第83話 スタンピード
夜明け前のノヴァグラードは、普段とはまるで違う街になっていた。
東門へ続く大通りには松明と魔石灯が並べられ、まだ空が暗いうちから衛兵や冒険者たちが行き交っている。荷車が石畳を軋ませながら補給物資を運び、道の端では職人たちが最後の資材を積み下ろしていた。いつもなら市場の準備が始まるには早すぎる時間なのに、今朝は街のあちこちから人の声が聞こえてくる。
ただ、その声に普段の賑やかさはなかった。
誰もが自分の仕事を確かめ、必要なことだけを短く伝え合っている。時折、装備を整えた冒険者たちが冗談を交わすこともあったけれど、笑い声は長く続かなかった。城壁の向こうに何が待っているのか、皆が知っているのだろう。
私とタクマは、東門の内側に設けられた集合場所へ向かっていた。
昨日までに防衛設備の大部分は完成している。城門の外側には土塁と木柵が組み合わされ、魔獣が一直線に突入できないよう障害物が配置されていた。城壁の上には弓兵と魔法使いが配置され、突破してきた魔獣を迎撃するための近接戦闘部隊も待機している。負傷者の搬送経路や補給路も確保されており、今朝はそれぞれの担当者が最後の確認を行っていた。
私たちが東門へ到着すると、ちょうど衛兵隊の幹部たちが集まっているところだった。
その中心にいたのは、バルザックだった。
彼の前にはノヴァグラード周辺の地図が広げられ、各方面の防衛位置が細かく記されている。衛兵隊長と思われる壮年の男性が隣に立ち、部下から届いた報告を確認していた。鎧には長年使い込まれた跡があり、話し方も落ち着いている。慌ただしく動く周囲とは対照的に、二人は必要な情報を一つずつ整理しながら、各部隊へ指示を出していた。
「北側の予備戦力は、予定通りガルドの隊と合流しました。南側も配置を完了しています」
「東側の弓兵は?」
「城壁上の配置は完了しました。外側の防衛線にも必要な人数を回しています。ただ、夜間の監視に当たっていた者は疲労が大きいため、交代を進めています」
「分かった。夜が明ける前に休ませられる者は休ませろ。戦闘が始まってからでは、まとまった休息は取れん」
バルザックの指示に、衛兵隊長は頷いた。
私は少し不思議に思った。
冒険者ギルドの長であるバルザックが、防衛全体の指揮を執っている。もちろん、ギルドが街の防衛に協力するのは当然だけれど、本来なら衛兵隊長が中心となって指揮を執っていてもおかしくない。実際、衛兵隊の部隊配置や城壁の運用については、衛兵隊長のほうが詳しいはずだった。
その疑問が顔に出ていたのだろう。タクマも同じことを考えていたらしく、バルザックがこちらへ気づくと、少し遠慮がちに尋ねた。
「バルザックさんが、全体の指揮を執るんですね」
「ああ。今回はそういうことになった」
バルザックは短く答えたが、隣にいた衛兵隊長が口を開いた。
「私からお願いしたのです」
思いがけない答えに、私は衛兵隊長を見た。
「街の防衛は本来、我々衛兵隊の責務です。しかし、今回の相手は通常の盗賊や敵軍ではありません。これほど大規模な魔獣の群れを相手にする経験は、衛兵隊だけでは十分とは言えないのです」
衛兵隊長は落ち着いた声で続けた。
「冒険者たちの能力を把握し、魔獣の習性を熟知しているのはバルザック殿です。しかも、今回の異変については、ギルドが中心となって情報を集めてきました。ならば、街を守るためには、最も適任の人物に全体を任せるべきだと判断しました」
そう言うと、衛兵隊長はバルザックへ向き直った。
「改めて、よろしくお願いいたします。衛兵隊は、あなたの指揮の下で全力を尽くします」
そして、深く頭を下げた。
バルザックは困ったように眉を寄せた。
「やめてくれ。そんな大げさなことをされると、こっちがやりにくくなる」
