壊れていく新世界で
再生誕から、どれほどの時間が経っただろうか。
夜明けの王都に、大神殿の鐘が響き渡る。
その音を合図に、街は眠りから覚めていく。
霧が屋根の間を漂い、煙突から立つ炊事の煙に溶けていた。大通りでは商人たちが露店の幌を上げ、職人が朝早くから道具箱を抱えて仕事場へ急いでいる。
世界が生まれ変わろうが、人々の暮らしは変わらず続いていた。パンの焼ける匂いも、石畳を行く荷車の音も、前の世界のままだ。
彼らは疑わない。自分たちの歴史が、遥か昔から途切れることなく続いてきたのだと。
その営みを、城塞の高みから見下ろす男がいた。
男は、時間を数えることをやめていた。待つ時間は、数えるほど長くなる。
王都の中心。
巨大な城塞と神殿が一体となった、白と黒の石造建築。
そこには、この世界においてただ1人、王冠と祭壇の双方を支配する男がいる。
人々は彼を、神王と呼んだ。
──この世界は前世界と同一のものではない。前世界をベースに、神王と称される自身の理想に近づけた姿として再構築された、似て非なる世界である。
彼は世界を導く最高統治者であり、諸王の上に立つ裁定者であり、神殿の最高祭主である。そして何より、この世界を滅亡から救った存在として知られている。
彼の統治が始まって以来、戦争は激減した。国境は引き直され、長く続いた領土紛争は終結し、王侯たちは彼の下で盟約を結んだ。
飢えは遠のいた。疫病は退いた。子供たちは、神王の名で祈りを覚えた。
いつしか神王の紋章を刻んだ石碑に建てられた。
数々の歴史を、神王の手によって切り開かれた。少なくとも、人々はそう信じている。
彼の本来の力があれば、いとも容易く世界を支配し、理想の世界を作れるだろう。新世界の神として、人として。
──女神はその力がきっかけで失敗した。
神殿の前庭では、すでに数千人の人々が石畳を埋めていた。
大扉が開いた。錆びた金属を思わせる低い軋みが、前庭に集った群衆の上へ広がる。
奥から神王が現れる。
肩から落ちる濃色の外套と、胸元に銀糸で縫い取られた神王の紋章。階段の左右には、黒い甲冑の近衛が彫像のように控えている。彼が階段の上に姿を現した瞬間、最前列の人間から順に膝を折り始めた。
波が広がるように、1人、また1人と。やがて前庭のすべてが、頭を垂れた。
沈黙は自然に訪れた。
「顔を上げよ」
広場へ響いたその声により、人々がゆっくり顔を上げる。決して威圧的でなく、どこか人々に安らぎを与える声だ。
疲れた者は肩の力を抜き、泣いていた者は涙を拭う。この声を聞くだけで救われると、本気で信じている顔だった。
「この世界は、まだ完全ではない」
広場に、わずかな緊張が走る。
「病も、貧困も、争いも、すべてを一夜で消せるわけではない」
神王は自らの力ですべてを解決しない。問題点を少しずつ改善していくかのように、段階を踏んで世界を救済していく。
「だが、案ずることはない。1歩ずつ、確実に。この世界は、私が終わらせはしない」
穏やかな声が、広場の隅々にまで染み渡る。安堵のため息が、あちこちで漏れた。
人は、あまりに完全な存在を恐れてしまう。それを知るがゆえの振る舞いであり、同時に、偽りのない事実でもあった。
彼の力は、まだ完全ではない。
1人の少女の姿が、脳裏に浮かぶ。
──シャルロット。
神王は、ほんのわずかに眉を寄せた。
この世界は、ほぼ完璧に回っている。
ほぼ完璧。だが、完璧ではないのだ。その事実は神王を苛立たせる。
胸元の紋様は、静まり返っている。あの少女が力を使わない限り、居場所までは掴めない。
だが、使えば分かる。その瞬間に、必ず。
神王は表情を整え、広場が静まるのを待った。呼吸を数えるように、ゆっくりと。
「皆に、伝えなければならないことがある」
一拍置いた。群衆が息を詰め、旗の揺れる音だけが残った。
「かつてこの世界には、女神シャルロッテという存在がおられた。女神様は人々のために尽くしておられた」
巨大な魔法陣が開く。光が集まり、1人の少女の姿を形作った。
白い儀礼衣装。編み込んだ髪。首に下げた、女神の聖印。
そして、口の端を吊り上げた不敵な笑み。
少女の唇は、ひとつも動かない。ただ笑っているだけの、虚像だ。
あの子が、1度も浮かべたことのない笑みだった。
それでいい。民が憎むのは、笑う魔女だ。泣く少女ではない。
「そんな女神から、力を奪おうとした者がいた。この女の名は、シャルロット」
群衆からのざわめきが起きる。神王はそれを静かに見届けてから続けた。
「彼女は禁じられた術を用いて女神へ近づき、その力の一部を奪った」
この世界と同じく、その言葉もまた、神王に都合のよいように作られたものだった。
しかし、群衆に真実など必要ない。
「そして、女神は命を落とした」
広場の空気が変わった。
母親が、子供の耳を塞ぐ。若い兵が、剣の柄を握りしめる。老いた神官が、震える手で聖印を握る。
誰かが、嗚咽を漏らす。女神像の足元に、毎朝花を供えていた老婆だろうか。
「女神様は、最期の瞬間まで、我らの幸福を願っておられた」
神王の声が、悲しみを帯びて震える。もちろん、演技だ。
「脅威は、まだ去っていない」
一斉に顔が上がる。
「シャルロット──あの魔女は生きている」
「女神より奪った力をその身に宿し、今もこの世界のどこかに潜んでいる」
神王はゆっくりと群衆を見渡した。
「諸君らの力を私に貸していただきたい!」
神王は宣言した。
「本日をもって、各国へ女神殺しの魔女──シャルロットの捜索を命じる!」
貴賓席に並ぶ各国の使者たちが、次々に立ち上がり、胸に手を当てて頭を垂れた。誰ひとり、異を唱える者はいない。
広場の片隅から声が上がった。
「女神様のために!」
「魔女を討て!」
「世界を守れ!」
やがて。それは巨大な波になった。
──魔女を討て。
──女神の仇を。
──世界を守れ。
石畳が震える。数千の声が重なり、ひとつの怒号となって空へ昇っていく。
声が大きくなるほど、神王の胸の奥は冷えていった。
神王は、その声を黙って聞いていた。
その中心で、微笑みながら。慈悲深く、どこか悲しげに。民が望む神の顔で。
──私の神の力は完全ではなかった。この不完全な再生誕では、この世界は安定して維持できないだろう。そうなる前に、必ず手を下し完全にしてみせる。
なぜなら……。
どれほど遠くへ逃げようとも、シャルロットの胸で鼓動しているものは、自分が手に入れるはずの神の一部なのだから。
──君のすべてを跡形もなく壊してしまおう




