祝福の儀・再生誕
父の声が、静まり返った神殿に響いた。
女神は答えず、シャルロットを庇うように一歩前へ出た。その動きを見て、父はわずかに目を細める。
「……なるほど」
「お父様……?」
呼びかけても、父はこちらを見ようとしなかった。その眼差しは女神だけに注がれている。長い年月を費やして追い求めたものが、ようやく手の届くところにある。そう確かめているようだった。
女神は父の胸元に目を落とし、眉を寄せた。
「あなた、その力を……まだ持っているのね」
「ええ」
父が胸に手を当てると、衣服の奥から淡い光が滲んだ。胸に刻まれた紋様が、布越しに浮かび上がる。
かつて女神自身が授けた祝福。そのはずだった。
だが、その光を目にした途端、女神の表情から柔らかさが消えた。
「それは……」
「あなたから頂いたものです」
「違う。私が与えた祝福は、そんなものではなかった」
女神は胸元の光を見据えたまま、低く問うた。
「あなた……何をしたの」
父はすぐには答えなかった。
床に伏した神官たちは、いまだ顔を上げられずにいた。女神の目覚めという奇跡を前にしながら、歓喜の声ひとつ上がらない。
「かつて、あなたに刃を向けた者がいた。その者は、人から力を取り出す術を研究していたのです」
父の声は、静かだった。
「子供たちを集め、資源と呼び、使い物にならなくなるまで様々な処置を施した。互いに殺し合わせることも珍しくなかった。殺した相手からは、力を奪えるからです」
女神の顔がこわばっていく。
「研究そのものは、望んだ成果を得られなかったようですがね。それでも、その者は大勢を手にかけ、膨大な力を蓄えた。やがて、あなたに刃が届くほどに」
父は胸元へ視線を落とした。
「私は、あの場にいた。あなたが凶刃に倒れ、力を暴走させた、まさにその場所に。あなたの祝福を受けた身でね」
シャルロットの脳裏に、あの光景がよぎった。
「どうして生き残れたのかは、私にもわからない。荒れ狂う力の中心に、嵐の目のような場所があったのかもしれない。ただ、私は生きていた。そして見たのです。あの地獄のような、世界の終わりを」
「っ……」
父が初めてシャルロットに目を向けた。
「お前も見たようだな、あの光景を」
返事を待たずに、父は続ける。
「無理もない。お前はこの世界における、女神シャルロッテの平行同位体。異なる世界に生まれた、もう一人の女神なのだから。前の世界に残された思念や、女神の記憶に触れても不思議ではない」
父は女神へ視線を戻した。
「あなたは、気づいていたようですが」
声は聞こえていた。けれど、その意味が掴めない。
自分が、もう一人の女神だというのか。
シャルロットは胸元を握りしめた。問いただしたいことはいくつもあったが、口をついて出たのは別の言葉だった。
「……何を言っているのか、わからない。あの光景を見たのなら、お父様は何をしようとしているの……?」
父はその問いには答えず、話を続けた。
「世界が終わり、新たな世界が生まれたとき、女神はすでに眠りについていた。力を暴走させた反動だったのでしょう。では、前の世界で人々に分け与えられた祝福は、どうなったと思いますか」
胸元の紋様が、脈打つように光った。
「授かった者たちは死に、与えた女神も眠りについた。行き場を失った力は、唯一生き残っていた私へと集まったのです」
女神は冷ややかな眼差しを向けた。
「……その力で、何をするつもりです」
父が歩き始めた。
「病を癒やし、飢えをなくし、争いを終わらせる。そのために人々はあなたを信じた。私も、その一人だった」
一歩近づくごとに、父の身体から滲む光が強くなる。
「だが、その果てに見たのは、あの惨状だ。今も覚えている。滅びの中に立つ、あなたの姿を。宵闇を幾重にも織り込んだような、紫がかった黒いドレスをまとっていた」
女神は何も言わなかった。
「私は、あの女神を憎んだ。そして悟ったのです。あなたに世界を任せてはおけない。もっと正しく世界を導ける者が、神になるべきだと」
父が足を止めた。
「その力を頂く。この私、ミクトランが、新たな世界の神となる」
「あなた……!」
その瞬間、父の姿が消えた。
女神が身構えるよりも、シャルロットが声を上げるよりも早かった。
次に父の姿が見えたとき、その手はすでに女神の胸を貫いていた。
「――え」
白い衣に、赤い染みが広がっていく。
女神は自分の胸を見下ろした。何が起きたのか、まだ理解できていないようだった。
「……ぁ」
「女神といえど、目覚めたばかりでは力を振るえないようだな」
傷口から、血とともに金色の粒子が溢れた。
光は散ることなく、父の腕へ吸い込まれていく。父は目を閉じ、流れ込む力を味わった。神殿を満たしていた女神の気配が、急速に薄れていく。
「これが……神の力か」
女神の指先が、光の粒となって崩れ始めた。足元からも、髪の先からも、淡い輝きが剥がれ落ちる。
彼女がこの世界から消えてしまう。
シャルロットには、それだけがわかった。
「死なないで……!」
女神が顔を上げた。
「……大丈夫」
「何が大丈夫なんですか!」
女神は、ほんの少し困ったように笑った。
「……そうね。大丈夫では、ないわね」
父が腕を引き抜くと、女神はその場に崩れ落ちた。