「大げさではありません。街の命運がかかっているのですから」
「……まったく。分かったよ」
バルザックは小さく息を吐き、衛兵隊長の肩に手を置いた。
「ただし、衛兵隊の細かい運用まで俺が口を出すつもりはない。そこはあんたに任せる。俺は全体の状況を見て、冒険者の配置と戦力の調整を行う。それでいいな?」
「承知しました」
二人は短く頷き合った。
私はそのやり取りを見ながら、少し安心した。
どちらが偉いのかを争っている場合ではない。今、必要なのは街を守ることであり、そのために互いの得意な分野を任せ合えるのなら、それが一番いいはずだった。衛兵隊長が頭を下げたのも、バルザックがそれを受け入れたのも、きっと同じ理由なのだろう。
「おう、来たか」
背後から聞き慣れた声がして、私たちは振り返った。
そこに立っていたのは、ハーケンだった。
普段は訓練場で新人冒険者たちを指導している彼が、今日は実戦用の装備を身につけている。使い込まれた剣を腰に下げ、腕や胴には必要な部分だけを守る防具を着けていた。動きやすさを重視した装備なのだろう。見慣れた訓練着とは違う姿に、私は少し驚いてしまった。
「ハーケンも戦うんだね」
「当たり前だろう。こんなときに訓練場でのんびりしていられるか」
ハーケンはそう言って笑った。
「何を驚いている。俺だって昔は冒険者だったんだぞ」
「いや、それは知ってますけど……」
タクマが苦笑すると、ハーケンは彼の装備を上から下まで眺め、満足そうに頷いた。
「お前も、ずいぶん立派な装備を身につけるようになったな。剣の腕については、もう俺がどうこう言うこともない。何しろ、こっちは一度きっちり負かされているからな」
「ハーケンさん、あの話を今ここでするんですか?」
「ははっ、別に恥ずかしがることじゃないだろう。負けたものは負けたんだ」
ハーケンは愉快そうに笑った後、東門の向こうへ視線を向けた。
「ただし、立ち合いと実戦は別物だ。相手は一人じゃないし、足場も間合いも思い通りにはならん。周りには守らなきゃならん連中もいる」
「……そうですね」
「お前が実戦でどう戦うのか、今日はじっくり見せてもらうぞ。もっとも、俺も暇じゃないから、隣で戦いながらになるがな」
「それなら、ハーケンさんにもいいところを見せてもらわないと」
「言うようになったじゃないか!」
二人は笑い合い、それぞれの武器を確かめた。かつて訓練場で向かい合っていた師弟が、今は同じ防衛線に立っている。ハーケンの態度は普段と変わらなかったけれど、タクマを見つめる目には、教え子というだけではない、一人の剣士に向ける信頼が感じられた。
私たちは彼と一緒に、防衛線の前方へ向かった。
空はまだ暗かったけれど、東の地平線にはわずかに明るさが差し始めていた。
◇
最初に異変に気づいたのは、城壁の上にいた見張りだった。
「東の森に動きあり!」
その声が響くと、周囲の衛兵たちが一斉に顔を上げた。
私も城壁の向こうへ視線を向ける。
まだ薄暗い森の外縁では、木々の間に何かが動いているように見えた。最初は風に揺れる枝葉と区別がつかなかったけれど、やがて森の奥から鳥たちが一斉に飛び立ち、その直後、地面を伝わるような低い音が聞こえてきた。
遠くで大勢の人が走っているような、重く連続した音だった。
けれど、それが人間の足音ではないことは、すぐに分かった。
森の中から最初に姿を現したのは、狼型の魔獣だった。数体が草地へ飛び出し、その後ろからさらに多くの個体が続く。やがて猪型の魔獣が現れ、木々を押し分けるように大型の魔獣まで姿を見せ始めた。
私は息を呑んだ。
昨日、丘の上から見た群れよりも、ずっと近い。
