私ともう一人の私
最奥へと続く通路は、これまでのどの道よりも静かだった。
壁の内側を抜ける細い道はやがて途切れ、その先には、古い石段がただ下へ、下へと続いている。足音さえ、闇に吸い込まれていくようだった。
「おかしい、何故こんなにも人がいないんだ」
ローランは辺りを警戒しながら呟く。最後の楔へと近づくにつれて人はおろか、命の気配すら感じない。
ミラは先頭を歩いていた。
いつもなら元気に話しかけてくる少女が、後ろを見ない。小さな背中が、灯りの魔力が届くぎりぎりのところで揺れている。
「……ミラ。さっきの、本当に大丈夫なの?」
「うん」
「胸、まだ痛む?」
「ううん。もう、いたくないよ」
ミラは元気なく答える。シャルロットは、それ以上何も聞けなかった。
ローランが、シャルロットにだけ聞こえる声で言う。
「副楔が砕けるたびに、あの子は苦しんでいる。偶然だと思うか?」
「……思わない」
「なら、覚悟はしておけ。僕はお前の味方で、お前の意思は尊重している。だが、お前に危害を加えるやつが現れたら、その限りじゃない」
ローランの声に滲む冷たさに、シャルロットは何も答えられなかった。
◇
やがて石段の終わりに近づく。その先に、扉はなかった。
暗闇の向こうに、巨大な空洞が広がっている。1歩踏み出した足音が、何秒も遅れて跳ね返ってくる。それほど、その空洞は果てしなく感じた。
天井は見えない。床も、壁さえも。
目的の物はそこにあった。旧い文字がびっしりと刻まれた石壁に囲まれた、その中央に──。
これまで見たどの楔とも比べものにならない。
大樹の幹にも匹敵する光の杭が、空洞の底から天を貫くかのように屹立している。
その表面を巡る光は、巨大な心臓を思わせる律動を刻み、呼応するように壁一面の文字が明滅している。光が満ちるたび、岩肌に刻まれた溝の奥までが白く浮かび上がった。
どこか傲慢で凍てついた重圧が満ちている。
「これが、この神殿の楔の本体……」
リゼの声が、わずかに掠れていた。
シャルロットの胸の奥で、眠る力がざわめいている。いや、ざわめいているのではない。怯えているのだ。自分と同じ源から切り出された、あの男の力の塊を前にして。
ミラが、楔のすぐ手前で足を止め、そして、ゆっくりと振り返った。
「着いたよ、お姉ちゃん」
いつもと同じ声。いつもと同じ笑顔。
けれどその笑顔の裏に、いつもと違う何かを感じた。
「ねえ、お姉ちゃん。わたしね、ずっと考えてたの。どうやって言おうかなって」
「……ミラ?」
「わたし、この楔とつながってるの」
その場にいた誰もが言葉を失い、静寂に包まれる。
「わたしは楔じゃないよ。でも、楔がこわれたら、わたしもこわれる。そういうふうにつくられてるの」
ミラは自分の胸に、そっと手を当てた。2本目の副楔が砕けたあの瞬間、少女が押さえていた場所。
「さっきね、2本目がこわれたとき、わたしの中の何かも、ぱきんって割れたの。1本目のときも、ちょっとだけ。……だから、たぶん、あれが最後。あれがこわれたら、わたしも、おしまい」
「作られたって……誰に」
ローランの問いに、ミラは小さく首を振った。
「黒い服の人たち。でも、ほんとうに作ったのは、もっと上の人。お姉ちゃんたちが『あの男』って呼んでる人だよ」
シャルロットは、言葉を失っていた。
頭のどこかで、ずっと分かっていた気がする。なつかしい匂い。夢に見る白い坂道。自分の中から、金色の光を引き出せる少女。
「わたしね、お姉ちゃんの写しなの」
ミラは、まるで秘密を打ち明けるように、少しだけ照れくさそうに言った。
「この世界にも、お姉ちゃんはいるの。あの男が作り直したこの世界のシャルロット。わたしは、その子から作られた写し。それが、鏡に映った、もう一人」
「……鏡写しの、私」
「うん。だから夢の中の坂道も、海も、ほんとうはお姉ちゃんのもの。わたしは、偽物」
──写しのお前は、ここで待っていればいい。
ミラが語った、黒い服の者たちの言葉。それが今、シャルロットの中でようやく意味を結んだ。
待っていたのは、楔を壊しに来る者。女神の力を宿した、もう一人の自分。
「最初から……私たちを待ってたってこと?」
リゼが剣の柄に手をかける。
「全部、ここに連れてくるため?」
「…………ちがう!」
ミラが、初めて声を荒げた。
「案内したのは、わたしがしたかったから。お姉ちゃんと、いっしょに歩いてみたかったから。外のお話をしてくれたのも、手をつないでくれたのも、うれしかった。ほんとうに、うれしかったの」
小さな肩が震えていた。