駆け寄ろうとしたシャルロットの前に、父が立ちはだかる。
「お前が生まれた朝、私は神に感謝した。そして十四度目の夏、お前は神の祝福を受けるはずだった」
父は静かにシャルロットを見下ろした。
「それを、私が壊した」
何かを言おうとした。
だが、声にはならなかった。
父の手が、シャルロットの胸を貫いていた。
熱も、痛みも感じなかった。ただ、自分が死ぬのだということだけが、はっきりとわかった。
「……嫌」
かすかな声を漏らしたのは、女神だった。
床に倒れたまま、透け始めた右手を持ち上げる。
「全部は、渡さない。この子は……死なせない」
父の表情が、初めて崩れた。
「何を――」
女神にとどめを刺そうと、父が振り向く。
その直前、女神の手から一条の光が放たれた。
光はまっすぐシャルロットの胸へ飛び込み、その身体を包み込んだ。
◇
迫っていた死の気配も、父の声も、遠くへ押し流されていった。
倒れたのか、意識を失ったのかさえわからない。
次に目を開けたとき、シャルロットは見知らぬ場所に立っていた。
少し離れたところに、女神がいた。
「……女神様」
胸元には赤い染みが広がっている。シャルロットは息を呑んだ。
「傷が……」
女神は透け始めた指先に目を落とした。
「長くは保たないみたいね」
それから、シャルロットを見つめた。
「巻き込んでしまって、ごめんなさい。同じ存在であっても、あなたにはあなたの人生があったのに」
その声には、先ほどまでの威厳はなかった。
「私も、今のあなたと同じだった。迷って、怒って、泣いて……それでも、自分が正しいと思う道を選んできたの。うまくはいかなかったけれど」
女神は言葉を切り、短く息をついた。
「時間がないわ。よく聞いて。今、あなたの命は失われかけている。だから、私に残された力をあなたへ渡す」
「そんなことをしたら、女神様は……」
「消えてしまうでしょうね。でも、このままでも、あの男にすべてを奪われてしまう」
シャルロットは唇を噛んだ。
引き留める言葉も、救う術も見つからなかった。
「あの男は、もう一度世界を作り直すつもりよ。自分だけの世界を築くために、あなたの生きてきた世界を壊してしまう」
「……止められないんですか」
「今の私には、もう。けれど、この世界を別の領域へ逃がすことはできる。壊されてしまう前に、私がそうするわ」
あまりにも大きな話だった。
世界が壊れる。別の場所へ移される。聞こえてくる言葉に、心が追いつかなかった。
「今は、わからなくてもいい。力を受け継げば、あなたにも理解できるようになる」
女神はシャルロットへ手を伸ばした。
「ただ、これだけは覚えていて。あなたが死ねば、その力はあの男のもとへ渡る」
「……どうして」
「あなたに託す力も、彼が奪った力も、もとはひとつだった。分かれた力は、互いを求めるの」
シャルロットの指に力が入った。
「彼がすべてを手に入れたら、止められる者は誰もいなくなる」
「じゃあ、私は……」
「生きなければならない」
女神はそう言って、シャルロットの手を握った。
「でも、これはあなたの人生よ。私が、その生き方まで決めていいはずがない」
シャルロットは顔を上げた。
「逃げたっていい。泣いてもいい。諦めたくなったら、誰かに助けを求めていいの」
世界を救えと、言われるのだと思っていた。
父を止めるために戦えと、命じられるのだと。
女神の手に、わずかに力がこもった。
「自分から、自分を捨てないで。あなたが死んではいけないのは、力を彼に渡さないためだけじゃない」
その瞳が、まっすぐシャルロットを見つめていた。
「あなた自身が、生きていていい人だから」
握り返そうとした指の間から、淡い光がこぼれた。
女神の姿が、さらに薄れていく。
「もし、いつかあの男を倒して、すべての力を受け継ぐことがあったなら……そのときは、あなたの望むようにしなさい」
女神は笑った。
「あなたは、私ではないのだから」
その微笑みを最後に、すべてが白い光の中へ消えた。
◇
次の瞬間、シャルロットは神殿に戻っていた。
目の前には父がいる。その背後では、奪われた女神の力が巨大な光輪となって渦巻いていた。
そして、自分の胸の奥にも、もうひとつの光が宿っている。
「女神が何をしたのかは知らない。だが、私が作る世界に、この世界の人間は要らない」
父が手を掲げた。
「世界とともに、滅ぶがいい」
光輪が広がった。
神殿の柱が、天井が、音もなく消えていく。崩れ落ちる石も、舞い上がる塵もなかった。そこにあった空間ごと、何もかもが失われていく。
神の力を得たミクトランの人知を超えた絶対的な力は、次元そのものを消去する概念の暴力といえる。
一瞬のうちに、世界そのものを消し去ろうとしていた。
大地が消え、空が消えた。
シャルロットの身体を、胸の奥から溢れた光が包む。女神から託された言葉だけが、その意識に残っていた。
――自分から、自分を捨てないで。
やがて、音も光も途絶えた。
世界は、死さえも存在しない完全な「無」へと帰した。
その後に、最初の光が生まれた。
新たな大地が広がり、見たこともない黄金の樹々が芽吹いていく。澄み切った大気に、生命の唄が響き渡った。
――世界は、再生誕した。




