彼だけのノエマ
バレーボールが好きです
──次の日。
「ゔ……」
朝7時。普段母親が声をかけに来るまで起床できない僕が、目覚ましにすら頼らず目を開けた。
硬く冷たい床の心地が悪かったのが一因かもしれない。だがそれよりも、この得もいわれぬ高揚のためというほうが説得力があった。
その心の起点は明らかだ。身を起こして、ベッドのほうを見れば──
(亜衣さんが寝て)
いなかった。
「あれ」
ベッドでは、新品よろしく皺一つない布団が敷かれているだけだった。
「どこにいったんだ?」
ダメ元で布団を捲ってみるが、もぬけの殻だ。
それなら部屋中を探してみよう。机の右側にあるカーテンを開け、ベランダを見て、ドア付近のクローゼットや、ベッドと床の隙間──そして、スマホの中も。
「いない……」
机の前で手元のスマホを見下ろしながら、僕は立ち尽くす。
例のMVは非公開のままだった。増淵とのやり取りも残っているし──なんならSNSでは、プロジェクト『誰何』の公式アカウントから、亜衣に関する投稿だけが消えていることも発覚した。
(昨日、亜衣さんが現れたのは本当……なんだよな?)
いつものように、タイムラインにはお気に入りの絵師の投稿がずらり。ところがそれに目もくれず、脳内で亜衣を捜索することが先決となっていた。
『少なくとも今の私は、嫌でも君にしか認識できないだろうから』
それは、あまり僕の前に現れたことを快く思っていない言動とも受け取れる。
(まだ一階にいるかもしれないか……)
いずれにせよ、僕には僕のやるべきことがあった。せっかくの早起きなら、母親の鳩が豆鉄砲を食ったような顔でも拝んでやろうという気概で、クローゼットへと足を運んだ。
「ちぇっ」
ハンガーにかかっている紺色の制服を取りながら、つい舌打ちをしてしまう。
僕はてっきり、馬乗りになった亜衣の「おはよう」をいただけるとか、彼女の寝相が悪くて僕の体に転がってくるとか、それでちょっぴりエッチなハプニングが起きるとか……そういうのを期待していたのだ。
(僕にラブコメの洗礼はないのか)
どうやら僕には混迷の展開がお似合いらしい。
まあいい。現実に期待を寄せたのが愚かということだ。
◇
「おはよう、母さん」
「おはよう。……? ほんとうに紅紫?」
一階のドアを開けると、キッチンで皿洗いをしている母親は予想通りの反応をした。
僕はドヤ顔で食卓に座り、隣の椅子にバッグを乗っける。
リビングの構造が単純ゆえに、ドアからほとんどの配置は見渡せる。なお、求めている姿は見当たらなかった。
僕の座っている位置から見える和室の内部にもいない。洗濯物を干してあるだけだ。
(そういや、亜衣さんが今後もこの世界にいるとして、着替えとか風呂はどうすんのかな)
「いただきます」
器のサランラップを剥がして、朝食に集中することにした。今日のメニューは白米とワカメのみそ汁、そして鮭と漬物だ。
朝に温くないみそ汁を飲めるのは久方ぶりだった。美味しい。体に元気が満ち満ちてくる。
なんとなく、卓上にあるリモコンを手にして、テレビをつけてみた。
『では、スイカをご馳走になってみましょう!』
『先日、東京都立川市の──』
『関東は全体的に曇りの予報で、一日を通して断続的な雨に──』
「紅紫。その番組のままにして」
「あ、了解。雨だ、洗濯物部屋干しにしてよかったね」
「東京は連続で38日も降水が観測されたそうだわ。困ったものよね〜」
「……4限の体育に鉢合わせないだろうか」
個人的には、体育がなくならなければ雨は厭わない。雨の匂いは好きだし、雨はうだるような暑さと相殺してくれるからだ。
『──日照不足による農作物の被害が懸念されます』
番組をぼうっと眺めながら、箸で鮭を切り裂いた時だった。
ふと、玄関のほうから扉の閉まる音がした。
「ん……母さん。誰か来たけど。宅配でも頼んだの?」
「嘘。誰か来た? してないわよこんな朝早くから。あんた、耳がいいわね」
「さすがにドアの開け閉めが聞こえないなんてことないでしょ」
家にチャイムも鳴らさず入ってくるのは、僕か母親くらいしか考えつかなかった。
不審だ。警戒の眼差しでドアのほうに気を配っておく。
廊下を渡る足音がした。
確実にリビングへと来ている。
ドアが開けられると、そこには。
「亜衣さん……?」
「あ──紅紫君。起きてたんだ。どこかにタオルはないかな」
少量の雨に髪を濡らした亜衣がいた。
彼女は平然と食卓まで来て、対面の椅子を引いた。
僕は戸惑いつつ箸を置く。隣のバッグからタオルを取り出して渡し、小声で尋ねた。
「これ……母さんにはポルターガイストに見えてないですか?」
「昨日、君が乱暴に私に布団をかぶせたときは、どうだったでしょう」
