裏方的彼女
※アートワーク……CDでいうジャッケットイラスト。厳密には、音楽配信サービスにおいて、楽曲名のロゴなどをひっくるめて言う。
まさか、小学校の集団下校日以外で女の子と一緒にこの大通りのアスファルトを踏む機会が来るとは思いもよらなかった。
僕がやや下心のある願いを口にできたのは、ひとえに相手の見かけが二次元であるおかげだ。
ときおり普段の足取りを忘れながらも、亜衣にできるだけ多く近隣の地理を吹き込んであげた。彼女は近くにゲームセンターと適度に混まないカフェがあるのを喜んでいた。
「そういえば……君はファンなんだよね。『誰何』の」
「はい。めちゃくちゃファンです。もちろん一番の推しボーカリストは亜衣さんですよ。暴力的なまでの歌唱力と感情表現に虜になったんです」
こと"推し事"について語ると熱くなりがちな僕だ。周囲の反応もあろうかと、イヤホンをすることで通話の様相を呈そうと目論んでいる。
「他で言うと舞彩や一ノ瀬のボーカルも好きなんですけど、やっぱり亜衣さんの担当曲をよく聞きますよ」
「そっか。応援ありがとうございますだね。それだけ私の推しだというなら……もしかして、この衣装がどの曲の由来なのかも知っていたりする?」
「こんなかわいいカーディガンとスカートを着る回があったかな」と首を傾げたボーカリスト本人に微かな引っかかりを覚える。『誰何』のMVではそれぞれのボーカリストに付与された二次元体が毎度衣装を変えて描かれるのであり、今の出で立ちがそのままどの曲であるかの判別材料になるはずだった。
「『穢想笑い』ですよ。プロジェクト全体をひっくるめてもトップクラスの再生数なのにご本人様が忘れるなんて……」
「『穢想笑い』か。そうだね、そうだったね。サブスクで使われるアートワークに感動した記憶があるよ」
「二次元体に毛頭興味がないのかと思って驚きかけましたよ。亜衣さんがPONなだけでよかったです」
食卓では曜日感覚を失っていた、とも言っていたし、その節があるのかもしれなかった。
「ぽん?」
「抜けがある、って意味です。ごめんなさい、ちょっとオタクっぽい表現かもしれません」
「死んでしばらくたつからね、自分の携わった音楽でさえ忘れかけていたみたい」
(死んでしばらく……)
幽霊という表現がしっくりきていた時点でそれとなく悟ってはいたけれど──僕は思わず足を止めた。
数歩先を進んだ亜衣が不思議そうにこちらを振り向く。
「紅紫君? さすがにそこが学校じゃないことくらいはわかるよ。人の家だよ」
(死因は……なんだろう)
足元に水溜りがあった。俯いた僕の顔は、少なくとも生き生きと活動している相手に向けるには失礼すぎる悲壮感を、隠そうともしていなかった。
どこまで、彼女に踏み込んでいいのだろう。
そうやって逡巡をしていると。──彼女は身を翻し、水溜まりを通過して目の前にきた。
(あっ──)
膝までしかない丈のスカートの中。
一瞬だけ、水面に下着が。
「あ、青ッ……!」
「アホ? アホって言った?」
気まずくて目も合わせられず、口を噤む。さすがに素直にパンツを目撃したと言うのは憚られる。勘違いしてくれているみたいだから、それに乗じるべきだろう──ということで、叫んだ。
「そうです! アホです!」
一斉に人々に注目された。前後にちらほらいる学生たちや、犬を連れた老爺までもが。
ほとんどがさほど気にせず通りすぎていく中、一部はクスクスと笑っていた。サイアクだ、そういう人物たちに限って同じ高校の生徒だった。
「やば君。いきなり罵るじゃん」
ごめんなさい亜衣さん。
「──よおアホ紅紫」
やめろ増淵。
増淵?
