水底の少女
水路の中は、外から見た以上に狭かった。
膝まで浸かる水は雪解けのように冷たく、足を前へ出すたびに、底に溜まった泥が靴の裏へまとわりつく。苔むした天井は低く、ローランは何度も頭を屈めなければならなかった。
「……ねえ、ローラン。本当にこれ、途中で行き止まりになったりしない?」
「なったら戻る」
「またそれなの?」
リゼが小さく笑い、掌の上に灯した光を少しだけ強くした。この世界の人間なら誰でも扱える、ありふれた灯りの魔力。それでも、闇に慣れた目には眩しいほどだった。
シャルロットは二人の後ろを歩きながら、壁に手を添えていた。
指先に触れる石は、ひどく古い。水路を形づくる石積みは、地上の神殿のものとは明らかに積み方が違っていた。角は丸く削れ、継ぎ目には文字のようなものが刻まれている。
「……この石、神殿より古いわ」
「わかるのか?」
「なんとなく。でも……」
言いかけて、シャルロットは口を閉じた。
見たことがない、はずだった。けれど、この文字を自分は知っている。胸の奥のどこかが、そう囁いている。
─女神の慈悲と加護が、我が歩む道とともにあらんことを。
あの日、祭壇の前で唱えた祈りの言葉。それと同じ形が、苔の下から覗いていた。
「あの男が生きていた世界の名残、かもしれない」
シャルロットの呟きに、リゼの足が一瞬だけ止まった。
「……あいつが作り出したこの世界に、そんな未練がましいものが?」
「ええ。彼の中ではずっと心残りになっているのよ。きっと」
◇
どれほど進んだだろうか。
やがて水路は緩やかに下り、唐突に開けた空間へ出た。
地下の貯水池だった。円形に広がる水面は鏡のように静まり返り、天井から垂れた細い根が、ところどころで水面に触れている。頭上の隙間からは、地上の光が幾筋か差し込んでいた。
「神殿の真下だな」
ローランが天井を見上げる。足音や話し声が、石を伝ってかすかに降りてくる。
「上に出る道を探すぞ。――シャル?」
シャルロットは答えなかった。
貯水池の中央。水面から突き出た小さな石の台座の上に、誰かが座っていた。
少女だった。
年の頃は十二、三といったところだろうか。白い簡素な衣を着て、裸足の足先を水へ浸している。背中まで伸びた髪は、差し込む光の加減で色が定まらず、銀にも、淡い金にも見えた。
少女は、ぱしゃり、と小さく水を蹴った。それから、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「……だれ?」
リゼが咄嗟に剣の柄へ手をかける。ローランも半歩前へ出た。
だが少女は怯えるでもなく、ただ不思議そうに三人を見ている。
「それはこっちの台詞だ。こんなところで何をしている」
「なにって……ここ、わたしのお部屋だよ」
「部屋……?」
「うん。上はうるさいから、だいたいここにいるの」
少女は当たり前のように言って、また水を蹴った。
シャルロットは、二人の肩越しに少女を見つめていた。
胸の奥で、何かが小さく脈打っている。あの男の気配とは違う。森で感じた、あの冷たい感覚とも少し違う。もっと微かで、もっと近い――。
「あなた、名前は?」
シャルロットが問うと、少女は少し考えるように首を傾げた。
「……ミラ。みんなはそう呼ぶ」
「ミラ」
口にした瞬間、なぜか喉の奥が少しだけ詰まった。
「お姉ちゃんたちは、奥に行きたいの?」
「……どうしてそう思うの?」
「だって、上の人たちはみんな外を見張ってるもん。中に入ってくる人なんて、いないよ」
ミラは台座から立ち上がると、水面に並ぶ飛び石を、まるで遊ぶように渡ってこちらへやってきた。
「奥にはね、光る杭があるんだよ。おっきくて、きれいで……すこし、こわいの」
三人は顔を見合わせた。
光る杭。それが何を指しているのか、ここにいる誰もが知っていた。
「……知ってるの? その場所」
「うん。案内してあげよっか?」
「待て」
ローランがシャルロットの腕を掴んだ。
「出来すぎだ。神殿の地下にたまたま子供がいて、たまたま目的の場所を知っていて、たまたま案内してくれる。罠でなければ何だ」
「わかってる」
シャルロットは小声で返す。
「でも、あの子からは敵意を感じないの。それに……」
言葉を探したが、うまく見つからなかった。ただ、この子を置いていってはいけない気がした。理由もなく、そう思った。
そのとき、頭上から重い足音が響く。金属の擦れ合う音。複数の兵士が、貯水池へ下りる階段をこちらへ向かってくる。
「――隠れて」
声を上げたのはミラだった。
少女はシャルロットの手を取ると、迷いのない足取りで壁際の暗がりへ引いていく。そこには、一見しただけでは分からない窪みがあった。
三人が身を潜めるのと、松明を掲げた兵士たちが姿を現すのは、ほとんど同時だった。
「異常はないか」
「はっ。……ミラ様、またこちらにおいででしたか」
兵士の視線が、窪みの前に立つ少女へ向けられる。
ミラ、様。
シャルロットは息を殺したまま、その呼び方を胸の中で繰り返した。
「うん。ひとりで遊んでたの」
「上で術式の準備が進んでおります。あまり遠くへは行かれませぬよう」
「はーい」
兵士たちは貯水池を一巡りすると、何事もなかったかのように引き返していった。
足音が完全に聞こえなくなってから、ローランが低く唸った。
「……ミラ様、だと?」
「えへへ。わたし、ちょっとだけえらいの」
悪戯が成功した子供のように、ミラは笑った。その笑顔を見たリゼが、ふっと肩の力を抜く。
「まあ、助けてもらったのは事実だしね。シャル、どうする?」
シャルロットは、まだ握られたままの自分の手を見下ろした。
小さな手だった。驚くほど冷たいのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
「お願いするわ、ミラ。奥まで案内してくれる?」
「うん!」
ミラはシャルロットの手を引いて歩き出す。その途中で、ふと振り返った。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃん、なつかしい匂いがする」
──胸の奥で、眠っていたはずの力が、確かに一度だけ跳ねた。