魔獣たちは同じ方向へ向かっているものの、整然と並んでいるわけではなかった。足の速い狼型が前へ出て、その後ろを猪型の魔獣が追いかけるように進んでいる。体格の大きな魔獣は周囲の個体を押しのけながら進み、時には互いの進路を塞いでいた。それでも、普段なら争いになりそうな場面で足を止めることはなく、群れ全体がノヴァグラードへ向かって押し寄せてくる。
その中には、赤い瞳を持つ個体も混じっていた。
「……本当に来たんだ」
私が呟くと、隣にいたタクマが小さく頷いた。
「ああ。しかも、昨日見た数だけじゃなさそうだ」
森から現れる魔獣は、まだ途切れなかった。
先頭の群れが草地へ広がっても、後ろから次々と新しい個体が姿を見せる。地面を踏み鳴らす音は少しずつ大きくなり、やがて個々の足音を聞き分けることさえ難しくなった。まるで森そのものが動き出したかのように、木々の間から魔獣があふれ出してくる。
「全員、持ち場を離れるな!」
衛兵隊の指揮官が声を張り上げた。
「弓兵は合図を待て! 魔法使いも射程に入るまで攻撃するな!」
城壁の上では弓兵たちが矢をつがえ、魔法使いたちも詠唱の準備を始めている。外側の防衛線では盾を構えた衛兵たちが隊列を整え、近接戦闘を担当する冒険者たちが武器を抜いた。
少し離れた場所で、若い冒険者が杖を掲げようとした。
「まだ遠い」
ハーケンがすぐに声をかけた。
「今撃っても、先頭の数体にしか届かん。後ろからいくらでも来るんだ。合図を待て」
「は、はい!」
若い冒険者は慌てて杖を下ろした。
私は魔獣の群れを観察しながら、どこへ魔法を使うべきか考えていた。
この距離なら、強力な火魔法を使えば先頭の群れへ大きな被害を与えられるだろう。けれど、森に近い場所で広範囲の炎を放てば、木々へ燃え移る危険がある。防衛線の近くで使えば、今度は味方や木柵を巻き込む可能性があった。
それに、今はまだ戦いが始まったばかりだ。
ここで大量の魔力を使ってしまえば、後から現れる魔獣に対応できなくなるかもしれない。私は火魔法の使用をひとまず見送り、土魔法で群れの進路を制限する準備を整えた。
魔獣たちは、さらに近づいてくる。
先頭の狼型が草地を駆け抜け、その後ろから猪型の魔獣が土煙を上げながら続いていた。防衛線の前に設けられた障害物が視界に入っても、彼らは速度を落とそうとしない。
そして、衛兵隊の指揮官が剣を振り上げた。
「弓兵、構え!」
城壁の上で、弓が一斉に引き絞られる。
「放て!」
無数の矢が、朝焼けの空へ放たれた。
◇
最初の斉射は、確かな効果を上げた。
先頭を走っていた狼型の魔獣が次々と倒れ、後続の猪型も矢を受けて足をもつれさせた。魔法使いたちが放った攻撃魔法も群れの中へ着弾し、土煙と悲鳴が一斉に上がる。
けれど、魔獣たちは止まらなかった。
倒れた仲間を飛び越え、あるいは踏み越えながら、後続が押し寄せてくる。最初の斉射でできた隙間は、あっという間に新しい魔獣で埋まってしまった。
「第二射、準備!」
衛兵隊の指揮官が声を上げる。
私はその間に、群れの進行方向を見極めた。
このままでは、魔獣たちが広い範囲から一度に防衛線へ到達してしまう。土塁と木柵はそれを想定して配置されているけれど、数が多すぎれば一か所に負担が集中する可能性もあった。
ならば、魔獣の進路そのものを変えてしまえばいい。
「少し、道を作るよ!」
私は周囲の衛兵たちへ声をかけ、魔法を発動した。
防衛線の前方で地面が隆起し、いくつもの土壁が斜めに立ち上がる。魔獣の進行方向を完全に塞ぐのではなく、流れを左右へ分けるように配置した。土壁の間にはあえて通路を残し、そこへ向かう魔獣が一定の幅に集まるよう調整する。
突然現れた障害物に、先頭の魔獣たちが進路を変えた。
狼型の魔獣は土壁の端を回り込み、猪型は勢い余って壁へ衝突する。後ろから押し寄せる魔獣たちも進路を変えようとするけれど、互いにぶつかり合い、群れの速度がわずかに落ちた。
「今だ! 通路へ集中しろ!」
