資材を運ぶ荷車の音が聞こえ、城壁の方角では、まだ修復作業が続いているらしかった。眠っている冒険者たちの中にも、明日になれば再び防衛線へ向かわなければならない者が大勢いる。


 私は椅子へ腰を下ろし、毛布を肩へ掛け直した。


 少しでも魔力を回復させておかなければならない。体力も、できる限り戻しておきたい。明日どれほどの魔獣が押し寄せてくるのか分からない以上、今の私にできる最も大切なことは、しっかり休むことだった。


 タクマも隣へ腰を下ろし、静かに目を閉じた。


 私はもう一度だけ窓の外を見た。


 ノヴァグラードの夜は、まだ終わらない。


 そして南の森では、三つ目の大群が街へ向かっていた。


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