いつの間にか、友人の腕が肩に回されていた。
「びっくりした……声くらいかけろよ増淵」
「かけたじゃねえかよ」
増淵は自転車通学の生徒だ。無愛想な顔で僕に笑いかけ、「行くぞ」と背中を叩いてくる。
ちらっと亜衣に目配せした。
「お気になさらず。いつでも話せるじゃん? 私たち」
僕はサムズアップを返す胸中でキュンとする。いつでも話せる……なんて甘美な響きだろうか。
「──それで、どうして急に自分のアホを自覚しだしたんだお前」
「うるせえ。雰囲気を壊したお前に言ってやるつもりはない」
「んだそれ。まあいいや。なあ、今日の4限何やるんだ?」
「このまま曇ってたらグラウンドでサッカー。雨なら体育館で選択種目。最悪は保健の授業」
「そうか。俺はサッカーしてえな」
「クラブ入ってたもんな、ベンチだけど」
「黙れよ」
そんな他愛ない話をしながら、僕らは残り僅かな学校までの距離を歩いた。
僕は途中での亜衣の行動に目を見張った。老爺が連れる犬と老婆が連れる犬が吠え合っているところに行ったかと思えば、彼女はしゃがんで両方の犬を撫でたのである。
二匹とも喜んでいた。けれど撫でるのをやめられた途端に何事もなかったかのようにまた吠えだして、飼い主の二人は意に介していなかった。
(補完、ね。あれ周りはどう見えてんだろ。てか触られた犬はどう思ってんだ?)
──登校。そして、一限目。
亜衣は結局、コワモテ数学教師の菅谷先生が教卓で出席簿を叩きつけるまで、僕の側ではなくクラスメイトの女子の輪に置き物みたいにいた。
まあ目で追ってしまっていたがそれをとやかく言う理由なんてなく。むしろ僕は、彼女に授業中どうしてもらおうかを考えるのでいっぱいだった。
2年5組の教室全40席。僕は最後尾かつ窓際の席なのだが……。
「退屈そうだね君。私はこの窓縁に座って涼みながら高みの見物させてもらうよ」
僕の左の窓を開けてと頼まれて開けたら、これだ。不良生徒でも幾分かマシな授業態度をするだろう……というか、菅谷先生の授業で舐めた態度をとる生徒などいないと表現したほうが正しい。
『いいですね。関係なくて。僕は昨夜までやっていた課題が終わってなくて絶望の心境ですよ』
そう書いたノートの切れ端を、指でこれ見よがしに滑らせる。
「提出期限がそもそも短かったのか、それとも君が怠惰だったのか。あるいは、私が君の部屋に来ちゃったから?」
『全部です』
昨日は休日だったのだが、見事にアニメ視聴に溶かしてしまったのがやらかしだった。僕のせい。そう、僕のせい。
「あの人昭和なら竹刀でぶち叩いてきそうな感じだけど……平気そう?」
『平気じゃないです。菅谷先生はそのイメージで相違ないので』──菅谷先生がいよいよ課題を回収しに廊下側から巡回してきていたのでその文字を殴り書きする。
けれど、書いた紙を誤って落としてしまった。
「あっ」
ひらりはらり。隣の席の女子生徒・桜宮鈴花の足元へと、着地。
僕は焦って地面に手を伸ばし──同時に拾おうとしてくれていた鈴花の手の甲を、引っ掻いてしまった。
「いたっ……」
「ご、ごめんなさい……」
鈴花は患部の痛みを和らげるように手を振って、こちらを睨め付けた。残念ながら、舌打ちをもらってしまう。
僕は眉間を押さえ、歯を食いしばった。
(何やってんだ俺……。女子に嫌われたらどうするんだっ……!)
