聴感さえも消失
僕の学校では選択科目の音楽は往々にして「つまらない」と評される。
理由もまちまちで、ある人は楽器の扱いが難しいとか、ある人は女性担任の滝壺先生が苦手とか、ある人は歌の発表が嫌だとか。
非常に同意できる。
けれど今回に限っては、どの生徒たちも3階への階段を軽やかに登っていたと思う。
こうして今窓辺の席で頬杖をついている僕も、普段なら右の空に黄昏れていただろうが、珍しく滝壺先生の口上に傾注していた。
「──みなさん、先週提示した課題について考えてきてくれましたでしょうか。時間はたっぷりありますから……そうね、用紙10人分くらいは取り上げようかしら」
他クラス合同で約25人程度がいるこの教室に、一斉に紙のこすれる音が発生した。滝壺先生が作成したこの用紙は『コード進行を調べたい曲』『アーティスト名』『年代』という黒字の下にある空欄を埋める形式となっている。
後ろの席の男子から肩を触られて若干びっくりしつつも、僕は前の増淵に合計3枚の紙を流す。増淵ならやると踏んでいたが、案の定僕の名前の書いてある用紙を盗み見た。
「見んな見んな。どうせわかんないだろ」
「いいじゃねえかちょっとぐらい。はい──安齋さん。……で、あの曲なんて読むんだ? ケガ?」
「"アイ"だよ」
「へー、洒落た曲名だな。あとでよかったら教えてくれよ」
(非公開だっての……)
たまたま今日欠席している左の席に亜衣は座っており、「ふうん」と唸った。『穢想笑い』はおろかすべての彼女ボーカルの曲が非公開だろうけれど、いずれにせよ選ばれないと予想していたから予め書いた内容を変えなかった。
何せ、昨夜矢庭に起きた出来事だし。
「──それでは……まずはなるべく皆さんの知らなそうな曲を選んでみましょうか。そちらのほうが教えがいがありそうなので。一曲目は、これにしましょう」
滝壺先生が選出した紙の曲名を読み上げる。
まさかの。
「えー、『誰何』の『穢想笑い』という曲です。お。初見のはずなのに先生読めてしまいましたね。では皆さん、調べるのでノートを開いてお待ちください」
(嘘だろ、当てられるとは思ってなかったな……)
「──どうするの? 紅紫君」
僕のアクションを待つまでもなく、滝壺先生はメガネの縁を持ち上げて問うてきた。
「あの、天音坂さん。これは曲名を間違えているということはありませんか? 先生のほうで調べましたが、どの媒体でもヒットしませんでした。『誰何』というアーティスト名は出てきましたが」
「普通に検索エンジンで調べても、なさそうですか」
「はい」
(どこにもないんだな)
僕らのやり取りを受けて、クラス中がざわめいた。最近出た曲なのか、などと憶測を言う人もいれば、「おいオタク曲持ってきたんじゃねえの〜?」とでかい声で笑うやつもいる。
聞き捨てならなかったのは、「無名の曲なのでは」という一人の意見だ。
何気ない一言なのだろう。でも……
「やめてください。無名なんて言うのは」
言わずにはいられなかった。単なる再生回数の話ではなく、曲がもたらしている数々の影響を軽んじられている気がして、黙っていられなかったのだ。
クラスは静まり返った。亜衣も唖然と僕を見た。
「天音坂さんの言う通りです。曲名違いの可能性はありますが、それでも誰かの曲をそういうふうに言ったりするのは看過できません」
滝壺先生は続ける。「先生は音を聞けばコード進行がわかりますから、録音などでもいいですよ。どうせスマートフォンを持ち込んでいるんでしょう? 今回だけ特別に許可しますが」
「いいえ。ありません」
現実の記録が形骸と化した、このままでいいのだろうか。
誰もが亜衣の存在を否定して、彼女の残した曲という軌跡さえも忘却する。まるで彼女の作りあげたすべてが嘘であると言わんばかりに。
音楽家にとっては、それこそがほんとうの「死」ではなかろうか。
「歌が、消える……」
つい、小さく独りごちてしまう。亜衣を見やると、彼女の顔を覆う煌めきが、変わらず「美」だけを徹底的に現していた。
(こんな美少女の歌を知らないとか、損だろ)
「そしたら、先生。取り上げてもらうのは諦めます。代わりに僕が口ずさむので……ここでフレーズだけでも知っていってください」
一緒に歌ってというジェスチャーを亜衣に送ると、彼女は自分を指差して驚いていた。
「私に、ガイドしろということ? ……Aメロから歌えばいいのかな」
あえて「先生、Aメロから歌いますね」と亜衣への返答をかねて宣言する。
「えぇ、まあ、……聞きましょう」
芯のある透き通ったアカペラがはじまり──僕の耳に数時間ぶりの多幸感が与えられた。
目を閉じて、それに倣った。『穢想笑い』は女性でも高いキーの曲であるから、僕の歌唱力では到底歌いこなせず、居心地の悪い空気を作ってしまう。
わかっている。聞き苦しい。友人である増淵に対しては、共感性羞恥心をもたらしてごめんなさい、だ。
でも、聴覚を刺激すれば彼やその他この曲を知る人が思い出すかもしれない──そんな淡い期待もあったから歌った。
そして、10数秒。
「〜♪ ──あれ、紅紫君、もうやめるの?」
