世界の楔
ミラの案内は、驚くほど的確だった。
神官や兵士が使う表の回廊を避け、壁の内側に張り巡らされた細い通路を抜けていく。埃の積もった階段、崩れかけた梯子、灯りのない小部屋。少女はそのどれもを、目を閉じていても歩けるとでもいうように進んでいった。
「ここ、昔の建物の名残なんだって」
「名残?」
「うん。上の神殿はあとから被せたの。だから中は使われなくなって、こうやって穴だらけ」
ミラは楽しそうに言うが、シャルロットの胸には別の感慨があった。
あの男の生きていた世界。それを覆い隠すように建てられた、神王の神殿は……。
──まるで、この世界そのものみたいね。
やがて通路の先から、淡い光が漏れてきた。
同時に、胸の奥がざわりと波立った。眠っているはずの力が、何かに引かれるように身じろぎする。この感覚を、シャルロットは知っていた。これまで楔の前に立つたび、必ず感じてきたものだ。
「……着いたよ」
ミラが足を止め、壁の裂け目を指さした。
覗き込んだ先は、円形の広間だった。床一面に描かれた幾重もの魔法陣。その中心を、1本の巨大な杭が貫いていた。
水晶とも金属ともつかない、半ば透き通った柱。表面には脈打つように光が走り、天井と床の両方へ、根のような光の筋を無数に伸ばしている。
その光は、どこまでも冷たく、どこまでも傲慢だった。
「これが……」
リゼが息を呑む。
「副楔の1本だな。ただ、本体じゃない。この神殿の楔を支える柱の1つだ」
ローランが低く言った。
──楔。
あの日、ミクトランは女神から奪った力で世界を再生誕させた。けれど世界が無に帰す直前、シャルロットが生まれ育った旧き世界を、丸ごと別の領域へと避難させている。
こうして、2つの世界が存在している。神王が作り上げた新しい世界と、女神が保存した旧き世界。だが、この次元の現実として表に立てる世界線は、ただ1つしかない。
今、その主の座にあるのは新しい世界だ。新しい世界が滅びれば、主の座は少しずつ旧き世界へと傾いていく。
ミクトラン自身は、旧き世界が保存されていることまでは知る由もない。ただ、不完全な力で作った世界が徐々に維持できなくなっていることだけは、肌で感じていた。
だから、自らの力を分けた。
切り分けた力の分身を、ミクトランの生きていた世界の記憶が色濃く残る土地──かつて女神を祀った聖地の跡へと打ち込み、新しい世界を留め置くための錨としたのだ。
楔の1本1本が、この世界における神王の代理。神王の力そのものが、新しい世界を主の座へと縫い止めている。
シャルロットの胸が騒ぐのも、当然だった。目の前の柱は、自分の中にあるものと同じ源から切り出された、あの男の力の欠片なのだから。
「これまでに壊したのは4本。……そろそろ、あの男も笑っていられなくなってる頃だね」
リゼが柱を睨みながら言う。
「楔を失った土地では、世界の継ぎ目が緩む。ここ数年、各地で魔力が乱れているのはそのせいだ。この世界そのものが不安定になってきているわけだね」
「で、神王様の安定術式ってのは、その継ぎ目に新しい楔を打ち直すこと。わざわざ自分で出向いてまでやるって触れ回ってるんだから、相当焦ってるよ」
シャルロットは、光の柱を見つめていた。
すべての楔を壊せば、この世界は縫い止めを失う。世界線の主の座は、女神が守り抜いた旧き世界へと戻る。
そうなれば──あの男は、女神の世界の住人に戻る。
女神の世界において、女神の力の優先権を持つのは、女神の意志を継いだ者だ。ミクトランの胸で鼓動している力は、その瞬間、本来の主を思い出し少しずつ力を失っていくだろう。
「お姉ちゃんたち、あれを壊すの?」
ミラの声に、3人は振り返った。少女は怯えるでも咎めるでもなく、ただまっすぐに柱を見ていた。
「……ええ。止める?」
「ううん」
ミラは小さく首を振った。
「あれ、ずっとうるさいの。こわれたら、すこし静かになるかも」
◇
柱の周囲には、4人の近衛が立っていた。黒い甲冑に刻まれた紋様が、柱の光に呼応するように淡く光っている。
「楔の近くじゃ、近衛の一瞥はいつもより強くなる。気をつけろ」
「わかってる。シャル、例の力は──」
「使わない。大丈夫」
ローランが裂け目から飛び出した。
最も近くにいた近衛が振り返るより早く、その懐へ踏み込む。剣と甲冑が火花を散らし、静まり返っていた広間に甲高い金属音が響き渡った。
「侵入者だ!」
残る3人が一斉に動く。そのうちの1人が掌をかざすと、魔力が刃の形を取ってローランへ放たれた。神王の一瞥を受けた者だけに許される、他者を害するための魔力。
「させないって!」
リゼが割り込み、魔力の刃を剣で弾く。軌道を逸らされた刃が石壁を抉り、砕けた破片が雨のように降り注いだ。
シャルロットは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥で眠る力には触れない。代わりに、この世界に生まれた者なら誰もが持つ魔力を、指先へと集めていく。彼女の魔力は、神王の許しを必要としない。
近衛の1人がシャルロットに気づき、こちらへ刃を向けた。だが、その刃が放たれるより先に、シャルロットの指先から細い光の糸が伸び、近衛の甲冑に刻まれた紋様へ絡みつく。
「なっ……!?」
紋様の光が、ふっと消えた。一瞥の加護を失った魔力の刃は、相手を傷つけるという意味を失い、ただの光の粒となって霧散していく。
「ま、魔女……!」
呆然と立ち尽くした近衛の首筋に、ローランの剣の柄が叩き込まれた。
戦いが終わるまで、さほど時間はかからなかった。
倒れた近衛たちを見下ろしながら、リゼが息を整える。その視線が、ふと広間の入口へ向いた。
ミラは、裂け目のそばに立ったまま一部始終を眺めていた。剣戟のただ中にいたというのに、近衛たちは誰1人として、少女へ刃を向けようとしなかった。まるで、そこに少女がいることが当たり前であるかのように。
「……シャル」
「ええ。わかってる」
シャルロットは柱の前に立ち、そっと掌を当てた。
冷たい。触れた掌から、あの男の気配が流れ込んでくる。
この世界の理の内側にあるものは、神王の力に触れることすらできない。けれど、理の外にいる自分なら──。
柱を形づくる力の結び目に、自分の魔力を1筋ずつ編み込んでいく。固く結ばれたものを、ほどき、緩め、ばらばらにしていく。
柱の表面に、1本の亀裂が走った。
2本、3本。やがて亀裂は柱全体を覆い尽くし──澄んだ音を立てて、砕け散った。
飛び散った光の欠片は、宙に溶けるように消えていく。遠くで、地の底が低く唸った気がした。世界の継ぎ目が、またひとつ緩んだのだ。
「ほらね。静かになった」
ミラが嬉しそうに言った。
その瞬間、シャルロットは見た気がした。
少女の輪郭が、ほんの一瞬──薄い水面に映った月影のように、揺らいだのを。