衛兵隊の指揮官がすぐに指示を出した。
弓兵たちは、魔獣が集中した場所へ向けて矢を放つ。魔法使いたちも攻撃を合わせ、狭い通路へ押し寄せた魔獣を次々と討伐していった。
私は土壁の状態を確認しながら、必要に応じて補強を加える。
大型の魔獣が体当たりすれば、土壁の一部は崩れてしまう。けれど、すべてを防ぎきる必要はなかった。群れの勢いを削ぎ、味方が攻撃しやすい場所へ誘導できれば、それだけで十分な効果がある。
実際、魔獣たちは土壁を回り込むために進路を変え、その間に多くの個体が弓や魔法の攻撃を受けていた。
「すげえな、あれ……」
近くにいた若い冒険者が呟いた。
私は少しだけ苦笑した。
魔法そのものは、それほど複雑なことをしているわけではない。地面を隆起させ、必要な場所へ壁を作っているだけだ。けれど、大勢の味方が同じ場所で戦っているときには、ただ強い攻撃魔法を放つよりも、こうして戦場の形を整えるほうが役に立つこともある。
もちろん、私一人で群れを止められるわけではなかった。
土壁を乗り越えようとする魔獣もいれば、障害物の隙間を見つけて突進してくる個体もいる。大型の魔獣が壁へ体当たりすると、地面が揺れ、土の塊が崩れ落ちた。私はそのたびに補強を加えたけれど、すべての場所を同時に守ることはできない。
やがて、何体かの魔獣が防衛線の手前まで到達した。
「前衛、迎撃!」
指揮官の声が響く。
盾を構えた衛兵たちが前へ出て、冒険者たちも武器を手に駆け出した。
その中には、タクマとハーケンの姿もあった。
◇
タクマは、防衛線の中で自分が果たすべき役割をよく理解していた。
魔獣の数は多く、一体を倒したからといって次の敵が現れなくなるわけではない。むしろ、目の前の敵に気を取られて周囲への注意を失えば、隣で戦う衛兵たちまで危険にさらしてしまう。だからこそ、タクマは無理に前へ出ようとはせず、盾を構えた衛兵たちの動きに合わせながら、突破してきた魔獣を確実に仕留めていた。
飛びかかってきた狼型の魔獣に対しても、必要以上に大きく動くことはなかった。半歩だけ身を引いて攻撃をかわし、着地したところへ剣を振るう。倒れた魔獣を追って深く踏み込むこともなく、すぐに周囲の状況を確認して次の敵へ向き直った。
私はその姿を見ながら、自分の担当する土壁の状態を確認した。
タクマがあの位置を守ってくれているなら、私は群れの進路を制御することに集中できる。もちろん、彼一人に任せきりにするつもりはないけれど、少なくとも彼の周囲で起きるすべてのことを私が気にする必要はなかった。
互いの役割を理解し、それぞれが必要なことをする。大勢の衛兵や冒険者と一緒に戦う今は、それが何より大切だった。
「右から来るぞ!」
近くの衛兵が声を上げる。
「分かってる!」
タクマは短く答え、盾を構えた衛兵の後ろへ回り込んだ。
猪型の魔獣が勢いよく突進してくる。衛兵が盾で受け止めようとするが、体格差が大きく、そのままでは押し倒されかねない。タクマは横から踏み込み、魔獣の前脚を斬りつけて勢いを削いだ。体勢を崩した魔獣へ衛兵たちが槍を突き出し、ようやく動きを止める。
「助かった!」
「こっちこそ!」
タクマはそう答え、すぐに次の敵へ向かった。
私はその様子を横目に、土壁の向こうへ視線を移した。前衛が魔獣を食い止めてくれている間に、後続の流れをさらに細くする必要がある。壁の配置を少し変えれば、城壁上の弓兵が狙いやすい場所へ魔獣を誘導できるはずだった。
私は魔法を発動し、土壁の一部を延長した。
地面が隆起すると、後続の魔獣たちが進路を変え始める。狼型は壁の端を回り込み、猪型は狭くなった通路へ押し寄せた。そこへ弓兵たちの矢が降り注ぎ、魔獣の勢いがさらに弱まる。
そのとき、防衛線の一角で大きな音が響いた。