率直に、女子生徒が怖い。
もっと厳密に言うなら、女子生徒たちが噂話をするときに、僕に対して「キモい」とか「普通に無理アイツ」などと悪罵されるのが怖い。渡り廊下で女子生徒とすれ違い、誰かの噂話をしているのを聞くたびに、笑い声を聞くたびに、自分のことを言われている気がしてならないのが僕だ。
どうしよう、どうすれば……。
「あとで、ちゃんと謝っておきなよ」
亜衣は冷静な助言をくれた。僕は顔をあげて、自分が不安がるときに出る髪を掴む癖が見られた、と臍を噛んだ。
ともかく、彼女の言はもっともだ。
あとで面と向かって話せば鈴花はきっと、許してくれるはず。
僕は無言で頷く。
「──天音坂! 課題はどうした」
は、と肩を竦める。
いつの間にか菅谷先生が来ていた。
「先生……」
大人しく、忘れたと言おうとしたところを──亜衣が「"授業後の5分だけ待ってくれませんか"って言って」と促してくる。
反射的に、従っていた。
「授業のあと、5分だけ時間をくれませんか?」
「終わっていないのか。……まあいい。だが、授業中にやっているのを見かけたら受け付けないぞ」
「──任せて。ノート、貸してごらん」
今、先生が見ている真ん前で? と訝しみつつも、どうなるのかの好奇心が勝って、そのまま亜衣にワークブックを手渡した。
すると、菅谷先生は「ふん、ちゃんと鞄にしまったな。やるなよ」と残して、教卓へと戻っていった。
亜衣のほうに視線を送る。彼女は下手クソなウインクのせいで顔にノイズをかけながらも、僕のシャーペンを一つ奪い取って、課題を肩代わりし始めた。
教室のどこからか「またアイツ忘れてね?」と嘲笑ってくる声があったが、そんなのは気にならないくらい、彼女に呆気をとられた。
──一限目が終わり。
僕は、筆跡でバレないのかという不安を、ワークブックの丸っこい黒字をなぞりながら訴えた。
「──いいから、行きなよ。5分しかないよ」
亜衣は窓縁から降りて僕の背中を押し、なおかつ鈴花の肩に両手を乗っけて見守った。鈴花は「肩凝るんだけど。動きたくなー」という愚痴を、周りに集まった友人に零している。
「おう、ちゃんと今の時間で終わらせたのか……見せてみろ。できているな。──次は遅れるなよ」
菅谷先生は朱印を押し、ワークブックを返してくれた。安堵の胸を撫で下ろす。ひとまず、この教室に怒号が轟くといった事態は避けられたようだ。亜衣をPONなどと小馬鹿にしたけれど、撤回だ。
席に戻って教材を片したら、次は……。
「桜宮、さん……」
「──天音坂君が話しかけてくるとか珍しいね。なんの用?」
クラスのカーストで言えば"一軍女子"の集まりだ。緊張で喉が乾きそうになる。実際、前にしてみると他に3人いたうちの誰もが、圧力を感じさせる無言の眼差しで警戒してきた。
「さっきのことなんだけどさ……」
僕はどもる。
「鈴花、天音坂君になんかされたの?」「え、大丈夫?」「天音坂君と接点あったっけ」
「うーん。さっきうちの手引っ掻かれてさ」
「やばいヤツじゃん」
「その瞬間はガチぶち殺そうかと思ったけど、別にすぐ謝られたからもう許してるよ。──わざわざ念を押して謝りにきてくれてありがと」
「彼おもろ。なんか菅谷先生に怒られたときの時島に似てね?」「待って、こんなだったわ確かに」
「改めてごめんなさい。許してくれて、ありがとう」
「いいよー。──うちトイレ行くんだけど、来る人ー」
ほんとうに構わないといった様子で、鈴花は他の女子たちを連れて教室を出ていった。
僕は深呼吸をした。自主的に女子に話しかけたのはいつぶりだろうか。クラスの委員会とか、係員で事務的に話す程度だろう。
「やったね、紅紫君。思ったよりも君って陰キャラだけど」
「うるさいです。……でも、ありがとうございます」
2、3限目の選択科目──音楽に備えて、僕ははにかんで準備をはじめた。




