鏡の中の記憶
2本目の副楔へ向かう前に、4人は通路の奥にある小部屋で身を休めていた。
ローランは入口の脇に座り込み、剣の刃こぼれを確かめている。リゼは壁にもたれ、天井の暗がりを眺めていた。
シャルロットは膝を抱えたまま、浅い眠りに落ちていた。その傍らでは、ミラが猫のように丸くなって寝息を立てている。
「……あの男、焦ってるね」
リゼが、眠る2人を起こさないよう声を落とした。
「ああ。手配書の出回り方が尋常じゃない。こんな辺境の神殿にまで近衛を張りつけている」
「そりゃそうだよ。楔が全部なくなって旧い世界が表に戻れば、女神様の力が従うのは、女神様の意志を継いだシャルのほう。あいつの胸の力だって、シャルの方へ流れていく」
「そこでなら、倒せる。……だからこそ、ここで躓くわけにはいかない」
ローランの視線が、シャルロットの隣で丸くなっている少女へ向く。
「あの子供、何者だと思う?」
「さあね。でも、近衛が様付けで呼んで、刃を向けない。楔の場所を知ってる。……少なくとも、ただの迷子じゃない」
「僕は今でも罠だと思っている。兵から匿ったのも、案内を買って出たのも、こちらを信用させる手順としては筋が通りすぎている」
「じゃあ、置いていく?」
ローランは答えなかった。
この神殿の内側は、迷路そのものだった。表の回廊には近衛がひしめき、裏の通路は崩れて行き止まりばかり。ミラがいなければ、1本目の柱にさえ辿り着けていなかっただろう。
「……残りの柱の場所を知っているのは、あいつだけだ。連れていく。だが、信用はしない」
「うん。それでいいと思う」
リゼは、ミラの寝顔へ目を落とした。
「でもさ。シャルから聞いた話、覚えてる? あの男が言ってたって。昔、子供を集めて、資源って呼んでた連中がいたって」
ローランの眉が、わずかに動いた。
「様付けで呼ばれて、誰にも守られないで、こんな地下にひとりきり。……私はさ、それが一番気に入らない」
リゼは小さく笑った。けれど、その目は少しも笑っていなかった。
◇
「ねえ、お姉ちゃん。外って、どんなところ?」
目を覚ましたシャルロットに、ミラは真っ先にそう尋ねた。
「外?」
「うん。わたし、ずっとここにいるから。森も見たことないの」
シャルロットは少し考えてから、口を開いた。
「そうね……森は、木がたくさんあって、少し湿った匂いがするわ。鳥がたくさん鳴いていて、夕暮れになると、葉っぱの隙間から赤い光が差し込むの。でも危険なところでもあるのよ。獰猛な動物なんかもいて、こちらを狙っているの」
「ふうん」
「それから、海」
「うみ?」
「とても大きな水たまりよ。どこまでも続いていて、向こう側が見えないの。私の生まれた町は、毎朝それが見えたわ」
ミラは膝を抱えたまま、じっとシャルロットを見上げていた。それから、ぽつりと言った。
「……わたし、それ知ってるかも」
「え?」
「夢で見るの。白いお家がたくさん並んだ坂道。その下に、きらきらした水が広がってて……誰かが、わたしの手を引いてくれるの。あっちの向こうには何があるのって聞くと、その人が笑うの」
シャルロットの呼吸が、止まった。
坂道に沿って並ぶ白い家々。岬に抱かれた湾。父に手を引かれて港へ行き、沖を指さしては、その向こうに何があるのか尋ねた幼い日々。
それは、かつての自分の記憶だった。
「でもね、その夢、わたしのじゃない気がするの」
ミラは自分の手のひらを見つめた。
「わたし、だれかの代わりなんだって。ときどき黒い服の人たちが来て、わたしを見ていくの。そのたびに言うんだ。おまえは写しだから、ここで待っていればいいって」
「……待つって、何を?」
「わかんない。でも、もうすぐ来るって」
背筋を、冷たいものが這い上がった。
「お姉ちゃん、手、けがしてる」
ミラの視線の先を見ると、シャルロットの指に細い切り傷があった。楔の柱が砕けたとき、飛び散った欠片で切ったのだろう。気づいてもいなかった。
「これくらい、大丈夫」
「だめ。なおしてあげる」
ミラはシャルロットの手を、両手でそっと包み込んだ。
その瞬間、胸の奥が、とくん、と鳴った。
眠っているはずの力が、何かに呼ばれるように。温かいものが胸からせり上がり、腕を伝い、指先へと流れていく。
ミラの小さな掌に、淡い金色の光が灯ると、細い切り傷は跡形もなく消えていた。
「はい、なおった」
空気が凍りついた。ローランが剣の柄に手をかけて立ち上がる。リゼの顔からも、表情が消えていた。
「……今のは、女神の力だ」
ローランの声は低く、掠れていた。
金色の光。それは、この世界の誰もが持つ魔力とは根本から異なるもの。かつて女神が人々に分け与え、奇跡を成り立たせていた力。この世界でそれを宿しているのは、ミクトランと、シャルロットだけのはずだった。
「シャル、今、何か感じたか?」
「……ええ。私の中から、引き出された」
ミラは不思議そうに首を傾げる。
「わたし、お姉ちゃんの中のあったかいの、ちょっとだけ借りたの。ほんのちょっとだけ。それしか、できないの」
「……どうして、そんなことが」
誰も答えは持ち合わせていなかった。
「……今くらいなら、感知まではされないはずだ」
ローランが、ゆっくりと剣から手を離した。だがその目は、少女から一瞬も逸らされなかった。
「ここで追い出せば、こいつは上の連中のところへ戻るだけだ。……目の届くところに置いておくほうが、まだましだ」
「だが、次はない。いいな」
凍り付いた空気の中、ローランが釘を刺すように言った。
◇
2本目の副楔は、1本目よりも深い場所にあった。
見張りの近衛は2人だけだった。ローランとリゼが動きを封じ、シャルロットが柱へ魔力を編み込む。
澄んだ音とともに、2本目の柱が砕け散る。
その瞬間、背後で小さな声が漏れた。
「……っ」
振り返ると、ミラが胸を押さえてうずくまっていた。
「ミラ!」
駆け寄ろうとしたシャルロットを、少女は片手で制した。顔を上げたときには、もういつもの笑顔に戻っていた。
「だいじょうぶ。ちょっと、びっくりしただけ」
そう言って立ち上がり、ミラは通路の先、さらに深い闇の方を見つめた。
「……あと、ひとつだね」
その声は、楔の数を数えているにしては、あまりにも静かだった。
リゼが、砕けた柱の跡とミラの背中を、交互に見ていた。
1本目、2本目と何か苦しみが強くなっている気がする。
──おそらく楔が壊れるたび、この子は何かを削られている。
そう思っても、口には出せなかった。