大型の魔獣が木柵へ体当たりし、太い木材が大きく軋んでいた。固定していた杭が地面から浮き上がり、今にも倒れそうになっている。私はすぐに土魔法で根元を補強し、崩れかけた木柵を支えた。
「そこ、危ないよ! 少し下がって!」
衛兵たちが指示に従って距離を取ると、私は木柵の前に新しい土壁を作った。魔獣は勢い余って壁へ衝突し、動きが止まったところへ弓兵の矢が集中する。
その直後、別の場所から悲鳴が聞こえた。
若い冒険者が、大型の魔獣に押されて体勢を崩していた。剣を構え直そうとしているけれど、相手のほうが速い。魔獣が前脚を振り上げた瞬間、横から一人の男が飛び込んだ。
ハーケンだった。
彼は魔獣の攻撃を真正面から受け止めるのではなく、剣を斜めに当てて軌道を逸らした。そのまま若い冒険者の前へ立ち、魔獣の注意を自分へ向ける。
「下がれ! 無理に受けるな!」
「は、はい!」
若い冒険者が後退すると、ハーケンは魔獣の動きを見ながら少しずつ位置を変えた。
大型の魔獣は力任せに攻撃を繰り返していたけれど、ハーケンは必要以上に大きく動かない。相手の攻撃を最小限の動きでかわし、隙ができたところへ剣を振るっている。派手な技ではないけれど、長年の経験が感じられる戦い方だった。
「ハーケンさん!」
タクマが駆け寄った。
「おう、ちょうどいい。左を頼む!」
「分かりました!」
二人は短い言葉を交わすと、魔獣を挟むように位置を取った。
ハーケンが正面から注意を引きつけ、タクマが側面へ回り込む。魔獣はハーケンへ向かって突進したが、彼はその動きを読んでいたように身をかわした。大きく体勢を崩したところへ、タクマが剣を振るう。
魔獣は短い悲鳴を上げ、地面へ倒れた。
「……なるほどな」
倒れた魔獣を確認したハーケンが、満足そうに頷いた。
「立ち合いでの強さは嫌というほど思い知らされたが、実戦でも周りがよく見えているじゃないか」
「ハーケンさんの援護があったからですよ」
「それが分かってるなら十分だ。剣が強いだけじゃ、こういう戦場では生き残れんからな」
ハーケンはそう言って笑い、次に接近してくる魔獣へ視線を向けた。
「さあ、次だ。まだまだ休ませてはくれんぞ!」
「はい!」
二人はすぐに次の魔獣へ向き直った。
私は少し離れた場所からその様子を見ていた。ハーケンの剣は堅実で、タクマの動きにも無駄がない。互いに細かな指示を出さなくても、相手がどこを守り、どこへ踏み込もうとしているのかを理解しているようだった。
訓練場では師匠と教え子だった二人が、今は同じ戦場で背中を預け合っている。その姿には、どこか不思議な頼もしさがあった。
けれど、私にも自分の仕事がある。二人が前衛を支えてくれている間に、次の群れが押し寄せる経路を塞がなければならない。
私は再び土魔法を発動し、崩れかけていた土壁の補強に取りかかった。
◇
戦闘が始まってから、どれほど時間が経ったのだろう。
東の空はすっかり明るくなり、城壁の上からは森の外縁まで見渡せるようになっていた。魔獣の群れはまだ続いていたけれど、最初の頃に比べれば、前方へ押し寄せる勢いが少しずつ弱まっているように見えた。
それでも、防衛線の状況は決して楽ではなかった。
土塁の前には倒した魔獣の死骸が積み重なり、場所によっては障害物の役割を果たしていた。けれど、死骸が増えすぎれば、後続の魔獣がその上を踏み越えてくる可能性もある。弓兵たちが使う矢も減り始め、魔法使いたちの中には疲労を訴える者が出ていた。
衛兵隊の指揮官は、後方で待機していた部隊と前衛を交代させ、疲れた者から順に休ませていた。冒険者たちも交代で水を飲み、傷の手当てを受けている。けれど、魔獣が途切れず現れるため、誰も長く休むことはできなかった。
私も、かなりの魔力を使っていた。