「でも、ここに来たら、もうだめなの。わたしは楔とつながってるっていったよね」
その瞬間、楔が大きく脈打った。
刻まれた文字が一斉に輝き、光の筋が床を走る。それは蛇のように這い寄ると、ミラの足元へと吸い込まれていった。
「ミラ!」
「来ないで!」
駆け寄ろうとしたシャルロットを、少女の叫びが押し留めた。
ミラの瞳から、色が抜け落ちていく。──その輪郭が、薄い水面に映った月影のように、大きく揺らいだ。
「──ミラ、お前が代わりになるのだ。代わりが表に出るときというのはどういうときだと思う?女神殺しの魔女を消せ」
ミラの口から零れたのは、少女のものとは思えない、平坦な声だった。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
ミラが、手を伸ばした。2人の間には10歩以上の距離がある。それなのに──
シャルロットの胸の奥の力が鷲掴みにされる。
「──っ、あ……!」
息ができない。胸から、引きずり出されていく。傷を癒やしてくれたあのときとは違う。根こそぎ奪い去るような、乱暴な引力。
金色の光が、シャルロットの胸から溢れ出していく。
「シャル!」
崩れ落ちかけたシャルロットを、ローランの腕が支える。
「やめろ、ミラ! それ以上はあの男に感知される!」
だが、その声は届かなかった。溢れた光は一筋の奔流となって空洞を渡り、ミラの小さな掌へと吸い込まれていく。少女の背後で、光が形を成し始めていた。
翼のようで、翼ではない。幾重にも重なる、金色の光の輪。
それは、かつて大神殿の祭壇で、目覚めた女神が纏っていた光に似ていた。
「……ちょっとだけしか、借りられないはずだったのに」
ミラが、自分の手を見下ろして呟いた。その声だけは、まだ少女のものだった。
「お姉ちゃん、ごめんね。楔がわたしに言ってくるの。この世界の私に力を返してって」
胸の奥が、ひどく冷たい。引き抜かれた分だけ、自分の中に穴が空いている。
それでもシャルロットは、ローランの腕を払って立ち上がった。
「シャル、下がれ。あれはもう、さっきまでの子供じゃない」
「わかってる」
「わかっているなら──」
「わかってるの!」
自分でも驚くほどの声が出た。シャルロットは、ミラへ向き直った。
ミラは楔の前に立ったまま、こちらを見ていた。先ほどまでとは違う、無機質な、操り人形のような表情で。
「お姉ちゃん。わたし、お姉ちゃんとたたかいたくない」
「なら──」
「ワタシニチカラヲカエシテ」
ミラの口から、少女の声と人形の声が交互に零れ、空洞の底で震える。
「本物じゃないのに。それでも、こわれたくないって思っちゃうの。でも──もうわたしじゃなくなる」
その言葉に、シャルロットの胸の奥で何かが疼いた。
──逃げたっていい。泣いてもいい。諦めたくなってもいい。
あの日、女神が自分に託した言葉。
──あなた自身が、生きていていい人だから。
目の前の少女に、自分はそれを言えるのだろうか。楔を壊さなければ、この世界は終わらない。
けれど、楔を壊せば、この子は。
「……シャル」
リゼが、静かに剣を抜いた。
「迷うのは後。今は、生き残ることだけ考えて」
シャルロットもあのときから覚悟は決めてきたつもりだった。だが、運命は残酷だった。
ミラの背後で、金色の光輪がゆっくりと回り始める。空気が震え、床に刻まれた旧い文字が、悲鳴のように明滅した。
「ごめんね」
「ワタシハ、アナタ」
人形から金色の光が、放たれる。
リゼが前へ飛び出し、剣で光の刃を受け止める。重い。腕ごと持っていかれそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。
「さすがは女神の力……近衛なんかとは比べものにならない!」
ローランが横合いから踏み込む。だが、ミラの周囲を巡る光輪が、その剣をたやすく弾き返した。
シャルロットは指先に魔力を集め、細い光の糸を伸ばした。近衛の紋様をほどいたときと同じように。
けれど糸は、金色の光に触れた瞬間、焼き切れるように消えていった。
それも無理はない。これは、あの男の力でも、この世界の魔力でもない。自分の中から奪われた、女神の力そのものなのだから。
「やつがあの力を完全に掌握すれば、僕たちに抗う術はなくなる!」
ローランが叫ぶ。
そのとき、ミラの瞳に一瞬だけ色が戻った。
「……お姉ちゃん、にげて」
その願いとは裏腹に、少女の手は再びこちらへ向けられていた。
──鏡に映った私が、私に刃を向けている。
──それでも私は、この子の名前を呼ぶことしかできなかった。




