嘘
空想の世界で亜衣を着せ替えていると、視線を勘付かれてしまった。距離があるためか、「見」「す」「ぎ」と口パクをし、目を隠すジェスチャーで不服を表明してくる。大人しく目を逸らした。
「──今日は生憎の天気になった。というわけで、卓球、バドミントン、バスケの選択種目をやるぞ。準備体操が終わったら、各自分かれてな」
中谷先生の号令を合図に、5組と6組の生徒たちは一定間隔を保って広がり準備体操の隊形を作った。
体育委員主導で始まるも、誰もが大して重んじないのが準備体操。僕の周りでは、男子たちがふざけている。どちらかというと、僕も授業の本腰を急ぎたい派だ。
惰性の準備体操が終わると、体育館を使うバドミントンとバスケ選択の生徒は倉庫へと向かっていった。僕もバドミントンなので群れに続く。ちなみに卓球組は、緑の網とフェンスがかかった2階に行けば予め数台の卓球台が用意されている。
卓球組を羨みながらバドミントンの重い棒を一人運んでいた僕を、亜衣が「君の腕がヘボかったら上に行くね」と煽って通り過ぎた。コートの壁際に寄りかかって待機するようだ。
これは頑張らねば。ついにバドミントンがはじまると、僕の士気は最高潮に達し──
「ふんッ」
力任せの打球で、ペアの増淵を困らせた。
「紅紫お前、力任せすぎんだろ!」
「ごめーん!!」
ヘボプレーをかますたび観客のリアクションを確認しかけるも、踏みとどまった。興醒めして2階へ歩く彼女を思うと抵抗があるのだ。
肝心な場面は弱気のくせして、体育だけは気合いでこなせると思い込んでいる僕だ。二次元の男子ならつつがなくこなすのだろうが、僕に運動能力は伴っておらず、球はあらぬ方向に飛ぶし、ラリーもどこか不格好だった。せめて、泥臭くやり切るのが吉だろう。
そんな気概でプレーしていたら、だんだんとラリーが成り立っていくようになった。10ラリー続いた頃には、純粋にバドミントンを楽しんでいた。
──20ラリー目。今度は相手が球を取り零し、僕のゾーンが解けた。
「ん……? ──増淵ー! ……いきなりラケット手放してどうしたんだ?」
増淵側のコートにいた別のペアの男子がラリーを一時中断し、彼の足元に落ちた羽根とラケットを掬い上げて気にかけている。何やら増淵は下を向いていて、ただ事ではなさそうだ。
ゾーンから解放されて、疲れてしまったのだろうか。
僕も傍観にのみ徹するのではなく、対向のコートに小走りで駆け寄った。増淵は、理科室に置いてある模型さながらの佇まいでいた。
「お、お〜い……」
顔の前でラケットを振ってみる。それでも増淵は、てん、てん、てん、と無反応だ。
「疲れたんだよな、増淵。なんつーかあんまり無理はするなよ」
最初に気にかけてくれたペアの男子は時島輝だった。戸惑う輝が持ち続けていた羽根とラケットを預かり、「多分大丈夫、ありがとう」と言って自分のラリーに戻らせた。
そして。増淵は唐突に口を開いた。
「──『誰何』……なあ、紅紫。お前も好きだったよな」
「急だな。そう、だけど……」
(あれ、もしかして……『穢想笑い』を思い出したのか?)
「増淵、お前……」
忘却の彼方に置いていたはずの曲を、ついに──と顔を明るく言いかけて、僕は裏切られた。
「? 俺は今、なんで『誰何』の話をしたんだ?」
「は? 『穢想笑い』のことを思い出したんじゃないのか……?」
「いや、違う。それはお前が音楽の時間に歌い出したやつだろ?」
「昨日、やり取りしただろ。プレイリストにあった非公開の『誰何』の曲、ボーカルの名前は亜衣で、『穢想笑い』って言うんだ」
「個人の"アイ"と取り違えたんじゃねえか? 『誰何』にそんな曲はねえ。新曲はライブ配信で見てんだから俺は」
「じゃあなんで、今そんなふうに……」
埒が明かなそうなので、より詳しい説明を求めることにした。「絶対今、なんかあったでしょ」
「さっきのあの瞬間……幸せだったんだ」
「幸せ?」
「そうだ。……ごめんな。困惑させた。いいから、紅紫は自分のコートに戻れ」
ただの偏頭痛だ、と煙に巻いてくるが、そうでないことは容易に察せる。
一体なんだろう。ラリーを再開した後も、試合に移ったときも、頭の片隅にこの気がかりを据えていた。
その間にも、増淵の夢酔は何度かあった。
──4限目終了。
昼食の時間。急いで着替えを済ませて、真っ先に5組の教室の外で待ってくれていた亜衣を訪ねた。
「──待って。君はたぶん、増淵君の変貌を言いにきたよね?」
「ちゃんと最後まで見てくれてたんですね。──話が早いです、あれは亜衣さんにまつわることが関係してたりしませんか?」
だって、増淵は『穢想笑い』のことは真っ白だったにもかかわらず、『誰何』の名を挙げたのだ。
にしても亜衣は冷静である。僕を制止して、周囲を指した。
「あ……」
「なんで窓に向かって話してたんだ?」「壁ドンの練習じゃね? アレ」「うげ」
「私は紅紫君の側で見ていたからあんまりわからないよ。教卓側の端っこに増淵君を連れてきて、詳しい話を聞き出してよ」
──僕は無言で頷き、そのまま亜衣とともに教室へ入った──
「増淵、増淵っ」
何度か肩を揺すって、ようやく席の増淵は顔を上げた。「なんだ、弁当持って。……ああ、昼か。食おうぜ」その目は、夢見心地のようにも、虚ろなようにも取れる。