水も滴るいい女とはこのことだろうか。髪を解いていく亜衣に魅入られてしまう。対して、彼女はなんだか気色ばんでいるように伺えた。僕の咄嗟の判断を根に持っているのかもしれない。
「その説はごめんなさい。母さんは無反応でしたね、平らだとかなんとか……」
「そう。私にまつわる出来事は意識されないし、他の状態として補完される。これも空間の嘘だね」
「──何よ、一人でぶつぶつ」
「ああ母さん、僕の勘違いだったよ。誰も来そうにない」
母親は台所のタオルで手を拭くと「ほらね? 早起きしすぎてまだ疲れているのよ、あんた」と勝ち誇り、和室へと行った。洗濯物は暖房の風に揺られている。きっと、乾く見立てがあるのだろう。
僕はリモコンでテレビの音量を上げた。
「何してたんですか、亜衣さん」
「徘徊だよ。ここの土地勘は皆無だったからさ」
「僕に聞けばよかったじゃないですか。わざわざ雨に濡れることないですよ」
「ぐっすり寝ていた君を起こすのは申し訳ないよ」
「申し訳なくないです。むしろ起こしてくれたほうが」
「起こしてくれたほうが?」
「……なんでもないです」
これは邪な気持ちだ。顔の温度があがったから、一瞬だけそっぽを向いた。
亜衣は僕の着る紺色の制服へと視線を下ろした。
「今日、学校なの?」
「平日の学生の義務じゃないんですか」
「もう曜日感覚がなくなっちゃった。今日は平日だったんだね。君は高校生?」
「高2です。僕も17ですよ」
「じゃあ同い年だ」
平然としながら髪を結う亜衣に、眉を顰めた。
発言の節々に含みがある。それはもどかしさを与えてくるけれど……興味を掻き立てる要因でもあった。このまま亜衣を野放しにしてしまったら、恐らく永遠に解消はされない。
彼女はこれからどうするつもりなのか。
それと同等以上に、僕の日常に定着していた『亜衣』を、あっさり手放すのは納得がいかなかった。
「僕、亜衣さんがこの家を一時的な宿泊先にして、そのあとゴースト団地にでも行くのなら、それはそれで受け入れようかと思ってたんですけど」
「うん」
「亜衣さんは僕の日常に凄く馴染んでいた存在なんです……だから、もうちょっとだけでも、近くにいてくれませんか」
「随分と文学的な告白でウケるね」
「そ、そう聞こえましたか……」
僕の発言にも捻りがあるみたいだった。オタク気質が滲んでいただろうか。気恥ずかしいので米をわざとらしく掻き込む。
そんなうちに朝食を平らげられそうだ。リビングと和室を隔てている壁の時計を見れば、時刻は7時50分である。
「告白とは違いますが、この際だから赤裸々に言います。僕はあなたと関わっていたいです」
亜衣も時計を一瞥し、言った。「関わってみる?」
「はい」
「いいよ。布団が臭くなかったから」
「絶妙に笑えない理由なんですけど。……亜衣さんって、ウケるとか言いますし、意外と俗なところがあるんですね」
「だから、同い年なんだよ私たち。JKね。人の傾向って、ライトノベルの世界みたいに一言で表せると思う?」
「わかってます。馬鹿にしないでください」
(机に並べてるラノベ、がっつり見られてたってことじゃないか……?)
傍から見ると、僕がオタクであるなんてことは火を見るより明らかだったのかもしれない。その上で受け入れてもらえるのなら、甘んじて付き添わせてもらうまでだ。
皿を重ねて、ご馳走さまで切り上げた。椅子を離れシンクに一式を放る。
(やった……でもニヤニヤするなよ僕……)
アニメならここでオープニングが挟まるだろう。
そのくらい、上機嫌だ。
「──あら紅紫、率先して皿洗いなんて珍しいわね。やってくれる?」
和室から声が飛んでくる。
「任せてよマジで」
「──ありがと〜」
「手伝おうか? やってる経過が認識されないだけで、できるよ」
「自分でやりますよ4皿くらい。それより、亜衣さんがやるべきことはないんですか?」
「あるかなあ? 今はないかも」
「そしたら、20分くらいたったら家を出るので、ついてきてくれませんか?」
「ん? もしかして、私を高校まで連れ出そうとしているの?」
「家にいても退屈じゃないですか? せっかく関わり合うなら、この辺りの土地勘、もっと深めておきましょうよ」
「えぇー……。雨止んでるかな」
亜衣は何気なく横に来て、正面の分厚い窓を開けた。鉄格子の間から、空一面の灰色が伺える。雨に曝された彼女だというのに、かぐわしい匂いはむしろ雨の匂いで際立っていた。
(ち、近っ……)
思わず半歩横にずれた。横顔を拝めるくらい至近距離ではないか。
こんなので意識してしまうから、僕は恋愛が向かないに違いない。
「まあ、付いて行こうかな。……私としても、君がずっと知らない人では進まないしね」