さすがに恥ずかしいか、と亜衣が看破する通り、僕自身が耐え兼ねて切り上げた。
沈黙が教室を支配し、恥ずかしさが膨れあがる。僕はまだ瞼の裏の暗闇から出なかった。穴があるから入るのだ。
「──カラオケで他人に迷惑をかけないように、というような、控え目な感じはしますが……歌うまでしてくださって、ありがとうございます。それだけあなたにとって大事な曲なんですね」
恐る恐る、目を開く。滝壺先生も、増淵も、誰も思い当たったような素振りはしていなかった。
(概ねわかってはいたけど……キョトンとされるとツライな。そもそも本人の歌唱じゃないし、僕の歌じゃ高が知れてるか)
後ろの席のあたりでカメラを回そうとする生徒もいたが、実際に撮ることはなくブレザーにスマホをしまったようだった。
「……コード進行の話とは別に、音楽という表現においては彼のような姿勢が大切です。皆さんも、是非見習ってください」
仕切り直して、次の曲に移りましょう──そうやって、滝壺先生が手を叩いた。
その後も様々なジャンルの曲がコード進行の勉強として取り扱われ、『穢想笑い』を除いて5曲目が終わった頃。
チャイムと同時に耳にした亜衣の独り言が、3限目の終了まで脳裏にこびりついた。
「いいなあ、自由で」
イイナア、ジユウデ。
◇
音楽の2時間を経た僕には、確固たる意志が芽生えていた。
1階の階段を降りるなり、それを伝えるべく階段裏の非常口前に亜衣を連れてきた。オンボロの掃除用具入れと寂れた椅子が一つある玄関のような作りで、構造上溝になっているため他の生徒の目を逃れることのできるスポットであった。
非常口の向こうで断続的な雨音がする。すりガラスでぼやけて伺える灰色の空は、いっそう濃さを増していくように思えた。
「ここ、埃っぽいね。さっき友だちにされた着替えの誘い以上に優先したい、大切な話があるんだ?」
「増淵にはお手洗いと言って先に戻らせました。それで……僕は今後、長い時間をかけて亜衣さんという存在を後世に伝えたいです」
「そんなのは無理だというのが、前提のはずだよ」
真っ向から、僕はかぶりを振って否定した。
「たとえば、亜衣さんの歌を再現したり、その麗しい二次元体を絵に書いて残したりするんです。とにかく僕が代わりに存在を表せば、形だけでも後世に伝えられるという考えです」
亜衣は感心したように、口を栗みたいな形にする。
「……おぉ、なるほど」
「ですが、まず僕の歌があれだと、表現できる見込みがないんですよ」
「言い換えれば、私がこの表面で起こした出来事を記録したい、っていう意味だね」亜衣は自身の胸元に手を当てて言う。顔立ちはさることながら、適度なプロポーションも目を引いた。これも絵に納めるということは、まじまじと彼女の肢体を見つめる機会が来るということ……やめよう、そんな話ではない。
「君がその気になってくれたことが嬉しいな」
「ていうことは……協力してくれますか」
「うん。協力するよ。それには私としても意味があるから。でも、あくまで表現の一部だというのは忘れないでね」
「はい、ありがとうございます。やった……」
(音楽を教えてもらう場なんて一つしかない……)
「……二次元少女とカラオケ、あるよな」
「きも。……心の声が漏れているよ紅紫君」
は、と口を押さえたのを亜衣が笑う。まずい、やましい気持ちしかないと思われたらどうしよう……そう憂慮していた頭は、一つの疑念を生み出した。
今のは嘘ですと弁明してから、
「そういえば、亜衣さんにとっても意味があるって言いませんでしたか」
「その通り。私は今、君のほかに誰にも意識されていないでしょ? そのせいで、色々と埋めなきゃならない嘘ができちゃったんだよ」
続く言葉が、俄然僕をやる気にさせた。
「これはまたあとで話すよ──とりあえず、君がうまくやれば、世間の認識が回復する可能性も、ゼロではないということ」
──4限目、中体育。
生憎、着替えている時点で大降りの雨が観測された。僕としては急遽の雨で体育そのものが中止にならなくてよかったと安堵している。
一方で、この体育館で最も萎れた体育座りをしているのが増淵だ。
いや。もはやこれを体育座りとは呼ばない。流動性を持つ何かの崩れ方だ。名前呼ばれるとき怒られるぞ、と警告してあげた。
「雨うぜえ。体育科の中谷ぶち殺す……」
「あの人関係ないだろ……てかお前の頭文字『ま』なんだからそろそろ戻ったほうがいいって」
苦笑いで応じる僕。現在進行系で出欠確認をしている体育科の中谷先生は聖人の人となりと評されていて、モテる男性教師の筆頭候補でもある。擦り付けるのであれば隣の雨女たる遠山先生に言うべきだろう。
何してんだ増淵ー、と中谷先生に注意されて駆け足で後列に戻るのを横目に、女子列に目をやる。青色のジャージ群の中で浮いてる者こそ亜衣だ。
朝も女子の会話に混じっていたし、ああして馴染もうとするあたり、中身はほんとうに17歳の少女なのだろうな、と実感する。
(亜衣さんの動画全部非公開になってるなら、ワンチャン他の楽曲の衣装もできたりすんのかな……。でも確実にジャージ衣装はなかったな。それが惜しい)