「今もボーっとしてたんだろうな。……とりあえずそこのカーテンの下あたりで座ろう」
脱いだ体操着が雑に放置されたままだ。増淵の言う"幸せな瞬間"がやってきていたのだろう。
彼を連れて、教卓側の隅に腰掛ける。亜衣は側の黒板前に立って見守る姿勢だ。
「どのくらいの頻度で起こるんだ、それは。──唐揚げ一つやるよ」
増淵の海苔弁当に合うかと思い爪楊枝で指した唐揚げを差し出したが、受け取られなかった。代わりに亜衣にあげてみる。
「どのくらいか、わからないな。まだこの状態が訪れるようになってから浅い。さっきも言ったように、幸せで、嫌な時間ではないんだ。ただ……虚しい。矛盾していて、伝わりにくいかもしれないな」
「いつからだ? 朝は元気だったよな」
「ああ……実は、音楽が終わって着替えてるときにあったんだ。長かった。4分くらいじゃねえかな」
音楽の着替えは、ちょうど僕が居合わせていなかった時間だ。「それが初めて?」と尋ねれば「ああ」と短く返答される。
手がかりになるとすれば、4分と言明している点だ。
4分、『誰何』……。僕は顎に手を当てた。
「──私もね、観測したことはないんだ。でも聞いた感じ、十中八九『嘘』がもたらしている現象だと思うよ」
亜衣は爪楊枝を返してきた。小さな発見だが、食べ物は口にできるようである。彼女が言葉にした『嘘』という単語は、3限目後に階段裏で仄めかしていたそれと一致していた。
(埋めなきゃならない『嘘』って、これなのか)
思索に耽っていると、また増淵は脱力した。箸を落としかけていた手を押さえてやる。
今度のは数秒で過ぎ去り、彼はこう呟いた。
「この感覚だ。……疾走しながら、感情の山のような昂りを、幾つか経験した気分だ。デジャヴみたいに、あるようで、ないんだ。欲しい、中身が欲しい。俺はこれを求めている」
疾走、感情の昂り。山のような……。
自然と、連想するのはやはり。
「……『穢想笑い』の特徴だよな……」
増淵は疑問符を浮かべ、亜衣は「かもね。人によって感覚は違うけど」と曖昧に肯定した。僕は思考を加速させる。
「もしや……『穢想笑い』が、実体だけないまま頭に流れているんじゃないか……? ただ、こんなのに辿り着いてどうなる?」
現象に目星を立てたとして、増淵をその連続から解放してやる手立てが存在するかは別問題だ。
「君ってば鈍感だね」
亜衣は苦笑した。「それさえわかれば──君がやろうとしていたことが、鍵になるんじゃない?」
僕は声を抑えて問う。「僕の歌で埋めるってことですか!?」
「MVも見ているみたいだし……それだけで足りるかな。ともかく、君が『私』を後世に残したいという願望とこの現象に結び付きがあるのは保証するよ」
お墨付きと見ていいだろうか。もちろん、この場で歌ったところで音楽室での惨状の二の舞いになるだけなのは承知している。今の僕では、亜衣の曲の表現を再現できない。実際に増淵にも届いていなかったし……。
ふと、疑念が生じた。
「そもそも、増淵のこの状態をもたらしているのは『穢想笑い』だけなのか……?」
視線を増淵に送った。亜衣もそれをなぞった。
「あくまで私の仮説の話として聞いてね。──彼が"この感覚だ"って言い切っているのを見ると、今は『穢想笑い』の感覚だけを求めているんだと思う。これが埋まらない限り、永遠に求めるんじゃないかな」
どう? ──そう尋ねられたので、僕はつい「禿同です」と認めた。禿同の意味を追及されたので、少々気後れして「激しく同意です」と解説する。
ともかく、試してみる価値があるというのだ。
「さっきから独り言が怖えよ紅紫……俺の逆みたいだ」
増淵の名を呼び、決然とした力強さで肩を掴んで言い聞かせた。
「お前をもう一度、中身のある感動で満たしてやる。嘘にしない。マジで、そのまま生きてちゃ勿体ないからな」
亜衣が生み出した感動を享受しなければ、損だ。
「一ヶ月くらいで再布教する」
「──うお。大きく出たね」
「……たぶん」
最後に困り顔で感謝を述べた増淵を、ひとまず保健室に案内した。──彼は渋々早退する運びとなった。
──5、6限目総合的な探究の時間
今日という一日の濃度が高すぎて、気付けば眠たくなっていた。
窓辺の席でぐったりと伏せて、担任の話など一切聞かず、縁に腰掛けている目の保養で自己を癒やす。疲れやら、幸せやらで溜め息を禁じ得なかった。
『どうしてあなたは、そんなに麗しいんですか?』
ノートの切れ端を摘んで亜衣にアピールする。
「この姿が、嘘だから」
『相変わらず、絵にならない画角なんてないですね。それと、僕も、増淵に対して歌だけの表現じゃ駄目だと思うんです。MVも見ますし、アイツ』
「君は私を絵に納めるって話していたね」
『はい。歌はこの場で練習できないんですけど、今から模写の練習をしてもいいですか?』
シャーペンを握り、芯を出す。亜衣は明後日の方向を見て逡巡しているようだった。
「どうだろう? ──授業態度に厳しそうな先生の前で、君ができるのなら」
バッと背筋を伸ばす。目と鼻の先に、担任の鬼の形相があった。
「ふ、福山先生……」
「天音坂お前……総合的な探究の時間だからと舐めているようだな」
ちなみに、数学の菅谷先生よりも怖く、体育の中谷先生の真逆の人となりと評される人物だ。
終わった。