土壁の構築と補修を繰り返し、時には攻撃魔法も使っている。まだ戦えないほどではないけれど、この調子で何時間も続けば、さすがに厳しくなるだろう。
「リカ、大丈夫か?」
タクマが近づいてきた。
「うん。まだ余裕はあるよ。タクマこそ、怪我してない?」
「ああ。少し疲れたけど、まだ動ける」
彼の額には汗が浮かび、鎧にも魔獣の血が付いていた。けれど、動きに大きな乱れはなく、呼吸も落ち着いている。
「無理しないでね」
「リカもな」
私たちは短く言葉を交わし、それぞれの持ち場へ戻った。
そのとき、前方から斥候が戻ってきた。
「森から出てくる魔獣の数が減っています! 後続はまだ確認できますが、最初ほどの密度ではありません!」
その報告を聞いた衛兵隊の指揮官が、すぐに周囲の状況を確認した。
確かに、森から現れる魔獣の数は少なくなっている。先ほどまでは途切れることなく続いていた群れも、今はところどころに隙間が見え始めていた。
「よし。前衛は無理に追うな! 防衛線へ残っている魔獣を確実に仕留めろ!」
指揮官の声が響いた。
衛兵たちは隊列を整え、残った魔獣へ集中して攻撃を加える。弓兵たちも射線を確認しながら矢を放ち、魔法使いたちは必要な場所へ攻撃を集中させた。
私は土壁の一部を崩し、魔獣の進路をさらに限定した。
完全に逃げ場を塞いでしまえば、追い詰められた魔獣が予想外の方向へ突進する可能性もある。だから、あえて進める場所を残し、その先で衛兵たちが迎撃できるようにした。防衛線の外側には、まだ魔獣の死骸が多く残っている。味方が無理に前進すれば足場を取られかねないため、私たちは敵がこちらへ近づくのを待ちながら、確実に数を減らしていった。
やがて、最後まで防衛線へ向かっていた大型の魔獣が倒れた。
その直後、周囲が静かになった。
先ほどまで響いていた魔獣の咆哮も、地面を踏み鳴らす音も聞こえない。森の外縁にはまだ何体かの魔獣が見えていたけれど、こちらへ向かってくる様子はなかった。
「……終わった?」
近くにいた冒険者が呟いた。
誰もすぐには答えなかった。
衛兵隊の指揮官はしばらく森の様子を確認した後、剣を下ろした。
「第一波の主力は撃退した! ただし、警戒は解くな! 負傷者の救助と防衛設備の確認を優先しろ!」
その言葉を聞いて、周囲から安堵の声が上がった。
何人かの冒険者が拳を突き上げ、衛兵たちも互いの肩を叩き合っている。長時間の戦闘を終えたばかりなのだから、喜びたくなる気持ちはよく分かった。
私も、胸の奥に溜まっていた緊張が少しだけ緩むのを感じた。
少なくとも、最初の大群は退けたのだ。
街の防衛設備は大きく損傷した場所もあったけれど、東門そのものは無事だった。城壁も破られておらず、魔獣が市街地へ侵入することもなかった。
これまで皆で準備してきたことは、決して無駄ではなかったのだと思う。
けれど、その喜びに浸っている時間は長くなかった。
負傷者を運ぶ声が聞こえ、衛兵たちが担架を持って走り始めた。倒れた仲間を支える冒険者の姿も見える。私もすぐに治療場所へ向かい、運び込まれてきた負傷者の状態を確認することにした。
◇
東門の内側に設けられた治療場所には、すでに何人もの負傷者が運び込まれていた。
腕を深く切られた衛兵、足を負傷して歩けなくなった冒険者、魔獣の体当たりを受けて肋骨を痛めた者もいる。治療を担当する人々は手分けして傷の状態を確認し、出血の多い者から優先して処置を進めていた。
私は重傷者の治療を手伝いながら、魔力の残量を意識していた。
傷を治すことはできても、魔力を使い切ってしまえば、次に負傷者が運び込まれたとき対応できなくなる。今は応急処置で十分な人もいるし、医薬品や包帯で対応できる傷もある。私は治療担当者と相談しながら、魔法が必要な人を優先して診ることにした。
その間にも、東門の外では防衛設備の修復が進められていた。
