祝福の儀・生誕
儀式当日の朝、落ち着いた朝だった。
普段であれば父の声で目覚めていた朝だったが、夢のことや儀式の緊張を感じたのかいつもより早く目を覚ました。
「落ち着かないわね……」
まだ薄暗い部屋の中で、しばらく天井を見つめる。
今日が、祝福の儀の日。前日までに髪型を決め作法も教えられていたが、当の本人にはまだ実感がなかった。
落ち着かない気持ちを抱えたまま時間だけが過ぎていった。
「シャルロット。朝だぞ。起きなさい」
時間が来たようだ。扉越しに父の声が聞こえてきた。
「大丈夫、今日はもう起きてる」
「そうか。そろそろ時間だから、準備しておくれ」
シャルロットはもうそんな時間かと思いつつも準備を始める。
長い髪をとかし、普段なら下ろしている髪を丁寧に編んでいく。白を基調とした儀礼衣装は、普段着るドレスよりはずっと軽かった。
首には、女神の紋章を模した聖印。すべてを整え終えたあと、彼女は鏡の中の自分を見つめた。
「…………いつもの私じゃないね」
祝福を受ける者。そう呼ばれるのに相応しい姿なのだろう。
窓の外へ目を向ける。窓から見える大神殿の尖塔が、朝日に照らされて白く輝いていた。
「おーい、そろそろ出発だぞ。準備はできたか?」
「今、行く」
支度を終える頃には、外はすっかり明るくなっていた。
◇
大神殿に着くと司祭や神官たちが整列していた。白と金の祭服を身につけている。
その中央。大司祭が、シャルロットたちを迎えてくれた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
低く、よく通る声。シャルロットは教えられた通りに一礼する。
シャルロットたちは奥へ案内された。神殿の最奥には、白い石で造られた祭壇があった。
その向こうに立つ女神像は、何百年ものあいだ変わらぬ微笑みを浮かべている。
シャルロットは事前に教えられていた作法に従い、慣れてないながらも淡々と儀を進めていった。
儀式も終わりに近づき、祭壇の前でシャルロットは最後の祈りを告げる。
「──女神の慈悲と加護が、我が歩む道とともにあらんことを」
静寂。もちろん何も起こるわけはない。実際には女神はいないのだ。
次の瞬間、天井の高みから澄んだ音が落ちてきた。
──カァン。
神殿の鐘。誰も鳴らしていないはずだが、それは響いた。
──1度。
──2度。
──3度。
音が鳴るたび、空気が震えた。
彼女の髪が、風もないのにふわりと揺れる。
祭壇に刻まれていた古い紋様が、ひとつ、またひとつと光を取り戻していく。
「何が起きているんだ……?」
大司祭の声が震えた。
この場で今起きていることを理解している者は誰もいない。ある者は祈りの言葉を口に、またある者はその場に膝をつく。
神殿の最奥に立つ女神像へ1本の亀裂が走る。白い石肌が割れ、その隙間から淡い金色の光が零れた。
さらに1筋、1筋と。やがて女神像全体が、内側から光り始めた。
石だった髪がほどけるように揺れた。冷たいはずの指先に、わずかな色が戻る。閉じられていた瞼が震える。
女神は、目を開いた。その瞬間、神殿の空気そのものが変わった。
息をすることすら畏れ多い。
そう思わせるほど、静かで、圧倒的な存在感。
その姿にシャルロットは前日の光景を思い出し、息を呑んだ。
『──この国にはシャルロッテ様の加護があったのではないのか!?』
『──女神は我々を見捨てた……。もう我らの味方ではない……』
『──この世界はもうおしまいだ……』
人々の燃え尽きる感情、朽ちていく躰、朝と夜が同時に訪れ、「世界の前提」そのものが書き換えられていた世界で、ただそこに君臨していた。
宵闇を幾重にも織り込んだドレスを身にまとう、一目で人知を超えた存在だと分かった。
──その存在が目の前に、現れたのだ。
普通であれば、目の前の存在を前に恐怖し、生存本能の警報を鳴らすのだろうが、シャルロットは不思議と怖くなかった。
女神がゆっくりと息を吸った。何百年ぶりかに呼吸というものを思い出すように。
女神の目が見開かれる。その視線が、神殿を巡る。
最後に。シャルロットへ。止まった。
シャルロットは、ただ立ち尽くした。
似ている。顔が、というわけではないけれど、目の奥、表情、立ち方。
自分と似ている。まるで、遠い未来の自分を見ているかのような、不思議な感覚だった。
女神が祭壇から1歩を踏み出す。もう1歩。
女神はシャルロットの前まで来ると、静かに彼女を見つめた。
長い沈黙。
そして、震える指先で、シャルロットの頬へ触れた。
「…………あなたは」
声を聞いた瞬間、シャルロットの胸が強く脈打った。
「……あなたは……私……。……いいえ、あなたは、私ではない」
女神は小さく微笑んだ。
その瞬間、聞き慣れた男の声が響いた。その声にシャルロットは振り返る。
誰もが床へ伏している中。父だけが人々の間から、1歩前へ出ていた。
「お目覚めになられたこと、心よりお喜び申し上げます」
深々と頭を下げる。シャルロットは父からいつもと少し雰囲気が異なるのを感じた。
女神の表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。その視線が父へ向けられる。
しばらくの沈黙の後、女神は静かに呟いた。
「あなたのその力……どうして…………」
父が微笑む。
「お気づきになりましたか。貴女はまだお目覚めになられたばかりで、何も覚えていらっしゃらないでしょう。そこで私が少し昔話をしたいと思います」
その場の空気が凍り付いた。女神の瞳が見開かれる。
「むかしむかし、この世界にはシャルロッテという女神が存在していました」
「その女神様は大いなる力を持ち、人々に祝福と力の一部を分け与え、人々の暮らしを豊かにし平和な世界を作り上げていました」
「──ある時までは」
父は言葉を続けていく。
「とある人は重大な秘密に気づきました。分け与えられた力は、他人から奪えると。そして力を奪い増長する人々が現れました」
「各地で戦争、祝福を巡る争い、女神様への信仰崩壊など、平和な日々は少しずつ終わりを迎えていきました」
「女神様はその問題の解決のため何度も力を使っていきました」
「──女神様にも限界はあったのです」
「疲弊した女神様は、自分の力を抑えられなくなっていました」
「力を抑えられなくなりつつあった女神様は、自身の力を狙う存在に気づきませんでした」
「──そして女神様は、その存在の凶刃に倒れることとなったのです」
女神の中で長い眠りによって失われていた記憶が、一瞬だけ蘇る。
──悲鳴の雨
──破滅の結末
女神の顔から血の気が引いた。
「………………」
父はさらに言葉を続けていく。
「その瞬間、防衛本能とでもいいましょうか。抑えられていた力が全開放されたのです」
「天が割れ、神の御業たる業火が大地を焼き尽くす。人類が築いた文明は一瞬にして塵と化しました。人々の感情は燃え尽き、朽ちていく」
「そして世界の前提が崩れ去り、世界そのものの終焉を迎え、新たな世界が誕生しました」
「それがこの世界です」
シャルロットは悪夢と昔話が繋がっていくことに気づき始めた。
「まさか……」
「お久しぶりです」
父は笑っていた。祝福を授かった者としてではなく。
長い時を経て、ようやく目的のものを見つけた者の顔で。
「──女神様」




