深い眠りから覚めたら
崩壊する世界と、世界が完全なる「無」に帰す、その狭間。
ミクトランの人知を超えた絶対的な力は、私にも降りかかろうとしていた。
呼吸するという行為そのものが意味を失い始めていた。
自分という肉体を形づくっていた感覚が、1つずつ、順序もなく剥がれ落ちていく。
現象そのものが、この次元に属する資格を奪われていた。
やがて自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなった。
自身の終焉を──
その恐怖を理解した瞬間。
「あなた自身が、生きていていい人だから」
何もないはずの場所で、聞こえてくる。彼女が私に最後に、託した言葉が。
言葉を、自分自身へ、心へと刻み込む。
「逃げたっていい。泣いてもいい。諦めたくなってもいい。誰かに助けを求めてもいい」
「貴女の好きなようにやりなさい。貴女は私じゃないんだから」
胸の奥で、光が弾けた。どこからか声が聞こえた気がした。
──あなたは、1人じゃないわ。
記憶なのか、残滓なのか。ただその一瞬だけ、確かに彼女の存在を感じた。
「私は、まだ諦めたくない」
『そうね。まだ諦めるには早いわ』
わずか数瞬のうちに、すべてが白く遠のいていく。私は見た。世界が新たに形を与えられていく様を。
光の中、自分の内側に響く声と、その声に宿る力に導かれた。
「ここは……?」
静かにこちらを見つめていた、もう1人の私が口を開いた。
『ここは、あなたの世界よ。正確には、現実とは乖離してしまったあなたの住んでいた世界』
その姿はあまりにも実体に乏しく、薄い水面に映った月影のように、わずかに揺らいでいた。輪郭の向こうには無が透け、いまにも何もない場所へ溶けてしまいそうだった。
私はもう1人の私の言葉を聞き、女神の言ったことを思い出した。
「私がこの世界を別の領域に避難させるわ。今はわからないかもしれないけど、力の譲渡が終わったら自然と理解できるわ」
胸の奥で何かが脈打った。もう1人の私は続けて言う。
『私は、あなたに宿った力。まだ不完全だけれど……今は、最後まで聞いて。あの男の力と、あなたの力は同じもの。でも、決定的に違うことがある。この力の源泉は、あなた自身よ』
『だから、あなたにはあの男の力に耐えられる。ただの人間であれば、一瞬で消え去っていたでしょう』
彼女がこの世界へ残した、最後の意志。私の内側にひとつ残されたもの。
その鼓動に呼応するように、もう1人の私がわずかに近づいた。
『女神様とこの旧き世界は貴女を1人にしなかった。でも、私たちは力を使いすぎた。眠る時間よ。シャルロット』
私は、その言葉の奔流へ呑み込まれながら、意識が遠のいていくのを感じた。
私はそっと胸へ手を当てた。
──深い眠りから覚めたら、私は変わっているのだろうか?
永遠にも思える時の流れの中で、私の大切な何かは色あせていくだろう。
子供の頃に夢に見た大人には、なれなかったかもしれない。
「生きなければならない」
善と悪さえ演出された、この無機質な現実の中で。
それでも私は、自分自身で選ばなければならない。
誰にも与えられない選択を。
私自身が進む道を。
私だけの未来を。
そして、彼女も同じ苦しみを持っていたかもしれない。
いえ、私のような小娘とは違うでしょうね。それでも──ならなければならない。
私は彼女ではないけれど、彼女の可能性の1つであると信じてみる。
あの時に感じた貴女の期待が、私の道を決めてしまったとしても。
それでも私は、生きていかなければ。
再び笑顔でこの世界に帰ってくるために。
どれだけ奇麗事を並べようとも、あの男の胸で鼓動しているものは、かつて自分勝手に奪い去った彼女の力の一部なのだから。
──そして私は、あの男のすべてを否定する。
今は、おやすみなさい。深い眠りから覚めたとき、私の運命は動き出す。どんなに過酷でも、終わりにしてみせる。
──「起きて、私たちの女神様」
肩を揺らされて、目を開けた。石の天井。湿った冷たい空気。揺れる小さな灯り。知らない場所だった。あれからどれくらいの時間が経っただろうか。覗き込んでいたのは、外套の裾から剣の鞘を覗かせた、若い女だった。
「よかった、ちゃんと起きた。私は、貴女に最高の祝福を届けに来たよ。今は辛いかもしれない。けれど、私たちが貴女を守る。……私は、リゼだよ」
「私は、女神様なんかじゃないよ」
掠れた声が出た。
「知ってる。でも、貴女は女神様に選ばれた人で、女神様の可能性そのもの。私たちにとっては、同じことだよ」
差し出された水を、ひと口飲んだ。
ようやく一息ついた気がした。そして、聞くつもりのなかった言葉が、口をついて出た。
「お父様は」
リゼは少しだけ目を伏せ、先ほどの笑顔とは違う真剣な面持ちで答えた。
「あの男、ミクトランは神王になったよ。世界を救った英雄だってさ。そして貴女は、女神殺しの魔女」
女神様に助けられて生きている私には、女神殺しと呼ばれていることさえ理解ができなかった。
「私の町は!? みんなは」
「大丈夫。私たちのいた世界は、女神様が隠してくれた。今も別の場所に、ちゃんと在るよ。でも、今の世界が表に立っているあいだは、触れられない」
胸の奥の何かが、ほどけた。そのとき、入口のほうから、不機嫌そうな声がした。
「おい、シャルはまだ起きたばかりだ。あまり喋らせるな」
黒髪に、海を思わせる蒼い瞳。旅装の外套を羽織った青年が、そこに立っていた。
「……ローラン?」
「いつまで寝てるんだ、お前は。まったく僕を待たせるんじゃない」
私の知っているローランなのだが、知らないローランでもあった。背が、私より頭ひとつ高くなっていた。
「……伸びたのね」
「言っただろう? これから伸びる、とな」
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