破損した木柵は職人たちが補強し、土塁の崩れた部分には新しい土が運び込まれている。魔獣の死骸も、運べるものから防衛線の外へ移されていた。すべてを片づけるには相当な時間がかかるだろうけれど、次の襲撃に備えて通路や射線を確保する必要があった。
弓兵たちは残った矢の数を確認し、補給担当者へ不足分を伝えている。魔法使いたちも交代で休息を取り、魔石を使う装備については残量を確かめていた。
戦闘が終わっても、やるべきことは山ほどあった。
「リカ、少し休んだほうがいい」
治療場所へ戻ってきたタクマが声をかけてきた。
「もう少しだけ。こっちの人を診たら休むよ」
「分かった。じゃあ、俺は水を持ってくる」
タクマはそう言って、近くの補給所へ向かった。
私は最後の負傷者の治療を終えると、用意された椅子へ腰を下ろした。体を動かしていたときには気づかなかったけれど、座った途端に足の疲れを感じる。魔力にもまだ余裕はあるものの、朝から戦い続けていたせいか、頭の奥が少し重かった。
しばらくして、タクマが水の入った杯を持って戻ってきた。
「はい。無理しないでくれよ」
「ありがとう」
私は水を受け取り、ゆっくりと飲んだ。
冷たい水が喉を通ると、少しだけ気分が落ち着いた。
東門の外からは、まだ作業の音が聞こえている。魔獣の死骸を運ぶ声や、木材を打ちつける音が途切れることはなかった。衛兵隊の交代も進められているらしく、新しい部隊が持ち場へ向かう姿が見えた。
「……本当に、すごい数だったね」
私が言うと、タクマも頷いた。
「ああ。あれだけ倒しても、まだ森の奥に残ってるかもしれないんだよな」
「うん。斥候の報告でも、後続は確認されてるって言ってたし」
「これで終わりならいいんだけどな」
タクマはそう言って、東門のほうへ視線を向けた。
私も同じことを考えていた。
第一波は撃退した。けれど、森の中にはまだ魔獣が残っているかもしれないし、別の場所では新しい群れが形成されている可能性もある。何より、北と南では別の大群が確認されているのだ。
東側で勝利したからといって、街全体の危険が去ったわけではない。
それでも、今は少しでも休んでおく必要があった。
私はタクマと一緒に簡単な食事を取り、交代で短い休息を取ることにした。いつ次の襲撃が始まるか分からない以上、疲れたまま動き続けるよりも、休めるときに休んでおくほうがいい。
◇
午後になって、私とタクマは冒険者ギルドへ戻った。
東門の防衛線では、すでに修復作業が本格化していた。衛兵隊の指揮官が残って状況を確認しており、冒険者たちも交代で警戒を続けている。私たちは必要な引き継ぎを済ませ、第一波の戦況を報告するためにギルドへ向かった。
ギルドの中は、朝以上に慌ただしかった。
受付ではエリナたちが次々と届く報告書を整理し、伝令が各方面の防衛拠点へ走っている。負傷者の受け入れ状況や補給物資の不足についても問い合わせが続いているらしく、職員たちは休む間もなく対応に追われていた。
「リカ、タクマ! 無事だったんだね!」
私たちを見つけたエリナが、ほっとしたように声を上げた。
「うん。東の第一波は何とか撃退できたよ」
「よかった……。こっちにも報告は届いてたけど、二人の顔を見るまでは安心できなくて」
エリナはそう言って笑った。
けれど、すぐに表情を引き締めると、私たちを会議室へ案内した。
そこにはバルザックがいた。
机の上には朝よりも多くの報告書が積まれ、地図には新しい印がいくつも書き加えられている。バルザックは私たちの姿を見ると、少しだけ表情を緩めた。
「よく戻った。東の第一波は撃退できたそうだな」
「うん。防衛線も維持できたよ。ただ、負傷者はかなり出てる」
「報告は受けている。補給と修復は進めさせているが、完全に元通りにするには時間がかかるだろう」
バルザックはそう言って、地図の東側を指さした。
そこには、昨日までの群れの移動経路に加え、今朝の戦闘地点と、その後に確認された魔獣の位置が記されていた。
「東側の主力は確かに撃退した。だが、森の奥にはまだ小規模な群れが残っているらしい。監視を続けさせているが、いつ再びこちらへ向かってくるかは分からん」
「やっぱり、まだいるんだね」
「ああ。それに……」
バルザックは言葉を切り、地図の北側へ視線を移した。
そこには、昨日までよりも大きな印が記されていた。
「北側の状況が悪い」
私は思わず身を乗り出した。
「ガルドさんたちは?」
「今のところ無事だ。ただ、北の森から南下している群れが、予想以上の速度でこちらへ向かっている。すでに複数の群れが合流しており、規模もかなり大きくなっているらしい」
タクマが地図を見つめた。
「到達まで、どのくらいですか?」
「正確な時間はまだ分からん。だが、今日中に北側の防衛線へ接近する可能性がある」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が重くなるのを感じた。
東の第一波を撃退してから、まだ半日も経っていない。負傷者の治療も、防衛設備の修復も終わっていないのに、もう次の大群が迫っているのだ。
「北側にはガルドがいる。衛兵隊も配置についているし、すぐに崩れるとは思わん」
バルザックはそう言った。
「だが、東の戦力をすべて北へ回すわけにはいかない。東側にも後続が残っている以上、城門を空けることはできんからな」
私は頷いた。
それぞれの方面で、別々の群れが動いている。
東側の魔獣を倒したからといって、北側の群れが止まるわけではない。私たちがどれほど疲れていても、どれほど多くの負傷者が出ていても、魔獣たちは自分たちの習性に従って移動を続けている。
そして、その先にはノヴァグラードがある。
「……まだ、始まったばかりなんだね」
私が呟くと、バルザックは静かに頷いた。
「ああ。東の第一波は退けた。だが、北の連中はまだ止まっていない」
私は地図に記された北側の群れを見つめた。
朝、東門の前で見た光景を思い出す。森から次々と現れた魔獣たち。土塁へ押し寄せる群れ。倒しても倒しても、後ろから新しい個体が現れていた。
あれと同じような光景が、今度は北側でも繰り返されようとしている。
しかも、南側にも別の群れがいる。
魔獣たちは互いに連絡を取り合っているわけでも、誰かに指揮されているわけでもない。それでも、魔力の集積を求めて移動を続けた結果、時間をずらして同じ街へ押し寄せてくるのだとしたら、私たちは何度でも迎え撃たなければならない。
第一波を撃退できたことは、確かに大きな成果だった。
街の人たちが協力して準備した防衛設備は役に立ち、衛兵隊と冒険者たちも力を合わせて戦えた。あれほどの数の魔獣を相手にしても、ノヴァグラードの防衛線は持ちこたえたのだ。
けれど、その勝利は、戦いの終わりを意味していなかった。
私はタクマと顔を見合わせた。
彼も同じことを考えていたのだろう。小さく頷くと、改めてバルザックへ向き直った。
「俺たちにできることがあれば、言ってください」
「ああ。だが、まずは休め。北側へ戦力を回す必要が出たとき、お前たちまで疲れ切っていたら困る」
バルザックの言葉に、私たちは頷いた。
会議室の外では、また新しい伝令が到着したらしく、職員たちの声が響いていた。エリナが報告書を受け取り、急いで内容を確認している。街の防衛は、私たちがここで話している間にも続いているのだ。
私はもう一度、地図を見つめた。
北から、東から、南から。
魔獣たちは、それぞれの場所で群れを大きくしながら、この街へ向かっている。
ノヴァグラードを守るための戦いは、ま
だ始まったばかりだった。




